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第三話「告げ口は男らしくないこともない」

 梅雨の終わりを告げる蒸し暑い午後だった。


 教室の窓から差し込む午後の陽光は、まるで溶けた金のように重苦しく、じっとりとした湿気が肌にまとわりついてくる。エアコンは故障中で、扇風機だけが虚しく首を振っているが、生ぬるい風しか送ってこない。


 いらいらする。


 あの日からもんもんと過ごしていた。新宿のラブホテル街で目撃した、あの衝撃的な光景が頭から離れない。


 イケメン高校生が、真昼間からふしだらな行為を行ったのである。ワイドショーでは、格好のネタだろう。相手はアイドルグループのセンターを務めていてもおかしくない美貌の少女だ。紫門と腕を組んで歩き、人目のつかない路地裏で唇を重ね、そのままラブホテル街へと消えていった。


 俺は、特ダネを掴んだ記者のような気分だった。皆にも知る権利があるはずだ。特に、麗良さんには真実を知る権利がある。


 ばらしてやろうか?


 日頃の恨み、嫉妬、理由はいくらでもある。紫門への怒りは日に日に増していく。


 ただ、麗良さんの周りにはとりまきが大勢いる。そんな人達の前で告発する勇気はない。人前で話すのが苦手な俺には、大勢の前で発言するなんて無理だ。


 それに告げ口って……普通にダサいよな?


 特に、嫉妬にかられての行動は、醜いと思う。聖人を気取る気はないが、俺にも男のプライドぐらいある。紫門に文句があるのなら、堂々と主張するべきだ。


 でもな~


 ちらりと背後を振り返り確認する。案の定、紫門達が俺の陰口を叩いているのが聞こえてくる。


 クラスマッチに向けた練習試合の件だ。昨日の体育の時間での出来事を、まだ根に持っているらしい。


 俺がヘマをしたせいで、練習試合とは言え負けそうになった、そのことを言っている。補欠で本番はスコアブックをつけるだけだったのだが、練習試合には出してもらえた。


 紫門が推薦してきたんだよ。


 紫門の思惑は見え透いていた。クラスの女子、主に麗良さんへの点数稼ぎのためである。俺がポツンと隅っこでスコアブックをつけていたところに、絶妙のタイミングで声をかけてきた。


「白石も参加してみるか?」


 とさわやかな笑顔で声をかけてきたのだ。まるで映画の主人公のような爽やかさで、クラスの女子たちを魅了していた。


 実際、「紫門君、優しいぃい!」とクラスの女子から黄色の声援をもらっている。麗良さんもうっとりして紫門の野郎を見ていたし。その時の麗良さんの表情は、まるで王子様を見つめるお姫様のようだった。


 で、奴の恩情でバレーの試合に出たんだけど、ミスを連発した。紫門の件で考え事をしていたせいか集中できなかったんだよ!


 サーブは届かず、レシーブはあさっての方向へ。スパイクなんて論外だった。チームメイトの冷たい視線が痛かった。特に女子の視線は氷のように冷たく、「なんで白石なんかを出したの」という無言の非難が突き刺さってくる。


 俺以外のメンバーの活躍でなんとか試合には勝ったんだけど、試合後、宮本と佐々木には、嫌みを言われまくった。


「白石のおかげで負けるとこだったよな」

「まじ、足引っ張るなよ」

「次からは大人しくスコアブックつけてろって」


 まだ言い足りないのか? いつもは無視するが、今日の俺は機嫌が悪い。


 紫門の浮気現場を目撃してから、何もかもが腹立たしく感じる。特に紫門の取り巻きどもの調子に乗った態度が我慢ならない。


 思わず睨んでしまう。


 紫門達は俺の行動に驚くが、それは一瞬のことだ。すぐにいつもの調子に戻る。にやにやと笑みを浮かべ、逆に睨み返してきた。


 やばい。


 すぐに目を逸らす。心臓が激しく鼓動を打っている。


 俺の小動物的な行動に満足したのか、紫門達の威圧が消える。そして、雑魚のくせに一丁前に睨んできたぞと高笑いを始めた。


 少し反抗したせいか、紫門達の俺への陰口がいつもより長い気がする。声は小さいが、確実に俺に聞こえるように計算された音量で話している。


 軽いいじめだ。


 もういい、やはり奴らは無視だ。無視が一番精神衛生上良い。関わらないのが最善策。


 あんな奴らより! 愛しの人、草乃月麗良さんだよ。


 麗良さんは、机に座り携帯を操作していた。携帯のボタンをポチポチ押している、ただそれだけだ。だが、それがいい、素晴らしく良い!


 その所作が美しい。指先の動きひとつとっても優雅で、まるで舞踏会で踊っているような上品さがある。その姿に思わずため息が漏れる。


 入学当初なんてあまりの美しさに眠れない日々を過ごしたものだ。さすがに今は眠れないなんてことはないが、美しいものは美しい。毎日見ていても飽きることがない。


 麗良さんを見て和もう。美しいものを見てると、心が安らぐね。最近の俺のマイブームだ。嫌なことがあった時、麗良さんを見ると心が落ち着く。まるで美術館で名画を鑑賞しているような、穏やかな気持ちになれる。


 それからしばらく目の保養をしていると、紫門が麗良さんに近づいてきた。麗良さんは紫門に気づくと、満面の笑みを浮かべ、楽しそうに話を始めた。


 窓から差し込む午後の陽光が、二人を映画のワンシーンのように照らしている。絵になる光景だった。まるでロマンチック映画の一場面のようで、見ているこちらが恥ずかしくなってしまう。


 紫門は、女性の前では優しい仮面をつけたまま外さない。物語に出てくるような甘いマスクの王子が、優しい言葉をかけるのだ。世の女性は虜になるだろう。麗良さんも例外ではない。


 紫門の上辺の人の好さに皆が騙されている。特に女子達だ。


 麗良さん、楽しそうだな……。


 ちっ!


 心の中で舌打ちをする。胸の奥で黒い感情がぐるぐると渦巻いている。


 紫門のせいで俺のオアシスが汚された。紫門は紳士ぶっているが、実際は弱者をいじめる屑だ。そして、浮気もする最低の男だ。


 ……やはりだめだ。


 紫門が優しく誠実な男なら諦めもついた。俺は自分自身をよく知っている。俺はモブの中のモブだ。これといった特技もなく、友達も少ない。高嶺の花である麗良さんと釣り合うわけがない。ならせめて立派な男が麗良さんと付き合うのなら、良い。


 麗良さんも、幸せになれるだろうしね。


 だが、あんな屑が麗良さんと付き合うのは納得できない。しかも浮気までしている。麗良さんが知ったら、どれだけ傷つくだろうか。


 告げ口は男らしくないと思っていたが、場合による。悪人とつき合って麗良さんが幸せになれるはずがない。麗良さんを救えるのであれば、真実を伝える意味もあるんじゃないか!


 男のプライドより、麗良さんだよ。よし、機会があれば告発しよう。


 決意を固めて数日後……。


 七月も中旬に差し掛かり、期末テストが終わって夏休みまであと一週間という時期だった。蝉の声が校舎に響き、じりじりと照りつける太陽が教室の窓を熱くしていた。夏休みを前にした生徒たちの心は既に浮足立っていて、授業中でもそわそわとした空気が漂っている。


 日直だった俺は、担任の山田先生から授業で使う資料を図書室から取ってくるように言われた。その資料は図書室の奥にある倉庫にあるということで図書室の中をぶらぶらとさまよっていると、麗良さんを見つけた。


 麗良さんは、本を読んでいる。珍しい。独りだ。こんなところにいたんだ。


 そこは、資料スペースの奥にあり、普段人があまり入らないところであった。古い参考書や雑誌が並ぶ、薄暗くて静かな場所だった。本棚に囲まれた小さな空間で、外の騒がしさが嘘のように静寂に包まれている。


 机に椅子もある。静かに本を読むにはうってつけの場所であった。いわゆる穴場という奴である。図書室の利用者でも、この奥まった場所を知っている人は少ない。


 麗良さんがその美しい指でページをめくる。読んでいるのは『罪と罰』のようだった。ドストエフスキーの古典を、真剣な表情で読み進めている。分厚い本を、まるで時間を忘れたかのように集中して読んでいる姿は、知的で美しい。


 本を嗜む麗人だ。


 金髪の美少女が何やら難しそうな本を、アンニュイな雰囲気で読んでいる。午後の柔らかな光が本棚の隙間から差し込んで、麗良さんの横顔を神秘的に照らしている。


 絵になる。写真を撮って雑誌に送れば、大賞撮れるだろ、これ。「文学少女」というタイトルで、表紙を飾れるレベルの美しさだ。


 少しばかり見とれていたが、あることに気づく。周囲を見渡す。誰もいない。


 これは告発する千載一遇のチャンスじゃないか?


 心臓が激しく鼓動を打ち始める。今まで考えていたことを、ついに実行に移す時が来た。


 「つき合う相手は選んだほうがいい」そう麗良さんへ忠告するつもりだ。麗良さんには、悪党とつき合ってほしくない。


 あまりに高嶺の花で俺なんかがつき合えるわけがないのは、わかっている。だが、紫門だけはだめだ。麗良さんにふさわしい優しくて誠実な男は他にもたくさんいるんだから。


 告発するぞ。


 うしし、いつも小馬鹿にしてくる紫門への報復にもなる。何より麗良さんを救える。そ、それにあわよくば麗良さんとお近づきになれるかもしれない。麗良さんに感謝されて一回ぐらいデートできるかも。


 い、いかん、不純だ。


 俺は、忠告するだけだ。好きな女の子には、幸せになって欲しい。それが一番の動機だ。不純な考えは心の奥に封印しよう。


 そうだろ?


 意を決し、麗良さんに声をかける。喉が渇いていて、声がかすれそうになる。


「あ、あの、く、草乃月さん」


 麗良さんは本から顔を上げ、俺の方を見る。その瞬間、時間が止まったような感覚に襲われる。


「ん。誰? あ~同じクラスの……」


 麗良さんは少し考えるような表情を浮かべ、俺の顔をじっと見つめる。


「……白石だよ」


 ショッキングな事実が判明した。クラスメートなのに、麗良さんは、俺の名前を覚えていなかった。ほぼ一年過ごしてきたのに……。


 胸にずしんと重いものが落ちてきたような衝撃だった。いやいやいや、麗良さんは高嶺の花だよ。何を期待している?クラスの全員の名前を覚えているわけがないじゃないか。


 これから好感度を上げて覚えてもらえばいいんだ。気を取り直せ。


 ショックを受けた顔にむりやり笑みを張り付ける。顔の筋肉がこわばって、不自然な笑顔になってしまう。


「で、その白石君が何の用? 今忙しいのよ。用なら手短に頼むわ」


 そ、そっけない。


 あまりに感情が籠ってない返事だ。それに麗良さんと目が合ったのに、すぐに目線を本へ戻された。本を置こうともしない。俺には読書を妨げるほどの価値がないってことか。


 地味にショックを受ける。胃の奥がきりきりと痛んでくる。


 い、いや、へこたれるな。告発して麗良さんを救うんだ。これは紫門の不貞を目撃した俺にしかできないことである。


 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせる。今の俺には重要な使命がある。麗良さんを救うという、崇高な目的があるのだ。


「紫門だけど」


 紫門の名前を出した瞬間、麗良さんの表情が一変した。


「紫門君! もしかして彼から何か言付けでもあるの?」


 今度は本を置いてくれた。声のトーンも違う。何より笑顔を見せている。紫門がそれほど麗良さんにとって価値がある存在なのだろう。


 あんな屑相手にそんな笑顔を見せるのか。これは同じ男として、けっこうへこむぞ。


 俺と紫門への態度の差が歴然としている。俺には冷たい視線と素っ気ない態度、紫門には満面の笑みと期待に満ちた表情。この差は一体なんなんだ。


 いや、頑張れ、俺。


 麗良さんを救えるのは俺しかいないんだ。すぅーと深呼吸をし、意を決して口を開く。


「違う。紫門は関係ない」


 麗良さんの表情が瞬時に変わる。期待に満ちていた表情が、疑問と困惑に変わった。


「じゃあ、なんの用?」


 声のトーンも明らかに下がっている。さっきまでの明るさは完全に消えて、事務的な冷たさが戻ってきた。


「あいつを信用しないほうがいいよ」


 意を決して言い放つ。この一言にすべてを込めた。


「……なぜそんなことを言うの?」


 先程とは真逆の冷たい声だ。麗良さんが敵意の篭った目で睨みつけてくる。温度差がすごい。


 好きな子から冷ややかな視線を浴び、胃がキリキリ痛み出してきた。コミュ障の俺には辛い状況だが、ふんばるんだ。


 ここで引き下がったら、麗良さんを救えない。


「紫門、この前、他の女の子と歩いていたよ」


 核心に迫る情報を伝える。これで麗良さんも真実に気づいてくれるはずだ。


「……それで? 紫門君にも女友達の一人や二人いるでしょ」


 麗良さんの反応は予想と違った。冷静で、まるで当然のことのような口調だ。


 なんで? もっと驚くとか、ショックを受けるとか、そういう反応を期待していたのに。


「友達じゃないよ。腕を組んで歩いて、恋人みたいだった」


 より具体的に説明する。これなら理解してもらえるはずだ。


「見間違いね」


 即座に否定された。そっけない一言で片付けられてしまう。


 見間違いじゃない! 俺はしっかりと見たんだ。確実に紫門だった。


「見間違いじゃないよ。キスをして二人でホテルにも入ったんだ」


 決定的な証拠を突きつける。これで否定のしようがないはずだ。


「出鱈目を言わないで!」


 今度は、席を立ち上がって睨みつけてきた。先ほどよりも強烈な吹雪のような冷たい視線を受け、俺の胃がマッハで悲鳴を上げる。


 麗良さんの青い瞳に、明確な怒りの炎が宿っている。その美しい顔が怒りで歪んでいる様子は、恐ろしくもあり、同時に美しくもあった。


 き、気合だ、気合を入れて反論しろ、俺。


 ここで引き下がったら、すべてが無駄になってしまう。


「い、いや、本当に俺は見たんだ。ラブホテル街の通りで……」


 声が震えているのがわかる。でも、真実を伝えなければならない。


「嘘ね。クラスメートを陥れるような事を言って恥ずかしくないの?」


 麗良さんの言葉が胸に突き刺さる。


 陥れる? 俺は麗良さんを心配して言っているのに。


「嘘じゃない」


 必死に否定するが、麗良さんの怒りは収まらない。


「最低ね、あなた」


 最低。その言葉が、俺の心を深く傷つけた。好きな人からそんな言葉を言われるなんて。


「い、いや、本当に……」


 まだ言い続けようとする俺に、麗良さんは冷酷な視線を向ける。


「これ以上私に話しかけないで。あなた気持ち悪いわ」


 気持ち悪い。


 その言葉が、俺の心を完全に粉砕した。好きな人から、そんな言葉を言われるなんて。世界が崩れ落ちるような衝撃だった。


「う、うっ」


 麗良さんのあまりの剣幕に、それ以上は言えなかった。最後は尻すぼりになる。


 麗良さんの氷のようなひえびえとした目線と、怒りの声に耐えられなかったよ。心臓がバクバクと鳴り、手が震えている。


 とぼとぼと麗良さんの前から引き下がる。足取りは重く、まるで全身に鉛が詰まっているような感覚だった。


 現実は非情だった。


 はぁ、勇気を振り絞って声をかけたのに。結果、麗良さんに嫌われただけだった。骨折り損のくたびれもうけとはこのことである。


 というか麗良さん、性格きつい。いくら紫門が好きだからって、あんな言い方しなくてもいいんじゃないか。気持ち悪いってなんだよ。


 少し幻滅してしまった。でも、それでも好きなんだから始末に負えない。


 図書室を出て、廊下をとぼとぼと歩く。放課後の廊下は人通りが少なく、俺の足音だけが虚しく響いている。


 それから数日……。


 夏休み前の最後の週だった。蝉の声が校舎に響き、じりじりと照りつける太陽が教室の窓を熱くしていた。生徒たちは夏休みの予定を話し合い、浮足立った雰囲気が教室を支配している。


 俺だけは、相変わらず暗い気持ちで過ごしていた。麗良さんとの一件以来、学校生活がより一層辛くなっていた。


 何事もなく平穏に過ごしていたら、


「よぉ」


 紫門が俺の肩を掴み、獰猛な声で威嚇をしてきた。


 どうして?


 これまで陰口は叩いてきたが、直接、紫門が何かしてきたことはなかったのに。雑魚の俺に構うのはプライドの高い紫門には、耐えられないはず。


 なのに、今日は何かが違う。紫門の表情には、明らかな殺気が込められていた。


「麗良から聞いたぜ」


 その一言で理解した。


 あ、あ、あの女、しゃべったのか!


 それがどんなにやばいか理解できないのかよ。俺の立場を考えてくれなかったのか。


 麗良さんは、俺のことなんてどうでもいいと思っているんだろうな。紫門の歓心を買えるなら、俺の情報なんて平気で流すのだろう。


「少々つき合ってもらうぜ」


 ドンと背中を押され、よろよろと態勢を崩す。紫門の力は思った以上に強く、俺の華奢な身体など簡単に押し倒せる。


 紫門達に強引に校庭裏に引きずり出されていく。クラスメートたちは皆、見て見ぬフリをしている。誰も助けてくれない。


 校舎裏まで到着すると、すぐさま拘束される。左右の腕を掴んでいるのは佐々木と宮本。いつもの紫門の腰巾着だ。下卑た顔で、忠誠心溢れる家来を演出している。紫門に尻尾を振り媚びている犬達だ。


 腕を掴まれた瞬間、逃げ場がないことを悟った。二人の力は強く、俺が暴れても無駄だとわかる。


「迂闊だったよ。お前みたいなドン臭い奴に目撃されるなんてよ」


 紫門が近づいてくる。その表情には、普段の爽やかさなど微塵もない。冷酷で残忍な本性が剥き出しになっている。


 これが紫門の正体か。学校で見せる好青年の仮面を完全に脱ぎ捨てた、真の姿。


「く、草乃月さんから何を聞いたか知らないけど、俺は何も――うぐっ!」


 紫門に軽く蹴りを入れられ、思わずえづく。腹部に鈍い痛みが走る。


 蹴りは軽いものだったが、それでも俺の貧弱な身体には十分すぎる威力だった。


「嘘をつくな。もうばれてんだよ。麗良はすぐにお前の名をばらしたぞ」


 麗良は、俺の立場を微塵も考えなかったらしい。そうだよな。紫門の歓心を買えるなら、俺の情報なんて紙屑より軽かっただろう。


 俺が麗良さんを好きなのは、クラス中の公然の秘密だ。そんな俺が紫門の悪口を言ったとなれば、動機は明白。嫉妬による中傷だと思われるのは当然だった。


 紫門が近づき、拳を振り上げた。


 殴られる!?


 思わず目を瞑る。身体が勝手に縮こまってしまう。


 こない?


 そっと目を開けると、


「ぐはっ!」


 とたんに鳩尾を殴られた。九の字になって腹を抑える。


 時間差かよ。えげつないな。


 苦悶の声を上げる俺の髪を掴み、耳元で紫門がささやく。その声は悪魔のように低く、冷たい。


「麗良はよ。お堅い上に初心だからよ。なかなかさせてくれねぇんだ。でも、男だし溜まるものは溜まる。わかるだろ?」


 下種な言葉だ。麗良さんを、まるで性的な対象としか見ていない。


 ますます紫門への憎悪が募る。こんな男が麗良さんと付き合っているなんて。


「紫門さん、言っちゃっていいんですか?」


 宮本がニヤニヤと笑いながら尋ねた。まるで共犯者のような表情で、紫門の下品な話を楽しんでいる。


「問題ない。ばれるような真似はしねぇよ。お前らもわかってるな?」


 紫門の声には、絶対的な自信が込められていた。


「もちろんです。誰にもしゃべりません」


 宮本が神妙に答える。佐々木も当然とばかりに頷いていた。完全に紫門の言いなりだ。


「白石、また告げ口してもいいぜ。ただ、誰もお前のような底辺の言うことなんて信じないだろうがな」


 紫門は、高らかに笑う。取り巻きの宮本と佐々木も一緒だ。完全に下に見てやがる。むかつく。


 三人でひとしきり笑った後、紫門の表情が変わる。そして、俺の胸倉をつかんできた。


「ったくよ。俺がどれだけ麗良と信頼関係築くのに神経使ってるかわかるか? お前の余計な一言で、万が一、万が一だぜ、麗良が疑ってきたらって背筋が少しヒヤッとしたんだ。それもお前のような底辺にこんなふざけた真似をしでかされた。この俺の思いわかるか?」


 ドスの効いた声だ。人一人殺しそうな怒りを滲ませている。紫門の顔が間近に迫り、その表情の恐ろしさが間近で見える。


 こ、殺される。


 逃げたいが、胸倉を掴まれた俺は、動けない。その鍛え上げられた太い二の腕でがっちりと締め上げられている。テニス部で鍛えた筋肉は、俺なんかでは到底太刀打ちできない。


「まぁ、いい。結局、麗良は俺の言い分を信じた。誤解は解けたんだよ。どうだ、これが俺とお前の違いだ。下民と上民の差、身に染みたか?」


 そう言って、紫門は、掴んだ俺の胸倉を無造作に放す。バランスを崩して、俺はよろめく。


「だいたい、紫門さんに逆らうなんて。白石、頭おかしくなったのか? 自分がどういう目にあうか想像できなかったか?」


 宮本が俺に近づき、俺の脛を蹴ってくる。痛い。


 避けてもしつこく蹴ってくる。コンコンとローキックのように蹴られ、俺の脛は、赤く腫れていく。


「宮本、動機は予想できるぜ。大方、底辺のくせに麗良に惚れたんだろう」


 紫門の言葉に、宮本が目を輝かせる。


「まじっすか! そりゃ身の程知らずにも程がありますね!」

「まったくだ。白石、お前のような底辺、麗良は歯牙にもかけないってのによ」


 紫門が心底あきれ果てた顔でそう言い放つ。


 くそ、俺が飛びぬけた才能もないモブなのは自覚している。だが、性格最悪なお前にそこまで言われる筋合いはない。


「お、お前こそ、麗良さんにふさわしくない」


 反論の言葉が口をついて出る。もう我慢の限界だった。


「麗良さん、だぁ? てめぇ、底辺が気安く麗良の名を呼んでんじゃねぇええ!」


 紫門の怒りが爆発した。


「あ、あぐぅ」


 痛みでうずくまる。紫門に思いっきり脛を蹴られた。脛を抑えて地面を転がる。


 激痛が脚を駆け上がり、涙が出そうになる。


「あ~あ、馬鹿だな、紫門さんを完璧に怒らせちまった」


 宮本達が嘲る。地面でのたうち回る俺を中腰にかがんで面白そうに見ていた。


 まるで虫を見るような視線だ。人間として見られていない。


「雑魚に構うのは沽券に関わるから無視してたがよ。舐めた真似するのなら容赦しねぇ!」


 紫門が大声で脅す。宮本達も嗜虐の笑みを見せて追従している。


「ふっ、お前は今後俺のおもちゃだから」


 そう言って再度、紫門に鳩尾を殴られ、そのまま地面に落とされた。


 呼吸ができない。肺の空気が完全に抜けてしまった感覚だ。


 紫門達は、地面にペッと唾を吐き、そのまま後にする。最後の侮辱だった。


 残された俺は、しばらく茫然としていた。


 夕日が校舎の影を長く伸ばし、蝉の声だけが虚しく響いている。夏の終わりを告げるような、寂しい光景だった。


 はは、ちくしょう。


 今日、俺は紫門に敵認定をされてしまった。これから先、どんな地獄が待っているのだろうか。


 それでも、俺は間違ったことをしたとは思わない。麗良さんを守ろうとしただけだ。たとえ理解されなくても、俺の気持ちに嘘はない。


 立ち上がり、痛む身体を引きずりながら家路についた。明日からが心配だが、とりあえず今日を乗り切ることができた。


 小さな勝利かもしれない。でも、俺にとっては大きな一歩だった。


 勇気を出して行動した。結果は最悪だったけれど、少なくとも後悔はしない。


 夕日に照らされた俺の影は、いつもより長く、そして少しだけ堂々としているように見えた。

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