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第二十八話「記憶の王 リュークの懺悔」

 草乃月財閥の理事長、草乃月涼彦は思う。


 この世には二種類の人間がいる。

 使える人間と使えない人間だ。


 使える人間は利益をとことん求め、野心のままに行動できる。がむしゃらに上を目指し、会社にも大いに利益をもたらしてくれる。使えない人間は狭い視野でしか行動できない。青臭い正義を振りかざし、会社に損害を与える。


 私の仕事は、そんな使える人材を多く雇用し、使えない人材を切り捨てることだ。会社に利益をもたらした者が正義なのだ。


 法を犯そうが、会社に利益を生み出したのなら上に昇格させた。ばれなければよい。逆に、どんなに清廉潔白と言われた社員でも、会社に不利益を与えたら容赦なくクビにした。


 上に立つ者の役目とは、感情に支配されずにどれだけ冷徹に判断できるかが重要である。


 江戸時代から脈々と受け継がれてきた草乃月財閥を、私の代でさらに発展させる。会社はますます発展した。


 そんな脇目もふらずに仕事をしていたが、娘ができた。

 我が財閥のすべてを受け継ぐ者だ。可愛くないわけがない。溺愛した。


 他人からは厳しいと言われた私も、娘の前では甘い父親だった。

 そして、娘が成長し年頃になったころ、婚約の話が浮かんだ。


 相手は、草乃月財閥と同じく日本を代表する財閥、小金沢グループの跡取りとのことだ。名前は小金沢紫門。紫門は成績優秀でスポーツ万能だそうだ。何より高貴な家柄である。


 我が草乃月財閥にふさわしい。


 当初は前向きになれなかった案件だが、小金沢グループの地盤を手に入れるのも悪くはない。

 親同士で婚約が成立した。


 名門幼稚園、小学校、中学校と進んだ。


 ある日、娘が庶民の高校に行きたいと言い出した。わがままを言わない娘の唯一のわがままだ。

 学則が厳しくて自由がないと不満を言っていた。


 まあ、学生のうちは好きにさせてやるか。


 ブランドはないが、そこそこの偏差値がある。理事長の熱意にも負けた。

 ただ、気になることがあった。変な虫がつかないか心配だった。娘の麗良が程度の低い男にたぶらかされたら困る。


 まあ、杞憂か。


 紫門が娘のわがままにつきあって同じ高校に入ってくれるとか。紫門は、もともとはハーバード大学付属高校に留学する予定であったが、娘のために予定を変更してくれた。


 なかなか男気があるじゃないか。


 麗良は将来嫁ぐ。少し寂しいが、大切な娘だからこそ一番よい婿を選びたい。


 順調だったはずが……。


 白石何某という凡夫を選んだらしい。調べたところ成績は平凡、凡百の中の一人だ。庶民の高校に行って、最悪のパターンだ。


 すぐさま娘を呼び出し叱責した。


 くだらない男と付き合うな、自分の価値を貶めるでないと。


 すると麗良は烈火の如く怒り出したのだ。紫門を蛇蝎の如く嫌っているのだ。


 信じられん。ついこの前まで紫門の話をしていた娘がだぞ。ハネムーンや将来設計まで話をしていた娘に何があった。


 白石翔太、娘に何をした?


 紫門に事情を聞いたが、彼もよくわからないとのことだ。娘を怒らせるような真似も一切していないという。


 紫門は、薬を盛った疑いを持っている。


 薬学についてはそれなりに熟知しているつもりだ。仮に精神を左右するような薬を使ったとしても、都合よくコントロールできるはずがない。


 薬? 催眠? 手法がわからん。私を恨む輩の差し金か?


 一時期娘がおかしな言動をしていた。前世を思い出せ、国を思い民に尽くせなど、意味不明なことを口走っていた。


 本当に薬の影響か?


 無理やり病院に入院させようとしたら、なりを潜めた。その後の受け答えはしっかりしていた。むしろスマートになったぐらいだ。理論立てて反論してくる。


 勘当するぞとも脅したが、のれんに腕押しだ。らちが明かない。


 いつのまにか娘に論破されるようになっていた。

 娘の成長を願っていたが、まさか会社を乗っ取られそうになるとは思わなかった。


 表の戦いでは負けていた。

 非合法の組織を使ってまで娘を海外に軟禁している。


 あの調子では、抜け出して出し抜くこともしそうだ。

 娘が帰国する前に娘を変えた原因を突き止め、対処する。


 誰であろうと許しはせん。百倍にして報復をしてやる。

 こういう商売をしている。恨まれるのは承知の上だ。


 容疑者をピックアップしている。

 一番メリットを受けているのが、白石翔太。

 こいつが最もメリットを受けている。


 なんでもそうだ。被害者を殺した者は、もっとも利益を受けた者が犯人だ。

 人をやって調べさせることもできたが、娘の一大事である。重大な局面は、いつも自分の眼で見て判断をしてきた。忙しい身だが、娘の一大事である。


 白石翔太の帰宅ルートを調べ、半ば強引に拉致をして尋問をする。


 第一印象は、毒にも薬にもならない平凡な男だ。

 多少尋問しただけでひどく動揺していた。何かを隠しているようでもあり、緊張でただただあたふたしているだけにも見えた。要するに小物である。


 白石翔太の携帯も家も見張りをしている。


 警告をした。裏で誰か奴を操っているのなら、何かしらの反応があるはず。


 大事な娘に手を出したのだ。黒とわかれば容赦しない。社会的に皆殺ししてやろう。




★☆




 目が覚めた。


 痛っ!


 突然、激しい頭痛が襲った。

 まるで頭蓋骨を内側から圧迫されるような痛みだった。机に突っ伏し、額を押さえる。


 何だ、この痛みは……。


 次の瞬間、脳の奥で何かが弾けるような感覚があった。

 そして——記憶が洪水のように流れ込んできた。


 王宮の大広間。玉座に座る自分。臣下たちが頭を下げている。愛する王妃の笑顔。まだ幼い王女レイラの愛らしい笑い声。


 平和だった日々。民を愛し、民に愛された理想の王国。


 そして——裏切り。

 信頼していた重臣の裏切り。侵攻してくる敵軍。炎に包まれる王都。王妃の死。忠臣たちの最期。そして、愛する娘を託して散った戦場。


 涼彦は机に突っ伏したまま、声を殺して泣いた。


 全てを思い出した。前世での栄光と悲劇。そして——現世での愚かさ。


 私の名はリューク・グラス・ヴュルテンゲルツ、ヴュルテンゲルツ王国の九十八代国王だった。王として、民を愛し、民に愛されていた。


 またやってしまった。また、あの忌々しい男を信じてしまった。


 小金沢紫門——前世ではシモン・ゴールド・エスカリオンと名乗っていた男。王国の公爵として仕えているように見せかけながら、実は最初から帝国の密偵だった。奴は裏切ったのではない。最初から敵だったのだ。長年にわたって王国に潜入し、内部情報を敵国に流し続けていた。その結果、王国は滅び、多くの忠臣が命を失った。


 そして現世でも、奴は同じことをしている。娘を利用し、草乃月財閥を乗っ取ろうとしていたのだ。

 愚かだった。記憶を失っていたとはいえ、また同じ過ちを繰り返すところだった。


 娘よ、すまぬ。お前は正しかった。お前だけが真実を見抜いていた。


 そして——白石 翔太。

 あの青年こそが、前世で最も信頼できる忠臣の一人だった。ショウ——王国の守護騎士。

 車内で尋問した時、何かが引っかかっていた。あの眼差し、あの佇まい。どこか見覚えがあると思ったのだ。


 そうか、あれがショウだったのか。

 できれば記憶が戻らないでほしかった。


 いや、それは無責任だ。

 王として、父として、今度こそ正しい道を歩まねばならない。


「あ、お待ちください」


 廊下から響く秘書の慌てた声。足音が近づいてくる。複数の靴音が絨毯を踏む鈍い音。


 国外に無理やり軟禁させていたのに……。


 自力で帰国してきたのか。レイラならまあそれぐらい容易いだろう。だが、これほど早いとは。


 重厚な扉が勢いよく開かれた。


「お父様、覚悟を決めました。これ以上邪魔立てをするなら、実力行使させていただきます」


 その声は、記憶の奥底で聞き慣れた、愛する娘の声だった。しかし、そこには前世の王女レイラの威厳が宿っている。


 涼彦はゆっくりと顔を上げた。


 扉の向こうに立っているのは麗良——いや、レイラだった。


 黒いビジネススーツに身を包んだその姿は、前世の甲冑姿と重なって見えた。凛とした眉、真っ直ぐに見据える瞳、きゅっと結ばれた唇。そのすべてが、戦場で最後に見た王女そのものだった。


 その後ろには、黒いスーツを着た男たちが控えている。十数人はいるだろうか。皆、険しい表情で涼彦を見つめている。麗良が現世で集めた部下たちのようだ。おそらく会社買収の際に味方につけた人間たちだろう。


 足音が絨毯の上を滑るように響き、彼らは扇形に広がって涼彦を取り囲んだ。


 やるではないか。


 それどころか私の子飼いの部下たちも寝返らせている。扉の脇に立つ秘書も、申し訳なさそうな顔をしながらも、レイラの側についている。


 麗良の交渉力と統率力は見事なものだ。短期間でこれだけの勢力を築き上げるとは。


 血は争えぬ。


 前世で見せた、あの戦略的思考と人心掌握術が、現世でも発揮されている。


 涼彦の心に、誇らしさと同時に深い懺悔の念が込み上げた。この娘を、この素晴らしい娘を、記憶を失った愚かさゆえに苦しめてしまった。


「……麗良、いやレイラ、もうよいのだ」


 涼彦はゆっくりと立ち上がった。机に手をつき、膝の震えを隠しながら。


「お父様!? もしや記憶が」


 レイラの顔に驚きと希望の色が浮かぶ。強気な仮面の下から、幼い娘の表情が覗いた。


 その瞬間、涼彦は前世の記憶を思い出した。まだ幼かった王女レイラが、怪我をした小鳥を拾ってきて、「お父様、この子を助けて」と涙ぐんだ瞳で訴えかけた日のことを。


 あの時と同じ瞳だった。希望と不安が入り混じった、透明な瞳。


「うむ」


 涼彦は微笑んだ。久しぶりに心からの笑顔だった。頬の筋肉が、長い間忘れていた温かさを思い出すように動いた。


 その瞬間、レイラの表情が一変した。


 強気な仮面が、まるで氷が溶けるように崩れ落ちた。大人の女性の顔から、一瞬にして幼い娘の顔に戻る。


 唇が震えた。瞳に涙が溢れる。


「お父様……」


 か細い声だった。これまで見せていた威厳に満ちた声ではなく、甘えたい盛りの娘の声。


 涙が頬を伝った。透明な雫が、白い頬を滑り落ちる。どれほど辛かったことだろう。記憶の戻らない父親と戦わねばならない苦痛。愛する父を敵として向き合わねばならない絶望。


 涼彦の胸が締め付けられた。この娘に、どれほどの重荷を背負わせてしまったのか。


「あなたたち、もういいわ」


 レイラは涙を拭いながら、部下たちに向かって言った。声は震えていたが、それでも王女としての威厳を保っていた。


「し、しかし、お嬢様」


 部下の一人が心配そうに前に出る。長身の男性で、レイラを守ろうとする意志が瞳に宿っていた。


「いいのです。父とは和解しました」


 レイラの声は優しかった。王女としての威厳と、娘としての安堵が混じっている。まるで、長い戦いがついに終わったことを告げるように。


「御意」


 部下たちは一斉に頭を下げ、足音を忍ばせながら部屋から退出していく。最後の一人が扉を閉めるまで、誰も振り返らなかった。


 静寂が部屋を包んだ。


「それと買収計画は中止です」


 レイラが最後に付け加える。その声には、もう戦う必要がないという安堵が込められていた。


 涼彦は苦笑した。


 東都重工業を買収していたとか。あそこを取られると私の基盤を大いに揺るがされるところであった。娘ながら見事な戦略眼だ。まるで前世で敵軍の動きを読んでいた頃のように。


「成長したな」


 涼彦は心から感心していた。声に、父親としての誇らしさが滲む。


「記憶が戻られていないお父様相手です。これくらいは造作もないことです」


 レイラは少し得意そうに微笑む。昔と変わらない、愛らしい笑顔だった。前世で見せてくれた、無邪気な笑顔。


 しかし、その笑顔の奥に、深い疲労が見えた。どれほど孤独な戦いを続けてきたのか。


「苦労をかけた」


 涼彦の声が震えた。どれほど重い責任を娘に背負わせてしまったことか。王として、父として、こんなにも愚かだったとは。


「お父様……」


 レイラの瞳が再び潤む。今度は、安堵の涙だった。


「会いたかった」


 その言葉と共に、レイラが駆け寄ってきた。


 ヒールの音が床を打つ。スーツのスカートが翻る。その姿は、前世で戦場から戻った時に駆け寄ってきた幼い王女と重なった。


 そして、涼彦の胸に飛び込んだ。

 その瞬間、涼彦の中で時が止まった。


 温かい。生きている。前世では守れなかった娘が、今ここにいる。


 涼彦は娘をしっかりと抱きしめた。細い肩、華奢な背中。しかし、その体には前世にはなかった強さが宿っていた。一人で戦い抜いた強さが。


「すまなかった、レイラ」


 涼彦の声が詰まった。涙が頬を伝う。男の涙が、娘の髪に落ちた。


「お父様」


 レイラも声を上げて泣いている。その泣き声は、前世で別れた時の、あの幼い泣き声だった。

 父と娘、王と王女として、そして何より家族として、ようやく本当の再会を果たせたのだ。


 長い長い時を経て、ついに。


「許せ。私がふがいないばかりに重い荷物を背負わせてしまった」


 涼彦は娘の頭を撫でながら言った。


「よいのです。それよりショウを——」


 レイラが顔を上げる。その瞳には、強い意志が宿っていた。


「わかっておる」


 涼彦は頷いた。


 愛する娘が「ショウに手を出すならば死ぬ」とまで言った。

 あの若者こそがショウだったのか。そうか彼なら娘を託せる。


 思い出してみれば、車内での翔太の反応も理解できる。紫門を必死に悪人だと訴えていた。娘を守ろうとしていたのだ。


 あの真っ直ぐな眼差し。正義感に満ちた言葉。まさにショウそのものではないか。

 記憶を失っていたとはいえ、なぜ気づけなかったのか。


 私は愚かだ。

 また、あの愚物に私の宝物を渡すところであった。


「すまない。私はまた同じ過ちを、あの糞にも劣る愚物に」


 涼彦の声に怒りが混じる。紫門への怒りだった。


「いいのです。お父様は記憶が戻られた。過ちに気づいてくれたのならそれで」


 レイラは優しく微笑む。


「そうか、二度と過ちは繰り返さぬ」


 涼彦は固く誓った。今度こそ、娘を、そして忠臣たちを守り抜く。リューク王として果たせなかった使命を、草乃月涼彦として必ず成し遂げる。


 しばらくの間、二人は静かに抱き合っていた。失われた時を取り戻すように。

 やがて、レイラが小さくつぶやいた。


「お父様、私はもう子供ではありません」


 その言葉に、涼彦は娘の成長を改めて実感した。いつの間にか、こんなにも逞しく、美しい女性になっていたのか。


「ああ、そうだな」


 涼彦は娘の肩をそっと抱いたまま、窓の外を見つめた。


「レイラ、お前はどう生きたいのだ?」


 急に聞かれて、レイラは少し戸惑った表情を見せた。


「どう、と申しますと?」

「前世では、お前に選択の余地を与えてやれなかった。王女として、政略結婚の道具として……そんな人生しか用意できなかった」


 涼彦の声には、深い後悔が込められていた。


「お父様……」

「だが今は違う。ここは平和な日本だ。戦乱もなければ、政略結婚の必要もない」


 涼彦は娘を見つめた。その瞳には、父親としての深い愛情が宿っていた。


「お前には、お前自身の人生を歩んでほしい。好きな人と結ばれ、好きなことをして……」

「反対はしないのですか? 確か昔もお父様が身分がつりあわないと大反対したではありませんか?」


 前世でも同じことがあったのだ。ショウとレイラの恋を、リューク王は身分違いを理由に反対していた。


「ふっ、彼以上の男がいるのか? お前を想い慈しむ存在が他にいるのか?」


 涼彦は断言した。ショウ以上に娘にふさわしい男はいない。

 あの青年の真っ直ぐな瞳を思い出す。娘のことを語る時の、あの純粋な愛情を。


「いません」

「はっきりと言うな。父として複雑、嫉妬するぞ」


 涼彦は苦笑する。娘を奪われる父親の心境は、前世も現世も変わらない。


「でも、お父様が認めてくださるなら……」


 レイラの頬が薄紅色に染まった。恋する乙女の表情だった。


「ただ、今は記憶が戻っていないようです」


 レイラの表情が少し曇る。


「記憶はじきに戻る。戻らずともわかるだろう。魂は一緒なのだ」


 涼彦は確信していた。

 今思えば、同じだ。車内で会った時も、初めて宮殿に出仕した頃と同じ眼をしていた。

 あの時は大丈夫かと思ったが、やはり間違いなかった。

 あの純粋さ、その正義感、そして娘への想い。すべてが前世のショウと重なっている。


「それに」


 涼彦は娘の手を取った。


「今度は私が邪魔をするつもりはない。お前たちの恋路を、全力で応援しよう」

「お父様……」


 レイラの瞳が再び潤んだ。今度は、喜びの涙だった。


「草乃月財閥の跡取りなど、気にする必要はない」


 涼彦はきっぱりと言った。


「お前が幸せになることが、私の一番の願いだ。会社のことなど、二の次だ」


 前世では果たせなかった、父親としての想い。今度こそ、娘の幸せを第一に考えたかった。


「よろしいのですか?」

「前世では、国の存亡のためにお前を政略結婚の道具にしようとした。国が滅びれば、民の命が失われる。だからお前の幸せを犠牲にしてでも、国を守らねばならなかった」


 涼彦の声には、深い悔恨が込められていた。


「だが今は違う。会社を失っても財を失うだけだ。誰の命も奪われはしない。これほど気楽なことはない」


 涼彦は心から思った。現世は平和だ。娘に重圧をかける必要はない。


「ありがとうございます、お父様」


 レイラは深々と頭を下げた。

 父と娘として、ようやく心からの時間を過ごせる。これ以上の幸せはない。


「あとは小金沢グループか」


 涼彦の表情が一変する。


「お父様どうされるのですか」

「つぶす」


 涼彦の声は冷たかった。

 前世あやつの裏切りによって、国を滅ぼされたのだ。恨み骨髄まで身に染みている。

 現世でも同じことを繰り返そうとした。娘を利用し、財閥を乗っ取ろうとした。


 絶対に許さん。今度こそ完全に叩き潰してやる。

 草乃月財閥の全力を挙げて、小金沢グループを経済的に破綻させる。政治力、金融力、すべてを動員する。


 奴らが路頭に迷う姿を見るまで、手を緩めるつもりはない。


 これは復讐ではない。正義の執行だ。


 涼彦の脳裏に、前世の記憶が鮮明に蘇る。


 あの日——王国最後の日。

 空は血のように赤く染まっていた。夕日ではない。王都を包む炎が、雲まで赤く照らしていたのだ。

 石畳には兵士たちの血が流れ、黒い煙が空に向かって立ち上っていた。アクリッドな焼ける匂いが鼻を突く。家屋の木材、絨毯、そして——人の肉の匂いも混じっていた。


 民たちの悲鳴が響く。子供の泣き声、女性の絶叫、男たちの怒号。それらが混じり合って、地獄の交響曲を奏でていた。


 敵の軍勢が王都に迫り、進軍している。


 今日こそ、討ち死にするかもしれん。


 王宮の大広間には、もはや数えるほどの忠臣しか残っていなかった。かつては百人を超える廷臣で賑わっていたこの場所が、今は墓場のように静まり返っている。


「陛下」


 重い足音が石の床を打つ。血にまみれた甲冑を身にまとった騎士が、片膝をついて報告する。


「東門が破られました。敵はすでに宮殿区画に侵入しております」


 リュークの心臓が重く打った。ついに、この時が来たのか。


「ハンドアイランド卿はどうした」

「東門にて討ち死にされました。最期まで勇敢に戦われましたが……」


 また一人、忠義の士を失った。リュークの胸に、鉛のような重さが沈んだ。


「陛下、お時間がございません」


 別の騎士が血相を変えて駆け込んできた。その顔には、深い絶望が刻まれている。


「シモン・ゴールド・エスカリオン、敵軍を手引きした模様です」


 部下からの報告を受けた時の絶望感。まるで心臓を鷲掴みにされたような痛み。

 信頼していた公爵が、実は最初から敵の手先だった。それが敗北の決定打となった。


「確かなのか」

「はい。北門の守備隊が内側から攻撃を受けました。シモンの指示で門が開かれ、敵軍が雪崩れ込んでまいりました」


 北門の守備隊。あそこには百人を超える精鋭が配置されていたはずだった。それが内側から。


 シモンめ。すべてが計略だったのか。


 何年も前から、王の信頼を得るために巧妙に立ち回っていたのだ。戦功を立て、民衆から慕われ、ついには王女の婚約者にまでなった。すべては王国を内部から破綻させるための長期計画だったのだ。


「陛下、ご報告がございます」


 ストーンブリッジ卿が甲冑を鳴らしながら近づいてきた。その顔には、まだ死への恐怖ではなく、使命への決意が燃えていた。


 ストーンブリッジ卿——王国の守護者として、どれほど尽くしてくれたことか。

 飢饉の年には自らの領地の穀物をすべて王都に送り、民衆を飢えから救った。

 疫病が流行した時は、自ら感染の危険を冒して患者の世話をした。

 悪徳商人が川に毒水を流して下流の村々で病人が続出した事件では、多くの貴族が賄賂で口をつぐむ中、真実を追求してその悪行を暴いた。

 ヴェルガーナの大敗戦では、他の貴族たちが戦線を離脱する中、最後まで殿軍を務めて民間人の避難を援護した。

 戦では常に最前線に立ち、部下を決して見捨てなかった。

 そして何より、王女レイラを実の娘のように慈しんでくれた。王女が幼い頃、庭園で転んで泣いていた時、真っ先に駆けつけて傷の手当てをしてくれたのもストーンブリッジ卿だった。


 味方だと思っていた貴族たちも、次々と敵に寝返った。金と権力に目がくらんだ者たち。昨日まで忠誠を誓っていた男たちが、今日は敵として刃を向けてくる。


 人間の醜さを、これほどまでに見せつけられるとは。


 しかし、ストーンブリッジ卿は違った。最期まで、王国への忠義を貫き通した。どんな誘惑にも屈しなかった。


「陛下、王妃殿下ですが……」


 ストーンブリッジ卿の報告にリュークは振り返った。愛する妻はどこにいるのか。


「妻はどうしたのだ」


 ストーンブリッジ卿の表情が曇った。その沈黙が、すべてを物語っていた。


「王女殿下を城外へお逃がしする途中、城内で敵の別働隊と遭遇し……王妃様は王女をお守りしようと最後まで戦われましたが、力及ばず……王女は何とか奥の間まで戻られました」


 リュークの心は張り裂けそうになった。

 膝から力が抜けた。玉座にもたれかかり、天を仰ぐ。


 妻よ。あの美しく聡明な王妃が。最期の瞬間まで、愛する娘のために戦ったのか。

 王妃は政治にも深く関わり、特に貧困対策に尽力していた。孤児院の設立、病院の拡充、学校の建設——王妃の慈善事業は数知れない。民衆から「慈母陛下」と慕われていた、あの愛する妻が。

 そして最期まで、母親として娘を守り抜こうとした。


「すまぬ」


 守れなかった。愛する妻を、民を、国を。王として、夫として、父として、すべてにおいて失敗した。


「そなたたちに報いるものがない」


 リュークは残された忠臣たちを見回した。ストーンブリッジ卿、バーバラ・ワイズ・カウンセラー卿の息子である若いエドワード、そして古参の従臣たち。


 最期まで忠義を尽くしてくれた部下たちに、何も与えられない無力感。

 彼らは皆、今日ここで死ぬことを覚悟している。それなのに、その忠義に報いることができない。


「その言葉だけで十分です」


 ストーンブリッジ卿が膝をついて答えた。その瞳には、最期まで揺るがない忠誠心が燃えていた。


「王に仕えることができたこと自体が、我らの誇りです」


 エドワードも続いた。まだ若い騎士だったが、その心は母に劣らず高潔だった。

 彼らは最期まで忠実だった。金にも権力にも屈しない、真の騎士たちだった。


「いや、信賞必罰を旨としてきたのだ」


 リューク王として、部下たちの功績に報いたかった。それが王の務めであり、彼らが求めているものでもあったはずだ。


「それでは、バルハラで亡き戦友共に酒を酌み交わしましょう」


 ストーンブリッジ卿が立ち上がった。その顔には、死への恐怖ではなく、最後の使命への決意が刻まれていた。


 遠くから、敵の雄叫びが聞こえてくる。もう時間がない。


「レイラを……娘を頼む」


 リュークは最後の命令を下した。


「必ずや」


 忠臣たちは一斉に頭を下げた。


 そして、王宮に敵の足音が響いた。

 重い靴音が石の廊下を打つ。甲冑が触れ合う金属音。勝利に酔った兵士たちの笑い声。

 最期の時、リュークは部下たちと共に戦場に散った。


 剣と剣がぶつかり合う音。甲冑に刃が食い込む鈍い音。血飛沫が石壁を染める。


 ストーンブリッジ卿が敵の槍に胸を貫かれて倒れた。最期まで王を守ろうとしていた、あの忠義の騎士が。「陛下……王女を……」という言葉を最後に、静かに息を引き取った。

 ストーンブリッジ夫人も病弱な身でありながら避難民の世話に献身し、最期まで民のために尽くして息絶えていた。夫婦揃って、聖母のような慈愛で王国に仕えた高潔な人たちだった。


 エドワードが複数の敵に囲まれ、最後まで戦って果てた。若い騎士の瞳には、最期まで王国への愛が宿っていた。


 そしてリューク自身も、愛するヴュルテンゲルツ王国のために、忠義の士たちと共に散っていった。


 その悲劇を、今度こそ繰り返すつもりはない。

 娘を守り、忠臣たちを守り、そして悪を滅ぼす。


 それがリューク王としての、そして草乃月涼彦としての、父としての使命だ。

【洗脳されなかった場合の草乃月 涼彦の人生】

 草乃月財閥は小金沢グループとの合併により日本最大の財閥へと発展。涼彦の冷徹な経営手法はさらに苛烈さを増し、容赦ないリストラで「死神経営者」と恐れられた。うつ病退職者数は日本一を記録したが、利益も日本一だった。さらに、政界進出を果たし、法人優遇・庶民切り捨ての政策を推進。「弱者の敵」として国民から憎悪される。長く政界に君臨し続けたが、栄光は長くは続かなかった。

 内部告発により脱税が発覚。政治資金規正法違反も次々と明るみに出た。かつて切り捨てた社員たちが、今度は涼彦を告発する側に回る。検察の包囲網が狭まる中、涼彦は国外逃亡を選択。最後は段ボール箱に身を潜め、「精密機器」として貨物船に積み込まれる途中、誤って箱ごと海に落下して死亡。

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― 新着の感想 ―
洗脳されてもすごいけど洗脳されなくても こいつら相変わらずやべーやつらばっかりなので ある意味罪悪感がなくていいですね
演技ではなく茶番でもないけど、筋書き通りの迫真の展開だけど全ては嘘八百という相変わらず不思議な物語ですね。
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