第二十六話「運転手、石橋真照の苦悩」
俺の名は、石橋真照。VIP専属の運転手をしている。VIP専属の運転手と言えば、政治家を赤坂の高級料亭へ送迎しているイメージだ。
実際、その通りで俺も経験がある。政治家のお偉いさんを乗せるのは緊張したし、時間通り目的地に着くように日夜運転経路を確認するのは大変だった。
最初は新人議員の運転手から始まり、代議士、民自党の幹部、そして、今は、大企業の社長を相手にそれをやっている。
仕事は大変だが、身入りはすごくいい。その収入の高さから、毎年求人の倍率は、千倍を超えている。
俺は、他人より飛びぬけて秀でているわけでもなければ、特別な才能があるわけでもない。
平々凡々な俺がそんな高収入な職に就けて、曲がりなりにもうまくやれている。
それは、運がよかったからだ。
もちろん死ぬ気で努力もしたが、努力だけでうまくいくほど世の中は甘くない。
尊敬できる人と出会えた。その人の支援があったからこそ、今の自分がいる。
手島さん……俺の大恩人。
仕事のやり方はもちろん、プライベートまでたくさん相談に乗ってもらい、大変お世話になった。
やり手で懐が深く、部下たちは全員彼を慕っていた。手島さんに感化された社員はたくさんいる。
手島さんの功績は数知れない。
例えば、職場環境の改善だ。
俺の職場である草乃月コーポレーションは、徹底した成果主義である。結果を出すためにうつになった社員は少なくない。
手島さんは、サービス残業の廃止や労働時間の短縮、部署間を越えた相互扶助制度の構築等、会社に利益を出しつつも社員の生活を守るシステムを作った。
細々としたことまで言ったらきりがないが、手島さんのおかげで救われた社員は大勢いる。
いずれ手島さんが上に立ち会社の風土を変えていくと誰もが期待していた。
あの事件さえなければ……。
手島さんは、とあるプロジェクトが原因で閑職に追いやられてしまった。
それは、利根川河川敷問題。
河川に工場から流れた廃棄水が流れ込み、自然が破壊された。さらにその自然破壊は、その河川近くに住む市民にも大きな影響を与えた。その河川を生活用水に組み入れていたため、身体の不調を訴える住人が続出したのである。
この問題に対し、とことん会社の利益を追求する草乃月社長と、あくまで消費者の安全や品質を最優先に考える手島さんグループとの対立が深まった。
両者は争い、結果……。
資本力も政界にも顔が効く草乃月社長が勝利した。
反対派閥を粛正した草乃月社長は、プロジェクトを続行。被害住民達の訴えも、腕のいい弁護士軍団を雇いわずかな賠償金で和解させた。
重度の障害が出た人もいたのに……。
プロジェクト中止に伴う損害と被害者補償と天秤をかけたあげく、社長は費用対効果だと言って取り合わなかったのだ。
はっきり言って、社長はクソだ。
人情のかけらもなく、逆らう者には容赦しない。
社長と対立した手島さん達は、閑職に追いやられてしまった……。
【鉄の女】と畏れられた馬場さんですら、社長のせいで会社を辞めている。
金に汚く出世のためなら人を陥れることに躊躇しない山上や畑町の野郎は、出世しているというのに!
世の中は、ままならない。
善人が苦しみ、悪人がのさばっている。
手島さん……。
あれほど仕事できる人が、今は飼い殺し状態だと聞いている。社長が自分に逆らった者の見せしめにしているのだ。
手島さんには、言葉に尽くせないほどお世話になったというのに……。
俺は、この冷血社長の運転手をしている。
手島さんを裏切り、社長に媚を売っているのだ。
生き恥をさらしている。
理由は、金だ。
金がいる。
俺には宝がある。
妻と子だ。
妻とは幼馴染。
これまでの人生、ずいぶんと妻には助けられた。
告白して結婚して子供ができた。
月並みな言葉だが、幸せだった。
俺は、もともと天涯孤独の身で、家族と呼べる者は妻と子しかいない。大事な大事なかけがえのない大切な宝なのだ。
なのに!
神様ってやつは、この世にいないのだろう。
……現実は残酷だ。
もともと身体の弱かった妻、子供を産んで産後の肥立ちが悪かったのか入退院を繰り返すようになった。
心臓に持病を持っていて悪化した。
このままではもって数年、早急に心臓の移植手術をしなければならない。
心臓の手術には、莫大な金がいる。優秀な医師と高度な設備が必要だ。
方々手を尽くして調べた。
その結果、草乃月財閥経営の草乃月病院だけが妻を助ける唯一の手段だとわかった。
草乃月病院は、日本で一番巨大な病院で医師も設備も充実している。その分、巨額な医療費を請求するので、有名だ。
妻は「無理はしなくていい。他のお医者様に任せましょう」と言ってくれる。
普通の病院ではだめだ。それは妻もわかっている。恐らく妻は死を覚悟しているのだろう。
妻が死ぬのは嫌だ。息子だって悲しむ。
何より俺がいやなのだ。
息子の結婚式にも、そしてその孫の結婚式にも妻と一緒に出る。妻とずっとずっと暮らしていきたいのだ。
そのためには悪魔にだって魂を売ってやる!
そして、利根川河川敷問題で手島さんが窮地に陥った時、俺は手島さんを裏切った。
手島さんの連座でクビにされそうになった時、なんでもするからやめてくれと社長の足を舐める勢いで土下座をした。
涙を流し、嗚咽交じりに懇願した。
その間、社長はデスクの上に両足をのっけてふんぞり返っていた。
俺は、この社長に首根っこを掴まれている。
しかたがない。しかたがなかったんだ。
毎朝、社長を乗せ、後悔に苛まれながらも運転を続けている。
☆ ★ ☆ ★
いつものようにマシンの如くたんたんと運転をしていたある日、社長から業務外のルートを走行するように指示を受けた。
珍しい。
仕事以外の無駄を極端に嫌うくせに。
社長の言うがまま運転をしていると、通学路に出た。学生達が帰宅している。
そして、ある男子生徒の前で停止するように言われ停止すると、社長が力づくで車の後部座席に乗せてきたのだ。
なっ!?
思わず声を上げそうになった。
誘拐と変わらないじゃないか!
男子生徒はわけもわからずパニックに陥っている。
それを社長が恫喝し無理やり落ち着かせていた。
無茶をしやがる!
こんな暴力まがいの真似をして、一体全体彼に何の用があるというのだ。接点がよくわからない。
社長だって世間体がある。学生相手にそこまで無体な事はしないと思うが……。
バックミラー越しに確認する。
よかった。
幸いと言ってよいのか、少年は落ち着きを取り戻していた。きょろきょろと物珍しそうに車内を見ている。
ふふ、純朴で人の良さそうな少年だ。どこか息子を思い出す。
ん!? あの制服は……。
息子と同じ南西館高校の制服だ。ネクタイの色から判断するに二年生か。
息子と同学年だ。もしかしたら息子の友達かもしれない。そうであれば、学校での息子の様子を聞きたいのだが……。
あの社長が許さないだろうな。
息子は、二カ月前ぐらいからか、暗い顔をして帰宅するようになった。心配して様子を聞いても部活で疲れているとしか言ってくれない。どんなに問い質しても心配しないでの一点張りだ。
息子は問題ないと言うが、日に日に元気をなくしていく。そして、風呂場で全身痣だらけになっているのを見つけた。
衝撃だった。
駆け寄り必死に説得しても……それでも息子は口を閉ざしたままだった。
業を煮やした俺は、悪いとは思いつつも息子の日記を盗み見ることにした。
その夜、息子が寝静まった後、こっそりと部屋に忍び込んだ。
机の引き出しに隠されていた日記帳。
手に取る時、指先が震えた。
息子のプライバシーを侵害している。親として、人として、やってはいけないことをしている。
でも——息子の苦しそうな顔を見ていると、居ても立ってもいられなかった。
日記帳を開く。
几帳面な息子らしい、丁寧な字で綴られた日々の記録。
最初の方は、部活のことや友達のことが楽しそうに書かれていた。
しかし、二カ月前からその内容が一変していた。
『白石君を助けようとしたら、俺もターゲットにされた。小金沢の指示らしい』
『毎日辛いけど、お父さんもお母さんも大変だから言えない。自分で何とかしなきゃ』
『昨日の仕返しだと言って、体操着に泥をかけられた。みんなの前で笑われた。恥ずかしかった』
『もう限界かもしれない。でも、白石君は悪くない。俺が勝手に首を突っ込んだだけだ』
一行一行読み進める度に、胸が締め付けられる。
息子がこんなに苦しんでいたなんて。
そして、そのいじめの首謀者が小金沢紫門だということも書かれていた。
『小金沢は笑いながら見ている。まるで俺たちを虫けらでも見るような目で』
『白石君もまだいじめられているみたいだ。俺が助けられなくて申し訳ない』
日記を読み終えた時、涙が止まらなかった。
息子の優しさが、息子を苦しめている。
家族に心配をかけまいと、一人で抱え込んで。
『あの子らしい』と思う反面、息子がこんなに苦しんでいることが胸を締め付ける。
俺が、もっと息子との時間を作っていれば。
妻の看病と仕事に追われて、息子のことを二の次にしてしまった自分が情けなかった。
そんな次第で息子の状況を少しでも知りたい。
社長と少年のやりとりに耳を傾けていると、衝撃の事実が判明した。
この少年こそ息子がいじめから必死に庇った同級生、白石翔太君だった。
そんな白石君が、今、理不尽な目に遭わされている。
背中越しに聞いていたが、社長はとんでもないイチャモンをつけていた。
社長が社長の娘と喧嘩をしていて、その原因を白石君のせいにしているのだ。
意味がわからない。
思春期の娘だ。父親に反抗ぐらいする。それこそさんざん威張り散らしてきた父親が反抗期の娘に殴られたなんてありえる話だ。
今まで従順だった娘が変わったからと言って、それを他人のせいにするのか。
しかも、薬だの洗脳だのわけのわからない言いがかりをつけた男が小金沢紫門らしい。
小金沢紫門のことは、よく知っている。息子の日記に出てきた。息子をいじめている佐々木達の親分だ。
こいつがどれだけ非道なことをしたのか、日記を読んでいて悔しさで涙が滲んでしまった。
小金沢紫門は、いじめを主導するクズ野郎だ。学校の成績は良いが、道徳心がない。
社長の娘は、最初は小金沢紫門の恋人だったらしいが、今は白石君に鞍替えをしたとのこと。
小金沢紫門はハンサムらしいが、性格は最低最悪だ。純朴な性格の白石君に惹かれてもありえない話ではない。
それなのに社長は、白石君を認めず娘に何か悪さをしたのではないかと責め立てている。
白石君の主張は正しい。
仮に何か悪さをしたとするなら、小金沢紫門だ。小金沢紫門のようなクズなら交際中に社長の娘に手を上げていてもおかしくない。
小金沢紫門は逆恨みで、現恋人である白石君のことをあることないこと社長に吹聴したのだろう。
社長は白石君を信じるだろうか?
難しいだろうな。
小金沢グループの社長とうちの社長はずいぶん親しい。小金沢グループの社長令息である小金沢紫門の言い分を全面的に信じるだろう。
案の定、社長は白石君の言葉を信じない。それどころか社長は白石君の首を絞め始めた。
おいおいおいおい、やめろ!
ふざけんな! 速く止めないと!
いたいけな少年の命が消えようとしている。
バックミラー越しに見える光景に、血の気が引く。
白石君の顔が、みるみる青白くなっていく。
必死にもがいているが、社長の力は強い。
車を止めて、後部座席のドアを開け、いますぐ社長をぶん殴る。
頭ではそう思っている。
でも——身体が動かない。
手がハンドルから離れない。足がブレーキを踏めない。
社長を殴る。それは妻の命を諦めるに等しい。
脳裏に妻の顔が浮かぶ。
病室で、痩せ細った身体を横たえている妻の姿。「無理はしなくていいのよ」と微笑む、優しい笑顔。
でも、俺には分かっている。妻も生きたがっている。息子の成長を見届けたがっている。
社長は、執念深くいつまでも根に持つタイプだ。社長を殴ろうものなら、再就職もままならない。それどころか妻の病院先まで邪魔をしてくるだろう。
妻が死ぬ。
その現実が、俺の身体を金縛りにする。
あ、あ、あ、でも……。
白石君の顔色がみるみる青白くなっていく。
このままでは本当に死んでしまう。
息子と同い年の、罪のない少年が。
しかも——息子が助けようとした、大切な友人が。
息子が自分を犠牲にしてでも守ろうとした友人が。俺の目の前で。俺が何もしないせいで。
これは単なる他人事ではない。息子が自分を犠牲にしてまで守ろうとした相手を、今度は俺が見捨てようとしている。
息子に顔向けができるか?
「お父さん、僕が守ろうとした白石君を助けてくれなかったの?」
そう問われたら、何と答える?
心臓が激しく鼓動を打つ。冷や汗が背中を伝う。
手のひらが汗で滑る。
なにか、なにか暴力以外で手がないか、必死に頭をひねる。
そうだ!?
「社長、そろそろ時間が……」
わざと混んでいる道路に入ってやった。
めざとい社長のことだ。道路の込み具合から目的地までの時間を計算しているだろう。
次のアポイントは重要な案件のはずだ。
白石君に構っている場合じゃないだろ。さっさと手を放せ。さぁ、早く取引先と調整しろ!
俺の願いが通じたようだ。
社長は手を放してくれた。
白石君はごほごほと苦しそうに咳をしているが、命には別状ないようである。
ふ~よかった。
無事に少年の命が救われた。
でも——胸の奥で、重い罪悪感が渦巻いている。
俺は結局、何もできなかった。
白石君を本当の意味で助けられなかった。
息子の正義感を、俺は踏みにじった。
社長の機嫌を損ねないよう、小細工を弄しただけだ。
それから社長は白石君を殴って無理やり車外に放り出すと、何事もなかったかのような顔で車内に置いてある新聞を読み始めた。
今さっきまで少年の首を絞め殺そうとしておいて、その態度はなんなんだよ。
「なんだ?」
「い、いえ」
しまった。あまりな態度についつい社長をバックミラー越しに睨んでいたようだ。
すぐに視線を下に向ける。
「何か文句でもあるのか?」
「い、いえ、なんでもございません」
「ふん、わかっているだろうな」
「はい、もちろんです。社長の御恩を忘れたことはありません」
社長はふんと鼻を鳴らし、足を組むと新聞を読むのを再開する。
つまり余計なことを話すなと釘を刺してきたのだ。
話すなか……。
社長のあの剣幕から考えるに、今度は白石君を殺すかもしれない。
く、くそ。
……社長は今、すこぶる機嫌が悪い。いつものように無言でいるべきだ。他人を助けている余裕は俺にはない。無心に仕事をこなしていくしかないのだ。
白石君の苦しそうな表情を思い出す。
……っ、情けない。
あまりに自分が情けなさすぎる。
息子は自分がいじめの標的にされても、敢然といじめに立ち向かったというのに……。
息子は白石君を守ろうと必死だった。たとえ自分が犠牲になっても。俺も息子に誇れる父でありたい。
純朴な少年が恐怖で震えているのだ。父親もクビにさせられ、今にも泣きそうにしていたじゃないか!
小金沢紫門のことはよく知っている。息子を苦しめている元凶だ。白石君と小金沢紫門、どちらが悪い男なのかはわかりきっている。
……意見ぐらいはすべきだな。
「あ、あの社長」
「なんだ?」
「先ほどの少年、白石君は悪くありません」
「君には関係ない話だ」
にべもない。
社長は新聞紙を広げてこちらを見ようともせず、話を終わらせようとする。
めげるな。社長が愛想がないのはいつものことだ。
「聞いてください。私は小金沢紫門という男がどんなに酷い男か知っています」
「誰が君の意見を聞いた?」
「申し訳ございません。出過ぎた真似をしているのは承知しております。ですが、言わせてください。白石君の言葉は正しい。悪いのは彼じゃない。悪人は、小金沢紫門です」
「君も根も葉もない噂を流すのかね」
「嘘ではありません。真実です」
「妄言もたいがいにしろ」
「本当です。信じてください」
「君もしつこいね……そこまで断言するなら、何か根拠でもあるのかね?」
具体的な証拠を見せなければ、疑い深い社長のことだ、絶対に信じまい。
証拠なら……ある。
息子の名誉を守るため、誰彼構わず話すわけにはいかなかった。特に、こいつのような冷血漢に話すのは抵抗がある。
だが、白石君の命がかかっている。
武志、すまん。
俺は、小金沢紫門達が息子をいじめていることを伝えた。疑い深い社長に信じてもらうには、息子の日記も提示する必要があるだろう。
「……というわけなんです」
「そうか。君の息子も南西館高校だったな」
「はい、ご息女とは別のクラスですが……とにかく小金沢紫門がいじめをしているのは事実です。証拠なら息子の日記を見てもらえばわかります」
「まぁ、証拠としては不十分だがね」
「社長!」
「まぁ、クソ真面目な君が自分の息子の名を出してまで話したんだ。信じようじゃないか」
「本当ですか!」
「あぁ、紫門君はいじめをしている。それで、それがどうかしたのかね?」
「それでって……いじめをしているんですよ。どちらが悪人かわかりますよね?」
「ふっ、君は勘違いをしているようだ」
「勘違いとは?」
「紫門君は、いじめをしている。君に言われなくても当然知っているよ」
「ご存じだったのですか!」
「当然だろ。学園は、大事な娘が通っているんだぞ。学園長を通じて、クラスの様子は手に取るようにわかっている」
こいつは知っていた。
知っているのなら、なぜ止めない。
白石君も息子も被害者だぞ。
「ご存じだったのならどうしてですか」
「ふっ、君は青いな。これはオフレコだぞ」
「は、はい」
「世間体があるから公言しないが、率直に言おう。いじめ結構じゃないか。わが社をけん引してくれる婿殿には、それぐらい覇気があったほうが頼もしい」
こいつは、何を言っているんだ……?
落ち着け。冷静になれ。
立場を忘れて、怒鳴り散らすところだった。
冷静に、冷静に事の是非を問う。
「いじめをしているんですよ。小金沢紫門の性根は曲がってます。それなのに庇うんですか!」
「君はまるでわかっていないな。いじめはいじめられているほうが悪い」
「はぁ? そんなわけないだろ!」
「静かにしたまえ。私を怒らせたいのか!」
あまりな物言いに、つい言葉を荒げてしまった。
社長が不機嫌になって怒鳴る。
「大変、申し訳ございません」
社長の機嫌を損ねるわけにはいかない。
頭を下げて謝罪する。
「無知な君に一つ教えてやろう。何度でも言ってやる。いじめはいじめられているほうが悪い。いじめを受けるのは、いじめを受けるだけの理由がある」
「わ、私の息子が悪いっていうんですか」
「悪いに決まっている」
「ど、どうしてですか!」
声が震えた。
怒鳴って殴りたい衝動を必死に押さえつける。
敬語で応えた自分を褒めてやりたい。
「どもるんじゃない。いいか、いじめられる奴らを見てみろ。大抵、体力に頭脳、容姿、協調性全ておいて劣っている。自らを鍛えていない怠惰な証拠だ」
「それはあまりに一方的な考えです。能力は関係ありません。仮に能力に優れていても、いじめられることもあります」
「違うな。君は、筋骨隆々の男をいじめたいと思うか? 学年主席の男をいじめたいと思うか? 例えいじめたいと思う奴がいても、学園側がさせんよ。優秀な人材は、金の成る木だ。要するに、優秀な者はいじめを受けない。努力を怠った無能者には誰も手を差し伸べようとはせん。必然、無能な者がいじめられるに決まっているだろ」
「ち、違う。違います。努力をして必死に頑張ってもそれを認めない非道で心悪しき人達がいるからいじめが起きるんです。社長のお言葉はあんまりだ。被害者の気持ちを、痛みを欠片もわかっていない」
「くっく、被害者の気持ちねぇ~君なんかよりわかっているさ。どうして僕が? どうして私が? なんでイジメられるんだ? 誰か助けてくれ? そんなところだろ?」
「くっ、そうですよ。必死に生きて苦しみ助けを求めている人の気持ちです。その気持ちがわかるならどうしてそんなひどい事をおっしゃるのですか!」
「ひどくはない。なぜいじめられるかわからない、それは自己分析ができない馬鹿と言っているようなものだ。逆に聞こう? いじめられるのが嫌なら、なぜ現状を変えようとしない? なぜ戦いを放棄する?」
「それは、大勢が相手だからです。一人で抱え込んで孤独に打ち震えていて、抵抗できるわけないじゃないですか!」
「だから愚かなんだ。今の世の中、いじめを受けないためのツールは、たくさんある。なぜ、それを使わない。知らない? なら調べろ。人は、頭なり身体なりを鍛えて自己を守ろうとする。人間の本能だ。何も行動を起こさない者は、怠惰だよ。社会に出ても通用しない。わが社にとってもなんの益もない者だ。効率の悪い無能など、この世にいらない」
社長が冷徹に言い放つ。
ふぅ~ふぅ~殺す、ぶっ殺す。
こんなクソが政治家になる?
ふざけるな!
草乃月涼彦は既に政界進出を公言している。次期選挙での出馬も決まっているという話だ。
会社経営で培った資金力と人脈、そして容赦ない手法を政治の世界に持ち込もうとしている。
「効率の悪い無能はいらない」——そんな思想の持ち主が国政を動かすようになったら、どうなる?
手島さんのような善人は完全に排除される。弱者は切り捨てられ、庶民の生活はさらに困窮する。この男の価値観が法律になり、政策になる。
想像するだけで寒気がする。
こいつが政界に進出したら、日本は終わりだ。
ハンドルを握る手がプルプルと震える。
意地だ。こんな奴に負けたくない。なんとか言い返してやる。
「それは社長が金も権力もある、恵まれた立場にいるから、そう思えるんです。被害者の立場を少しもわかっていない」
「舐めるなよ。たとえ、私が貧乏人であっても変わらない。私はいじめを受けるような弱虫共とは違う。歯向かう者は全員叩きのめしてやる」
「社長のように立ち向かえる人もいるでしょう。でも、できない人だっています。それが悪いとは思いません。悪いのはいじめをしている人間です」
「なかなか食い下がるじゃないか。私に歯向かうつもりなのか?」
「い、いえ、そんなつもりはございません」
「まぁ、いい。暇つぶしに議論をしてやる。君の言う通り原因は、いじめをする側にあるとしよう。では、いじめの対策はどうすればいい?」
「対策ですか」
「そうだ。物事の原理は一緒だよ。原因がわかれば、対策を打てる。君の考えを聞いてやろう」
「そうですね、親や友達、信頼できる人に頼ることも一つの手だと思います。肝心なのは独りで悩まないことです」
「不十分だな。信頼できる人がいれば、本当にいじめは止まるのかね? 君の息子はいじめられているそうだが、信頼できる人はいなかったのか? うだつが上がらないとはいえ父親もいたんだろ?」
「そ、それは……」
「言わなくてもわかる。心配する親がいても同じだ。いじめは止まらない。いじめを受けている本人が変わらなくてはな」
「ち、違う。別に無理して変わる必要はないです。今の環境を変える方法だってあります」
「環境を変えても意味がない。変えた先でいじめられるのがオチだ」
「そうとはかぎらないでしょう」
「いいや、確信しているね。君の息子のような無能は、どこに行ってもいじめられる。君の息子が弱く、さらに言えば、君が息子を厳しく育てたなかったのが原因だな」
「違う。息子は弱くない。息子がいじめを受けたのは、いじめを受けていた友達を助けたからです。私は息子を誇りに思います」
「はっはっははは! 馬鹿だな。それで君の息子は、その友達とやらを助けられたのかね? 結局、一緒になっていじめられているではないか。溺れている者を助けようとして自分も溺れたら本末転倒だ!」
社長が愉快気に高らかに笑っていた。
今までも心を殺して仕えてきた。理不尽で屈辱な思いは何度もしてきた。
こいつを殴れば、妻が死ぬ。
妻がこの世からいなくなる。
その思いで、心に蓋をしてきたのだ。
だが、ここまで息子を侮辱されて……俺は!
全身に怒りが駆け巡る。
血管が破裂しそうなほどの激情。
ハンドルを握る手が、武者震いのように震える。
社長の首を絞めてやりたい。あの傲慢な笑顔を叩き潰してやりたい。
でも——
脳裏に妻の顔が浮かぶ。
病室で微笑む、あの優しい笑顔。
息子の顔も浮かぶ。学校でいじめられながらも、家では気丈に振る舞おうとする、健気な姿。
俺がここで感情を爆発させたら、家族はどうなる?
妻の治療費は?
息子の学費は?
全てが水の泡になる。
いや、それどころか——この悪魔は報復してくるだろう。
妻の治療を妨害し、息子の将来まで潰しにかかる。
俺一人の満足のために、家族を地獄に叩き落とすわけにはいかない。
「なんだその眼は? 不満があるなら、別にやめてもらってかまわないんだよ。君の代わりはいくらでもいる。だが、覚えておくといい。当然、会社の恩恵は受けられないぞ。懲戒免職だから当然退職金も無し。君の奥さんも、うちの病院から出て行ってもらおう」
「……やめてください」
「なんだって? 聞こえない。もっと大きな声で返事をしたまえ!」
「やめてください。失礼な態度を取って申し訳ございませんでした」
「よろしい。利口な生き方だ。安心しろ。うちの病院は世界に誇る大病院だ。君の奥さんの些細な病気など簡単に治してやれる」
涙が頬を伝わる。
止まらない。熱い涙がぽろぽろと落ちる。
悔しい。情けない。
息子を、愛する息子を侮辱されて、それでも頭を下げなければならない。
しかも——息子が自分を犠牲にしてでも守ろうとした白石君まで、社長の手にかかって苦しんでいる。
息子の正義感も、友情も、すべてを踏みにじられている。
こんな屈辱があるだろうか?
でも——これが現実だ。
金がない者は、金がある者にひれ伏すしかない。
弱い者は、強い者に従うしかない。
それが、この世界の掟なのだ。
こ、これくらいなんだ。多少嫌みを言われたぐらいだ。妻や息子の苦悩に比べたら屁でもない。
運転をする。
今日は失敗だった。社長と感情をむき出しにして接してしまった。
無になれ。
俺には愛すべき家族が待っている。それ以外のことは考えるな。
社長に天罰が下ることを祈りながら、今日もまたクソッタレな仕事をこなしていく。