第二十五話「ナイスミドルからの刺客(後編)」
帰宅途中、黒塗りの高級車に無理やり乗せられ拉致されてしまった。
犯人は、ナイスミドルな男……草乃月財閥の現当主であり、麗良の父親でもある草乃月涼彦である。
ここに麗良パパがいるってことは、麗良の交渉は完全に失敗したようだ。
はぁ~これはけっこうまずい状況かもしれない。
麗良、全寮制の修道院に強制入学とかさせられてないだろうな?
麗良パパに状況を確認してみようか。
でも、なんて声をかければいい?
円滑な会話スキルを持ち合わせていないコミ障には荷が重すぎる。
うぅ、どうしよう?
と、とにかくまずは落ち着くべきだな。車内でも観察しよう。
見回すと、息を呑むような光景が広がっていた。
うん、すごいな。これが本物の金持ちの車か……。
車内は信じられないほど広々としている。足を伸ばしても余裕があるし、天井も高い。まるで高級ホテルのスイートルームのようだ。
シートは最高級の本革で作られている。手で触れてみると、柔らかく、しっとりとした質感が伝わってくる。座り心地は抜群で、体が沈み込むような快適さだ。
内装もため息が出るほど豪華だった。ダッシュボードは美しい木目のウッドパネルで装飾され、随所に金属の装飾が施されている。スイッチ類もすべて高級感があり、まるで精密機械の芸術品のようだ。
車内には小型の冷蔵庫まで備え付けられている。ドアを開けてみると、中には高級ワインやシャンパンのボトルが整然と並んでいた。ラベルを見ると、テレビで見たことがある超高級品ばかりだ。一本で俺の小遣い一年分以上するだろう。
オーディオシステムも最高級品らしく、スピーカーが車内の至る所に配置されている。音楽でもかけたら、まるでコンサートホールにいるような音質なんだろうな。
エンジン音はほとんど聞こえない。こんなに静かで滑らかな走行感は初めてだ。少しも座席が揺れることがなく、まるで雲の上を滑るように移動している感覚だった。
窓ガラスも特別製らしく、外の騒音を完全に遮断している。まるで別世界にいるようだ。
さすがは超高級車のロールスロイス。見るもの触るもの全てが新鮮で非日常の空間だ。
これが金持ちの世界か……。麗良が普段いる世界は、こんなにも豪華で贅沢なのか。
一瞬、現実を忘れそうになった。こんな豪華な車に乗せてもらえるなんて、まるで夢のようだ。
普段であれば大いに楽しめるところだが……。
ふと我に返る。
ブルリと身震いする。
そうだ。今そんな余裕はなかった。
この車に乗せてくれたのは、観光のためではない。麗良パパの尋問を受けるためだ。
豪華な内装も、今の状況では逆に恐怖を煽る。こんな密室で、草乃月財閥の社長と二人きり。外の世界とは完全に遮断されている。
何をされても、誰にも気づかれない。
麗良パパから無言の圧力を受けている。
麗良パパは高級そうな葉巻を取り出し、口にくわえて息を吸いながら火をつけ、ふかしていた。
張り詰めた空気が辺りを漂っている。
こ、怖い。
これが巷でコストカッターと恐れられている敏腕社長の力なのだろう。言葉を発せずとも、その存在感だけで空気をピリピリさせる。
就職活動生ではないが、まるでブラック企業の圧迫面接のようだ。この人の前では、木っ端就活生なんてビビりまくって何も言い出せないだろうね。
うぅ、沈黙が辛い。
何か言ってくれ。
時間にして数分だろうか……。
ようやく麗良パパが口に加えていた葉巻をトントンと灰皿に消し、その口を開いた。
「単刀直入に聞こう。娘に何をした?」
「えっ!?」
「……聞こえなかったのか?」
「い、いえ、聞こえてます」
「聞こえているならとくと答えなさい」
「は、はい、えっと何をしたって言われましても……そ、その、あのですね」
「……グズは嫌いだ。グズを相手にすると時間を無駄にする。だが、これは重要な案件なので、グズに時間を取ってやろう。もう一度聞く。娘に何をした?」
「な、何もしてません」
実際は何かしているため、しどろもどろになってしまう。
クロかシロかで問われれば、クロである。いじめられて心神喪失状態だった。使うつもりはなかったけど、やむを得ず使ってしまった。言い訳はいくつもある。
だけど、この人には通用しないだろう。
「本当か? 紫門君が言うには、君が娘をたぶらかすために薬でも盛ったんじゃないかとな」
「薬!? そんなもの使うわけないじゃないですか!」
薬は自分だけでなく周りの大事な人たちまで不幸にする。そんな親不孝な真似をするわけがない。
シートから立ち上がり反論する。
「嘘をついても無駄だ。私は警察の上層部とも懇意にしている。署長に頼んで君の家を家宅捜索させてもいいんだぞ」
「家宅捜索!?」
まじか。
薬はないが、宇宙人からもらったチート機械は持っている。
万が一あの小箱を没収でもされたら……。
あれはボタンさえ押せば、誰でも使うことができる。警察を通して、洗脳機械の存在が世に明るみに出てしまう。
そうなれば一人だけの問題では済まない。家族も、愛里彩も、真理香も、すべての人が巻き込まれる。政府が介入し、実験動物のように扱われるかもしれない。
想像しただけで背筋が凍る。絶対に阻止しなければならない。
「なんだ? そんなに青い顔をして図星だったか?」
「ち、違う。薬なんて使っていません」
「まぁ、そうだろうな。これでも私は現実主義者だからね。薬で精神を操る? 馬鹿馬鹿しい。現代の科学で惚れ薬など茶番だ。人の精神を捻じ曲げる薬などあるわけがない」
「そ、そうでしょ」
た、助かった。
麗良パパが常識人で助かったよ。
「だが、薬でなくても何かがあると私は睨んでいる」
「な、何かって?」
「それはわからん」
「わからないって……それじゃあ言いがかりですよね? 僕が何をしたって言うんです?」
「君の手口は不明だが、君が麗良に何かをした。それは絶対だ」
「し、証拠もないのに……」
「証拠ならある。事実、麗良は君のようなうだつの上がらない男にのぼせ上がっているんだからな!」
「くっ、あまりな言い方ですね」
「事実だろ。学園長に聞いて君のことは調べた。成績も優秀とは言えない馬鹿者。身体も貧弱で頼りない。顔も家柄も凡百の一つだ。とても麗良とつりあう男じゃない」
く、悔しい。
麗良たちとのスペックの差は実感している。だけど、面と向かってそこまで言うことないだろう。バカにするな。なんとか言い返してやる。
「庶民だって頑張れば、エリートに勝てるかもしれません!」
「そういうのはね、結果を出してから言うもんだよ」
麗良パパがあきれたように言う。その眼は庶民をどこまでも馬鹿にしているように見えた。
「ひどい」
「ひどい? どちらがひどいか。近頃は君のおかげで娘と喧嘩ばかりだ」
「そ、そうなんですか」
「あぁ、君をけなすと烈火の如く怒るんだよ」
「はは……」
レイラのショウへの愛情を考えれば、ショウを貶めるなど自殺行為である。自分の父親といえども辛辣な言葉を放つだろう。
「笑い事ではない。私は娘に殴られたんだぞ。君にはわかるまい。手塩にかけて育てた娘から裏切られる気持ちは!」
それはお気の毒にって言ったら火に油を注ぐよな。
ケンカの原因だし……。
話題を変えよう。そうだ。この流れで麗良の状況を聞いてみるか。
「それで麗良さんは元気にしてますか? 学校を何日も欠席しているし、心配です。今どちらに?」
「君には関係ない。話す義理もない。話す価値もない。わかるな」
「そ、そんな……」
「それと娘の名を気軽に呼ばないでもらおう。非常に不愉快だ」
「は、はい」
と、取りつく島もない。無理だ、これ。
それから麗良パパは「生意気」だの「身の程を知れ」だのさんざんに侮辱する。
なかなかにきついぞ。
麗良パパの口撃で精神にダメージが蓄積されていくが、お構いなしだ。麗良パパは、止まらない。
「はぁ~本当に悲しいよ。紫門君ならともかく、君のようなうだつの上がらない男の口から『麗良さん』なんて聞く日が来ようとはな」
麗良パパは首を何度も横に振り溜息をつく。
紫門め、ここでもそのエセ優等生ぶりを発揮するのかよ。
どうして大人たちは、紫門をたやすく信じるのか。
言わずにはおれない。
「紫門は最低最悪の男ですよ!」
「最低最悪なのは君だろ」
「違う。紫門はいじめをするようなクズです」
「君より紫門君を信じるよ。彼は品行方正で立派な青年だ」
まただ。学校と同じだ。善人より悪人の紫門が支持されてしまう。
悔しい、悔しすぎる。
「信じてください。紫門はクソです。女性を襲う犯罪者でもあるんですよ」
「そんな世迷言を信じるとでも?」
「本当なんです。娘さんも危ない目に遭うかもしれない。だから娘さんを守るためにも紫門をこれ以上信用しないでください」
「娘を守る? 凡愚な君が一端の騎士気取りか。そう言えば、娘は君を『翔』と愛称で呼んでいたな。まるで恋人同士のようじゃないか!」
「い、いえ、そんな……恋人じゃありません」
「当たり前だ」
麗良パパが真顔で答える。
「当然恋人同士ではない。断じて違う。だが、娘は君のためなら死ねるそんな覚悟を持っていた」
「……はは」
「否定しないんだな」
「あ!? いえ」
「まぁ、いくら愚鈍な君でも娘から好意を受けているぐらいわかるか」
「は、はい」
「くっく、羨ましい限りだよ。私はまるで物わかりの悪い馬鹿者のように責められるというのに。君は娘から救国の英雄のように扱われる」
「そ、そんな違います」
「違わないよ。君は娘を骨抜きにしている」
「え、えっと……」
「さぁ、教えてくれ。落ちこぼれの君がどうやって娘の心を盗んだ? あそこまでどうやって人を惚れさせることができる? 巷のプレイボーイなんて目じゃない。君はまるで恋泥棒、令和のルハンだよ」
「い、いや。そ、そんなルハンだなんて買いかぶりすぎですよ。僕はそんな大した奴じゃありません」
かっこいい男の代名詞……憧れの怪盗ルハンと呼ばれて照れてしまう。
なんだか急に麗良パパが親しみやすく感じてきた。さっきまでの威圧感が嘘のようだ。
「謙遜するな。あれほどの覚悟を娘から見せられたのだ。君はルハン以上の盗人だ」
「はは、そんな照れますよ」
心の中で警戒心が薄れていく。この調子なら、もしかして麗良パパと和解できるかもしれない。
「はっははは、そんなにおかしいか?」
「はは、おかしいですよ。僕がルハンなんて言い過ぎです。それより考えたんですけど、麗良さんともう一度話をしてみたらどうですか? なんなら僕が間に入りますよ」
完全にリラックスしていた。さっきまでの恐怖なんて忘れて、麗良パパとの会話を楽しんでいる自分がいた。
「くっく、あっはははは! 君は恋泥棒するだけでなく、親子の仲裁までしてくれると言うのか?」
「はい、僕でよろしければ」
この雰囲気なら大丈夫だ。麗良パパも笑ってくれている。きっと理解してくれるはずだ。
「そうか!」
「はい、令和のルハンが仲裁しますよ」
調子に乗って、さっき言われたあだ名を使ってみた。
「くっく、あっはははは! そうかそうか」
「あはははは! はい頑張ります」
笑い声に合わせて、麗良パパもつられて笑ってくる。
不思議だ。あんなに険悪だったのに、わだかまりが解けたかのように笑い合っている。緊張の連続だったし、変なスイッチが入っちゃったのかな。
心の底から安堵していた。やっぱり麗良パパも人間だ。話せばわかってくれる。
「「はは、はっはっはははははは!」」
しばらく二人で大笑いする。
車内は和やかな空気に包まれていた。さっきまでの殺伐とした雰囲気が嘘のようだ。
完全に油断していた。麗良パパとの距離が縮まったような気がして、心が軽くなっていた。
その時だった。
突然、麗良パパの表情が変わった。
笑顔が一瞬で消え失せ、氷のように冷たい表情に変わる。その変化はあまりにも急激で、一瞬何が起こったのか理解できなかった。
まるで別人になったかのように、麗良パパの目に殺意が宿る。
背筋に悪寒が走った。だが、もう遅かった。
「若造がぁああ! なめるなよ!」
麗良パパの怒号が車内に響く。その声は先ほどまでの優しい声とは正反対の、地獄の底から響くような恐ろしい声だった。
次の瞬間、首に強烈な圧迫感が襲いかかった。
「がっ!」
麗良パパの両手が首に巻きつく。太い指が首に食い込み、気管を圧迫する。
瞬間、呼吸が止まった。
「小僧、調子に乗るな」
麗良パパの声は恐ろしく冷静だった。まるで虫でも潰すような、何の感情も込められていない声だった。
「ち、ちょっと……く、苦しい」
必死に声を絞り出した。だが声にならない。喉が圧迫されて、空気が通らない。
麗良パパの手は万力のように強く、どんなに手で引っ張っても微動だにしない。
「知ってることを話せ」
麗良パパは締め付ける力を強めながら言った。
「し、知らない」
必死に首を振った。だが動きは鈍い。酸素が足りなくて、思うように体が動かない。
「親はな、子のためならなんでもできる。なんだってできる。どんなことでもだ!」
麗良パパの声に狂気が混じり始めた。父親としての愛情が、狂気の形で現れている。
視界がぼやけ始めた。酸素不足で脳が正常に機能しなくなっている。
麗良パパは、締め付ける力を徐々に強めていく。
く、苦しい。息ができない。
必死にもがいた。手足をばたつかせ、麗良パパの腕を引っ掻いた。だが力が入らない。まるで水の中でもがいているような感覚だった。
肺が酸素を求めて悲鳴を上げている。心臓が異常な速さで鼓動し、血管が脈打つ音が頭の中で響いている。
「こ、これ以上は……し、死ぬ」
かすれた声で懇願した。
「ならば死ね!」
麗良パパの返答は冷酷だった。そこには一片の慈悲もない。
こ、怖い。なんという迫力だ。
これが草乃月財閥を巨大コンツェルンにまで押し上げた男の力か。麗良パパの本気モードは、ヤクザ顔負けだ。手に籠める力も半端ない。必死にもがいているのに、麗良パパの腕を一ミリも動かせないのだ。
意識がどんどん遠のいていく。視界の端が暗くなり、音がこもって聞こえるようになった。
死ぬ。本当に死ぬ。
人生が走馬灯のように蘇った。家族の顔、友人たち。
ごめん、みんな。もうダメかもしれない。
意識の片隅で、三途の川が見えたような気がした。川の向こうから誰かが手招きしている。
だがまだ行きたくない。やるべきことがある。家族を守らないと、紫門を倒さなければならない。
麗良パパは、必死な抵抗をものともせず、さらに絞殺する力を強める。
「ごふっ!?」
も、もうだめ。
頑張って息を継いでいたが、限界が来たらしい。気管から変な音が出てきた。
まるで壊れた笛のような、ぜーぜーという音が喉から漏れる。
視界はぼやけ、意識がなくなる。落ちる……死んでしまう。
体から力が抜けていく。抵抗する力すら残っていない。
これで終わりか……。
失神する寸前、
「社長、そろそろ時間が……」
運転手が運転をしながら背後越しに話しかけてきた。
その声が、まるで天使の声のように聞こえた。
麗良パパは苦々しげに舌打ちすると、拘束した手を緩めていく。
瞬間、肺に空気が流れ込んだ。
けほっ、げほっ!!
激しく咳き込む。そして、大きく息を吸う。
空気がこんなに美味しいものだとは思わなかった。酸素が肺に入るたびに、生きている実感が蘇ってくる。
スゥーハァースゥハァー。
数十秒深呼吸を繰り返し、息を整える。
首が痛い。麗良パパの指の跡がくっきりと残っているのが分かる。
はぁ、はぁ、死ぬかと思った。まじで三途の川が見えた。
あと数秒遅かったら、本当に死んでいたかもしれない。
殺す気か! 殺す気か!
「今回は警告だ。すぐに娘の傍から離れろ」
麗良パパは何事もなかったかのように言った。
「い、いや、それだけですか?」
「それだけとは?」
「ひ、人を殺しかけておいて……」
声は嗄れていた。喉が潰れたような感覚だった。
「なんだ? 殺して欲しいのか? ならばもう一度、首を絞めてやろう」
麗良パパが再び手を伸ばす素振りを見せる。
「ひっ!?」
反射的に身を縮めた。首に手をやって、自分を守ろうとする。
麗良パパの淡々とした口調に血の気が引いた。思いっきりのけぞってしまう。
この人は本気だ。本当に殺すつもりだった。
クレイジーすぎる。あやうく死ぬところだった。
ここは逆らわず、麗良パパに話を合わせたほうがいいようだ。
「わ、わかりました。娘さんと学校で会っても話しかけたりしません」
「勘違いするな。今更貴様が麗良と同じ学校に通えると思っているのか?」
「そ、それってまさか……」
「ふん、貴様の想像通りだ。学校に退学届けを出しておく」
「そ、そんな勝手に」
退学? そんな権限がこの人にあるのか?
だが、草乃月財閥の力を考えれば、不可能ではないだろう。学校への寄付金や影響力を使えば、退学にすることなど造作もないかもしれない。
「もう一つある。貴様の父親はうちの系列会社に勤めているようだが、今日限りクビだ」
「なっ!? 父は関係ないでしょ」
父さんがクビ? そんな……。
心臓が激しく鼓動する。これは一人だけの問題じゃない。家族全体に関わる問題だ。
父さんは真面目に働いている。何も悪いことはしていない。それなのに、そのせいでクビになるなんて……。
「関係ある。貴様のようなクズを育てた。子の責任を親にも取ってもらおう。貴様たちは、即刻東京から出ていけ」
東京から出ていけ? そんな……。
家族は、この街で生まれ育った。友人も、思い出も、すべてここにある。それを捨てて出ていけというのか?
麗良パパの権力の前では、庶民なんて虫けら同然なのか。
「無茶苦茶だ」
「無茶じゃない。本来であれば、国外にでも追放したいところだがね」
国外追放? この人の権力は一体どこまで及んでいるんだ?
恐ろしい。まるで王様のような絶対的な権力を持っている。
「やめて下さい!」
必死に懇願した。家族を巻き込むわけにはいかない。
「なら知っていることを話せ」
「し、知りません。一体何を証拠に僕を疑っているんですか?」
「……まぁ、いいだろう。何分忙しい身でな。今日の尋問は、これくらいにしておいてやる。家に帰って、じっくり考えることだ。正しい身の振り方をな」
麗良パパが、恐ろしい形相ですごむ。
改めて思う。金も地位もある巨大な権力者に睨まれたら、庶民はおしまいだ。
法律も、正義も、この人の前では無力だ。
「ま、待って……」
「話は終わりだ。さっさと降りろ」
車が路上に停止し、後部座席のドアが開いた。
まずい。まずい。非常にまずい。
権力者に家族が狙われる……というかもう狙われた。父さんが会社をクビになってしまった。
どうしよう?
父さんが帰ってきて、クビになったことを知ったらどうなる?
母さんは? 真理香は?
みんなに心配をかけることになる。それも全部自分のせいだ。
いじめられたせいで、家族を巻き込んでしまった。
もっとうまくやっていれば、こんなことにはならなかった。もっと強ければ、家族を守れたのに。
どうしよう?
権力者に狙われていつまでも耐えられない。もっとえぐい拷問を受けたら隠していることを全部ゲロってしまう。
洗脳機械がバレたら最悪だ。政府に没収され、実験台にされるかもしれない。家族も監視下に置かれ、普通の生活なんて送れなくなる。
そして麗良パパからの報復はもっと恐ろしいものになるだろう。一族郎党根絶やしにされるかもしれない。
草乃月財閥の社長だ。いくつもの企業を傘下に収めていて、日本の経済をけん引している。一国の総理大臣よりも権力があるって噂だ。
政治家、警察、マスコミ、すべてに影響力を持っている。この人を敵に回したら、日本中どこに逃げても安全な場所はない。
紫門どころの話ではない。麗良パパは、最強で最悪の敵になりうる人物である。
でも、このままでは家族が不幸になる。何とかしなければならない。
こうなれば紫門への報復は後回しだ。
父さんがクビにされる前に決行する。
洗脳機械を使って、麗良パパを操る。そうすれば家族を守れる。
だが、そのためには麗良パパのDNAが必要だ。
機会は今しかない。
慎重に麗良パパを観察した。髪の毛が落ちていないか、触れる部分はないか。
麗良パパの肩口を見る。
右肩にはない。きれいに整えられたスーツには、ほこり一つ落ちていない。
じゃあ左肩は……ある!
麗良パパの左肩に、数本の髪の毛が落ちているのが見えた。銀髪交じりの黒い髪の毛だ。
よし!
これが最後のチャンスだ。失敗したら、もう二度と機会はないかもしれない。
心の中で覚悟を決めた。家族のため、そして自分のため。
麗良パパの肩を掴む。もちろん、毛髪が落ちている左肩だ。
指先に毛髪の感触が伝わる。やった、確実に手に入れた。
「き、聞いてください。本当に何も知らないんです。父さんがクビになるなんてあんまりだ」
必死に演技した。麗良パパに怪しまれないよう、自然に肩を掴んだ風を装う。
「くどい!」
麗良パパは、掴んだ手を乱暴に振り払った。
その瞬間、手の中に確かな感触があった。毛髪だ。
麗良パパはすぐさま拳で頬を殴ってきた。
ガツンという鈍い音とともに、頬に激痛が走る。
痛い。頬がじんじんする。金属の味が口の中に広がる。口の中を切ったらしい。
だが、心は歓喜に満たれていた。
手に入れた。
麗良パパの毛髪だ。無くさないように、しっかりと手の中で握りしめる。
細い髪の毛が手のひらの中にある。これさえあれば、洗脳機械が使える。
やった。これで形勢逆転だ。
その後、叩き出されるように車内から外へほうり出されてしまった。
体が宙に舞う。アスファルトの路面が迫ってくる。
ドスンという鈍い音とともに、地面に叩きつけられた。
したたかに腰を打つ。
痛みが全身に走る。膝も擦りむいたらしく、血が滲んでいる。服も汚れてしまった。
路上に転がる姿は、まさに惨めそのものだった。
通りがかりの人たちが見て、何事かとざわめいている。
高級車から放り出された高校生。きっと変な想像をされているだろう。
屈辱的だった。
今まで生きてきて、こんなに惨めな思いをしたことはない。
アイタタ……くそ、覚えてろ。
だが、心は折れていなかった。むしろ、希望に満ちあふれていた。
手の中にある毛髪を確認する。確かにある。麗良パパの髪の毛が、手の中にしっかりと握られている。
これで勝負は決まった。
庶民の力を見せてやるよ。反撃の狼煙を上げる。【洗脳機械】発動だ。