第二十三話「暴走族【闇夜叉】の受難(後編)」
「はぁ、はぁ、よ、よくも、まぁ、のこのこと俺様の前に現れたものだ」
銃をツイン女に向ける。
力が入らず、銃口が定まらない。殴られたダメージが予想以上に身体に残っている。
足がふらふらして気を抜くと倒れそうだ。頼りになる部下もいない。全員ぶちのめされて気絶している。
十中八九、ツイン女の仕業だろう。
本来であれば、撤退の一手だ。体力は完全でなく味方もいない。
だが!
歯を食いしばりツイン女を睨みつける。
こんなクソ餓鬼になめられるわけにはいかない。
俺は関東の覇者【闇夜叉】の頭だ。いずれは全国制覇を成し遂げ、裏社会を牛耳る王様になる。
女子供相手に逃げるなどプライドが許さない。
こんなもの劣勢でも何でもねぇ!
銃のトリガーに指をかけ、力の限り威圧する。
「殺されてぇか?」
「うふっ♪」
ツイン女は笑みを浮かべている。
荒くれ共を震え上がらせた俺の殺気がまったく通じない。
この女!
こっちは銃も持っているんだぞ。しかも、至近距離で銃口を向けている。
なのに、なぜそんなに平然としていられる?
俺が撃たないとでも思っているのか?
まさかただのモデルガンとでも思ってやがるのか?
舐めやがって!
ためらうことなく引き金を引く。
ズカンっと爆音が鳴る。鉄筋の床がべこりとへこみ、硝煙の香りが辺りを漂う。
どうだ?
俺は、やるときはやる男だ。
ツイン女を見るが、顔色一つ変えていない。
さっきの銃撃で、向けられている銃がただのモデルガンでないのは理解したはずだ。威嚇射撃とはいえ、俺の引き金が軽いこともわかったはず……。
なぜだ?
どんなに腕自慢で怖い物知らずな男でも銃には大抵ビビる。口では強がっても、怯えの色が目に浮かぶ。
ツイン女は顔色一つ変えず不動の姿勢だ。
……正気じゃねぇ。少なくともただの中坊ではない。
天下の【闇夜叉】を壊滅に追い込んだとはいえ、相手は中学生の女だ。体格も小柄でどこか舐めていた節があったのは認める。
こいつは普通じゃない。
今までぶちのめしてきた不良共とは格が違う。
警戒レベルを最大限に上げる。
まずは情報だ。ツイン女の目的を知る。
「……で、お嬢ちゃん、こんな場所までわざわざ俺に何の用だ?」
「聞きたい?」
「あぁ、ぜひ聞きたいね」
「簡単に言うなら、後始末よ」
ツイン女は拳を握ると、腰を低く落として大きく構えてきた。
「けっ、そうか。要するにもう一度俺と戦ろうって言うんだな!」
「えぇ、そうよ。あんたのような男の性分はわかっている。下種なあんたが、逆恨みして襲ってこないように身体で教えてあげるわ」
「はぁ? てめぇ、ふざけんのも――」
口上の途中、がんっと頭に衝撃が加えられ意識を失った。
☆★
ここは……。
うっすらと目を開ける。
埃が多く薄暗い。
鼻がひくつく。
すえた臭いがした。
目を凝らせば、地面に血痕がついている。
なるほど。ここは拠点の地下室のようだ。
よりによってここか。
この地下室では仲間内で薬をキメたり、敵メンバーをさらってリンチしたりするのに利用していた。
やましい部屋であり、警察に見つからないように入り口を隠していたが……。
ツイン女め、よく見つけたな。カンがいいのか、いや違うな。部下の誰かが口を割ったのだろう。
「起きた?」
状況把握に努めていると、不意にツイン女が声をかけてきた。
その顔には笑みが浮かんでいる。完全に俺を舐めているのがわかった。
「て、てめぇ! うっ!?」
動けない。
椅子に座らされ、拘束されているのに気づいた。
必死に身をよじるが、びくともしねぇ。
後ろ手にワイヤーのような紐状のもので固く縛られているようだ。
「俺をどうする気だ!」
「慌てないで。手前にバケツが見えるでしょ」
バケツだと!?
確かに目の前にバケツがある。さっきは拘束されていた驚きのほうが大きく気づかなかった。
大きなバケツの中は、なみなみと大量の水で満たされている。
何の目的でバケツなんかを?
嫌な予感がする。
早くこの場から逃げねぇと。
うぉおおおお!!!
血管がはち切れるほど力を入れるが、拘束してるワイヤーは少しもゆるまない。
「はぁ、はぁ、くそ。ほどけねぇ!」
「無駄よ。それは絶対に自力では解けない。それよりバケツを見てよ」
「あぁ? さっきからふざけた真似しやがって。バケツがなんだってんだ!」
「ふふ、なんだと思う?」
「知るか、ボケ。さっさとこれをほどきやがれぇ!」
「それはね……こうするのよぉ!」
髪を強引に掴まれ、バケツ一杯に入った水に顔を潜らされた。
口や鼻の穴に強制的に水が注ぎ込まれていく。
く、苦しい。
息ができない。
そして――喉の傷口に激痛が走った。
水が傷に染み込み、まるで塩を塗り込まれるような痛みが襲う。包帯の下の切り傷がひりひりと疼いた。
最初、城島は余裕があった。
水責めか? そんなもの、たかが知れてる。
城島は過去に何度も拷問を受けたことがある。電気ショック、殴打、火あぶり……様々な痛みを経験してきた。水なんて、痛くも痒くもない。
だが――数秒後、城島の考えは一変した。
これは想像していた水責めとは違った。単に顔を水に漬けられるだけだと思っていたが、強引に水を飲まされる。肺に水が入り込み、溺死の恐怖が襲ってくる。
城島は必死に抵抗しようとしたが、拘束されていて身動きが取れない。ただ苦痛に耐えるしかなかった。
肺が破裂しそうな苦しさ。意識が遠のいていく。
死ぬ。本当に死ぬ。
数十秒だろうか水中に潜らされ、窒息死寸前で引き上げられた。
「ぷっはぁああ! はぁ、はぁ、ごほっ、ごほっ! く、くそ、なにしやがる!」
激しい咳き込みとともに血痰が出る。喉の傷が開いたのか、包帯が赤く染まっていく。
息苦しさに耐え兼ね、大きく息を吐き出す。激しくむせ返った。
「バケツの意味……正解は、水責めよ。古典的だけど、経験上これが一番、調教に効くのよね」
経験上? 調教?
城島の背筋に悪寒が走った。この女は今まで何人もの人間にこれをやってきたのか?
しかも「調教」という言葉――これは人間を家畜のように扱う時に使う言葉だ。つまり、この女は城島を人間として見ていない。人間としての尊厳を一切認めていない。
城島は今まで数え切れないほどの屈辱を味わってきた。他のチームに負けて土下座させられたこともある。警察に逮捕され、留置場で惨めな思いをしたこともある。
だが、今回は全く違った。
過去の屈辱は、あくまで「人間同士の争い」だった。相手も城島を一人の人間として認識していた。だからこそ、屈辱を与えることに意味があった。
しかし、この女は違う。
城島を人間として見ていない。ただの「調教される動物」として扱っている。
これは屈辱ですらない。存在そのものの否定だった。
「調教だぁ!? なめやがって。完全にキレたぜ。てめぇは、ただじゃおかねぇ。必ず地獄を見せてやる。お前もお前の家族も全員道連れにしてやるからな!」
「そう、地獄を見せるの……それは懐かしいわね」
「冗談じゃねぇぞ、本気だ。俺をただのチンピラと思うなよ。俺は関東一円を傘下に収めた族の頭だ。気に食わない奴は誰であろうと潰した。やり過ぎてぶっ殺した野郎もいる。俺は悪の中の悪だ、わかったか! てめぇはそんな大悪党を怒らせたわけだ」
「悪の中の悪ね……まぁ、小悪党だろうと大悪党だろうと変わらない。私にとっては一緒よ。確実に屈服させてあげる」
ツイン女は俺の髪を掴み、バケツの水の中へ顔を潜らせる。
死にかけるまで水に漬けられ、引き上げて空気を吸わせると、またすぐに漬けられた。
毎回、水が喉の傷に染み込む。切り裂かれた傷口が水で洗われ、生傷を抉られるような痛みが続く。
顔の火傷痕も水でふやけ、かさぶたが剥がれそうになる。ただれた皮膚に水が触れるたび、電気が走るような激痛が走った。
水責めでは息を吸う代わりに水を飲んでしまう。その場合、腹を蹴られて水を吐かされもした。
蹴られる度に、全身の傷が悲鳴を上げる。特に火傷を負った顔面に響く衝撃は、脳天まで突き抜ける痛みだった。
苦しい。
水が減ったら補充されるので終わりがない。
何度も何度も繰り返す……。
水から引き上げられる度にツイン女を脅してみたが、変わらない。あの手この手趣向を変えて脅しても一緒だった。
ツイン女は平静そのもの。
だめだ。この女に脅迫をかけても無駄だと気づいた。
方針転換する。
次に水から引き上げられた時が勝負だ。
そして……。
「ぷっはぁ! はぁ、はぁ、お、俺が悪かった。お前を見くびってた。好きなだけ金をやる。お友達にも手を出さない。だ、だからもうやめてくれ!」
下手に出てみた。
どうだ?
ツイン女は、じっとこちらを見ている。
水責めを一旦中断しているところを見ると、俺の態度の変化を見て話を聞く気になっているようだ。
よし、ここだ!
頭を下げるべきときは躊躇せずに下げる。意地を張りタイミングを間違えば、死に繋がる。
こちとら何度も修羅場を潜ってきたのだ。
後ろ手に縛られて身動きできない。外部とも連絡が取れない。この状況はあまりに不利。不利な状況で戦うのはバカがやることだ。なだめすかして、この場を乗り切ったら百倍返ししてやればいい。
「へ、へっへ、俺が悪かったよ」
「そう、悪かったの」
「そうだ。反省している。もう二度とお前たちにかかわらない」
「私ね、相手の心がわかるんだよ」
「はぁ? へっ、ならわかるだろう? これで終わりに――」
「あなたの場合、まだまだってところね!」
「ぐはっ!」
頭を強引にバケツの水の中に潜らされた。
水責めの再開。
くそ、頭を下げても変わらねぇ。何度も何度も水の中へ顔を潜らされる。
苦しい。
窒息しそうだ。
引き上げられる度に懸命に息を継ぐ。
はぁ、はぁ、はぁ、水責めがこんなに苦しいとは思わなかった。
「げはっ、ごぼっ、うぇ……もうやめてくれ」
血の混じった水を吐き出す。喉の傷が完全に開いているのが分かった。話すだけでも激痛が走る。
「まだよ、まだまだ牙を隠している」
ちっ、この場だけの言葉だと見透かされている。
城島は首の包帯が血で真っ赤に染まっているのを感じていた。このままでは出血多量で本当に死ぬかもしれない。
だが、不思議なことに、アリッサは絶妙に加減していた。城島を死なせない程度に、しかし最大限の苦痛を与える。その調整能力は、まるで医者のように精密だった。
「なんだよ、牙なんてねぇよ。かんべんしてくれよ」
「牙が抜けるまでやめない」
「……か、勝手にしろ」
この女、半端なさすぎる。容赦ねぇ。
本心は違うとはいえ、族の頭がプライドを捨てて弱音を吐いているというのに。
少しは動揺してもいいだろう。本当にこいつは中学生なのか?
俺は、てめぇの親の仇じゃないんだぞ。
怒りを持続させるのにもパワーが必要だ。
ツイン女にとって、どれだけ大事な友人だったか知らないが、未遂だったじゃないか!
殺したわけでもないのに、ここまで冷徹に追い込める者はそうはいない。
苦しい、もう勘弁しろ。
本当になんなんだよ、この女!
完全にイカレてやがる。
薬物中毒者、ホストを刺したメンヘラ女……イカレた奴は何人も知っているが、こいつは特にやばい。
どうすればいいんだ?
今も容赦なく水責めを繰り返すツイン女の顔をじっと見る。
はぁ、はぁ、はぁ、いや、待て。
違う、違った。
ツイン女がこれまでかかわったイカれた奴らとは決定的に違うのがわかる。
眼だ。
いわゆる眼力というやつである。これは案外バカにできないものだ。
相手の力量を図るときに都合がいい。
こいつの眼、どこかで……どこかで見たことがある。
どこだ? どこで見た?
そうだ!
ヨハネスブルグだ。
数年前――城島の脳裏に、封印していた記憶が蘇る。
あれは三年前の夏だった。小金沢グループのパイプで、南アフリカでの麻薬取引に参加したのだ。日本国内の小さな取引に飽き足らなくなった城島は、「世界に打って出る」つもりで乗り込んだ。
だが、現実は甘くなかった。
ヨハネスブルグの薄汚いホテルで待っていたのは、三人の黒人男性だった。全員が痩せ細っていて、一見すると貧しい現地人に見える。だが――その眼だけが違った。
生まれた時から死と隣り合わせで生きてきた者だけが持つ、冷たい眼。人の命を虫けらのように扱うことに何の躊躇もない、純粋な殺意の眼。
城島は直感した。こいつらは本物だ、と。
「ミスター・ジョージマ」
リーダー格の男が片言の英語で話しかけてきた。城島の偽名だった。
取引は順調に進むはずだった。城島が持参した現金と引き換えに、純度の高いヘロインを受け取る。簡単な話のはずだった。
だが、城島は調子に乗った。
「もう少し安くならないか?」
値切ったのだ。日本での成功体験から、「交渉すれば何とかなる」と思い込んでいた。
瞬間、空気が凍りついた。
リーダーの男がゆっくりと腰から拳銃を抜いた。銃口を城島の額に押し当てる。
「価格に不満があるなら、取引は終わりだ」
男の声は恐ろしく平坦だった。感情の起伏が一切ない。まるで天気の話をするような調子で、城島の命を脅している。
城島は理解した。この男にとって、城島を殺すことは道端の石ころを蹴るのと同じなのだ。何の感情も湧かない、日常的な行為に過ぎない。
「い、いや、価格は問題ない。提示された金額で」
城島は慌てて土下座した。プライドも何もなかった。ただ生きたい一心で頭を下げた。
だが男は銃を下ろさない。
「日本人は皆こうなのか? 約束を軽々しく破る」
「申し訳ない。二度とない。約束は絶対に守る」
城島は必死に謝罪を続けた。額に銃口が押し当てられている間、時間が永遠に感じられた。
男はやっと銃を下ろしたが、最後にこう言った。
「次に会うことがあれば、その時は殺す」
城島は震え上がった。この男は本気だった。社交辞令でも脅しでもない。純粋な事実として、城島を殺すつもりだった。
取引は無事に終わったが、城島は二度とヨハネスブルグに行かなかった。いや、行けなかった。あの男たちの眼を思い出すだけで、全身に冷や汗が流れた。
だから日本に逃げ帰ったのだ。戦争も紛争もない、命のやり取りが日常でない、平和な日本に。
そして今――目の前のツイン女が、あの時と全く同じ眼をしている。
人を殺すことに何の躊躇もない、純粋な殺意の眼を。
なぜだ?
なぜこんな平和ボケした日本で、こいつは奴らのような眼ができるんだ?
「い、いつまで続けるんだ」
「あなたの心が折れるまで続ける」
「こ、これ以上は……死んじまう」
「そう、死んだらやめてあげる」
「そ、そんな理不尽な……」
「ふふ、冗談よ。安心して。死なせはしない。死ぬぎりぎり一歩手前で攻めてるから」
「ぎりぎりって……死ぬ」
「大丈夫、人はそう簡単に死なない。昔からその辺の見極めには自信があるのよ」
昔っていつの時代の話だよ。
幼稚園か小学生の時か? ふざけるなよ、まじでつらいんだ。
「勘弁してくれ。あんたがボスだ。絶対に逆らわない。本当だ」
戦意は無くなっていた。
ボスにするというのは嘘だが、この女に逆らわないというのは事実だ。
こいつにはかかわらない。こいつはヨハネスマフィアと同等の化け物だ。
もう俺の負けでいい。
敗北を実感している。二度とかかわらない。
なのに……。
「うげぇ、げふっ、げ、げぇ……お、お願い……もう……あんたには逆らわない。本当だ」
「それはこちらで判断する。さぁ、続きよ」
容赦なく水責めは続く。
「はぁ、はぁ、ゲ、げぇぷ……もう夜が明けてるんじゃないか……この辺で」
「ふふ、脆弱ね。まだ一日も経ってないわ。大丈夫、時間は空けてある。二日でも三日でも一週間でもあなたの調教が終わるまでとことんつきあってあげるわ」
「あ、あ、あ、死ぬ、死んじまうよ。ま、待ってくれ。俺が死んだら、警察沙汰になる。報復で大勢の族に、ね、狙われる。脅しじゃない、事実を言っているんだ。あ、あんただって生活があるだろう? はぁ、はぁ、困るよな? 頼む。許してくれ」
「安心して。何度も言うけど、殺さない。それに仮にあなたが死んだとしても全然困らないわ」
「う、嘘だ。今までのような平穏な暮らしはできない。地獄のような生活に変わるぞ」
「ふふ、嘘じゃないわ。警察? 族の報復? 私にとっては生ぬるい地獄ね。こんな些事、昼下がりの紅茶ブレイクと変わらない。脆弱なあなたには本当の地獄がどんなところなのか見せてあげたいわ」
マジだ。
この女は真実を言っている。
族に喧嘩を売ろうが、銃で狙われようが、変わらない。本当の命のやり取りを知っている女だ。
あ、あ、あ、本当の極悪マフィアがここにいる。
その時、ヨハネスブルグの記憶がフラッシュバックされた。この女とヨハネスマフィアの顔がダブって見える。
「さぁ、続きよ」
「ひぃ!? もうやめてくれぇえええええええええええええ! 俺が悪かった。頼む、許してくれ。勘弁してくれぇよぉおお!!」
城島の声は完全に嗄れていた。喉の傷のせいで、声帯が正常に機能しない。それでも必死に声を絞り出す。
顔の火傷痕からも血が滲んでいた。水責めの衝撃で、やっと治りかけていた傷が再び開いたのだ。
全身が痛みで麻痺状態だった。だが、その痛みすらも、今や心の恐怖の前では些細なものに思えた。
この瞬間、城島の中で何かが完全に折れた。
それは音を立てて崩壊した。まるで巨大なビルが倒壊するような、轟音とともに。
城島が今まで築き上げてきたすべてが粉々になった。
「関東の覇者」「恐れられる暴走族のボス」「誰にも屈しない男」――そんな自分像がすべて幻想だったことを理解した。
本当の自分は、ただの弱い人間だった。
死の恐怖を前にすれば、プライドなど紙くずのように破り捨ててしまう、情けない男だった。
だが、不思議なことに、その瞬間から楽になった。
今まで背負っていた重いものがすべて消えた。「強くあらねばならない」「誰にも負けてはならない」という呪縛から解放された。
城島は初めて理解した。
本当に強い人間とは、この女のことを指すのだ。
他人を完全に支配し、その心を思うままに操ることができる。それが真の強さなのだ。
城島は今まで「強いつもり」でいただけだった。本物の強さを知らずに、偽物の強さに酔いしれていただけだった。
そして今、本物の強さを前にして、城島は心から屈服した。
これは屈辱ではなかった。むしろ、救済だった。
城島は今まで背伸びをして生きてきた。自分の器以上の存在になろうと必死にもがいていた。
だが、この女の前では、そんな見栄を張る必要がない。
ありのままの弱い自分でいればいい。この女が導いてくれるから。
城島は涙を流しながら、心の底から安堵した。
もう戦わなくていいのだ。この人についていけばいいのだ。
心から屈服した瞬間であった。
恐ろしい。この人と比べたら、小金沢グループの跡取りなど小悪党に過ぎない。紫門がどれだけ悪事を働こうが、子供のお遊びに見える。
この人に逆らったら殺される。いや、殺されるだけで済むなら御の字だ。この人に逆らえば、文字通り本当の地獄を見ることになる。
確信する。そう納得させられるだけの凄みをこの人から感じた。
「助けて、助けて」
男のプライドなどとうに砕け散っている。
恥もへったくれもない。幼子のように懇願し、泣きわめいていた。
「……まだよ。さぁ、始めるわ」
「あぁ、そ、そんな、助けて、神様」
普段祈らない神に祈った。
助けて、死にたくない。
もう悪いことはしない。真っ当な人間になる。だから助けてくれ。
必死に祈った。
死ぬ、死にそうなのに死ねない。
この人の言った通り、体力の限界ぎりぎりを攻めてくる。
なまじっか体力がある己が恨めしい。
いつまでこの拷問は続くんだ?
あぁ、ここが本当の地獄だ。
……
…………
……………………
あれからどれくらい時間が過ぎたのだろうか?
苦しい。
それは当然、まだ水責めが続いているから。
だが、苦しさが一定のラインを超えたところである種の達観に陥った。
この人は、なんでここまでできるのか……。
水責めされている間、この人のことを考えていた。
なんの揺らぎもなく淡々と拷問している。拷問されるほうはもちろんだが、拷問する側にだって負担はある。それをこの人は、微塵も感じさせない。
すごい。
なんて美しい。
もちろん容姿も美しい。アイドル級に整っている。だが、それより気になっているのは、この人のハートの強さだ。
どこまでもタフだ。
瞳の奥にしっかりとした芯が入っている。
巷では、悪のカリスマが主人公の映画が流行っているらしい。
今ならわかる。
いつのまにか魅せられていた。
ここまで度胸も腕っぷしもある女性がこの世にいたんだ。
俺より頭もいい奴もいれば、腕っぷしも強い奴もいる。小金沢のように巨大なバックがついている奴もいるだろう。
だが、それはそいつの武器ではあっても絶対じゃない。勝利するためには、絶対的なことがある。ハートが強くないといけない。正直、度胸だけは誰よりも負けない自信があった。
でも、この人には負けた。
完敗、大完敗だ。
俺は死ぬだろう。でも、死ぬ前にこの人の名前が知りたい。
「あ、あ、あ」
「なに?」
「こ、このまま死んでもいい。ただ、一つだけ、一つだけ、はぁ、はぁ、一つだけ」
「続けて」
「おね、がいがある。あ、あんたの名前を教えて欲しい」
「……」
「頼む」
「アリッサ」
「そうか…いい名だ」
名前を聞けて満足した。
俺に敗北の文字を叩きつけたのは、「アリッサ」という少女だ。
そのまま意識を失った。
★☆
翌朝……。
ベッドで目を覚ます。
全身が痛む。特に喉と顔の傷が激しく疼いていた。だが、不思議と昨夜のような耐え難い苦痛ではない。
きちんと治療されているのが分かった。包帯も新しいものに交換されている。傷口も適切に手当てされており、出血は止まっていた。
アリッサ様は拷問の専門家であると同時に、治療の専門家でもあるのか。城島を殺さず、しかし最大限の苦痛を与える。そして事後のケアも完璧に行う。
この技術の高さに、城島はさらなる畏敬の念を抱いた。
拘束はされていない。
目の前には、アリッサ様がいた。
城島は不思議な感覚に包まれていた。
昨日までの自分がまるで別人のように感じられる。あの傲慢で愚かな男は、もう存在しない。
昨日まで城島は、常にイライラしていた。他人を支配し、恐怖で従わせることでしか自分の価値を感じられなかった。
だが、今は違う。
心の奥底から、平安が満ちている。
もう他人を支配する必要はない。アリッサ様が導いてくれるから。もう自分の価値を証明する必要もない。アリッサ様が認めてくれるから。
城島は初めて理解した。今まで求めていたものは、これだったのだ。
本当に尊敬できる存在に出会い、その人に従うこと。それこそが城島の求めていた生き方だった。
「……殺さなくていいんですか?」
自然と敬語で話してしまった。もう城島には、アリッサ様に対等な口を利くなど考えられなかった。
アリッサ様のカリスマに魅了される。体力が消耗してさえいなければ、ベッドからすぐさま飛び起き、その場にひざまずいていただろう。
「牙を抜いたから」
その言葉に、城島は深く頷いた。
そうだ。昨日まで城島が持っていた「牙」は、すべて偽物だった。他人を傷つけ、自分を偉く見せるためだけの、虚栄の牙だった。
アリッサ様は、その偽の牙をすべて取り除いてくれた。そして、城島に本当の生き方を教えてくれた。
「そうですか」
「この後、食事でもどうですか? 部下に豪勢な料理を用意させますよ」
「いい、帰るわ」
「ま、待ってください。じゃあ、これを」
懐から携帯を取り出し、番号を伝える。
「いつでも連絡してください」
「ふふ、そう」
「へっへ、これからはあなたがボスです」
城島は心からそう言った。これは単なるお世辞ではない。魂の奥底からの真実だった。
関東を制覇したなど、お山の大将に過ぎなかった。本当の王者は、この方だ。
城島は体力が回復したら、すぐにでもアリッサ様の前にひざまずきたかった。この方こそが、自分の主君なのだから。
「近いうちに召集する。あなたはチームをまとめて待機してなさい」
アリッサ様はそう告げると、そのまま出て行かれた。
ついていく。
城島は生まれ変わった。
昨日まで城島だった男は死に、今日からはアリッサ様に仕える新しい人間として生きるのだ。
【闇夜叉】もまた、生まれ変わる。
今日から【闇夜叉】は、アリッサ様の組織だ。城島の組織ではない。
城島は深い満足感に包まれていた。
やっと見つけた。本当に仕えるべき主君を。
これからの人生は、この方のために捧げよう。
城島は心に誓った。
アリッサ様は、天下を取る。その一助となれるのならば、悔いはない。