第二十話「暗殺者アリッサ・ビーデルの葛藤(後編)」
加奈の顔は、憎しみで歪んでいる。
……まるで般若のようだ。
長年に渡り、いじめられてきたのだ。それも実の姉からである。その蓄積してきた憎しみは、筆舌にし難いものであろう。
私の血を見るまで治まりそうにないな。
予想を裏付けるかのように、先ほどから凄まじい殺気をもらい続けている。
まずい。
ヴュルテンゲルツ流暗殺術の一つに【虎欧】というカウンター技がある。
相手の殺気に反応し、攻撃を返す。
殺気が高ければ高いほど、この技は切れ味を増していく。
加奈の殺気は、【虎欧】を発動するのに十分すぎる量だ。加奈がナイフを振り回す度に、身体の奥底から何かが蠢き始める。
血管を駆け抜ける熱い何か。筋肉が勝手に緊張し、指先がピクピクと痙攣する。
これは——前世の戦闘本能が覚醒しようとしている証拠だった。
今は右に左に避けているだけだが、そのうち加奈を攻撃してしまいそうで怖い。
「死ねぇ!」
加奈がナイフを右上から左下に切りつけてくる。
その瞬間、脳裏に鮮烈なビジョンが浮かんだ。
相手の腕を掴み極め折る、そのまま喉にナイフを突き刺す——
血が飛び散る。加奈の目が見開かれ、驚愕の表情を浮かべたまま崩れ落ちる。
違う!
別のビジョンが脳内で展開される。
手刀でナイフを弾き、相手の胸に突き刺す——
心臓を一撃で貫く。加奈の身体がガクンと力を失い、血の海に沈む。
違う!
これもだめ、あれもだめだ。
全ての予測が加奈を攻撃し、加奈が殺されるルートしかない。
身体が、魂が、前世の殺人技術を求めている。
でも相手は——
相手は私の大切な妹なのだ!
あぁ、なまっている。すごくなまっている。
相手は、たかが中学生の女の子だぞ。
前世アリッサは、王都最強の暗殺者であった。百戦錬磨の戦士相手でも手玉に取れたのに。
日本で覚醒したアリッサは、とても前世のアリッサに及ばない。
いや、何を弱気になっている!
これからジャスミン様をお救いするため、荒くれ共相手に戦闘するのだぞ。
か弱き女の子相手ぐらい無傷で無力化できなくてどうするのだ?
さぁ、集中しろ。もっとだ。もっとイメージしろ。前世のアリッサを思い出せ!
……
…………
………………
だめだ。ビジョンが全て加奈を殺しにきている。
脳内で再生される映像は、どれも血まみれの結末しか映し出さない。
手加減ができない。それだけ今のアリッサの身体能力が低下している証拠だ。
前世なら、敵を気絶させるだけの技も数多く持っていた。でも今の身体では、その精密なコントロールができない。
不完全な技は、相手を殺してしまう。
とにかく反撃はできない。
ビジョンに惑わされずにナイフを避ける。
ナイフの刃が空を切った。
「ちっ、避けてんじゃねぇ!」
加奈は怒声を放ち、続けざまにナイフを振るう。
反撃のビジョンが制限をかけるため、動きがぎこちなくなる。
身体が攻撃を欲しているのに、それを押し殺すのは想像以上に辛い。
まるで自分自身と戦っているような感覚だった。
二、三度と振るわれた刃の先が、頬をかすめた。
やば……。
思わず頬をさする。
……血は出ていない。ギリギリ避けられたようだ。
ほっと息を吐く。
ふっ、顔を気にするなんて、まるで昔の愛里彩みたいね。
集中、集中……このまま避け続けながら、打開策を考える。
「くそ、くそ、くそぉお!」
何度も避けられ続けて、イライラが頂点に達したらしい。
「うぅうあああ、死にやがれ!」
加奈が雄叫びを上げてナイフを振り下ろしてきた。今まで以上に力がこもっている。まともに刺されば、内臓に達するのに充分であろう。
容赦のない攻撃に私の中のアリッサが激しく反応した。
全身に電流が走ったような感覚。血液が一気に沸騰し、視界が赤く染まる。
これは——【虎欧】が発動する寸前の感覚だった。
身体が勝手に動き出そうとする。左に半身で躱しながら、加奈の背後に回る。そして、その頸動脈を——
指先に力が入る。致命的な一撃を放とうとする筋肉の動き。
「殺せ」という本能の声が脳内で響く。
でも——だめだ!
これは加奈だ。私の妹だ!
必死に身体の制御を取り戻そうとする。前世の殺人本能と現在の理性が激しく衝突する。
頭の中で二つの声がぶつかり合う。
「敵を殺せ」
「妹を守れ」
どちらも私の声だった。どちらも間違いなく私の意志だった。
慌てて出した手を引っ込める。
危なかった。あと一歩で、取り返しのつかないことをするところだった。
「はぁ、はぁ、はぁ、小器用に避けやがって!」
「加奈、もうやめて」
「うるさい」
「話を聞いて」
「だまれ! だまれ! くそ、当たれ、当たれ、当たりやがれ!」
加奈がナイフをぶんぶんと振りまわす。
疲れたのか、その動きは急速ににぶってきた。
これなら……。
タイミングを計って、加奈の懐に入る。そして、ナイフを振り回す加奈の腕を掴んだ。
「はぁ、はぁ、ちくしょう。放せ!」
「落ち着いて」
「嫌だ。放せ、放せ、放しやがれ!」
「お願いだから」
「はぁ、はぁ、放せ、はな……わかった。やめたげる」
急に加奈が暴れるのをやめたので、腕を放す。
「落ち着いた? 今までごめんね。後で話し合いま——くっ!?」
眼前にナイフが迫ってくる。
「ばぁかぁあ、死ねぇよぉお!」
加奈が薄笑いを浮かべ、ナイフを投擲したのだ。
この軌道は!?
人間の急所である眉間だ。
命の危機に私の中のアリッサがまたも反応する。
今度は完全に制御不能だった。身体が勝手に動く。
ヴュルテンゲルツ流暗殺術【虎欧】擲閃の技が発動した。敵が投擲してきたものを蹴り飛ばし、相手にぶつける。
足が宙を舞い、迫ってきたナイフの柄部分をピンポイントで蹴り、弾き飛ばした。
完璧な軌道修正。ナイフが向きを変えて逆進する。
やってしまった!
一瞬で血の気が引く。
脳裏に浮かぶのは加奈の死に顔だった。眉間にナイフが突き刺さり、絶命する妹の姿。
殺してしまう——間に合えぇえ!
強引に蹴りの角度を曲げ、弾き飛ばしたナイフの軌道を変える。
筋肉が悲鳴を上げる。無理な体勢からの軌道修正は、関節に激痛を走らせた。
でも、妹を殺すくらいなら——!
必死の業が効いたらしい。
ナイフは加奈の頭上を通過し、壁に突き刺さった。
「はぁああ? なんだ、それぇ! 至近距離だぞ」
加奈が目を丸くして驚いている。
「ごめんね。怖かったでしょ。本当はもっと上に軌道を逸らしたかったんだけど——」
「うるさい。それより答えろ。今のはなんだ?」
「……話せば長くなる。今は急いでいるから」
加奈の頭を優しくなでなでして、階段に向かう。
「あ、待て」
「話は後で。それと、このナイフはもらってくね」
壁に突き刺さったナイフを引き抜き、カバンの中に入れる。
背後から加奈の呼ぶ声が聞こえるが、無視をする。悪いと思うが、事は緊急を要するのだ。
玄関を出ると、ダッシュで駅に向かう。
ショウ様の住所は、シモンから入手し把握済だ。
電車とバスを使い、目的の町へ移動する。
移動中、私は手持ちの材料で火炎瓶を作っていた。
ペットボトルに入れた消毒用アルコール、ティッシュを丸めた簡易的な芯、そして使い捨てライター。
本格的な火炎瓶ではないが、相手を怯ませるには十分だろう。
バスの座席で、周囲に気づかれないよう慎重に組み立てる。
「こんなものを作るなんて」と思いながらも、ジャスミン様を救うためなら手段を選んでいられない。
大分薄暗くなってきた。
早く見つけないと。
確かこの辺りのはず……。
しばらくショウ様の自宅近辺をうろついていると、
「返してくださいッ!」
女性の叫び声が聞こえた。
この声は!
声がした方向へ一目散に向かう。
「へっへ、これは俺が預かっておく」
「ひどい。携帯を返して!」
「嫌だよ~お嬢ちゃんが警察に連絡しようとするからお仕置きだ」
「何言っているのよ! あなた達が変な事をしようとしてくるからじゃない!」
「変な事ってなにかな? 具体的に教えてくれよ。手取り足取りさ」
男がいやらしい笑みを浮かべ、少女ににじり寄っていく。
ジャスミン様!
久しぶりに見た。
変わらない。
前世の頃と同じ愛らしい顔だ。
ジャスミン・ホワイスト……。
ショウ様の妹であり、ホワイスト家を影から支えていた。目立った武功はなかったが、優しく細やかな気遣いができる人であった。事実、ジャスミン様は、多くの領民に慕われていた。
現世の名は、白石真理香だったな。
部活帰りなのだろう、ジャスミン様は矢筒を背負っている。
ジャスミン様は、弓道部なのか。前世、ジャスミン様は、弓がお得意であったからな。賊の一人や二人に後れを取ることもなく、普通に射殺していた。
まぁ、でも記憶がお戻りになっていない今のジャスミン様では、十分に弓を活用できまい。
私がお救いしなければならない。
どうする?
相手は、大の男八人だ。
戦う? それとも警察に通報するか?
「いや、離してッ!」
ジャスミン様は、男達が用意した車に連れ込まれそうになっている。
選択の余地はなくなった。
警察に任せてたら間に合わない。
全速力で走る。
狙うは、ジャスミン様の手を掴んでいる男だ。
ヴュルテンゲルツ流暗殺術【虎欧】蹴撃!!
勢いをつけたまま、男の背中に蹴りを入れる。つま先に十分に体重を乗せた一撃だ。
男は、無防備の背中に蹴りを入れられ、無様に倒れこんだ。
そのすきにジャスミン様に近づき背に庇う。もちろん奪われたジャスミン様の携帯も回収する。
男達は、突然現れた乱入者に一瞬慌てたが、襲撃者が女だとわかると余裕を取り戻す。
そして再びニヤニヤと笑みを浮かべ、私達を取り囲んできた。
「てめぇ、いきなり何してくれるんじゃあ!!」
パンチパーマの男が居丈高に叫ぶ。
「お前、この女の友達か? 助けに来たってか? 命知らずねぇ」
背の低いネズミ面の男が、ナイフをちらつかせながら脅す。
「おいおいお前ら待て待て。よく見たらすげーいい女じゃないか!」
「そうだぜ。へっへ、ここはお友達も一緒に楽しんでもらおうぜ」
残りの男達が下卑た笑い声を上げていた。
そんな男共に向かって、笑みを浮かべる。
そして……。
カバンから取り出したお手製の火炎瓶を奴らに投げつけた。
投擲の瞬間、心の中で軌道を計算する。最も効果的な着弾点を見極める。
ガラス瓶が宙を舞い、男たちの足元で粉々に砕け散る。
「「へっ!?」」
男達の間抜けな声が響き、ボォオッと火が燃え上がった。アルコールが一気に気化し、青白い炎が男たちの足元を這う。
想像以上の効果だった。炎は瞬く間に広がり、男たちの服に燃え移る。
「熱い! あちぃ!」
「うわああああ! 燃えてる、燃えてる!」
「水! 水はどこだ!」
男達が必死に叫ぶ。
慌てふためいて地面を転がり回る者、服を脱ごうとして更にパニックになる者。
火の手が思ったより勢いよく上がり、男たちの髪の毛まで焦げ始めた。顔に火傷を負った男が、顔を押さえて悲鳴を上げている。
男達は、服に飛び火しパニックになっている。
ふぅ、まずまずかな。
ここに来るまでのバスと電車の乗車時間で作ったにしては、よくできたほうだ。
でも、思ったより威力があったな。あの男の火傷、結構ひどそうだ。
まあ、ジャスミン様を襲おうとした報いだ。自業自得というものだろう。
このスキだ。
「走りますよ!」
「きゃあ! えっ!? 何? 何?」
「説明は後、早く!」
「は、はい!」
ジャスミン様の手を取り、ひた走る。背後では男達の阿鼻叫喚が続いている。
「救急車!」「病院!」という声が聞こえる。
さすがに少し心が痛んだが、振り返らずに走り続ける。
男達は私達が逃げたのに気づくと、慌てて追いかけ始めた。
背後から男達の声が聞こえてくる。
「おい、いつまで痛がってんだ? ほらさっさと立ち上がって追いかけるぜ」
「き、救急車、よ、呼んでく……れ」
「おい、お前本当に何しやがったんだ?」
背中に蹴りを入れられた男は、起き上がれていない。当然だ。脊髄に衝撃を加えている。立ち上がるのはしばらく無理だろう。
「くそ、髪がチリチリだ。顔がいてぇ!」
「ふざけた真似をしやがって、あの女ぁあ!」
「ぶっ殺してやる。捕まえてひん剥いてやろうぜ!」
だが、火傷を負った男たちの追跡は鈍い。
痛みで満足に走れないのだろう、私たちとの距離はどんどん開いていく。
……
はぁ、はぁ、はぁ、まいたか?
慌てて逃げ込んだ茂みの奥で、呼吸を整える。
ほんの数十分走っただけで息が上がった。
こんなに体力がないのは、スラム時代の幼少期までさかのぼるわね。
ジャスミン様も肩で息をしている。
「大丈夫でしたか?」
「はぁ、はぁ、あ、ありがとうございます。変な人達に絡まれて怖かったです」
よほど恐怖だったのだろう、ジャスミン様は両手で肩を抱き震えていた。
かわいそうに……。
ジャスミン様を抱きしめ、胸の中にうずめさせた。
「あ、あの!」
突然抱きしめられびっくりしたのか、ジャスミン様が声を上げる。
「嫌ですか?」
「い、嫌じゃないですけど……恥ずかしい」
「嫌でないのでしたら、少し、こうしてます」
私がスラム出身で辛い目にあった時、ジャスミン様にされたことだ。少しでも前世の恩返しがしたい。
しばらく抱きしめていると、ジャスミン様が肩を震わせる。そして、大きな声で泣き出した。
「ふぇん、ふえん、怖かった。怖かったよぉおお!」
ジャスミン様が私の胸の中で嗚咽している。せき止めていたものがあふれ出したのだろう、大粒の涙を流し続けていた。
少しでも安心させたい。
優しく頭をなでながら、ジャスミン様が落ち着くのを待つ。
しばらくして落ち着かれたのか、ジャスミン様がぽつぽつとこれまでの経緯や自己紹介を始めた。
「それなのにお兄ちゃんったらひどいんですよ。『どんくさいお前にできるのか?』とか言ってくるから弓道部に入ったんですよ」
「そうだったのですか」
ジャスミン様は、すっかり落ち着きを取り戻した。
取り戻しすぎかな?
お互いの自己紹介から始まり、趣味、好きなアイドル、休日の過ごし方等、どどうの如く話が止まらないのだ。
そうだった。前世のジャスミン様もこんな感じだった。大人しく慎ましやかではあるが、身内や親しい者には、天真爛漫にぐいぐい迫ってくるのだ。
「あ~それと愛里彩さん」
「はい、なんでしょう?」
「もう私達は、友達ですよね?」
「は、はい、僭越ながら」
「もう~固いなぁ~愛里彩さんは年上で、初対面でもなく友達なんですよ。敬語はもうそろそろいいじゃないんですか?」
本来であれば、不敬にあたる。だが、ジャスミン様は、前世の記憶が戻っていない。従者と主君の関係を説いても意味を成さないだろう。それにこの提案を蹴って不仲になれば、今後の護衛にも支障をきたすかもしれない。
ジャスミン様、ご無礼をお許しください。
心の中で謝り、口調を同年代のそれに戻す。
「そうね、それじゃあ敬語はやめるわ」
「そう、そう、そうしましょう。それとさ、ずっと気になってたんだけど、愛里彩さんって【LUSH】のボーカルのARISAさんですよね?」
「……うん、まぁ、そうだね」
【LUSH】は、愛里彩の悪行を思い出してしまう。あまり触れられたくはないが、嘘は言えない。
「きゃあ! すごいすごい! 私すごい人と知り合えたんだ。あのね、それじゃあ今度——」
「ごめん、真理香ちゃん静かにして」
「ど、どうしたんですか?」
「あ~まずいね。見つかったみたい」
男達がこちらを指さしながら走ってくる。
私達の逃げた痕跡を執念で探し当てたのか、確実にこちらに向かってきていた。
「愛里彩さん、ど、どうしましょう?」
ジャスミン様が不安そうにこちらを見ている。
これでは護衛失格だな。王都最強の暗殺者と言われたアリッサ・ビーデルとあろうものが情けない。
襲撃された時の基本を思い出せ。
味方が劣勢なら有利な地形におびき寄せる。
まずは周囲を見渡す。
茂みを抜けだせば、だだっ広い空間だ。
これでは多対一に向かない。
他にないのか?
こういう時は、地元民に聞くのが手っ取り早い。
「真理香ちゃん、この辺に狭い路地みたいな場所ってある?」
「えっ? 狭い路地ですか?」
「うん、人が一人しか通れないみたいな」
ジャスミン様は顎に手を当てしばし考え込み、思い出したようだ。
「それなら大京橋がありますよ。工事中で積載物がいっぱい置いてて、一人しか通れません」
「すぐに案内して」
私達が移動すると、男達に見つかった。
怒声を上げて追いかけてくる。
大京橋に着くと、橋の影に隠れて男達を待つ。
「そ、それでどうするんですか?」
「真理香ちゃん、手鏡持ってる?」
「はい、持ってますけど……」
「じゃあ、それで奴らが十歩以内に来たら教えて?」
「えっ!? え、十歩?」
要領を得ていないジャスミン様に詳しく指示を出して、その時を待つ。
この橋は確かに狭く一人ずつしか入れない。
カバンの中に入れていたあるものを握った。刃は出している。
さぁ、準備は整った。
敵は殺す。
それから男達が大京橋に到着し、一人ずつ入ってきた。
「じ、十歩!」
ジャスミン様が鏡越しに男が現れたのを確認し、声を出す。
その瞬間、カバンに入れていたカッターを投擲する。
「ぐあぁぁぁっ!」
カッターの刃が男の喉に刺さり、倒れる。倒れた男を乗り越えて別な男が現れた。
「じ、十歩!」
ジャスミン様がすかさず声を出す、同じようにカッターを投擲する。
「ぐああっ!」
先ほどと同様に、悲鳴とともに男が倒れこんだ。
ジャスミン様の合図のもと、続けざまに連続で投げ続ける。
辺りは薄暗い。私達が何をやっているのかわからないのだろう、次々と男達が罠にかかっていった。
久しぶりに行った。
スラムにいた幼少の頃は、体力がなくまともに戦闘なんてできなかった。だから、追いかけてくる敵を一人ずつ石を投げつけて撃退していたのだ。スラムで生き残るために必死に培ってきた技術だ。
これで終わりか?
橋の影から出て、確認する。
橋の上で男達がうごめいていた。その数は八人である。
数は合っているな。
これで全滅だ。
「し、死んでるの?」
ジャスミン様もおそるおそる顔を出し、様子を聞いてくる。
「ううん、死んでないよ」
カッターの刃では殺すまでにはいたらなかったらしい。
喉から血を垂らしているが、生きている。
「がっ、あぐっ……」
ただ、カッターが喉に刺さり呼吸がしづらいのだろう。男達は、喉を掻きむしり苦しんでいる。
自業自得だ。ジャスミン様を襲った罪、とことん思い知ればよい。
「あ、あの救急車を呼ばなくちゃ!」
ジャスミン様が慌てて携帯を取り出す。
「ふふ、優しいのね。こんな悪党なんて、ほっとけばいいのに」
「違います。愛里彩さんのためです。このままじゃ正当防衛とはいえ、人殺しになっちゃいますよ」
「わかったわ。でも、私達は善意の第三者に徹しましょう。取り調べされるのも面倒だし」
ジャスミン様も同意してくれた。警察と救急車を手配して、その場を後にする。
「愛里彩さん、今日は本当にありがとうございました。愛里彩さんがいてくれなかったらと思うと、ぞっとします」
「ううん、そんなに頭を下げないで。それじゃあ、私はこれで」
ジャスミン様を家まで送り届けると、そのまま踵を返す。
「あ、待ってください。家に上がってください。ちゃんとお礼もしたいですし」
「いや、でも……」
「遠慮しないで」
ジャスミン様に手を引かれる。
これは非常にまずい展開だ。
今、ショウ様に会うのは、かなり気まずい。いや、気まずいどころではない。私はどの面下げて、ショウ様に会えるのだ。
「い、いや、真理香ちゃん、いいから。本当に本当にお構いなく」
「もう愛里彩さん、急にどうしたんですか? 上がってください。もう少しおしゃべりしたいです」
ジャスミン様は、両手で私を引っ張って帰らせない。ほほをぷくっとふくらませて、帰ろうとする私を抗議している。
ジャスミン様は、敬愛するご主君の妹君だ。ご要望はできるだけ沿いたいが、本当にまずいのだ。
「真理香、帰ったのか? 遅いから心配したんだぞ」
「あ、お兄ちゃんただいま。実はね——」
ジャスミン様の帰りを心配して、ショウ様が玄関から出てこられた。
瞬間、時が止まったような感覚に襲われる。
あぁ、ショウ様——
なんと凛々しいお姿。心の奥底から込み上げてくる懐かしさと敬愛の念。
記憶を取り戻してわかる、ショウ様の素晴らしさ。
その理知的で優しげな眼差し、凛とした立ち居振る舞い。前世の頃から何一つ変わらない。
この方こそが、私の命の恩人。絶望の淵にいた私に生きる意味を教えてくださった、たった一人の光。
でも——
胸の奥で激しい自己嫌悪が渦巻く。愛里彩は本当になんてことをしでかしたんだ!
この尊いお方に、あんな卑劣な罠を仕掛けるなんて。
昔の記憶を焼却してポイして、滅却したい。
いや、滅却すべきは愛里彩としての醜い過去だ。
冷や汗が背中を伝う。手のひらに汗が滲む。
心臓の鼓動が異常に速くなり、呼吸が浅くなる。
脳内で後悔しまくっていると、
「お前……」
ショウ様とばっちり目が合ってしまった。
その瞬間、全身に電流が走る。
ショウ様の瞳に宿るのは——警戒と困惑。当然だ。
私は彼にとって、妹を陥れた卑劣な女でしかない。
ど、ど、どうしたらいいんだ?
言葉が喉に詰まる。謝罪の言葉すら、どこから始めればいいのかわからない。
「あ、あ、あのですね。こ、これには、深い深い事情がありまして——」
声が震えている。情けない。
前世では、どんな強敵を前にしても動じなかったのに。
でも、ショウ様を前にすると、まるで罪を犯した子供のようになってしまう。
「お前、妹に何かしたのか?」
ショウ様がすごむ。
その眼光の鋭さに、思わず身がすくむ。
でも、それは当然の反応だ。
あぁ、そうですよね。そう考えるのが自然です。
私のような素行の悪い女が、突然妹と一緒に現れたのだから。
どう説明したらよいのやら……。
でも、ジャスミン様を助けたのは事実。せめてそれだけでも理解していただけれ——
「お兄ちゃん、そんな言い方やめて! 愛里彩さんは、私が危ない目にあってたところを助けてくれたのよ。命の恩人なんだから」
【危ない】【命の恩人】という言葉に、ショウ様は顔を青くされる。
そして、ジャスミン様に事のあらましを執拗に尋ねていく。
ジャスミン様の説明が終わり、ショウ様は安堵のため息をつかれた。
妹思いのショウ様だ。心中をお察しする。
その後、ショウ様はジャスミン様の頭をぽんぽんと叩くと家に入るように促す。ジャスミン様も汗だくで着替えたかったのだろう。少し渋っていたが、ショウ様にこの場を託し家に入られた。
奇しくもショウ様と二人きりになってしまった。
静寂が辺りを包む。虫の声だけが聞こえる夜。
気まずい。でも、これは謝罪をするチャンスだ。痴漢冤罪なんて、ジャスミン様がお聞きになれば、混乱するだろうし。
深呼吸をする。心を落ち着かせ、言葉を整理する。
でも、何から謝ればいいのか。あまりにも罪が深すぎて。
「あ、あの先日は大変申し訳ございませんでした。信じてくれないと思いますが、深く深く反省しております。二度としないと誓います。もちろん痴漢の被害届は撤回してます。もうこの面は二度と見たくないでしょうし、今日は帰ります。許さないと仰れば、改めて償います。そ、それでは、私はこの辺で……」
土下座をし、一旦帰ろうとしたが、
頭を下げながら、涙がこぼれそうになる。
この謝罪では足りない。到底足りない。でも、他にどう償えばいいのか——
「待ってくれ」
ショウ様に呼び止められてしまった。
心臓が跳ね上がる。まさか、さらなる叱責を?
それとも、警察に突き出すと?
どんな処罰でも甘んじて受ける覚悟はできている。
「え、えっと、私は……」
声が震える。恐怖ではない。ショウ様を失望させてしまった自分への嫌悪だ。
「いいから家に上がってくれ。君は妹を助けてくれたんだろ?」
——えっ?
思いもよらない言葉に、思考が停止する。
上がってくれ? 妹を助けてくれた?
ショウ様は、私を責めるのではなく——
「は、はい。で、でも、私は許されざる罪を犯しました」
頭を上げることができない。
ショウ様の優しさが、逆に胸に突き刺さる。
こんな私に、なぜそんなに寛大でいてくださるのか。
「気持ちはわかったから」
えっ!? 今なんと?
やっと顔を上げる。ショウ様の表情に、怒りはなかった。
むしろ、どこか安堵したような——
「わかったって言ったんだ」
信じられない。
あれほどの罪を犯したのに、ショウ様は私の謝罪を受け入れてくださるのか?
「信じてくれるのですか?」
声が裏返る。涙腺が緩みそうになる。
「信じるよ」
その言葉が、まるで救いの光のように心に響く。
でも、まだ信じられない。
「えっ? いや、私が言うのもなんですか。え、その、こんな性悪でクソな女の言葉を信じてくれるんですか?」
自分を卑下する言葉が止まらない。
でも、それが正直な気持ちだった。
愛里彩として犯した罪の数々を思えば、信じてもらえるはずがない。
「……うん、妹を助けてくれたのは事実みたいだし、何より……」
「何よりなんでしょうか?」
ショウ様の次の言葉に、すべてがかかっている。
心臓の鼓動が聞こえそうなほど静かな夜。
「え、えっと、何より——う、うん、そうだ。目が澄んでいる。この前会った時とはダンチだよ。は、反省したんだね。君は善人だ」
——善人だ。
その言葉が、魂の奥底まで響いた。
ショウ様が、私を善人だと——
涙が止まらなくなる。でも、今度は感謝の涙だった。
なんという、なんということだ!
二度とあのような愚行は犯さない。それは私が決めたことだが、他人がそうそう信じるとは思えない。何しろこれまでの行いが行いだからだ。事実、実の妹すら信じず、殺されかけた。
だが、ショウ様は一目見ただけで私が変わったことに気づいた。
「目が澄んでいる」——この言葉の重み。
ショウ様だけが、私の変化を見抜いてくださった。
愛里彩の汚れた仮面の下にある、本当のアリッサを見てくださった。
さすがショウ様だ。記憶が戻らずともその慧眼は確かだ。
この方になら、すべてを託すことができる。
前世でそうだったように、今度もショウ様についていこう。
今度は、絶対に裏切らない。絶対に。
現世でもショウ様の麒麟の如き才に感動し、そのまま家にお邪魔することになった。
【洗脳されなかった場合の関内愛里彩の人生】
痴漢冤罪を繰り返しながら、サラリーマン相手に大金を稼ぐ。相棒の美香は途中で警察に捕まるが、愛里彩は持ち前の要領のよさで難を逃れる。その後、小金沢グループをバックにつけた愛里彩は、芸能界に華々しくデビュー。抜群のルックスと歌声でオリコン一位を獲得する。さらに大手事務所の後押しもあり、二十五歳で名実ともにトップアイドルとなる。その後も多くのライバルを無実の罪で蹴落としつつ、オリコン一位を独占し続け、「令和の歌姫」と呼ばれるまでになる。
三十歳を前に年商十億の青年実業家と婚約し、人生の絶頂期を迎える。しかし、ここで運命が暗転する。今までの悪行を妹の加奈に暴露されるのだ。加奈は、持ち前のPCスキルで愛里彩の悪行を映像・音声で克明に記録していたのである。
愛里彩は週刊誌やマスコミに徹底的に叩かれ、婚約も破棄される。CMやドラマも降板させられ、莫大な違約金を要求される羽目となる。逆上した愛里彩は加奈に襲い掛かるが、ナイフで刺され重体となる。その後は後遺症で車椅子生活を余儀なくされる。一方の加奈は、愛里彩の完全な凋落を確認した後、睡眠薬を服用して自殺を遂げる。