第一話「俺は、平凡な高校二年生」
三ヶ月前——
俺、白石翔太は平凡な高校二年生だった。
まだ地獄が始まる前の、何でもない日常。あの時の俺は、まさか自分がこんなことになるとは、夢にも思っていなかった。
*
古文の授業を半ばぼんやり受けていると、終業のベルが鳴った。
「ここ、復習しておくように」
佐藤先生が黒板に印をつけ、教室を出ていく。
十分の休憩時間。
教室の空気が一瞬で変わった。あちこちで笑い声が弾ける。机を引きずる音、誰かを呼ぶ声。みんな、それぞれの居場所へ散っていく。
俺は——机につっぷした。
寝たふり。いつものポジション。腕を枕にして、顔を伏せる。
いいんだ、ぼっちでも。もう慣れた。
——慣れた、はずだ。
目を閉じても、笑い声は消えない。楽しそうな会話が、鼓膜に滑り込んでくる。聞きたくない。でも、聞こえる。
中学の頃は友達もいた。それなりに楽しくやっていた。なのに、この南西館高校に入ってから、周りとの距離が縮まらない。
偏差値70超えの進学校。生徒のレベルが高い。金持ちの子息も多い。俺みたいな一般家庭の凡人には、少々荷が重い。
話が合わないのだ。休日の過ごし方も、趣味も、将来の夢も。みんな留学だの起業だの言っている横で、俺はゲームの話しかできない。
寝たふりを続けながら、耳を澄ます。
そして——
「……白石が」
俺の名前だ。
心臓が跳ねた。息を殺す。
「……そうそう、白石は」
声の方向。宮本と佐々木、そして紫門だ。
「クラスマッチの件だけど、白石の奴どうします?」
「空いてるのはバレーだが、点数が高い。バレー部を続けて出したい」
「じゃあ、白石は補欠で。根回ししておきます」
「そうしてくれ」
「下手に参加させて足引っ張られても困りますしね。スコアブックでもつけさせておけばいいでしょ」
くそ。聞こえてるんだよ。
拳を握る。顔が熱い。でも、起き上がれない。
聞いていないふり。聞こえていないふり。それしかない。
宮本と佐々木——紫門の腰巾着だ。親が小金沢グループで働いていて、ガキの頃から紫門に仕えてきたらしい。紫門が白といえば黒も白。そういう連中だ。
そして小金沢紫門。この学園の王様。
小金沢グループの御曹司。金も頭も運動神経も持っている。顔も整っていて、女子人気も高い。表面上は爽やか。でも俺は知っている。こいつの底意地の悪さを。
小金沢グループ。全国規模の大企業だ。不動産、金融、流通。この南西館高校の新校舎にも寄付したらしいし、理事会にも重役がいる。校長も教師も、紫門の前では妙に腰が低い。
要するに、この学校では紫門が法律だ。逆らったら、俺みたいに潰される。
そんな紫門が、ある時期から俺を目の敵にし始めた。
きっかけは高一の抜き打ち小テスト。
歴史の問題で、俺が紫門に勝ってしまった。戦国時代の範囲。前夜に読んでいた歴史小説がそのまま出た。俺が九十八点、紫門が九十六点。
たった二点。されど二点。
そして一位は——草乃月麗良さん。満点。
草乃月麗良。この学校どころか、日本中探してもいないんじゃないかってレベルの美少女だ。
金髪。白い肌。青い瞳。西洋の人形みたいな顔立ち。成績は常にトップ。家は草乃月財閥。父親の草乃月涼彦は、ニュースでもよく見る政財界の大物らしい。
麗良さんと紫門は、この学校の王と女王だ。クラスの女子は麗良さんに憧れ、男子は紫門を羨む。二人が並んで歩いていると、まるで映画のワンシーンみたいだった。
俺も、麗良さんには見とれてしまう。遠すぎて恋とは呼べない。でも、目が離せない。
そんな完璧な序列に、俺が割り込んだ。小テストとはいえ、麗良さん、俺、紫門。その順位になってしまった。
紫門は笑っていた。でも、目だけが笑っていなかった。あの時の目を、今でも覚えている。冷たくて、暗い目だった。
器の小さい奴だ。
それ以来、嫌がらせが始まった。陰口、無視、行事からの排除。殴られることはない。証拠が残るような真似はしない。でも、毎日じわじわ削られる。
くそ、陰口なんて言ってんじゃねぇ!
叫びたい。でも、起き上がれない。カースト上位と揉めてもろくなことにならない。
無視だ。無視。それが処世術だ。
むかつく。でも、忘れるしかない。
その後の授業は、何も頭に入らなかった。昼休みも一人で過ごし、ようやく放課後になった。
荷物をまとめて、教室を出る。早く帰りたかった。
廊下を歩いていると、後ろから声がかかった。
「白石、ちょっと待てよ」
足が止まる。背筋が冷えた。
振り返る。宮本がにやにやしている。後ろに佐々木。腕を組んで、見下ろすような目。
周りの生徒が、さりげなく距離を取った。誰もこちらを見ない。関わりたくないんだろう。気持ちはわかる。
「な、何?」
声が震えた。情けない。
「クラスマッチの件だけど、お前は補欠な。スコアブック係をやってもらう」
一方的な通告。俺の意見なんて、聞く気もないんだろう。
さっき聞いた通りの展開。わかっていた。わかっていたのに、面と向かって言われると、腹の底から何かがこみ上げる。
言い返したい。お前らに決める権利なんかないだろ、と。
でも、口が動かない。言ったところで、何も変わらない。
「……わかった」
小さく頷いた。
「そうそう、それでいいんだよ。身の程を知るって大事だからな」
佐々木が笑う。
俺は何も言わずに歩き出した。背中に笑い声が刺さる。
振り返らなかった。振り返ったら、何か言ってしまいそうだった。言ったところで、もっと惨めになるだけだ。
校門を出ると、夕方の風が頬を撫でた。オレンジ色の空が広がっている。帰り道、足が重い。なぜ俺はいつもこうなのか。麗良さんみたいな完璧な人間がいる一方で、俺みたいな奴もいる。世の中は不公平だ。
そんなことを考えているうちに、家に着いた。玄関を開けると、台所からいい匂いがした。
「お帰り、翔」
「ただいま」
学校のことは話さない。心配をかけたくないし、話しても解決しない。
夕食の時間になり、家族四人で食卓を囲んだ。父親は会社の話、母親は近所の話。俺は黙って箸を動かす。平凡で、温かい時間。
「翔も何か話しなさいよ」
母親が俺に振る。
「明日、新しいゲームが発売されるんだ。朝一番で買いに行く予定」
「またゲームか。たまには外で運動でもしたらどうだ?」
父親が苦笑いする。でも、責めるような声じゃない。
「お兄ちゃん、今度そのゲーム見せて」
二つ下の妹、美咲が身を乗り出した。俺と違って友達も多い、明るい奴だ。
「いいけど、難しいぞ? シミュレーションだからな」
「大丈夫、お兄ちゃんが教えてくれるでしょ?」
美咲がけらけら笑う。この顔を見ると、少しだけ肩の力が抜ける。
「……まあ、いいけど」
つい、口元が緩んだ。
家族だけは、俺を受け入れてくれる。学校での嫌なことも、ここにいると少しだけ忘れられる。この温かさが、救いだった。
夕食を終え、部屋に戻って宿題を片付けた。
明日は土曜日。ゲームの発売日だ。中世ヨーロッパ風の世界で、王として国を発展させるシミュレーション。三ヶ月も楽しみにしていた新作だ。現実逃避と言われようが、あの世界の方が居心地がいい。そこでなら、俺は英雄になれる。
布団に入る。明日が楽しみだった。そのまま、眠りに落ちた。
*
まさか、その新宿での買い物が、俺の人生を根底からひっくり返すことになるとは。
翌日、俺はあるものを目撃する。
それが、すべての始まりだった。




