第一話「俺は、平凡な高校二年生」
三ヶ月前——
俺、白石翔太は平凡な高校二年生だった。
まだ地獄が始まる前の、何でもない日常。あの時の俺は、これから自分の身に降りかかる災難など想像もしていなかった。
今思えば、あれが最後の平穏な日々だったのかもしれない。
古文の授業を半ばぼんやり受けていると、終業のベルが鳴った。
「ここ、復習しておくように」と最後に佐藤先生が黒板の古典文法に印をつけ、教壇から資料を抱えて教室を退出する。
十分の休憩時間に突入だ。
瞬間的に教室の雰囲気が変わった。授業中の静寂から一転、友達同士のおしゃべりが始まる。教室内ががやがやと騒ぎ出し、机を移動させて輪になって話す女子グループ、廊下に出て行く男子たち——みんなそれぞれの居場所がある。
教室の前方では、クラス委員の田村と副委員の佐藤が明日の体育祭について相談している。真面目な二人らしく、プリントを広げて熱心に話し合っていた。田村は眼鏡をくいっと上げながら何かメモを取り、佐藤は腕組みをして深刻そうに頷いている。責任感の強い委員らしい光景だ。
窓際では、サッカー部の連中が週末の練習試合の話で盛り上がっている。主将の山田を中心に、戦術について熱く議論していた。
「やっぱりフォーメーションは4-4-2だろ」
「いや、相手の攻撃力を考えたら5-3-2の方が」
彼らの表情は生き生きとしていて、部活に打ち込む充実した学校生活を送っているのがよくわかる。汗をかいて、仲間と共に目標に向かって努力する——そんな青春らしい日々。
女子グループも同様だった。松田を中心とした読書好きグループは、最近読んだ小説について語り合っている。
「あの作品の結末、どう思った?」
「私はハッピーエンドで良かったと思うけど」
文学少女らしい知的な会話が聞こえてくる。
一方、鈴木たちの美容グループは、新しいコスメの話題で花を咲かせていた。
「このアイシャドウ、色がすごく綺麗でしょ?」
「マジで! どこのブランド?」
女子高生らしい華やかな雰囲気に包まれている。
そして俺は——話す相手がいない。机につっぷし、寝たふりをする。
いいんだ、ぼっちでも。もう慣れた。
最初の頃は辛かった。みんなが楽しそうに話しているのを見ながら、一人で過ごすのが。特に入学したばかりの頃は、「きっと友達ができるだろう」なんて淡い期待を抱いていた。でも今では、もう慣れてしまった。慣れって怖いものだ。
別に俺が特別人見知りというわけではない。中学の頃は普通に友達もいたし、それなりに楽しい学校生活を送っていた。でも、この南西館高校に入学してから、なぜか周りとの距離が縮まらない。
南西館高校は都内でも有数の進学校だ。偏差値70を超える難関校で、東大や早慶への進学実績も高い。その分、生徒のレベルも高く、勉強も部活もできる奴らが揃っている。俺みたいな中途半端な奴には、少々荷が重い環境だった。
それに、ここは金持ちの子息が多い学校としても有名だ。小金沢グループをはじめとする大企業の御曹司や令嬢がたくさん通っている。学費も私立としては高額で、一般家庭の俺には少し肩身が狭い。
そんな俺の存在に、最近ちょっとした変化が起きていた。
寝たふりを続けながら、耳を澄ます。
そして……。
「……白石が」
俺の名前だ。誰かが俺のことを話している。
心臓がドキリと跳ねた。寝たふりを続けながら、神経を研ぎ澄ませる。
「……そうそう、白石は」
話し声の方向から察すると……宮本と佐々木、そして紫門だな。
クラスの権力者たちが、俺について何か話している。いい予感はしない。
宮本康介。上流階級の子息で名家の出身。権力者に媚びるのが得意な典型的な太鼓持ちタイプ。親は小金沢グループで勤務しており、幼少の頃から紫門に仕えていた。小金沢グループの影響力も、他の大企業との力関係もよく知っている、生粋の腰巾着だ。
佐々木亮。やせ型で細い目をした、蛇のような冷たさを湛えた男。元来お調子者だが、サディスティックな面がある。暴力を振るっているうちに興奮してエスカレートする癖があり、危険な一面を持っている。親は小金沢グループで勤務しており、宮本と同様に幼少の頃から紫門に仕えていた。
そして小金沢紫門。言わずと知れたクラスの絶対的権力者だ。
小金沢グループの御曹司。金持ちで頭も良く、運動神経も抜群。身長は180センチ近くあり、整った顔立ちで女子からの人気も高い。性格は底意地が悪いが、表面上は爽やかで人当たりが良い。
この高校での絶対的な権力者だった。
小金沢グループといえば、全国規模の大企業グループ。不動産、金融、流通と幅広い事業を展開していて、この地域でも相当な影響力を持っている。この南西館高校の新校舎建設にも多額の寄付をしたという話もあるし、理事会にも小金沢グループの重役が名を連ねている。
そんな財閥の跡取り息子である紫門に逆らえる生徒などいるはずがない。校長も教師も、紫門には頭が上がらない。
つまり、この学校では紫門が絶対的な権力者というわけだ。
そんな紫門が、例の一件以来、俺のことを特に目の敵にするようになった。まあ、俺みたいな地味で目立たない奴は、普段は紫門のような上位カーストからすれば虫けら同然なのだろうが。
実際、俺は紫門から見れば取るに足らない存在だ。成績は中程度、運動神経も人並み、家庭は普通のサラリーマン家庭。何もかもが平凡で、特筆すべき点が何一つない。
紫門が俺に悪感情を抱いたきっかけ、それは高一の時の出来事だった。
ある日の歴史の抜き打ち小テストで、俺が紫門に勝ったことがあるのだ。戦国時代の問題で、俺の得意分野だった。前夜に偶然読んでいた歴史小説の内容がそのまま出題されて、九十八点を取れた。
紫門は体調が悪かったのか、九十六点だった。草乃月麗良さんは満点だったので、順位は麗良さん、俺、紫門という結果になった。
草乃月麗良——この学校の、いや、おそらく日本中を探しても類を見ない完璧な美少女だ。
金色に輝く美しい髪、透き通るような白い肌、宝石のように青い瞳。まるで西洋の人形のような美貌を持ちながら、成績は常に学年トップ。文武両道で品格も備えた、まさに才色兼備の令嬢だった。
家は草乃月財閥——小金沢グループと並ぶ日本屈指の大企業グループの一人娘。父親の草乃月涼彦は政財界にも大きな影響力を持つ実業家として有名だ。
そんな麗良さんと紫門は、この学校の絶対的なトップカップル。王子様と王女様のような二人が並んで歩く姿は、まさに絵になる光景だった。クラスの女子たちは麗良さんに憧れ、男子たちは紫門を羨望の眼差しで見ている。
俺も、正直に言えば麗良さんに憧れていた。あまりにも遠い存在だとわかっているから、恋とは呼べないかもしれない。でも、彼女の美しさと聡明さには、いつも見とれてしまう。
そんな二人の完璧な序列に、俺という雑魚が割り込んだのだ。小テストとはいえ、不動の序列が崩れた瞬間だった。
紫門は表面上は笑って見せていたが、目は笑っていなかった。あの時の表情は、今でも忘れられない。まさか、あんな些細なことで、ここまで恨まれるとは思わなかった。
器の小さい奴だ。
別に深刻ないじめというわけでもない。ただの序列確認程度だ。でも、毎日続くと結構こたえる。
俺の陰口を言ったり、クラスの行事で俺を無視したり、何かと理由をつけて俺を排除しようとしたり。直接暴力を振るうことはないが、精神的な嫌がらせは日常茶飯事だった。
くそ、人の陰口なんて言ってんじゃねぇえええ!!
思いっきり叫びたいが、気づかないふりをする。クラスカースト上位様と揉めてもろくなことにならない。
無視だ。無視。
それが処世術というものだ。対立してもいいことなんて何もない。
むかつくが、嫌なことは忘れるしかない。精神衛生上良くないからな。
授業と授業の合間の十分間。俺にとっては、一日の中で最も緊張する時間だった。
みんなが楽しそうに話している中で、一人だけ孤立している自分が惨めに思えてくる。特に、麗良さんが友達と談笑している姿を見ると、その美しさに見とれると同時に、自分との差を痛感してしまう。
チャイムが鳴り、次の授業が始まる。体育だった。
体育の授業では、バスケットボールをやることになった。チーム分けの時が一番憂鬱だ。毎回、最後まで残されるのが俺の定位置だった。
試合が始まっても、俺にボールが回ってくることはほとんどない。運動神経が特別悪いわけではないのだが、この学校の生徒はレベルが高い。
体育の授業が終わると、また教室に戻る。今度は昼休みだ。
昼休みは一日の中で最も長く感じられる時間だった。みんなが弁当を広げて楽しそうに昼食を取っている中、俺は一人で購買のパンを食べる。
結局、俺は教室の自分の席で文庫本を読むことにした。読書は俺の数少ない趣味の一つだった。本の世界に没頭していれば、現実の辛さを忘れることができる。
授業が終わり、放課後になった。俺は急いで荷物をまとめ、教室を出る。早めに帰って宿題を済ませておきたかった。
廊下を歩いていると、後ろから聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「白石、ちょっと待てよ」
振り返ると、宮本が俺を呼び止めていた。その後ろには佐々木もいる。嫌な予感しかしない。
「な、何?」
俺は警戒しながら答えた。この二人に呼び止められて、いいことがあった試しがない。
「クラスマッチの件だけど、お前は補欠な。スコアブック係をやってもらう」
宮本が一方的に告げる。俺の意見を聞くつもりは最初からないようだった。
やっぱり、そういうことか。
休憩時間に聞いていた通りの展開だ。それでも、改めて面と向かって通告されると、屈辱感が込み上げてくる。
「わ、わかった」
俺は最初から諦めていた。抗議したところで状況が変わるわけではない。紫門の決定に逆らえるほどの力は俺にはない。
「そうそう、それでいいんだよ。身の程を知るって大事だからな」
佐々木が満足そうに頷く。俺が素直に従うことで、自分たちの優越感を満たしているのが見え見えだった。
俺は何も言わずに、その場から立ち去った。二人の笑い声が背中に刺さる。
聞いていたとはいえ、改めて通告されるのは惨めだった。まるで犬に命令するかのような口調で、有無を言わさず決定事項を伝えられる。俺には選択権すらない。
家に帰る途中、俺は自分の惨めさを噛み締めていた。なぜ俺はいつもこうなのだろう。麗良さんのような完璧な人間もいれば、俺のような平凡以下の人間もいる。世の中は不公平だ。
でも、現実は厳しい。努力したところで、生まれ持った才能の差は埋められない。家庭環境の差も、どうしようもない。
俺の家は、父親が中小企業のサラリーマン、母親がパートタイマーという、ごく一般的な家庭だった。決して貧乏ではないが、裕福でもない。草乃月財閥や小金沢グループのような大金持ちとは、住む世界が違う。
家に着くと、母親が夕食の準備をしていた。
「お帰り、翔」
「ただいま」
母親は優しく微笑みかけてくれる。この笑顔を見ると、少しだけ心が安らぐ。家族だけは、俺を受け入れてくれる。
「今日は学校どうだった?」
「うん、普通だよ」
学校での出来事を話すわけにはいかない。心配をかけたくないし、話したところで解決するわけでもない。
俺は自分の部屋に向かった。机に向かって宿題を始めると、ふと思い出す。
そうだ、明日は土曜日だ。前々から楽しみにしていたゲームの発売日でもある。新しいキャラクターや新しいマップが追加されるらしい。
俺は最近、シミュレーションゲームにハマっている。プレイヤーは中世ヨーロッパ風の世界で、一国の王として国を発展させていく。内政、外交、戦争と、やることは盛りだくさんだ。
現実逃避と言われようが、ゲームの世界の方が俺にとっては居心地がいい。そこでは俺は英雄だ。人々から慕われ、信頼される存在だ。現実では決して味わえない充実感がそこにはある。
ゲームの世界では、俺は英雄になれる。麗良さんのような美しさも聡明さもなく、紫門のような権力も才能もない現実の俺でも、ゲームの中では特別な存在になれるのだ。
そんな日々がこれからもずっと続くのだろうか。高校を卒業するまで、あと一年半もある。麗良さんと同じクラスにいられるのは嬉しいが、この距離感が縮まることは決してないだろう。
そう考えながら、俺は数学の問題を解いていく。頭の片隅では明日のゲームのことを考えている。
夜になり、夕食の時間になった。家族四人で食卓を囲む。父親は会社でのことを話し、母親は近所の話をする。妹は学校での出来事を楽しそうに話している。平凡だが、温かい時間だった。
「翔も何か話しなさいよ」
母親が俺に話を振る。
「明日、新しいゲームが発売されるんだ。朝一番で買いに行く予定」
「またゲームか。たまには外で運動でもしたらどうだ?」
父親が苦笑いしながら言う。でも、俺を責めるような口調ではない。息子の趣味を理解しようとしてくれている。
「ゲームも悪くないわよ。翔の楽しみなんだから」
母親が俺をかばってくれる。
「お兄ちゃん、今度そのゲーム見せて」
妹が興味深そうに言う。この温かさが、俺にとっての救いだった。
夕食後、俺は再び自分の部屋に戻った。宿題の続きをこなし、読書をして過ごす。
本の中の主人公たちは、みんな困難を乗り越えて成長していく。俺も彼らのようになれたらいいのに。そんなことを考えながら、ページをめくっていく。
気がつくと、もう夜中になっていた。明日は早起きしてゲームを買いに行く予定なので、早めに寝ることにした。
布団に入りながら、俺は明日への期待に胸を膨らませていた。新しいゲームをプレイできる喜び。現実を忘れて、別の世界に没頭できる時間。
まさか、その新宿での買い物が、俺の人生を根底から覆すような出来事の始まりになるとは、夢にも思わなかった。
あの時の俺は、まだ知らなかった。
自分が偶然目撃することになる光景が、どれほど恐ろしい結果を招くことになるのかを。
翌朝になれば、すべてが変わってしまう。平凡で平和な日常は、もう二度と戻ってこない。
でも、その夜の俺は、まだ何も知らずに安らかな眠りについた。人生最後の平穏な夜を、何の疑いもなく過ごしていたのだった。




