第十八話「暗殺者アリッサ・ビーデルの葛藤(前編)」
愛里彩は思う。
世界ってつくづく愛里彩を中心に回っている。
紫門さんに、ある男をはめてくれと頼まれた。
成功すれば、小金沢グループ所属の大手事務所でソロデビューさせてくれるという。
ふふ、ついているわ。
アイドルグループ【LASH】は今秋メジャーデビューが決まっているが、売れるとは限らない。抜群に可愛い愛里彩はともかく、他メンバーの容姿はたいして美人ではない。私の足を引っ張って、失速する可能性は十分に考えられる。
その点、小金沢グループ所属の大手事務所からデビューすれば、間違いはない。
愛里彩のルックスに、小金沢グループのバックがつくのよ。
夢が広がる。未来が想像できるわ。
愛里彩は、トップアイドルになれる。
そして、老若男女すべてのファンが愛里彩の美しさに感動し、褒めたたえるの!
そのためにも今回の【遊び】も絶対に成功させなきゃね。
紫門さんから渡されたターゲットの顔写真とメモを確認する。
メモには簡単なプロフィールと住所が記載されてあった。
名前は、白石翔太。歳は十七歳、南西館高校の二年生。江戸川区在住。
ふーん、南西館高校って進学校よね。紫門さんも通っているみたいだし……。
なるほど。
顔は平凡だが、馬鹿ではなさそうだ。ただ、自信なさげな表情で分かる。お勉強はできても、女の扱いは苦手ってタイプかな。
ふふん、モテない童貞君って感じね♪
童貞君をからかうのも面白いのよね。
いつもはさえないおじさんばかりだけど、今度はどんな風に遊んであげようか?
後で美香と打ち合わせしておこう。
翌日……。
いつものやり方で、いつもどおり行い、童貞君をはめてやった。
楽しい、楽しすぎる!
童貞君は「やってない、俺じゃない!」と必死で叫んでいた。
美香は、小遣い稼ぎにこれをやっているが、愛里彩は違う。
うちのパパは会社の重役だし、お小遣いをたくさんもらっている。お金に不自由はしない。
愛里彩の目的は趣味だ。
おじさんたちが必死に弁解する姿もおかしかったけど、童貞君の慌てた様子もウケたわ。
私にデレデレだったのに、急に手のひらを返した時の童貞君の顔といったら!
絶望に満ちた顔をしていた。
あぁ、楽しい。
世の中には、こんなに間抜けがいるって分かるだけで、身がゾクゾクする。
あの後、童貞君どうなったかな?
警察に連れて行かれてたし、退学は確実よね。
紫門さんが執拗に目をつけていたし、実刑判決受けちゃうかも?
キャハ!
可哀そう。本日の運勢は大凶ね。
あ、違うわ。一瞬とはいえ、私のお尻に触れたんだもの、大大吉よ。ただ、一生の運を使っちゃったみたいだけど。
ふふ、他人の不幸ってなんでこんなに楽しいんだろう。今日もぐっすり寝れそうね。
家に帰宅する。
自分の部屋に戻ろうとすると、妹の加奈がいた。
黒髪を無造作に下ろし、寝ぐせもつけたままぼさぼさだ。分厚い眼鏡をかけ、ヨレヨレのTシャツを着ている。
相変わらずのブスだ。
「ブス、化粧ぐらいしたらどうなの?」
「……」
妹は、ボソボソと何かを呟くと、無視して二階に駆け上がっていった。
「無視かよ」
成績だけはいいけど、女として終わってる。趣味はパソコンのオタク女。夜中遅くまで起きて、パソコンで何やらカチカチ打っているようだけど、何が楽しいのやら?
まぁ、あんな根暗女よりも、紫門さんよ。
紫門さん、約束守ってくれるかな?
ううん、そんな弱気じゃだめ。
タダ働きは、絶対に嫌だ。どんな手段を使ってでも守らせる。それこそ身体を使ってでもね。
私の処女……できるだけ高く吊り上げたかったから今まで守ってきた。
そろそろ頃合いね。
小金沢紫門。
資産数十億とも言われる小金沢グループの御曹司。成績優秀でスポーツマン。ルックスもモデル級だ。
顔、地位、能力、どれを取っても一級品で、超絶可愛い愛里彩に相応しい男と言える。
紫門さんと付き合い、抱いてもらう。
ただし、できるだけもったいぶって愛里彩の虜にしてからだけどね。
☆ ★ ☆ ★
紫門さんからの報酬を期待しつつ、家に帰宅すると、童貞君こと白石翔太が家の前で待ち構えていた。
童貞君は、生意気にも愛里彩を脅してきた。
被害届を撤回しなければ、愛里彩の悪事をばらすと言う。
愛里彩には、天下の小金沢グループの紫門さんがついている。一介の高校生が何をわめこうが無駄だ。
憐れね。現実が分かっていない。
それにしても、愛里彩を脅すなんて許せないわね。童貞君には、少しばかりお仕置きしてあげよう。
土下座させて、いつものように靴を舐めさせようとしたら、直に足を舐めたいなんて言ってくる。
くっくっ、本当に男ってバカだ。
いや、愛里彩が可愛すぎるのが原因よね。
どんな男も愛里彩の魅力で骨抜きにされる。
さぁ、とことん舐めなさい。愛里彩に逆らえない従順な犬にしてあげるから。
そう愉悦に浸っていたら……油断した。
まさか童貞風情が愛里彩に噛みついてくるなんて夢にも思わなかった。
髪を強く引っ張られ、髪の毛が抜けた。舌まで出されておちょくられもした。
許せない。
愛里彩は、愛里彩をコケにする奴を絶対に許しはしない。
あの童貞には逃げられたが、住所は把握している。
自宅に乗り込んであることないこと吹聴してやる。二度とその町に住めないように、隣人、家族、全てを巻き込んでとことん追い詰めてやろう。
怒り心頭のまま、乱暴にドアを開け家に入る。
どんどんと足音を立てながら、洗面所に向かう。
まずはあの童貞にやられた頭の傷を鏡で確認する。
愛里彩の美しさは、一片たりとも損なってはいけない。早急に調べないと。
洗面所に到着すると、妹がいた。
「ブス、どきなさい」
「……死ね」
「あら、美しいお姉様に対する態度じゃないわね」
「……ドブス死ね」
「よほどしつけをしてもらいたいようね」
今の愛里彩は超不機嫌だ。
いつものように優しく言葉だけでは済まさない。
カバンからスタンガンを取り出し、妹に向ける。
「ふふ、五十万ボルト食らってみる?」
バチバチと電流を流しながら、妹の顔にスタンガンを近づける。
妹は、スタンガンに驚いたようで慌てて道を譲ってきた。
そうそう。常にその態度を心掛けなさい。
妹を肘で押しのけ、洗面所の鏡で髪を引っ張られた部分を確認する。
う、うそ……。
頭皮が赤く腫れていた。ずきずき痛みもある。
うまくケアしないと部分的にハゲるかもしれない。
「あ、あ、あぁああああ! くそぉおおおぉ、やろうがぁあああ!」
思わず大声を上げた。
洗面所に置いてあるコップや歯ブラシ、歯磨き粉を投げまくる。
はぁ、はぁ、はぁ……ゆ、許さない。
愛里彩の美貌を傷つける者は、誰であろうと許しはしない。
愛里彩の人脈をフルに使って、とことん追い詰めてやるから!
白石翔太、地獄に落としてやる!
憤懣やるかたなく、その日はベッドに入り、眠る。
★ ☆ ★ ☆
目が覚めた。
知らない天井……いや、知っている天井だ。
頭がズキズキと痛む。まるで頭蓋骨の中で何かがうごめいているような、異様な感覚だ。
私は……誰?
愛里彩、アリッサ。
二つの名前が同時に浮かび、混乱する。
おもむろに頬を触る。濡れていた。夢で涙を流していたらしい。
夢?
いや、違う。これは夢ではない。
突然、脳裏に鮮烈な映像が流れ込んできた。
——ジリジリと焼けつくような痛みが頭の奥で炸裂する。
記憶が、記憶が溢れ出してくる。
愛里彩として生きてきた十七年間の記憶の隙間に、別の人生が割り込んでくる。まるで二本のフィルムが同時に再生されているかのように。
スラムの湿った空気、腐臭、絶望——それらが五感を通して蘇ってくる。
「あ、あああ……」
思わず呻き声が漏れる。
現実じゃないはず。だけど、なぜこんなにもリアルなのか?
なぜこんなにも……懐かしいのか?
私はアリッサ・ビーデル。スラム育ちの孤児だ。
記憶が鮮明になっていく。まるで霧が晴れるように。
陽の当たらない、カビの生えた廃墟で育った。そこは一日中太陽が差し込まず、常に湿気と冷気に脅かされていた。
五歳の時——
記憶の中で、幼い私は震えながら母親の死体にしがみついていた。
「お母さん、お母さん……起きて」
でも母は二度と目を開くことはなかった。栄養失調と病気で、ゆっくりと衰弱していったのだ。
父親はもっと早くに死んでいた。スラムでの抗争に巻き込まれて。
天涯孤独になった私は、生きるために必死だった。
配給の食事は家畜の餌にも劣る代物だった。黒カビの生えたパン、腐りかけた野菜、得体の知れない肉の切れ端。それでも、毎日食べられるかは運次第。
配給所に向かう道中、同じような浮浪者たちが待ち伏せしている。
「よこせ、ガキ!」
男の汚れた手が私の首を掴む。息は酒と腐臭で、歯は黄ばんで欠けていた。
でも私は負けなかった。隠し持っていた錆びたナイフで男の手首を切りつけ、逃げた。
周囲をびくびく気にしながら、カビの生えたパンを急いでかき込む。いつ襲われるか分からない。食事は常に戦闘だった。
数日食べられないなんてざらだった。
いつもお腹が空いていた。いつも不安で怖かった。
しかも、スラムは害虫の巣窟だった。毒を持つ蜘蛛、病気を媒介する蚊、噛まれれば感染症で死ぬダニ。栄養失調の身体には致命的だった。
寝床を確保するのも命がけだった。廃墟の中でも比較的安全な場所を見つけ、害虫を払い、ボロボロの布切れにくるまって眠る。
冬は地獄だった。隙間風が容赦なく吹き込み、凍死する者も少なくなかった。
ひもじく寒い、まさに地獄のような生活。
でも、それだけでは終わらなかった。
八歳の時——
「おい、嬢ちゃん。いい身体してるじゃないか」
人買いの男たちが私を取り囲んだ。三人の大男、全員武装している。
「売れるぞ、こいつ。貴族の旦那方の趣味にぴったりだ」
私は走った。必死に、必死に走った。
でも大人の足には敵わない。路地裏で捕まり、縄で縛られた。
「おとなしくしてれば、いい目を見させてやる」
男の一人が私の顔を撫でた。汚れた指が頬を這う。
その時、私の中で何かが切れた。
恐怖が、憎悪に変わった。
縄を噛み切り、隠し持っていたガラスの破片で男の目を突いた。
「ぎゃああああ!」
男が悶絶する隙に、仲間のナイフを奪って喉を切り裂いた。
初めて人を殺した瞬間だった。
血が、大量の血が噴き出した。温かくて、生臭くて、でも——生きている証拠だった。
残る二人も容赦なく殺した。
その日から、私は変わった。
銅貨数枚を巡って、躊躇なく殺し合いをした。生き残るためには手段を選ばなかった。
騙して、盗んで、殺して——それが私の日常になった。
十二歳の時には、既にスラムで恐れられる存在になっていた。
「アリッサに関わるな。あいつは悪魔だ」
そう呼ばれるようになった。
屈強な男たちが剣をかざして襲ってきても、私は負けなかった。
毒を塗った短剣、隠された針、罠——あらゆる暗殺技術を身につけた。
殺しては逃げ、逃げては殺した。
そして、十四歳の時——
ついに私は、王都の貴族街に忍び込んだ。
標的は、スラムを生み出した諸悪の根源である貴族たちだった。
「今夜こそ、あいつらを皆殺しにしてやる」
毒を塗った短剣を握りしめ、屋敷に侵入した。
でもそこで、私は————
思い出せない。なぜか、その先の記憶が霞んでいる。
誰かに……誰かに出会ったのだ。
誰に?
うぅ、頭が痛い。
これって……いわゆるあれよね?
漫画やドラマでよくある話だ。
前世の記憶が蘇ったとか?
い、いや、ありえない。そんな非現実的な事が起きるはずがない。
夢だ。う、うん、夢。
嫌な夢だった。
人を襲い襲われる毎日。
髪は乱れ、服に返り血が大量に飛んでいる。
生々しかった。
殺戮を切り抜けるごとに、全身が血まみれで、その血の匂いでむせ返りそうになった。
気持ち悪い。
水でも飲んで落ち着こう。
台所に行き、蛇口をひねってコップに水を汲む。
透明で透き通った水だ。
ごくごくと喉を鳴らしながら水を飲み、喉を潤す。
お、美味しい。すごく美味しい。
さらにもう一杯水を飲む。
ぷはああ! 最高!
スラムでは、上質な水を飲むなんてありえなかった。ボウフラの浮いた水があればいいほう。水たまりの泥水をすすって生きてきたのだ。
蛇口をひねったら、美味しい水が手に入る。
な、なんて贅沢なの!
い、いや、何を考えているのよ。
私は、スラム育ちではない。
夢よ、夢。
……シャワーでも浴びて頭を落ち着かせよう。
夢で全身が血まみれだった。血を洗い流すつもりで念入りに洗おう。
お風呂場に行き、シャワーを浴びる。
頭をごしごしと洗う。
気持ちいい。
シャワーの後は湯船につかる。
バスタブ一杯にお湯をはり、肩までつかるのだ。
あぁ、気持ちいい。
こんな温かい水で身体を洗えるなんて夢みたいだ。
スラムでは、身体を洗うお風呂なんて贅沢は考えられなかった。せいぜい濁った川の水で汚れを落とすぐらいだ。それも汚く臭い水でだ。鼻をつまみ悪臭に耐えながら洗う。冬なんて悲惨だ。あまりの寒さに手足が凍りそうであった。
はぁ~最高♪
風呂から上がり着替えを済ませると、窓を開けた。朝の涼しい風を感じた。
いい空気……。
深くゆっくり呼吸をする。
平和だ。
目を瞑り、鼻歌を歌いながらまどろんでいると、台所から母の呼ぶ声が聞こえた。
朝食の時間だ。
席に座る。
食卓には、パン、ソーセージ、ベーコンにサラダと目玉焼きがあった。いわゆる洋食スタイルである。
すごい豪勢だ。ピザまである。
スラムでは考えられなかった食事だ。
ごくりと生唾を飲み込む。
こんなご馳走を食べていいの?
震える手で箸を取り、カリカリのベーコンを口に入れる。
ジューシー! 舌に肉汁の旨味が染みわたった。配給の家畜の餌とは天と地ほどの差がある。
美味しい、美味しい、美味しいよぉ!
無我夢中でベーコンを食べ終わると、次に、パン、ソーセージを口に入れる。
はむ、はむ、はむ、ごくっ、はぁ、はぁ、美味い、美味い。
あまりの美味しさで涙が出てきた。
「愛里彩ちゃん、どうしたの? そんなに急いで食べると身体に悪いわよ」
母が心配そうに訊ねてきた。
「あ、あ、ごめん。あまりに美味しくて、つい」
「まぁ、珍しい。いつもはダイエットしてるって、あまり食べないのに」
母が目を丸くして驚いている。でも「美味しい」と言われて、まんざらでもなさそうだ。
「はっはっは、いいじゃないか。無理なダイエットはよくない。愛里彩、パパの分も要るか?」
父が自分の分のピザを分けてきた。
「た、食べる」
食欲が止まらない。こんなのいつもの自分じゃないと分かっているのに止められないのだ。
「もうパパの分は、冷めてるじゃない。それは捨てましょ。新しいのを用意してあげるから」
母がそう言って、ピザを捨てようとする。
「いや、捨てないで! もったいない、もったいなさすぎるよ」
「で、でも、愛里彩ちゃん、冷めたピザは美味しくないわよ」
「いい、いいから。それを食べる」
強引にピザをもらって食べる。
はぁ、はぁ、美味しい。
チーズとサラミの香ばしさが食欲をそそる。ふんだんに使った香辛料、色とりどりの具材。
これは、美味しすぎる。
多少冷めていようが、それがなんだというのだ。スラムでは、カチカチに凍って腐ったパンだってかぶりついていたのだ。
「ふふ、愛里彩ちゃん、そんなに食べてブタになっても知らないわよ」
「愛里彩ならブタになっても可愛い。大丈夫だ」
父と母が微笑みながら話す。
お父さん、お母さん……。
うぅ、うぅ。
食べていた手が止まる。
この温かい眼差し。この無償の愛情。
アリッサとしての記憶が教えてくれる。これこそが「家族」というものなのだと。
スラムでは見たことのない光景だった。親が子を心配し、子のために涙を流す。そんな当たり前のことが、私には奇跡のように思える。
ずっと独りだった。食事をするのも命がけだった。
私には両親がいるんだ。
こんなに美味しくて、こんなに安全で、こんなに温かい食事ができるなんて……私はなんて果報者なんだ。
ぽたぽたと涙がこぼれてくる。
嬉しくて幸せで涙が止まらない。
「あ、愛里彩ちゃん、急にどうしたの?」
「愛里彩、どうしたんだ? 何があった?」
急に泣き出した私を見て、両親が身を乗り出して心配する。
アリッサの記憶から「家族の愛」の概念を理解する。
「あ、あ、つい涙が出ちゃった。あまりに幸せだから……はは、何言ってんだろ、私」
自然に出た言葉だった。愛里彩の記憶では、両親の愛情を当然のものとして受け取っていた。でもアリッサの記憶が混ざった今、その貴重さが痛いほど分かる。
「愛里彩、驚かすな。いじめにでもあっているんじゃないかって心配したぞ」
「パパ、女の子は情緒が不安定になる日もあるのよ。愛里彩ちゃん、今日は学校を休みなさい」
「あぁ、ママの言うとおり休みなさい。そうだ。気分転換に買い物でもしてきたらどうだ? 父さんが小遣いをやろう」
母の優しさ、父の気遣い。
私は今まで、この愛情を当然のものだと思っていた。いや、愛里彩は思っていた。
でもアリッサは違う。家族の愛がどれほど貴重で、かけがえのないものかを知っている。
「えっ!? いいよ、いいよ」
自然に遠慮の言葉が出た。愛里彩なら当然のように受け取っていたはずなのに。
「なんだ、いつもの愛里彩らしくないぞ。ほら、遠慮するな」
父が小遣いとして、五万円を渡してきた。
五万円——この金額の重みが、今の私には痛いほど分かる。
スラムでは、銅貨一枚のために命がけの争いをしていた。人を殺してでも手に入れようとする、それほど貴重なものだった。
それなのに、この父親は何の見返りも求めずに大金をくれようとしている。
心苦しい。父が汗水働いて得たお金なのに。
「そんな大金もらえない」
「いいから取っておきなさい」
「ううん、私は十分にもらっている。だから、それはお父さん自身で使って。いつも大変なんだから、お母さんと一緒に美味しい物でも食べてよ」
愛里彩の記憶を通して知っている。この父親がどれほど家族のために働いているかを。朝早くから夜遅くまで、私たちのために身を粉にして。
それなのに、愛里彩はそれを当然だと思っていた。感謝の言葉一つかけたこともなかった。
なんて、なんて罪深いことを。
「あ、愛里彩!? うぅ、お前からそんな風に言ってもらえる日が来るなんてな」
「パパ、子供は成長するものよ。愛里彩ちゃん、ママも嬉しいわ」
父が感激して号泣している。母も泣いていて、目頭をハンカチで何度も押さえている。
こんなに喜んでくれるなんて……。
私は今まで、この人たちを悲しませ続けていたのか。
愛里彩の記憶が蘇る。
傲慢で、自己中心的で、家族を見下していた過去が。
結局、両親があまりに感動するから、これ以上遠慮するのも悪いかと思い、もらった。
増額されて渡された十万を持って台所を出る。
私、どうしちゃったんだろう?
階段を上っていると、妹の加奈がいた。
加奈は、夜遅かったようで今起きたようだ。
妹……。
私には両親以外に妹もいるのだ。
独りではない。
私たちは、姉妹なのだ。
急激に加奈に対して、愛おしさがこみ上げてくる。
アリッサは天涯孤独だった。兄弟姉妹などいるはずもなく、常に一人で戦ってきた。
でも愛里彩には妹がいる。血の繋がった、大切な家族が。
私の妹、加奈。
「あ、おはよう」
「……」
手を上げて笑顔で挨拶をするが、加奈は無視して階段を下りていく。
「あ、待って——」
「それ以上、近づいたら刺す」
加奈がポケットに忍ばせていた小型のナイフを向けてきた。
その眼は家族に向ける眼ではない。
私は、これを知っている。
夢で見たスラム住人のそれと一緒だ。憎悪と嫌悪が入り混じった感情、敵を見る眼である。
加奈……。
愛里彩の記憶が、鮮明に蘇ってくる。
スタンガンで脅したこと。「ブス」と呼んで傷つけたこと。存在を否定し続けたこと。
妹の人格を踏みにじり、尊厳を奪い続けてきたこと。
自業自得という言葉が胸に突き刺さる。
今までの私の所業を思えば、加奈の行為は当然だ。
嫌われるに決まっている。いや、嫌われて当然だ。
アリッサなら分かる。この憎悪の深さが。
スラムで虐げられ続けた者たちの眼と同じだ。絶望と怒りが混じり合い、もはや修復不可能なほどに心が壊れてしまった者の眼。
私は妹の心を、ここまで壊してしまったのか。
今まではそれでよかった。いや、愛里彩はそれで満足していた。
でも今は違う。それがすごく悲しくて切なくなる。
家族というものの大切さを知った今、その絆を自分の手で破壊してしまった罪の重さが理解できる。
加奈ちゃん、ごめん、ごめんね。
見送る加奈の背中に謝り続けた。
でも、言葉にならない。声に出せない。
謝ったところで、今更どうなるというのか。
加奈が行った後、部屋に戻る。
ベッドに行き、枕に顔をうずめた。
時間が経てば経つほど、脳内に前世の記憶がどんどん洪水のように注がれてくるのだ。
私は、アリッサ。
天涯孤独の暗殺者だった。スラム育ちの殺し屋。金で雇われ平気で人を殺す。
貴族を呪い、王を呪い、国を呪い、生きとし生ける者を呪った。この世の全てを根絶やしにしてやろうと、悪鬼羅刹に落ちるところを救われた。
誰に?
誰に救われたの?
……
…………
………………
そうだ。
ショウ様だ。
記憶の奥底から、温かい光がさしてくる。
あの時、王都の貴族街で——
十四歳の私は、復讐の炎に身を焦がしていた。
貴族たちを皆殺しにするために屋敷に忍び込んだ私の前に、一人の少年が現れた。
平民の服を着た、私と同じくらいの年頃の少年。
でも、その眼が違った。
私を見る眼に、恐怖も嫌悪もなかった。
ただ、深い悲しみがあった。
「君は、なぜそんなに悲しい顔をしているんだ?」
少年は、血まみれの短剣を握る私に、そう声をかけた。
悲しい顔? 私が?
「笑わせるな。復讐をしているんだ。悲しくなんかない」
「でも、君の眼は泣いている」
その言葉に、私の心の奥底で何かが崩れた。
確かに私は、いつも泣いていた。
憎悪の仮面の下で、ずっと泣き続けていた。
「君の本当の願いは何だ? 本当は、誰かを殺したいんじゃない。誰かに愛されたいんだろう?」
ショウ様の言葉が、私の凍った心を溶かした。
そうだ。私が本当に欲しかったのは、愛だった。
誰かに必要とされること。誰かを守ること。誰かのために生きること。
ショウ様に私は救われた。ショウ様のおかげで人間として生きることができたのだ。
私に人としての心を、温かな安らぎを与えてくださった。
会いたい。
ショウ様に会ってお礼を言いたい。
あぁ、思い出す。
凛々しく優しい。私の敬愛するご主君を。
愛里彩としての十七年間が、まるで薄っぺらい演技のように感じられる。
私の本当の名前は——
スラム育ちの暗殺者。ショウ・ホワイストの剣にして盾、アリッサ・ビーデルだ。
その確信が、心の奥底から湧き上がってくる。
あぁ、ショウ様に会いたい。
ショウ様?
ショウ様はどこ?
あっ!?
白石翔太!!
突然、電撃が走ったような衝撃が全身を駆け抜けた。
昨日までの愛里彩として生きてきた記憶と、アリッサとしての記憶が激しく衝突する。
私なんてことを、なんてことをショウ様にしでかしたのだ!
痴漢冤罪事件——あの忌まわしい記憶が蘇る。
愛里彩として、私はショウ様を陥れた。
紫門の指示とはいえ、私は無実の人を犯罪者に仕立て上げた。
しかも、その相手が——
私の命の恩人であるショウ様だったなんて。
「やってない、俺じゃない!」
ショウ様の必死の叫び声が、脳裏に蘇る。
あの時の絶望に満ちた表情。
私は何ということを……。
大恩あるお方に非道の振る舞い。
それだけではない。
昨日、ショウ様が家まで来てくださった時も——
被害届を撤回してほしいと、必死に頭を下げるショウ様に対して、私は何をした?
土下座を強要し、足を舐めさせ、髪を引っ張られたら激怒して——
スタンガンまで持ち出して脅したのだ。
救世主であるショウ様を、まるで奴隷のように扱った。
許されない。絶対に許されない。
アリッサとしてのアイデンティティが確立するにつれ、愛里彩としての記憶がいかに醜悪で邪悪だったかが浮き彫りになる。
ショウ様に命を救われ、生きる意味を教えていただいた暗殺者。
ショウ様のためなら命も惜しくない、忠誠を誓った騎士。
その私が、なぜショウ様を苦しめるような真似を……
頭を叩き割り、腸をえぐり取っても許されない大罪を犯してしまった。
いますぐ自害してショウ様にお詫びを——いや、その前に、私は自分がしでかした不始末の贖罪をしなければならない。
被害届の撤回。ショウ様の無実の証明。
そして、ショウ様への心からの謝罪と、永遠の忠誠の誓い。
それが、アリッサ・ビーデルとしての私の使命だ。
すぐさま私は鞄に入れてある携帯を取り出し、電話をかけた。