第十四話「恋の予感? 第二のヒロイン、関内 愛里彩との出会い」★
夕方の陽射しが校舎の窓を黄金色に染める中、重いカバンを肩にかけて南西館高校の校門をくぐった。
久しぶりに一人での下校だ。
ここ数週間は麗良と一緒に帰ることが多かったが、今日は違った。放課後、教室で麗良を待っていると、彼女の携帯に次々と電話がかかってきた。
「申し訳ない、ショウ。どうしても外せない重要な会議が入ってしまった」
麗良は困ったような表情を見せながら、それでも瞳の奥には鋭い光を宿していた。前世の記憶を植え付けてからの麗良は、確実に変わっている。高校生とは思えない威厳と責任感を身に纏い、まるで本当の女王のような存在感を放っていた。
もともと麗良は、草乃月財閥の令嬢として幼い頃からいくつもの習い事に取り組み、最近では会社経営にも本格的に携わっていた。俺にいつまでも関わっている時間があるはずがない。それは理解している。
麗良と電話もLINEも繋がりにくくなっているけれど、本来これが正常なのだ。
めちゃくちゃ忙しいんだろうな、きっと。
最近じゃボディガードの黒岩さんも、俺の護衛ではなく麗良につきっきりだ。以前は俺がいじめられないよう陰ながら守ってくれていた黒岩さんも、今では麗良の最重要任務に専念している。
前に麗良と連絡が取れた時は、俺の現状を心配したのか、「臨時でボディガードを雇って寄越してやる」と言ってきた。まるで王が家臣を気遣うような口調だった。
だが、俺は断った。
いやいや、黒岩さんは別として、知らないごつい奴と一緒では気を遣ってしょうがない。
俺はまごうことなき一般人だ。草乃月財閥のご令嬢に取り入ろうとする得体の知れない奴だと思われるのは目に見えている。針のむしろになるに決まっているよ。
大丈夫、大丈夫。俺はもう安全だ。
あれから紫門たちも退院したらしいが、俺に直接手を出してはこなかった。
あれだけ麗良に脅されたからね。股間を潰され、病院送りにされた恐怖が効いたんだろう、多分。
ようやく……ようやくだ。普通の高校生活に戻れたのである。
よかった。本当によかったよ。
鼻歌を歌いながら駅に向かう足取りは軽やかだった。
♪ラララ、ラララ♪
久しぶりの自由な時間。誰に気を遣うこともなく、自分のペースで歩ける贅沢を噛みしめていた。
駅の改札をICカードでタッチして通り抜ける。ピッという電子音が、日常の平穏を象徴しているように聞こえた。
ジリリと警音が鳴り、電車が近づいてきたことを知らせる。
おっ、ちょうどいいタイミングじゃん、ラッキー!
スキップ気味に歩いて、電車に乗り込む。車体が駅に滑り込んでくる様子を見ながら、今日一日の出来事を振り返っていた。
授業は平穏に進み、クラスメートたちも以前のように俺をいじめることはなくなっていた。むしろ、麗良の「恋人」として一目置かれる存在になっていた。
車内は夕方のラッシュ時ということもあって、それなりに混んでいた。サラリーマンや学生、主婦らしき女性たちが、それぞれの目的地に向かって静かに揺られている。
俺は手すりに掴まり、ドアに寄りかかる。
ごとごとと電車が揺れている。この単調なリズムが心地よく、少し眠気を誘った。
家まで三駅。いつものルートだ。携帯を取り出して暇をつぶそうと画面を眺めていると、次の駅で電車が止まり、新たな乗客が乗り込んできた。
女子生徒が数人乗ってきた。
へえ、堀恋高の制服だ。珍しい。
堀恋高等学校。この地域ではあまり見かけない制服だった。
堀恋高は、芸能科があって多数のアイドルやタレントを輩出している高校で有名だ。今も活躍する人気ボーカリストや国民的歌手の多くが堀恋高校出身である。拠点は渋谷や原宿といった都心部で、この郊外の路線ではほとんど見かけることがない。
ふうん、皆、かわいいなあ。
確かに、どの子もレベルが高い。芸能科の生徒たちなのかもしれない。普通に道端ですれ違えば、思わず振り返ってしまうレベルの美少女揃いだった。
特に、グループの中央にいるツインテールの子は、可愛さが群を抜いている。
身長は160センチ程度だろうか。スレンダーで上品な体型をしている。
髪は美しいアッシュブラウンで、光の加減によってはグレーがかって見える神秘的な色合いだった。長い髪を左右に分けて結んだツインテールスタイルで、髪留めには小さな黒いリボンが可愛らしくついている。前髪は少し長めで、片目にかかるように流されており、ミステリアスな印象を与えていた。
何より印象的なのは、その瞳だった。
大きくて美しい紫がかった瞳は、まるで宝石のアメジストのように神秘的に輝いている。少し垂れ目がちで、どこか憂いを帯びた表情が大人っぽさと可憐さを同時に演出していた。長いまつ毛が印象的で、瞬きするたびに美しい影を作る。
顔立ちは繊細で上品だった。
小さくて整った鼻、薄いピンク色の唇が絶妙なバランスを保っている。肌は陶器のように白く透明感があり、頬には薄っすらと自然な赤みが差していた。
制服の着こなしも完璧だった。
エンジ色のブレザーに白いシャツ、胸元には黄色いリボンタイが結ばれている。制服のカラーリングが彼女の上品な美しさを一層引き立てていた。
手の仕草も女性らしく優雅で、まるで雑誌のモデルのようだった。
表情は穏やかで、ほんのりと微笑みを浮かべている。その笑顔には純粋さと親しみやすさがあり、見る者の心を和ませる魅力があった。
しかし同時に、その美しい瞳の奥には何か計算高いものが隠れているような、不思議な魅力も感じられる。清楚でありながらも、どこか謎めいた雰囲気を纏った美少女だった。
まさに人気アイドルグループでセンターを務めていてもおかしくない逸材だ。それ以上に、彼女には他の子にはない独特のオーラがあった。可愛らしさと美しさ、そして少しの危険な魅力を併せ持つ、まさに「魔性の美少女」という表現がふさわしい存在だった。
車内にいる男性陣もこの子に気づいて、何度もチラ見している。中年のサラリーマンも、大学生らしき青年も、皆一様に彼女に視線を送っていた。彼女の美しさに魅了され、まるで磁石に引かれるように目が離せない様子だった。
いかん、いかん、あんまり見ているのは失礼だよな。
俺も例外ではなく、つい見とれてしまっていた。特にあの神秘的な紫の瞳に引き込まれそうになる。
慌てて目を逸らそうとした、その瞬間。
ツインテールの子と目が合った。
瞬間、彼女がニコッと微笑んできた。
か、かわゆい!
心臓が跳ね上がるような衝撃だった。
て、天使がいるよ。
その笑顔は、まさに天使のように純粋で美しかった。少し恥ずかしそうに頬を染めながらも、確実に俺を見つめている。
俺? もしかして俺に微笑んだの? とうとう俺にもモテ期来ちゃった?
今まで女子からまともに相手にされたことのない俺が、こんな美少女に微笑みかけられるなんて。
い、いや、それは自意識過剰だぞ、翔。そんな都合のよいことがあるわけがない。
だが、どう見てもこちらを見ている。
天使は、満面の笑みを浮かべて俺を見つめ続けている。
すごくかわいい。惚れそう。
動揺する俺のもとに、その天使が近づいてきた。
えっ!? えっ!? なになに? 本当に俺に?
信じられない光景だった。こんな美少女が、俺のような平凡な男子高校生に近づいてくるなんて。
すたすたと歩いてきた天使が俺の前でピタッと止まり、上目遣いに俺を見上げてきた。近くで見ると、さらに美しさが際立つ。
透き通るような白い肌、長いまつ毛、そして薄いピンク色の唇。
「え、えっと、お、俺に何か用ですか?」
声が裏返りそうになるのを必死に抑えながら尋ねる。
「白石さんですか?」
彼女の声は鈴を転がすように美しかった。
「あ、はい、そうだけど、なんで俺の名前……」
どうして知ってるんだ? 有名人でもないのに。
「ふふ、名札つけたままですよ」
彼女が指差した先を見ると、確かに制服の胸ポケットに名札がついていた。
あ、浮かれすぎて名札をつけたまま帰宅しているのに気づかなかった。
慌てて名札を外し、カバンにしまい込む。恥ずかしい。こんな基本的なことを忘れるなんて。
「はは、失敗失敗。それで俺に何か用ですか?」
「お話がしたいなって思って。白石さん、タイプなんですよ」
爆弾発言だった。
「うへえ、俺がタイプ? 嘘だあ?」
俺は自分の顔を鏡で見慣れている。普通のモブ顔だ。今まで「かっこいい」とか「イケメン」とか言われたことは一度もない。クラスでも特に目立たない存在で、いじめられる前は空気のような扱いだった。
「ふふ、そんなに卑下しなくてもいいですよ。かわいい顔してます」
彼女の言葉に、顔が熱くなるのを感じた。
「それに、その制服、南西館高校ですよね?」
「うん、そうだけど」
「やっぱり。頭いい高校ですよね。私、頭のいい人って好みなんです。少しお話してもいいですか?」
「も、も、も、もちろん」
これは夢なのか? 現実なのか?
「これって逆ナン!?」
人生でこんなことが起こるなんて。この制服も役に立つもんだね。頑張って進学校に入学してよかった。
そして、この天使としばし歓談することになった。
むふふ、こんな可愛い子に逆ナンされるなんて!
周囲の男性陣からの嫉妬の視線を感じる。中年のサラリーマンは明らかに羨ましそうな表情をしているし、同世代らしき男子学生は悔しそうに歯ぎしりしている。
天使との歓談がスタートした。
この天使の名前は、関内愛里彩ちゃん。
名前も美しい。まさに天使にふさわしい響きだった。
「私アイドルグループ【LASH】のボーカルを務めているんです!」
少し照れながらも、誇らしげに語る愛里彩ちゃん。
愛里彩ちゃんが説明してくれたところによると、【LASH】は女子中高生を中心に人気急上昇中のアイドルグループだという。メジャーデビューはまだだが、既にファンが数千人にも達しているらしい。
特にボーカルの愛里彩ちゃんは一番人気で、愛里彩ちゃん会いたさに徹夜してチケットを入手する人が急増してるんだとか。
「すごいね!」
俺は携帯で【LASH】を検索してみた。確かに検索結果にいくつものファンサイトや動画がヒットする。
【LASH公式サイト】
【関内愛里彩ちゃん応援サイト】
【LASH ライブ映像 2024.04.15】
どのサイトでも愛里彩ちゃんの美しさが強調されており、コメント欄には絶賛の声が並んでいた。
確かにね。この子は、絶対に売れるよ。
実際に話してみると、愛里彩ちゃんは会話の天才だった。男の言ってほしい言葉、くすぐられたいポイントを完璧についてくる。痒いところに手が届くというやつだ。
「白石さんって、真面目そうで素敵ですね」
「そんなことないよ」
「いえいえ、きっと勉強も頑張ってるんでしょ? 私、努力家の人って尊敬しちゃいます」
明るくて、社交的で、何より凄く可愛い。話していると時間を忘れてしまう。
ああ、いつまでも会話していたい。
愛里彩ちゃんと楽しく談笑していた時、それは突然起こった。
車内が大きく揺れ、バランスを崩す。
キキキキー!
電車が急ブレーキをかけたのだ。前方で何かトラブルがあったのか、車内放送も入らないまま電車は緊急停車した。
「うわっ!」
慌てて、手すりを掴む。立っていた乗客たちも皆、バランスを崩してよろめいている。
愛里彩ちゃんもよろけて転びそうになっていたので、反射的にもう片方の手で愛里彩ちゃんの肩を掴む。
「危ねえ。愛里彩ちゃん、大丈夫?」
「ええ、ありがとうございます。優しいんですね」
彼女の肩は細くて華奢だった。こんな細い身体でステージに立って歌っているのかと思うと、何だか愛おしくなる。
「あ、ごめんね。思わず肩を掴んじゃった」
手を離そうとする俺に、愛里彩ちゃんが微笑みかける。
「いいんですよ。むしろ守ってもらえて嬉しいです」
その瞬間だった。
愛里彩ちゃんが俺の手を掴み、そのまま自分のお尻の方向に持っていく。
「えっ!?」
何が起こったかわからず、俺の頭は一瞬フリーズした。
愛里彩ちゃんが俺の手を強引に自分のお尻に押し当てたのだ。
そして……。
「いやああああ!」
耳をつんざくような甲高い女の声が電車内に響いた。
愛里彩ちゃんの表情が一変していた。さっきまでの天使のような笑顔は消え失せ、代わりに恐怖と嫌悪に歪んだ顔が現れた。
「こいつ、痴漢よ、痴漢! 私のお尻を触ったの!」
愛里彩が大声で俺を指さし、非難してくる。
その演技力は見事だった。本当に被害を受けた女性そのもののリアクションだ。
「な、な、何言ってんだ! 触ったって、あんたが無理やり——」
「ね? 皆さん見てたでしょ? この人が私のお尻を触ったの。ひどいわ」
愛里彩が俺の言葉を遮り、周囲の乗客に同意を求めた。
その時、俺は気づいた。
愛里彩の連れの女子たちが、何食わぬ顔で俺たちの周りに壁を作っていたのだ。他の乗客から見えにくい位置に移動し、愛里彩の「仕込み」を隠していた。
そして今、その壁が崩れ、俺が愛里彩のお尻に手を当てている瞬間だけが乗客たちに見えるようになっていた。
完璧な計算だった。
「こいつ、痴漢か!」
「取り押さえろ」
愛里彩の言葉をまに受けた周りの乗客数人が俺を取り押さえに乗り出した。
筋肉質なサラリーマンが俺の両腕を掴み、別の男性が足を押さえる。鍛えてもいないモブの俺が、大の男数人がかりの力に抵抗できるはずがない。
「放せ! 誤解だ!」
必死に抵抗するが、力の差は歴然だった。
強制的に途中下車させられた俺は、なすがまま駅のホームで地べたに押さえつけられ拘束される。
冷たいコンクリートが頬に当たり、現実の厳しさを思い知らされた。
「冤罪だ。誰か見てただろ? この女が俺をはめるところを。俺の手をわざと掴んでお尻に当ててきたんだ」
俺は必死に訴えるが、誰も耳を貸さない。
それどころか、言い訳して逆ギレしているみたいに思われた。
あの場に乗客は何人もいたはずなのに、目撃者がいないだと!
一体、何がどうなってやがる?
答えを求めて頭をひねるが、事態の全容を掴めない。愛里彩とその仲間たちの巧妙な罠にまんまとはまってしまった。
そうこうしているうちに、騒ぎに気づいて野次馬たちがどんどん集まってくる。
「何があったんだ?」
「痴漢だって」
「最近多いよな、こういうの」
ほとんどの野次馬が、拘束され地べたに倒れている俺を奇異な目で見ていた。そして、俺が痴漢として捕まっている男だとわかると、その視線は軽蔑の色へと変貌していく。
「最低だな」
「学生のくせに」
片方の意見だけ聞いて勝手な奴らだ。真実は冤罪なのに。
そして、俺は見てしまった。
野次馬たちに紛れて、満足そうにほくそ笑む男の姿を。
紫門だった。
やられた。
すべてが繋がった。俺は、紫門の巧妙な罠にはめられたのだ。
あの女、紫門の仲間かよ。
愛里彩は天使どころか、とんでもない悪魔だった。紫門に雇われた刺客だったのだ。
その美貌と演技力を悪用した卑劣な罠だった。
とにかく、この状況はやばい。
このまま警察に突き出されれば、痴漢の前科者として人生が終わる。南西館高校も退学になるかもしれない。
「俺はやっていない。信じてくれ」
必死の訴えも空しく響く。
「うぐっ、ひぐっ……嘘よ。ずっと私をいやらしい目で見てた。すごく怖かった」
愛里彩は、連れの友人の胸を借り、むせび泣きながら非難を続ける。
なんと上手い嘘泣きか。さっきまでの天使のような笑顔が嘘のようだ。
愛里彩の連れも、「そうそう」とうなずき、俺を「女性の敵だ」と罵る。
「この人、電車に乗った時からずっと愛里彩ちゃんを見てました」
「気持ち悪い視線を送ってたんです」
彼女たちも明らかにグルだった。
思い返してみると、こいつらは俺と愛里彩を取り囲むようにいた。いわゆる「壁」を作って、乗客たちに愛里彩の悪巧みを目撃させないようにしていたのだ。
そして愛里彩が俺を痴漢と騒ぎ立てた瞬間に、計算されたタイミングで壁を崩したのだ。
完璧な連携プレーだった。
状況証拠は俺を痴漢と決めつけている。
目撃者は全員、愛里彩の味方だ。愛里彩は被害者面して泣いたふりをしている。
か弱き乙女の涙ながらの訴えと、地面に押さえつけられた無様なモブ男子高校生。
どちらが信用されるかは火を見るより明らかだった。
何を言っても無駄のようだ。
野次馬も俺を罪人を見るような目つきで睨んでいる。
「ちくしょう、ちくしょう」
理不尽な現実に怒りがこみ上げてくる。
「放せ、放せ」
振りほどこうと必死に暴れるが、二、三人がかりで押さえつけられており、どうしようもない。
「暴れるな。往生際が悪いぞ」
取り押さえているサラリーマンたちも必死で俺を押さえつける。正義感に燃えた市民として、痴漢を逃がすわけにはいかないという使命感に満ちている。
俺がじたばたともがいていると、群衆の中から一人の男が現れた。
紫門だった。
「手伝いますよ。お仕事帰りの方のお手を煩わせるわけにはいきません」
紫門は、好青年の仮面を被り、さわやかに言う。まるで正義の味方のような佇まいだった。
「あ、その制服、同じ高校の……」
取り押さえていたサラリーマンの一人が気づく。
「はい、同じ学校の生徒として本当に悲しいです。僕が責任を持って、彼に罪を償わせます」
完璧な演技だった。同級生として恥じている善良な生徒を演じている。
サラリーマンたちから俺を引き渡された紫門は、手慣れた様子で俺に腕固めを仕掛けて再度拘束する。
その手つきは、まるで柔道でもやっているかのように慣れていた。
「くっく、ざまあないな」
群衆に聞かれないよう、耳元で紫門が囁く。
その声には、長い間抱いていた恨みと憎悪がこもっていた。
「くそ、紫門、こんなふざけた真似をして麗良さんが知ったら——」
「無駄だ。お前の犯罪現場は、ばっちり携帯で撮らせてもらった」
紫門が携帯を振ってみせる。画面には、俺が愛里彩のお尻に手を当てている瞬間の写真が映っていた。
「これを麗良に見せたらどうなるだろうな~」
どうもなりはしない。お前がキンタマを再び潰されるだけだろう。俺と麗良の絆を舐めてもらったら困る。数十年、生死を共にした仲なのだ。もちろん、それは小説の中の設定だが、洗脳された麗良にとっては現実だ。
そうとは知らず、紫門は勝ち誇った顔で、饒舌に話を続ける。
「こんなに簡単にひっかかりやがって。親父のコネを使うまでもなかったな」
「なんだって!? どういう意味だ」
嫌な予感が脳裏をよぎる。
「相変わらずバカな奴だ。俺がただただ大人しくしていたと思うかよ」
紫門の表情が邪悪に歪む。
「親父に頼んで麗良の父親に話を通した。『娘さん最近おかしくないですか』ってな」
「それじゃあ、まさか!?」
「そうさ、近頃とみに忙しいのは、麗良が父親とやり合ってるからなんだよ」
衝撃的な事実だった。
麗良が最近忙しくしているのは、ビジネスの拡大だけではなかったのだ。父親との権力闘争に巻き込まれていたのか。
まじかよ、やばいぞ。
草乃月家の内部分裂。それは麗良の立場を大きく揺るがす事態だった。
「そんなことより白石、お前はおしまいだ。これを突きつければ、麗良の目も覚めるだろう。虎の威を借る狐も終わりだ」
いや、それは全然心配していない。麗良の目は覚めないから。洗脳の効果は絶大だ。
それより、麗良が父親とやり合っているというのがすごく気になる。もしかして草乃月財閥の権限が麗良から失われつつあるのか。
それなら、俺を守る力も弱くなってしまう。
「この屈辱は、万倍にして晴らしてやるからな」
紫門が殺気を込めて俺を睨む。
その目には、入院中に味わった屈辱と痛みへの復讐心が燃えていた。
そして、駅員室に向かう途中、紫門は巧妙に身体で隠しながら俺の鳩尾に拳を叩き込んできた。
ドン!
「痛え、くそ」
息が詰まるような激痛が走る。
痛みで身体が九の字に曲がり、呼吸が困難になる。
「しっかりしろよ、白石。駅員さんに迷惑かけるなよ」
紫門は周囲に聞こえるように優しい声をかけながら、実際は冷酷に俺を痛めつけていた。
痛みで苦しむ俺を、紫門が「心配する同級生」を演じながら駅員に引き渡す。
「すみません、こいつが痴漢をしてしまって。同じ学校の生徒として、本当に申し訳ありません」
深々と頭を下げる紫門。完璧な演技だった。
駅員は紫門から事情を聞き、俺の言い分にはほとんど耳を貸さなかった。
「言い訳は後で聞きます。まずは警察署で詳しく事情を聞かせてもらいます」
そして俺は、手錠をかけられたままパトカーに押し込まれ、警察署に連れて行かれてしまった。
☆★
警察署の取調室は、想像していたよりも殺風景だった。
グレーの壁、蛍光灯の白い光、そして向かい合うように置かれた机と椅子。
「座りなさい」
中年の刑事が俺に椅子を指差した。
「君の名前は白石翔太、南西館高校二年生で間違いないね」
「はい」
「今日の午後六時頃、環状線の車内で女子高生にわいせつな行為をしたという申告があった。どうだね?」
「やっていません。冤罪です」
俺は必死に説明した。愛里彩が俺の手を無理やり自分のお尻に持っていったこと、明らかに計画的な罠だったこと、紫門との関係について。
しかし、刑事の表情は懐疑的だった。
「君の話では、被害者の女性が自分から君の手を自分のお尻に当てたということだね?」
「そうです」
「なぜそんなことをする必要があるんだ?」
「それは...」
紫門の復讐だと説明しても、信じてもらえるだろうか。高校生同士のいじめの延長だと思われるのがオチだ。
「動機が不明確だな。それに、目撃者の証言では君が一方的に触ったということになっている」
刑事が分厚いファイルを開く。
「被害者の関内愛里彩さん、17歳。堀恋高校の生徒で、アイドル活動もしている。彼女の証言によると、君は電車に乗った時からずっと彼女を見つめていた」
「それは...かわいかったから、つい...」
「ほら、認めたじゃないか」
「違います! 見つめていたのは確かですが、痴漢はしていません」
「こちらを見なさい」
刑事が携帯の画面を俺に向けた。そこには、俺が愛里彩のお尻に手を当てている瞬間の写真が映っていた。
「これは現場にいた同級生の...小金沢紫門君が撮影したものです」
「さらに、複数の目撃者が君の行為を目撃している」
刑事が証人の証言書を読み上げる。
「○○さん(会社員・45歳)『確かに男子学生が女子生徒のお尻を触っているのを見ました』」
「△△さん(主婦・38歳)『女の子が『やめて』と言っているのに、男の子は手を離そうとしませんでした』」
全て嘘だ。愛里彩の仲間たちが用意した偽証だろう。
「君以外の全員が君を痴漢だと証言している。どう説明するんだ?」
「そ、それば……」
どう反論すればよいか思いつかない。絶望的な状況だった。