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第十一話「私は、王女レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツである!」

 春の陽光が差し込む洋館の一室で、私は窓辺に立ち、庭園を見下ろしていた。手入れの行き届いた薔薇園では、季節の花々が競うように咲き誇っている。美しい光景だが、私の心は晴れやかではなかった。


「お嬢様、お茶の時間でございます」


 使用人の声に振り返ると、銀のティーセットが運ばれてきた。上品なカップから立ち上る湯気を見つめながら、深いため息をついた。


 草乃月麗良。それが私の名前。


 つまらない。

 このままでは人生が終わってしまう。


 表向きは何不自由ない令嬢の生活。だが、それは表向きの話だった。心の奥底では、定められた人生への反発が渦巻いていた。


 私は草乃月財閥の一人娘。小さい頃からお稽古、勉強で自由な時間がなかった。ピアノ、茶道、華道、フランス語、社交ダンス......数え切れないほどの習い事に追われる毎日。友達と遊ぶ時間もなく、常に「令嬢らしく」振る舞うことを求められてきた。


 このままエスカレーター式に進学して親の会社に就職し、最後は親の勧めで見合いをして結婚する。想像できてしまう、私の人生。まるでレールの上を進む電車のように、決められた道筋から外れることは許されない。


 中学卒業を前に、ふとそんな人生がつまらなくなった。


「お父様、私、鳳凰院高等学園以外の学校に行きたいんです」


 ある日の夕食で、意を決して切り出した。草乃月家の家長である父、草乃月涼彦は驚いたような顔を見せた。


「麗良、何を言っているんだ。鳳凰院学園は我が家にふさわしい格式ある学校だ」

「でも、お父様......」


 もちろん、何不自由なく暮らしていけるのは両親のおかげだ。その点は感謝している、感謝しているのだが、一つぐらいわがままを言いたい。進路も将来も決められているが、学生時代、高校生の間くらいは自由に青春を謳歌してみたいじゃない。


「普通の高校生活を送ってみたいんです。友達とおしゃべりして、放課後にお買い物して、カラオケに行ったり......」


 父は困惑した表情を浮かべた。母も同様だった。


「麗良、あなたは草乃月家の跡継ぎなのよ。庶民の真似事なんて......」

「お母様、お願いします。高校の三年間だけでいいんです」


 そのためにも進学予定の「鳳凰院高等学園」では駄目だ。


 鳳凰院学園は、名家の御曹司や政治家、医者、人間国宝の子供たちが通う名門校で、進路や設備も他と一線を画している。


 屋上には天然芝と防犯カメラ、校内エレベーターなどの先進設備、カフェテリア、和洋中そろった学食、有名な作家の初版本もある大規模な図書館。制服も老舗テーラーが手がけた一品物で、学校というより小さな宮殿のような佇まいだった。

 ただ学費を払うだけでなく、ふさわしい品格がないと入学できない。選ばれし者しか入れない高校だ。


 ただ、一点校則が厳しすぎる。


 くだけた言葉遣いは駄目、放課後の寄り道は駄目、巷で遊ぶ様々な場所に出かけるのも駄目。常に紳士淑女たれ。これでは男女交際どころか男友達すらできないだろう。


 私は放課後に友達とタピオカを飲んで、カラオケに行ってみたいのだ。何より素敵な男の子とデートもしてみたい。


 あそこでは絶対にできないだろう。


 嫌だ、嫌だ。


 粘り強く両親を説得した結果......。


「分かった。ただし条件がある」


 父は重々しく口を開いた。


「学業をおろそかにしてはいけない。首席を取ることが条件だ」


 庶民が通う南西館高校に通えるようになった。地区有数の進学校らしいけれど、所詮は庶民の学校だ。普段のレベルを発揮すれば問題ない。


 そして......。


 高校に入学し、私は自由を満喫した。


 南西館高校の校門をくぐった時の開放感は、今でも鮮明に覚えている。鳳凰院学園のような威厳はないが、生徒たちの活気に満ちた笑い声が響いていた。


 南西館高校に入学しても、私が親しくするのは限られた人々だった。


「麗良、本当にこんな学校でいいの?」


 同じく財閥令嬢の親友、桜井香織が心配そうに言った。香織も私に付き合って鳳凰院学園を蹴り、この学校に来たのだ。


「大丈夫よ、香織。たまには違う世界を見るのも悪くないわ」

「でも麗良さん、やっぱり庶民の子たちとは話が合わないですわ」


 そう言ったのは神崎祥子だった。髪をロールに巻いた上品な佇まいの少女で、大手商社の専務取締役を父に持つ名門の出身だ。祥子も私に憧れて、わざわざこの学校に転校してきた一人である。


「祥子の言う通りね。でも、それはそれで面白い経験になるわ」

「さすが麗良さんですわ。そんな風に余裕を持てるなんて」


 神崎祥子は感心したように言った。彼女の瞳には、私への憧憬の色が濃く浮かんでいるのが分かった。


 他にも、華族の末裔である白百合聖子、老舗企業の跡取り娘である金森雅美など、私の周りには同じような境遇の友人たちが集まっていた。


 友達と他愛もないおしゃべり。放課後のショッピング。念願のカラオケにも行った。

 高級カラオケボックスの個室で、マイクを握って歌う体験は格別だった。


「麗良、上手! さすがお嬢様、習ってたの?」

「少しだけ......」


 実際は本格的な声楽を習っていたが、それを言うのは野暮だと思った。


 新鮮だった。


 庶民の学校生活を上から眺めるのは、まるで動物園を見学しているようで面白かった。


 庶民出身の子では、レベルが低く話が合わないだろうって、鳳凰院高等学園に通うはずだった友人も何人か一緒についてきてくれた。持つべきものは友人よね。


 実際、一般の生徒たちとは住む世界が違いすぎた。昼食時に庶民の生徒たちが「今日のお弁当のおかず」について盛り上がっているのを見ては、内心で失笑していた。私たちの世界では、そんな些細なことで喜ぶなんてありえない。


 そして......


 紫門君。私の最愛の人。


 紫門君とは、以前から知り合いだった。同じような名家の出身で、パーティーや社交界で何度か顔を合わせたことがある。整った顔立ち、上品な物腰、そして何より人を惹きつける魅力的な笑顔の持ち主だった。


 紫門君も私のわがままに付き合ってくれた。本当は海外の有名校に留学するはずだったのに、経歴を汚すことになっても、わざわざ私のために格下の高校に通ってくれたのだ。


「麗良が南西館高校に行くなら、俺も一緒に行くよ」


 社交界のパーティーで、私の進路について聞いた紫門君がそう言ってくれた時の嬉しさは忘れられない。


「でも、紫門君の留学は......」

「君の方が大切だ。君を一人にはできない」


 親切で笑顔がさわやかで素敵な人。

 同じクラスになった時は、運命を感じた。これで毎日一緒にいられる。


 図書館で一緒に過ごす時間が増えていった。


「麗良、この本面白いよ」

「紫門君が勧めるなら、きっと素晴らしい本なのね」


 それまで社交界での短い会話しかなかった二人だが、学校生活を通じて距離が縮まっていく。


 少し強引だけれど、好きだと言ってくれた。

 校舎の屋上で、夕焼けが二人を包んでいた。


「麗良、君を愛してる」


 突然の告白に、私は頬を染めた。

 大切にするって、将来結婚しようって、キスされそうになった。


「俺と一緒に、幸せな未来を築こう」


 彼の顔が近づいてくる。私の心臓は激しく鼓動していた。

 キスは、びっくりして思わず拒絶したけれど、嫌じゃなかった。


「ご、ごめんなさい......」

「いや、俺の方こそ急ぎすぎたよ。君のペースに合わせるから」


 ふふ、男の子だもの、しょうがないよね。次は大丈夫、私も覚悟を決めた、同じ気持ちだから。


 たくさんデートしよう。


 クリスマスの夜とかロマンチックにしたいなあ。


 ふふ、今から楽しみ。

 ああ、お父様を説得して良かった。

 学校生活が楽しい。


 ただ、不満を一つ言えば......


 クラスの後ろの席に座る、地味な男子生徒。いつも一人で本を読んでいる。

 同じクラスの白石とかいう男。ほとんど印象に残らない存在だった。話をしたことがない。話をする価値もない。


 そう思っていた。

 そんな小物が紫門君を誹謗中傷してきたのだ。


 思い出すだけでも不愉快だった。数ヶ月前、図書室で読書をしていたら突然現れて、紫門君が他の女性と腕を組んで歩いていた、キスをしてホテルに入ったなどという信じがたい中傷を口にした。そして昨日は、また現れて「あの時言ったことは真実だ」と執拗に食い下がり、ついには私の髪を掴むという野蛮な行為に及んだのだ。


 絶対に許せない。

 紫門君に報告したところ、深く憤慨してくれた。


「何だって? 白石が君に手を上げたって?」


 紫門君の表情が一変した。


「許せない。君を傷つける奴は、俺が許さない」


 私のためにここまで怒ってくれるなんて。


「明日、きちんと話をつけてやる」


 ふふ、ざまあみろって、こういう時に使うのよね。きっちりお灸をすえてもらおう。


 あとはお父様に頼んで、白石は退学にしてやろう。視界に入るだけでイライラするもの。慰謝料もきちんともらう。庶民には少し高いかもしれないけれど、あることないこと風評して紫門君の将来を汚そうとしたんだもの、当然よね。


 ああ、くだらない、くだらない。


 こんな茶番を見るため、お父様に無理を言って入学したんじゃない。


 いじめられているって言ってたけれど、いじめられる方に問題があると思う。白石を見ていれば分かる。顔も頭も性格も悪いなら当然の結果だ。


 はあ、もうやめやめ、白石なんて小物、考えるだけ人生の無駄ね。


 せっかくの高校生活だもの。

 紫門君のことを考えよう。


 明日、返事をする。


 覚悟を決めた。キスの先だって、許しちゃう。

 少し遅めだが、ベッドに入り眠る。


 夢の中で、不思議な光景を見た。広大な城、戦場、そして......誰かの声が聞こえる。優しく、温かい声だった。




⭐★




 目が覚めた。

 知らない天井......いや、知っている天井だ。


 自室の天井。慣れ親しんだはずの光景が、なぜか遠く感じられた。


 頭がぼうっとする。


 私は......誰?


 麗良、レイラ。


 二つの名前が頭の中で響く。どちらも自分の名前のような気がするが、同時に違うような......


 おもむろに頬を触る。濡れていた。夢で涙を流していたらしい。


 夢?


 あれは夢なの? いや、夢というにはあまりにもリアルすぎる。


 石造りの城壁、剣戟の音、血の匂い。そして......

 数千、数万、幾億もの人々の期待を一身に受けて立つ、その姿。


 王としての在り方......。

 鮮明すぎる記憶が、洪水のように押し寄せてくる。


 友人から勧められてとある漫画を読んだ。その中にあった話に似ている。

 前世の記憶が蘇った少女は、元王国の王女で、隣国の王子と現代の日本で再会する話だ。


 私も前世の記憶がよみがえった?


 ううん、ただの夢。そんな非現実的なことが起こるはずがない。

 だが、記憶はあまりにも鮮明だった。王宮の調度品の細部、家臣たちの顔、戦場の匂いまで......


 無理やり起きて、身支度をする。

 鏡に映る自分の顔を見つめる。いつもの草乃月麗良の顔だが、どこか違って見えた。


 途中お手伝いさんに何か言われた気がするが、耳に入ってこない。


「お嬢様、朝食の準備ができております」

「......ええ」


 食事も喉を通らない。頭の中は前世の記憶でいっぱいだった。


 学校に向かう。


 車窓から見える街並みが、なぜか異国の風景と重なって見える。


 あれは......私は......。

 考えれば考えるほど、深みにはまる。


 校門に近づくと、見知った顔が見える。


「麗良さん、おはようございます!」

「麗良さん、おはよう!」


 クラスメートたちだ。

 いつもの光景。いつもの挨拶。

 だが......


「おは、よ......」


 挨拶しようとして手を引っ込める。

 今までと同じクラスメートのはずなのに。

 クラスメートの顔と、前世の記憶がマッチする。


 生々しい記憶だ。

 難攻不落と名高いヴュルテンゲルツ城が燃えた。

 裏切った重鎮たちの手によって、燃やされたのだ。


 城の中庭で、火の手が上がる。宮廷の人々が右往左往する中、重鎮たちは冷酷な表情で命令を下していた。


 国王であるお父様を殺した。後を継いだ私も殺そうとした。

 王座の間で、父王が血を流して倒れている。その周りを囲む重鎮たち。彼らの顔には、もはや忠誠心のかけらもなかった。


 日頃、私に都合の良い言葉で褒め連ねていた。宮廷での地位に固執し、ありとあらゆる力を行使し、気に入られる努力をしてきた者たち。


「陛下、時代は変わりました」

「ヴュルテンゲルツ王国に未来はありません」


 陰では私をあざ笑い、国を裏切っていた者たちだ!


「愚かな王女め、ようやく目が覚めたか」


 笑顔で挨拶をするクラスメートの顔がぐにゃりと歪み、醜い笑みへと変貌する。

 それは、まるで国を傾かせた王女を陰でクスクスと笑っているかのようだ。


 やめろ、だまれ。


 眉間にしわを寄せ、その声に耐えていると、


 紫門が声をかけてきた。


「おはよう、麗良」


 昨日までは爽やかな笑顔だった。いつもその顔を想い耽っていたはずなのに......。


 今は醜悪な小鬼がニヤついているように見える。


 吐き気がした。

 醜い。醜すぎる。


 私は、このような奴に懸想し、あまつさえ接吻までしようとしていたのか!


 気持ち悪い。


 おえっ!


 えづく。地面に吐瀉した。


 はあ、はあ、はあ。


 八つ裂きにしたいほどの憎悪で胸が焦げ付く。


 シモン・ゴールド・エスカリオン......。


 記憶が鮮明に蘇る。金髪に碧眼、一見すると貴公子然とした男。


 だが、その正体は......


 レイラの婚約者。ヴュルテンゲルツ王国の東部ワイインを領土に持つ大公。国の重鎮かつ王女の婚約者という身でありながら、裏で帝国に繋がっていた男。数多の罪なき女性を慰み者にし、民をいたぶり悦に浸する暴君。


 ワイインを視察した際の......。


 あなた、あなた!


 倒れる夫に縋りつく妻の悲鳴が響く。そんな嘆く妻をシモンは嗜虐の笑みを浮かべ襲う。傍らにいるその子たちは、半狂乱になって泣き叫んでいる。


「やめて! お父さんを殺さないで!」

「ふふ、泣き声が美しいな。もっと聞かせてくれ」


 ああ、何という悲劇だ。


 苛政は虎よりも猛なり。


 シモンが治める東部は、地獄そのものであった。

 情景が頭に鮮明に映し出される。


 ち、違う!


 夢だ。夢に決まっている。

 現実と夢を混同するな。


 ぶんぶんと頭を振る。


「麗良、調子でも悪いのか?」


 紫門の声が、シモンの声と重なって聞こえる。


「う、うん、ちょっとね」

「大丈夫かい? なんなら保健室まで連れていくよ」


 やめろ。近づくな。

 その手は、どれだけの無辜の民を苦しめたのか。


「い、いい」

「遠慮するなって、僕と君の仲だろ」

「いいって!」


 紫門が差し出した手を強引に振り払う。


「れ、麗良?」

「はあ、はあ、大丈夫だから......少し落ち着いたら行く」

「そ、そうか。無理するな。落ち着いたら教室に来てくれ。面白いもの、見せてやるから」


 面白いもの?


 不吉な予感が脳裏をよぎる。

 そう言って、紫門がその場を後にする。



 消えたか。


 天を仰ぎ、ふうっと大きく息を吐く。

 はあ、ほっとしたのもつかの間、


「麗良さん、さっきのは一体......?」


 紫門とのやりとりを怪訝に思った生徒が聞いてくる。


「麗良さん、もしかして体調がお悪いんですか?」

「そっか。さっき吐いてましたし、風邪なら休んだ方がいいですよ」


 紫門が去ってからも、次々と声をかけてくる生徒たち。


 やめろ、来るな。


 声をかけてくるのは、国を崩壊させた裏切り者たちだ。


 うるさい。貴様らの声を聞くのは不快だ。

 これ以上話しかけるな。


「麗良さん」

「麗良さん」

「麗良さん」


 ......


 駄目だ。もう我慢できない。

 これ以上、お前たちの声を聞いていたら......。

 これ以上、お前たちの存在を許していたら......。


 殺したくなってくる!


 殺意に委ねたまま、手を振り回す。


「ひいっ! な、何するんですか、麗良さん」


 殺気を込めて振り回した手は近くにいた生徒の頬をかすったようだ。頬からたらりと血が垂れている。生徒は驚き尻もちをついていた。


 はあ、はあ、はあ、私は何をやっているんだ?


 これじゃまるで精神異常者じゃないか。

 驚く周囲をよそに、ふらつきながらその場を立ち去る。



 どこかで休憩しよう。


 中庭に入り、石段に腰を下ろす。しばらく休憩すれば落ち着くだろう。


 桜の木々に囲まれた静かな空間。いつもなら心が安らぐはずの場所が、今は監獄のように感じられた。


 ......

 ...............

 ......................


 駄目だ。

 時間が経てば経つほど、心はさざ波のように揺れる。

 脳内に、前世の記憶がどんどん洪水のように注がれるからだ。


 テンメリの大飢饉。

 テンメリ三年の冬、王国東部一帯を襲った大規模な干ばつのため、農作物の収穫が大幅に減少した。民は飢え、死者は十万人以上となる。


 広がる枯れ野原。痩せ細った農民たちが、わずかな芋を掘り起こそうと必死になっている。子供たちの泣き声が風に乗って聞こえてくる。


「陛下、民が飢えております」

「分かっている。だが、蔵にはもう米がない」


 王宮の謁見の間で、家臣たちが絶望的な報告を続けていた。


 民が飢えと病に苦しんでいる時、領主であるシモンは驕奢に耽っていた。さらには悪徳商人と結託し、わずかに残った食物を買い漁り、暴利を得た。


「大公様、今夜も宴でございますか?」

「当然だ。民の苦しみなど知ったことか」


 城の大広間では、豪勢な料理が並んでいた。シモンは薄ら笑いを浮かべながら、民の苦痛を嘲笑っていた。


 南蛮の大乱。

 王国南部に位置するエイアンで異民族の反乱が起きた。南蛮国の首領毛獲率いる十万の蛮兵が王国南部の都市エイアンに侵攻したのだ。


「陛下、エイアンが陥落いたしました」

「何だと?」


 戦旗がはためく戦場。異民族の戦士たちが雄叫びを上げながら城壁を駆け上がってくる。


 軍に多大な影響を与えていた大公シモンは、征南将軍にサッサ伯爵を任命。サッサ将軍は、国軍三十万を率いて鎮圧に向かうも、ことごとくこれに敗北。王国軍の士気を大いに下げた。


「将軍、敵軍が迫っております!」

「構うな、撤退だ!」


 サッサは真っ先に戦場から逃げ出していた。置き去りにされた兵士たちは、絶望の表情を浮かべていた。


 ミナトガワの撤退戦。

 先年のカントの戦いで帝国軍に大敗を喫したヴュルテンゲルツ王国軍。勢いに乗る帝国は、王都ヴュルテンゲルツに進軍を開始。


「陛下、帝国軍が王都に迫っております!」


 城壁の上から見える光景は絶望的だった。黒い甲冑に身を包んだ帝国兵たちが、蟻のように王都を囲んでいる。


 サッサ伯爵たちの手引きにより、王国軍は瓦解寸前に陥り、王都は帝国軍に占領された。そんな厳しい情勢で王と側近たちは、王国西部のチョウアンに撤退を余儀なくされた。


「父上、我々はまだ戦えます」

「レイラ、もはや勝ち目はない......」


 王の疲れ切った表情が忘れられない。一国の主として、どれほどの重責を背負っていたのか。


 ......。

 ...............。

 ......................。


 記憶の洪水は止まらない。


 戦場の硝煙、血の匂い、民の嘆き、


 そして......


 ああ、そうか。夢であるわけがない。

 あれは現実だ。

 私は、あの忌まわしき地獄のような世界を生き抜いた。


 ショウ、お前のおかげだ。


 その名前を思い出した瞬間、胸の奥が温かくなった。


 ショウ・ホワイスト。王国一の将にして、忠義の人。


 そして......私の最愛の人。


 テンメリの大飢饉の際は、寝食を忘れて難民救済にあたってくれた。各地にお助け小屋を設置し、炊き出しを行った。日頃から備蓄対策を行い、名宰相ぶりを見せてくれた。


「陛下、民の救済策をまとめました」


 深夜の執務室で、ショウは山積みの書類を前に報告していた。目の下には隈ができ、疲労の色は隠せなかったが、その瞳には強い意志が宿っていた。


「ショウ、あなたも休みなさい」

「陛下がお休みになられてからで結構です」

「あなたが倒れては元も子もありません」

「......分かりました。しかし、明朝には必ず」


 南蛮大乱の際は、沈着冷静に鎮圧にあたってくれた。王国の東西南北に位置する異民族、東夷、西戎、南蛮、北狄、彼らの間で疑心を抱かせ楔を打った。


「首領毛獲は、北狄との同盟を警戒しております」

「それを利用しましょう。北狄に偽の書簡を送り、南蛮との分裂を図るのです」


 季節ごとに移動を繰り返し、永住はせず、何度も略奪を行う異民族たち。

 歴史、文化がまるで違うそんな異民族たちに歴代の王は常に頭を悩ませてきた。そんな難しい問題を、異民族の部族長に会い、時に武力で脅し、時に貢物で和睦し、名外交ぶりを見せてくれた。


「陛下、南蛮の首領が和睦を申し出ております」

「ショウの策が功を奏したのですね」

「まだ油断はできません。彼らは風のように移動します」


 ミナトガワの撤退戦の際は、最後まで私を守ってくれた。

 帝国軍の猛攻で、もはや万事休すかと思われた時、ショウは一人で敵陣に切り込んでいった。


「陛下、ここは私が食い止めます。どうか、どうか生き延びてください」

「ショウ! 無茶よ、一人で敵陣になど......」

「私の最後のお願いです。必ず生きて、国を再興してください」


 血にまみれた剣を握り、満身創痍のショウが振り返る。その顔には、王女への絶対的な忠誠と、深い愛情が込められていた。


「陛下を愛していました。お言葉をいただけるなら、それだけで......」

「ショウ......私も......」


 だが、その時にはもう、ショウの姿は炎の向こうに消えていた。


 あの時から、私の心には巨大な空洞ができた。

 最愛の人を失った悲しみ。そして、その死に責任を感じる重圧。


 だからこそ、今度は......

 今度こそ、ショウを守りたい。


 現世では白石翔太という名前だが、間違いなくあのショウだ。


 魂は変わらない。あの優しく、強く、誰よりも誠実な心は、時を超えても変わることはない。


 立ち上がる。

 決意が固まった。


 今度は私がショウを守る。

 シモンの策謀で苦しめることは、絶対に許さない。


 歩きながら、廊下で生徒たちとすれ違う。


「麗良さん」


 現在の声が、前世の記憶と重なる。


「そうそう、これからメインイベントですから」


 売国奴どもが私に気づき、下卑た顔で言う。

 その表情は、まさに王を裏切った時の顔そのものだった。


 返答するのも汚らわしい。


 無言でドアの扉に手をかける。


「麗良さん、俺たちは見張りをしてますから。存分に白石の奴を――ぐぼっ!」


 みなまで言わせなかった。

 怒りが頂点に達した。


 最愛の人の名前を、そんな汚らわしい口で......


 扉に手をかけていたその手を取っ手から放し、大きく上に振りかぶる。そして、その手を生徒の喉元に強く叩き込んだ。


 生徒は喉を押さえて苦しむ。息ができないようだ。


 その男を無視し、教室のドアを開ける。


 そこには......。


 愛しいショウが、悪漢どもに囲まれていた。


 前世の記憶と完全に重なる光景だった。悪漢どもが無抵抗なショウを一方的に痛めつけている。


 ああ、また守れなかった。今度こそ守ると決めたのに。


 許せない。

 絶対に許せない。


 売国奴どもめ。


「やめろぉおお!」


 私の声が教室に響き渡った瞬間、すべてが静まり返った。


 私は王女レイラ・グラス・ヴュルテンゲルツ。

 そして彼は、私の最愛の忠臣ショウなのだ。

【洗脳されなかった場合の草乃月 麗良の人生】

 高校時代に小金沢紫門との交際を開始。二十五歳で結婚するも、結婚と同時に紫門の態度は豹変し、毎日のようにモラハラ・パワハラを受ける地獄の日々が始まる。三年後に離婚したものの、そのストレスでうつ状態となりアルコールに依存するようになり、三十歳の時に急性アルコール中毒で病院に搬送され、間もなく死亡した。

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