第九話「小学生時代の回想(後編)」
地球に戻れた。
あの宇宙船体験から数日が経った夜、自分の部屋で一人になった時、ようやく実感が湧いてきた。
本当に帰ってこれたんだ。
枕に顔を埋めて、声を殺して泣いた。怖かった。本当に怖かった。二度と家族に会えないと思った。
手には、宇宙人の置き土産である「洗脳機械」があった。小さな金属の箱。表面には見たことのない文字が刻まれていて、時々微かに光る。
正直、使ってみたいという好奇心もあった。でも、それ以上に怖かった。
母さんがよく言っていた。「人の心は一番大切なもの。それを傷つけてはいけない」と。
捨てるわけにもいかず、押し入れの奥に隠した。古い毛布にくるんで、できるだけ目につかない場所に。
このまま一生使わなければいい。
そう思っていたが、皮肉にも試す機会が訪れてしまった。宇宙人に連れ去られて半年後、ようやく普段の日常に戻った矢先の話である。
*
春の温かい日差しに誘われて、久しぶりに友達と外で遊ぶ気になった日のことだった。
近所の空き地でいつものメンバーとソフトボールをしていた。俺、田村、佐藤、それに向かいの家の健太。みんな同じ小学校の四年生だ。
「翔太、外野頼む!」
田村に言われて、俺は外野を守った。
健太の打球が予想以上に飛んだ。
「あ、やばい!」
慌てて追いかけたが、ボールは大きく逸れて、近所の田中さんの家の庭に転がり込んだ。
「ごめん、取ってくる!」
友達に手を振って、田中家に向かった。
田中さんの家は、近所でも変わった家として有名だった。築30年ほどの古い一軒家で、庭には手入れされていない草花が生い茂っている。
田中夫妻は普通に良い人だった。問題は、その一人息子だった。
田中正志——通称「まさし君」。
30歳を過ぎているのに引きこもりで、滅多に家の外に出ない。近所では「危ない人」として有名だった。子供がバットで追いかけ回されたとか、車を傷つけたとか、噂は絶えない。大人たちも「関わらない方がいい」と言っていた。
だから、田中家の庭に入るのは気が進まなかった。でも、ボールを取りに行かないわけにはいかない。
パッと入って、ボールを取って帰ろう——そう決めて、俺は田中家の庭に足を踏み入れた。
庭は思っていたより荒れていた。雑草が膝丈まで伸びていて、歩くたびにガサガサと音が鳴る。
キョロキョロと探していると、物置の陰に白いボールを見つけた。
「あった!」
小声で呟いて、急いでボールを拾い上げる。
その瞬間、二階の窓から奇声が聞こえた。
「うあああああ! くそが! くそが!」
明らかに正常ではない叫び声だった。
恐る恐る二階の窓を見上げると、カーテンが少し開いている。近くにあった古い脚立を使って、そっと窓を覗いた。
窓の向こうには、6畳ほどの部屋があった。床には服や雑誌、食べかけの弁当の容器が散乱している。
その部屋の中央で、一人の男が奇怪な行動を取っていた。
まさし君だった。
30代前半と思われる痩せた男。髪はボサボサで、何日も風呂に入っていないようだ。
まさし君は床に座り、涎を垂らしながら意味不明な言葉を叫んでいた。
「ぺらぺらぺらぺら! ばばばばばば!」
机の上には注射器らしきものが置かれていて、近くには小さな袋に入った白い粉も見えた。
体が震えた。足がガクガクする。
立ちすくんでいると——まさし君と目が合った。
「あ……」
まさし君の血走った目が、窓の外の俺を捉えた。
「誰だ! 誰がいる!」
まさし君が立ち上がり、窓に向かってくる。
慌てて脚立から飛び降りて、逃げようとした。でも、小学生の足では限界があった。
庭を出ようとした時、玄関からまさし君が飛び出してきた。
「待てよ、クソガキ!」
あっという間に追いつかれ、腕を掴まれた。
「痛い! 離して!」
必死にもがいたが、大人の力には敵わない。
「おい、ガキ! 何を見ていやがった!」
まさし君が俺の胸倉を掴み、力任せに揺さぶった。その手は異常に熱く、汗でべとべとしていた。
「ぼ、ボールを取りに……」
震え声で言ったが、まさし君は聞いていない。
「ボール? そんなもんどうでもいい! お前、俺の部屋を覗いていただろう!」
まさし君の息は酒と薬物の臭いがした。
「不法侵入だぞ、これは! 警察に突き出してやる!」
「ごめんなさい! もうしません!」
泣きながら謝ったが、まさし君の手は緩まない。
「謝って済むと思ってるのか! お前、俺が何をしているか見ただろう!」
まさし君は俺を庭の奥に引きずっていった。
「今見たことは親にも警察にも誰にも言うな! 分かったな!」
首を締められた。息ができない。
「は、はい……言いません……」
「それだけじゃ済まないぞ。口止め料と慰謝料で、毎月一万円をよこせ」
一万円——小学生には天文学的な数字だ。俺のお小遣いは月に500円。お年玉を全部合わせても足りない。
「そ、そんなお金ありません……」
泣いて訴えたが、まさし君は首を横に振った。
「ないなら、親の財布から盗んで来い。どうせガキなんだから、親も気づかないだろう」
「そんなこと、できません……」
まさし君の目つきが変わった。
「じゃあ、どうなっても知らないぞ」
物置の陰に押し付けられた。
「断るなら、気絶するまで殴ってやる。それでも嫌なら、お前の家族にも同じことをしてやる」
拳が俺の頬をかすめた。本気だ。
「妹がいるんだろう? 可愛い妹ちゃんに何かあったら大変だな」
血の気が引いた。美咲——まだ小学一年生の美咲に何かされたら。
「分かったよな? 来週の今日、ここに一万円を持ってこい。遅れたら、お前の家に直接取りに行くからな」
まさし君は俺を突き飛ばして、家の中に戻っていった。庭にへたり込んだまま、しばらく動けなかった。
*
その夜から、食事が喉を通らなくなった。
母さんが心配して何度も声をかけてくれたが、本当のことは言えなかった。まさし君は家族への危害も口にしていた。美咲や両親を巻き込むわけにはいかない。
一週間があっという間に過ぎた。約束の日が近づくにつれて、夜も眠れなくなった。
約束の日の前夜、布団の中で考え続けていた。
どうしようもない。このままでは、まさし君に何をされるか分からない。家族にも危害が及ぶかもしれない。
ふと、押し入れの奥に隠した「あの機械」のことを思い出した。
洗脳機械——人の心を操る道具。
まさし君を洗脳して、善人になってもらえばいい。そうすれば、脅しもなくなるし、薬物問題も解決する。
でも、それは人の心を操ることだ。やってはいけないことだ。
親に相談すれば、まさし君の怒りを買って、より危険になるかもしれない。警察に相談しても、証拠がなければ動いてくれないだろう。
そして何より、このままでは毎月一万円を要求され続ける。
小学生の俺には、もう洗脳機械しか選択肢がなかった。
押し入れの前で、足が止まった。
本当に使うのか? 人の心を変えてしまうんだぞ。
でも、他に方法がない。美咲を守るためなら——。
震える手で引き戸を開けた。半年ぶりの洗脳機械。表面の文字が薄く光っている。今の俺には、救世主に見えた。
使い方は宇宙人に教えてもらっていた。洗脳には、対象のDNA情報が必要だ。
翌日、貯めていたお年玉の全額——5000円を持って、まさし君の家に向かった。
「お金、持ってきました。でも、5000円しかありません」
まさし君はぼんやりしていたが、お金を見ると目つきが変わった。
「半分じゃねえか。足りないぞ」
「お願いします。これが全部です。来月からは、もっと頑張って貯めますから」
土下座した。
「ちっ、仕方ねえな。今回だけは大目に見てやる。でも来月は絶対一万円だぞ」
まさし君が5000円を受け取った。その隙に、部屋に置いてあった枕から毛髪を何本か拝借した。まさし君はぼんやりしていて、俺の行動に気づかなかった。
*
その夜、洗脳機械を起動した。
説明書を読み返しながら、慎重に操作を進める。まず、まさし君の髪の毛を中央のくぼみにセットした。
『DNA解析中……解析完了』
『対象:男性、32歳、血液型B型』
次に、新しい記憶——つまり人格のベースとなるストーリーを選択する必要があった。善人に記憶を書き換えるって、どうすればいいのか。
小学生だった俺が真っ先に思い浮かんだ善人は、両親や妹、いわゆる家族だった。でも、父親の記憶に書き換えるとしても、本物の父さんがいるのに困る。今を生きている人の記憶では駄目だと思い直し、その考えはすぐに消した。
そして考えついたのが、歴史上の偉人だった。立派な偉人の人格をインストールすれば、善人になるだろう。偉人——一口に言ってもたくさんいるが、当時の俺が真っ先に思い浮かんだ候補があった。それは、ずばり「田中正造」である。
実は、その週の金曜日に学校で歴史発表会が開催される予定だった。俺の担当テーマが田中正造で、図書館で借りた本やインターネットで、すごく詳しく調べていたのだ。
田中正造——明治時代の政治家にして、日本初の公害事件と言われる足尾銅山鉱毒事件で明治天皇に直訴した男。
何度も投獄されながらも、常に民の側に立ち、己の半生をかけて権力と戦ってきた信念の人だった。調べれば調べるほど、田中正造の人格の素晴らしさに感動していた。不正は絶対にしない。私腹を肥やすなんてもってのほか。自分の利益よりも、常に弱者のことを考える。
まさに政治家の中の政治家。弱者のために己の命を懸ける、真の正義の人だった。田中正造の人格なら、まさし君も必ず善人になる! 俺は確信していた。
善い人になれ、善い人になれ!
そう念じながら、俺は洗脳機械にまさし君のDNAをセットし、田中正造の詳細な資料を入力し始めた。
生年月日:1841年12月15日
出身地:下野国安蘇郡小中村
人生哲学:「真の文明は山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
主な業績:足尾銅山鉱毒事件の告発、明治天皇への直訴
性格:正義感が強く、不正を許さない。民衆の苦しみを我が事として捉える
俺は発表会のために集めた資料を全て入力した。田中正造の思想、行動原理、人生哲学——調べた内容を余すところなく詰め込んだ。
特に重要だと思ったのは、田中正造の「弱者に寄り添う心」だった。常に虐げられた人々の側に立ち、権力者の横暴と戦い続けた姿勢。自分の利益を顧みず、正義のために身を捧げる精神。
こうした価値観がまさし君にインストールされれば、きっと薬物も辞めて、真っ当な人生を歩んでくれるはずだ。
設定を確認し、効果時間を「永続」に設定した。最後に実行ボタンを押す。
機械が低い振動音を立てて作動を始めた。液晶画面には「処理中……」の文字が表示されている。
10分後、「処理完了」の文字が現れた。
まさし君の髪の毛は、くぼみの中で灰のようになっていた。これで、まさし君は田中正造の人格を持つ人間に変わったはずだ。俺は機械を再び押し入れに隠し、翌日を待った。
*
数日後、田中家の前を通りかかった。
庭で草むしりをしている男がいる。まさし君だった。
足が止まった。あの汚れたジャージ姿ではない。清潔な服を着て、穏やかな表情で雑草を抜いている。
効いた——本当に、効いたんだ。
嬉しさより先に、背筋が凍った。
まさし君は、完全に別人になっていた。
翌日から突然、「前世の記憶」が蘇ったと叫び、今までの自堕落な生活を改め始めたのである。薬物は全て処分し、部屋を綺麗に片付け、夜間学校に通い始めた。ニートだった暮らしとは真逆だ。
「俺は田中正造だったんだ。足尾銅山の民を救うために戦った田中正造の生まれ変わりなんだ」
まさし君——いや、もはや別人になった彼は、そう言って目を輝かせていた。
その後の変化は目覚ましかった。大検に合格し、法政大学に入学。在学中に司法書士の資格を取得し、卒業後は政治家の秘書として働き始めた。
この前見かけた時は、ある政治家の選挙演説でお手伝いをしていた。確か、その政治家の秘書になったのだろう。そのうち地盤を引き継いで、政治家として立候補するとも聞いている。
田中さん夫妻はすごく喜んでいる。「息子が別人のように立派になった」と。
近所の人たちも驚いている。「まさし君があんなに真面目になるなんて」と。みんな、奇跡的な更生だと思っている。
*
しかし、俺は全く笑えていない。
本来まさし君は、政治家になるような人ではない。小学生を脅し、薬物でラリって、もしかすると煽り運転をするような人生を送っていたかもしれない。
今のまさし君は、まさし君であってまさし君ではない。
俺は洗脳機械でまさし君という個性を殺したのではないか。俺は殺人者じゃないのか。
ずいぶん悩んだ。
確かに、現在のまさし君は立派な人間だ。社会の役に立っている。両親も喜んでいる。でも、それは本当のまさし君じゃない。田中正造の記憶と人格を移植された、別の人間だ。
元のまさし君の人格は、完全に消し去られてしまった。これは殺人と同じことなのではないか。
その後、俺は洗脳機械を厳重に封印した。
二度と使わない。
そう心に誓った——はずだった。
【洗脳されなかった場合のまさし君の人生】
ニート、薬物依存者としての生活は継続する。
七年前はコカイン、マリファナ、ヘロインをたまに使用して錯乱状態になっている程度だったが、その後薬物依存はさらに深刻化していく。薬物を手に入れるために家族の貯金に手をつけ、窃盗を働き、警察沙汰になること数十回。
最後は薬物でラリった状態で駐車中の車のフロントガラスを金属バットで割っている最中に、通りかかった車に轢かれて死亡する。享年39歳。
両親は息子の死を悲しむと同時に、長年の苦悩から解放される。近所の人々は「やっぱり」という反応を示し、誰も本当の意味で彼の死を悼まない。




