プロローグ
殴る、蹴る、暴力の嵐。
時計を見る余裕はないが、おそらく三十分近くはリンチが続いている。最初は悔しさで弱音を吐くまいと歯を食いしばっていたが、もう身体がもたない。意識が朦朧としてきた。
「ぐふっ!」
俺の腹に、クラスメートの蹴りが容赦なく叩き込まれる。鈍い衝撃が体の奥まで響き、腹の中から胃液がこみ上げてきた。酸っぱい液体が口の端から溢れ、床にぽたぽたと滴り落ちる。制服のシャツにも飛び散り、みっともない染みを作っていた。
はぁ、はぁ、息が荒い。苦しい。肺が縮こまったように酸素を取り込めない。
クラスメートたちが俺を囲み、殴り、蹴り続ける。昨日まで普通に「おはよう」と挨拶を交わしていた級友たちだ。一緒に昼食を食べたこともある。体育の授業で同じチームになったこともある。文化祭の準備を一緒にやったこともある。
それなのに今は、まるで害虫でも駆除するかのように容赦ない暴力を振るってくる。
身体の痛みより、心の方がずっと痛い。人間不信という言葉が、これほど身に染みたことはなかった。
小金沢紫門の卑劣な罠にはまり、俺は完全に孤立してしまった。クラス、いや、学園カーストの最底辺に突き落とされた。こんな立場になった俺と友達でいることに、誰もメリットを感じないだろう。
紫門という権力者と敵対してまで俺を庇う理由など、誰にもない。
それでも…だからといって、人はここまで残酷になれるものなのか?
紫門たちのいじめを黙って見ているだけならまだ理解できる。保身のためだろう。だが中には、けらけらと笑いながら俺の苦痛を楽しんでいる者もいる。率先していじめの輪に加わり、まるでストレス発散でもするかのように暴力を振るう者さえいるのだ。
田上は俺の肩を蹴りながら、友達と雑談をしている。まるで俺が物でもあるかのような扱いだ。佐藤は俺の頭を小突きながら、スマホで動画を見て笑っている。鈴木に至っては、俺を踏み台にして背伸びをしていた。
教室の隅で小さくなっている女子生徒たち。彼女たちの目には明らかに嫌悪の色が浮かんでいる。俺に対してではなく、この状況に対してだ。それでも声を上げようとはしない。見て見ぬふりを決め込んでいる。
松田は俺と目が合うと、慌てて視線を逸らした。彼女とは中学時代の同級生で、昔は普通に話をしていたのに。今では俺が汚物でも見るかのような表情を浮かべる。
山田は机に突っ伏して寝たふりをしている。聞こえてくる俺の苦痛の声を無視して、必死に現実逃避をしているのだ。
人間の本性とは、こんなにも醜いものなのか。
すべての始まりは、あの土曜日の出来事だった。
新宿でゲームを買った帰り道、俺は偶然紫門の浮気現場を目撃してしまった。見知らぬ女の子とラブホテルに入っていく紫門を。
麗良を裏切って浮気をしている——その事実を俺は図書室で一人勉強していた麗良に告げた。勇気を振り絞って、真実を伝えたのだ。
しかし麗良は俺の言葉を全く信じようとしなかった。それどころか「気持ち悪い」とまで言われ、完全に拒絶されてしまった。
俺は麗良のために、真実を伝えただけだったのに。
そして翌日、俺の人生は一変した。
麗良が俺の「告発」を紫門に報告したのだ。紫門は即座に反撃に出た。俺が麗良を「襲った」という、完全な濡れ衣を着せて。
紫門の演技力は見事だった。クラスメートたちの前で、涙ながらに麗良を心配する恋人を演じた。そして俺を、麗良に危害を加えた悪人として糾弾した。
証拠など何もなかった。だが、小金沢グループの御曹司である紫門の言葉は絶対だった。クラスの権力構造において、俺のような平凡な生徒の言葉など虫の音程度の価値しかない。
連日のいじめが始まった。暴力。屈辱。孤立。
そして絶望的な宣告——「卒業しても続くからな」。
紫門の権力は卒業後も俺を追い続ける。一生、この地獄から逃れることはできない。
俺はただ、真実を伝えただけなのに。なぜこんな目に遭わなければならないのか。
「……お前ら、頭おかしいぞ」
苦痛の中で俺は呟いた。もはや何を言っても状況は変わらないとわかっていたが、黙っていることができなかった。
「頭がおかしいのは、てめぇだろうが!」
佐々木が怒鳴り返してくる。彼は元々気の弱い男だったが、紫門の威光を背負うと途端に強気になる。典型的な虎の威を借る狐だ。
佐々木とは小学校からの同級生だった。当時の彼は内気で大人しく、よくいじめられていた子だった。俺が何度か助けたこともある。それなのに今では、俺をいじめる側に回っている。
人の心とは、こんなにも簡単に変わってしまうものなのか。
「そうだ。草乃月さんを襲うなんて許せん!」
別のクラスメート、田中が同調する。彼も俺と仲が良かった時期があった。中学の頃、一緒にゲームの話で盛り上がったこともある。それなのに今では、俺を敵視している。
皆、正義の味方を気取っているのが腹立たしい。
「ち、違う。俺は襲ってなんかいない」
何度同じことを言っても、誰も聞く耳を持たない。
「言い逃れするな。恋人の紫門さんがどれだけ心を痛めたかわかってんのか?」
「貴様は、土下座だ。紫門さんの怒り、思い知れ!」
紫門の腰巾着の筆頭、佐々木が興奮したように怒鳴り、俺の頭を力任せに踏みつける。運動靴の裏が頭皮に食い込み、髪が引っ張られる。新品のスニーカーの硬いソールが、容赦なく俺の頭部を圧迫する。
うぐっ!
頭部が地面に激しく打ち付けられ、視界に火花が散った。額の皮膚が裂け、じわりと血が滲み出してくる。生温かい液体が頬を伝って流れ落ちていく感覚が気持ち悪い。金属のような血の味が口の中に広がる。
紫門は少し離れた場所でその様子を眺めながら、口の端を歪めてニヤニヤと笑みを浮かべている。獲物を弄ぶ猫のような、残酷で愉快そうな表情だった。
弱者を踏みにじり、他人を貶めることに心の底から愉悦を感じている——そんな邪悪な本性が、その顔に如実に現れていた。
普段の紫門からは想像もできない表情だった。学校では常に好青年を演じ、教師からも同級生からも信頼されている。成績優秀でスポーツ万能、おまけに家柄も申し分ない。まさに完璧超人として君臨している。
だが今見せている顔こそが、紫門の本当の姿なのだ。
はぁ、はぁ、くそっ! 痛い、痛いぞ。
なんでここまでされなければならない。俺が一体何をしたというのだ。
ただ普通に学校に通って、友達と話して、勉強して——そんな当たり前の日常が欲しかっただけなのに。
なぜそれすら許されないのか。
「ゆ、紫門……」
俺は苦痛に歪んだ顔を上げ、憎悪を込めて彼の名前を呼んだ。
「お、なんだ? 謝罪か?」
紫門が愉快そうな表情で身を乗り出してくる。期待に満ちた目をしていた。俺が屈服し、惨めに命乞いをする姿を見たがっているのだろう。
その顔には、明確な優越感が浮かんでいた。自分が絶対的な勝者で、俺が敗者だということを確信している表情だった。
「し、死ね!」
残された力を振り絞って悪態をついてやった。
紫門の顔が一瞬強張ったが、すぐに冷笑に変わる。
「お~い、まだ元気みたいだぞ」
彼は取り巻きたちに声をかけた。その声には、明らかな苛立ちが込められていた。俺が屈服しないことに対する苛立ちと、さらなる暴力への許可だった。
「す、すみません、手加減したつもりはなかったんですが……」
佐々木が慌てたように答える。紫門の期待に応えられていないことを恥じているようだった。
佐々木の額には汗が浮かんでいる。紫門の機嫌を損ねることへの恐怖と、期待に応えたいという焦りが入り混じった表情だった。
「真剣にやれ。俺の大事な麗良が怖い思いをしたんだ。こいつにはたっぷり反省してもらう。わかったな?」
紫門の声には、普段の上品さなど微塵もなかった。むき出しの悪意と支配欲が滲み出ている。
この瞬間の紫門は、学校で見せる好青年の仮面を完全に脱ぎ捨てていた。冷酷で残忍な本性を剥き出しにして、俺を見下ろしていた。
「「は、はいっ!」」
佐々木たちは慌てて返事をし、再び俺への暴行を開始した。今度は先ほどより明らかに手加減がない。
拳が俺の顔面に叩き込まれる。蹴りが腹部、背中、太ももに次々と炸裂する。もはや加減という概念は存在しなかった。
紫門ォオオ!!
はらわたが煮えくり返る。悔しい。あまりにも悔しすぎる。こんな卑劣な男に翻弄され、無実の罪で痛めつけられるなんて。
そして、苦しい。もう限界だった。
体力的にも精神的にも、完全に追い詰められている。このままでは本当に取り返しのつかないことになる。
教室の窓から差し込む午後の陽光が、俺の血で汚れた床を照らしている。いつもなら暖かく感じる日差しが、今は俺の惨めさを際立たせているだけだった。
時計の針が容赦なく時を刻んでいる。あと数十分で放課後のチャイムが鳴る。でも俺にとって、その時間は永遠のように長く感じられた。
「や、やめてく……」
助けを求めようとした時、俺の視界にぞっとする光景が映し出された。
佐々木が木刀を持って振りかぶっているではないか。
う、嘘だろ?
これは完全に一線を越えている。いくらなんでも危険すぎる。
佐々木は元来お調子者で、それでいてサディスティックな面がある。暴力を振るっているうちに興奮してエスカレートする癖があるのだ。今回は紫門のためという大義名分もあるから、普段以上に歯止めが利かないのだろう。
木刀は剣道部で使用している本格的なものだった。白樫でできた重厚な木刀で、振り下ろされれば確実に骨が砕ける威力を持っている。
佐々木の顔には、明らかな殺意が浮かんでいた。興奮で頬が紅潮し、眼は血走っている。もはや理性など働いていない状態だった。
あの木刀が振り下ろされたら……。
頭蓋骨が割れ、脳漿が飛び散る。そんな恐ろしい光景が脳裏に浮かんだ。
やばい。本当に死ぬ。心臓が激しく鼓動を打つ。
死への恐怖が俺を支配した。これまでの人生が走馬灯のように蘇る。家族の顔、友人たちとの思い出、そして叶わなかった夢や希望。
すべてがこの瞬間に終わってしまうのか。
しかし――。
「やめろぉおお!」
突然、教室内に響き渡る怒声。
クラスメートたちがぎょっとして振り返る。教室の入り口に立っていたのは、憤怒の表情を浮かべた麗良だった。
その瞬間、息を呑んだ。
いつもの麗良ではない。まるで別人のようだった。
普段の上品で穏やかな雰囲気は完全に消え失せ、まるで怒れる女神のような迫力を放っている。金色の髪が逆光に輝き、青い瞳には鋭い怒りの炎が宿っていた。制服すら、いつもとは違って見える。まるで軍服のような威厳を纏っているかのようだった。
麗良の登場で、教室の空気が一変した。それまでの暴力的で重苦しい雰囲気が、一瞬で張り詰めた緊張感に変わった。まるで嵐の前の静寂のような、不穏な空気が教室を支配する。
田上は蹴りを入れようとしていた足を空中で止めたまま、石のように固まっていた。
佐藤は片手に持ったスマホを落としそうになりながら、麗良を見つめている。
鈴木は俺から飛び退くように距離を取った。
女子生徒たちも同様だった。松田は顔面蒼白になって震えている。山田は机から顔を上げたまま、まばたきすることも忘れたように麗良を見つめていた。
そして何より驚いているのは、これまで麗良に散々甘い言葉をかけてもらっていた男子生徒たちだった。いつもの優しく上品な麗良しか知らない彼らにとって、この豹変ぶりは理解の範疇を超えていた。
「……貴様ら、何をしている」
麗良の声は低く、底冷えするような威圧感に満ちていた。普段の優雅で品のある話し方とは別人のようだ。教室の空気が一瞬で張り詰める。
その声には、絶対的な権威と、抗いがたい威圧感が込められていた。まるで女王が臣下を叱責するかのような、高貴で冷酷な響きだった。
クラスメートたちは皆、麗良の剣幕に圧倒されて固まっていた。木刀を持った佐々木さえ、その場で石になったように動けずにいる。
佐々木の手から木刀がカランと音を立てて落ちた。その音が、静寂に包まれた教室に妙に大きく響いた。
教室にいる誰もが、この状況を理解できずにいた。昨日まで紫門を慕い、俺を虫けら扱いしていた麗良が、なぜこんな行動を取るのか。
困惑、恐怖、そして純粋な驚愕——様々な感情が生徒たちの顔に浮かんでいた。
「れ、麗良違うんだ」
麗良を見るや、紫門は慌てたように態度を一変させた。先ほどまでの冷酷な表情を隠し、慌てて好青年の仮面を被り直す。そして、おどおどしながら麗良に近づいていった。
その変わり身の早さは見事だった。さっきまで俺を見下ろしていた冷酷な眼差しは消え失せ、代わりに心配そうで優しげな表情を作り上げている。
紫門の演技力の高さを、改めて思い知らされた。
「麗良、聞いてくれ。君が襲われたと聞いて、心配で心配で仕方なかった。そしてあまりに悔しくて、怒りで我を忘れてしまったんだ」
紫門は大げさな身振り手振りを交えて説明する。まるで舞台俳優のような演技だった。声も普段より高く、感情を込めたような話し方をしている。
その演技は完璧だった。もし俺が紫門の本性を知らなければ、きっと騙されていただろう。心から麗良を心配し、正義感に駆られて行動した青年にしか見えない。
クソみたいな本性を知っている分、その偽善者ぶりがよくわかる。まさにベテラン役者顔負けの演技力だ。
だが、紫門の必死の演技も、今日の麗良には通用しなかった。
「白石の奴が許せなくて――」
麗良は、紫門の必死の言い訳に一切反応しない。ただ殺気のこもった目で紫門たちを睨み続けるだけだった。その視線は鋭利な刃物のように空気を切り裂いている。
麗良の眼差しには、明確な敵意が込められていた。それも、単純な怒りではない。もっと深く、根源的な憎悪のようなものを感じる。
紫門が焦り始めた。いつもなら一言で麗良を安心させることができるのに、今日は全く反応がない。それどころか、まるで敵を見るような目で見られている。
汗が紫門の額に浮かんだ。
「で、でも、さすがにこれはやりすぎだったね。俺も今、彼らを止めようと――ひぎゃああ!」
突然、紫門が絶叫した。
麗良が躊躇なく紫門の股間に膝蹴りを叩き込んだのである。正確無比な一撃が、的確に急所を捉えていた。
あれは痛い。想像しただけで身が竦む。
同じ男だからその痛みはよくわかる。同情はしないが。
紫門は両手で股間を押さえ、床の上を悶絶しながら転がっている。顔は真っ青になり、脂汗がだらだらと流れていた。口を大きく開けているが、痛みで声にならないようだ。
昨日までクラス公認のカップルであり、紫門にあれほど懐いていた麗良。その彼女の突然の暴力行為に、教室にいる全員が言葉を失っていた。
まるで現実を受け入れられないという顔で、ただ呆然と立ち尽くしている。
田上は口を半開きにしたまま固まっている。佐藤は眼鏡がずれているのにも気づかず、ただ麗良を見つめ続けている。鈴木は後ずさりしながら、壁に背中をつけていた。
女子生徒たちの反応はさらに激しかった。松田は両手で口を押さえ、今にも泣き出しそうな顔をしている。山田は机の下に隠れるようにしゃがみ込んでいた。
誰もが、この光景を信じられずにいた。優雅で上品で、暴力なんて振るったことのない麗良が、容赦なく恋人を攻撃したのだ。
麗良は、そんな周囲の困惑した空気など意に介さない様子で、ツカツカと足音高く歩み寄ってくる。
靴の音が床に響く度に、皆がびくりと身を竦ませた。その足音は、まるで処刑人の足音のように不吉で威圧的だった。
麗良の歩き方すら、いつもとは全く違っていた。いつもの優雅で上品な足取りではなく、軍人のような力強く堂々とした歩き方だった。まるで戦場を行軍する将軍のような威厳を感じる。
「く、草乃月さん?」
佐々木が震え声で麗良に声をかけようとした瞬間――
「べふえらぁあ!!」
今度は佐々木が絶叫した。麗良の蹴りが佐々木の股間にも炸裂したのである。紫門の何倍も大きな悲鳴だった。
佐々木は一瞬宙に舞い上がり、そのまま重力に従って床に激突する。倒れた佐々木は白目を剥き、口から泡を吹いてピクピクと痙攣していた。
これは紫門より重症かもしれない……。
正直、救急車を呼んだ方がいいレベルである。だが、誰も動こうとしない。麗良の只ならぬ迫力に皆が恐れをなしているのだ。
教室の生徒たちは、完全に麗良に恐怖していた。これまで見たこともない麗良の一面に、誰もが震え上がっている。
田上は壁際まで後退し、震えながら麗良の動向を見守っている。佐藤は机の下に潜り込んでいた。鈴木に至っては、教室の隅で小さくなっている。
女子生徒たちも同様だった。松田は友達と身を寄せ合って震えている。山田は机に突っ伏して、麗良を見ないようにしていた。
誰もが、麗良の次の行動を恐れていた。この調子では、誰が次のターゲットになってもおかしくない。
重い静寂が教室を支配する中、紫門と佐々木の苦悶の声だけが虚しく響いていた。時折、佐々木の口から漏れる呻き声が、教室に不気味な音を響かせる。
他のクラスメートたちは、恐怖で身を寄せ合っていた。普段温厚で上品な麗良が見せた、あまりにも暴力的な一面に完全に動揺していた。
麗良はそんな二人を一瞥もくれず、床に倒れている俺の前にやってくる。
その瞬間、麗良の表情が劇的に変化した。
先ほどまでの冷酷で威圧的な表情が嘘のように消え失せ、心配そうで愛おしそうな表情に変わる。まるで別人のようだった。
その変化の速さに、教室にいる全員が再び驚愕した。さっきまでの恐ろしい麗良は何だったのかと、誰もが困惑している。
「大事ないか?」
麗良が心配そうに俺を見下ろしている。そして愛おしそうに、そっと手を差し伸べてきた。シミ一つない白く滑らかな手が、俺の目の前にある。
その手は微かに震えていた。俺の怪我を心配しているのか、それとも感情が高ぶっているのか。
はは、助かった。まさに救いの手だ。
全身あちこちが痛むが、骨折はしていないようだ。致命的な怪我は負わずに済んだ。ぎりぎりセーフといったところか。
「……ありがと」
素直にお礼を言い、麗良の手を取って立ち上がる。彼女の手は思っていたより力強く、しっかりと俺を支えてくれた。
麗良の手は暖かかった。それも、単純に体温が高いというだけでなく、何か特別な暖かさを感じる。まるで母親の手のような、安心感を与える暖かさだった。
立ち上がると、麗良が俺の顔を心配そうに見つめているのがわかった。額の傷、唇の端の血、頬の青あざ——一つ一つを確認するように、愛おしそうに見つめている。
ポンポンと制服についた埃を払い、額から流れる血をハンカチで拭っていると、麗良がじっと俺を見つめているのに気づいた。
その瞳には、深い安堵と…何か別の感情が宿っている。愛情とも崇拝とも取れる、強烈な感情が込められていた。
まるで長年会えなかった恋人にやっと再会できたような、そんな表情だった。
周りのクラスメートたちは、この光景を信じられない思いで見つめていた。さっきまで俺を虫けら扱いしていた麗良が、今度は恋人のように優しく接している。
田上は目を擦って、自分が見ているものが現実かどうか確かめようとしていた。佐藤は眼鏡を外して拭いている。鈴木は小さく「嘘だろ」と呟いていた。
女子生徒たちも同様だった。松田は友達と顔を見合わせて困惑している。山田は机から恐る恐る顔を上げて、俺たちの様子を見ていた。
「な、何かな?」
俺が戸惑いながら尋ねると、
「よくぞ生きて……生きてくれた」
麗良の声が震えていた。感極まったのか、彼女は肩を震わせながら俺を抱きしめてくる。
強烈なハグだった。
おほっ、これは…素晴らしい。密着している。やわらかい。それに何ともいえない良い匂いがする。
レモン? 薔薇? それとも柑橘系の何かだろうか?
いや、そんな安っぽいものではない。もっと上品で高級な香りだ。
庶民の俺には、何が原料なのかよくわからない。ただ、ドラッグストアで売っているような安いコロンとは次元が違うということだけはわかる。高価な香水と美少女特有の甘い体臭が混ざり合った、そんな魅惑的な香りが鼻腔をくすぐる。
俺は決して変態ではない。変態ではないのだが、正直一生嗅いでいたくなるような香りだった。
なんかやばい。頭がくらくらしてきた。血を失ったせいかもしれないが、それだけではない気がする。
麗良の顔がすぐ近くにあるのだ!
ただでさえ、これほど至近距離で女の子を見たことなどない。ましてや抱きしめられるなんて、夢のまた夢だった。
心臓がバクバクと激しく鼓動を打つ。
輝くような金髪、磁器のように白く透明感のある肌、切れ長で意志の強そうな瞳、上品で形の良い唇。
間近で見ると、改めてその美しさがよくわかる。
すごい美人だ。それも特上レベル、いや、もはや芸術品と呼ぶべきかもしれない。
こんな絶世の美少女に俺は抱きつかれ、慕われているのだ。
優越感がむくむくと胸の内で膨れ上がっていく。
見ろ、周りの奴らの驚愕した顔を。昨日まで虫けら扱いしていた俺が、学園のマドンナに抱擁されているのだ。
田上は口をぽかんと開けて固まっている。佐藤は眼鏡を落としそうになりながら、信じられないという顔をしている。鈴木に至っては、自分の頬をつねって現実かどうか確かめているようだった。
女子生徒たちも同様だった。松田は手で口を押さえて驚愕している。山田は机から顔を上げて、呆然と俺たちを見つめていた。
この状況の異常さが、徐々に教室全体に浸透していく。昨日と今日で、あまりにも立場が逆転しすぎているのだ。
いや、冷静になれ。
なぜ麗良がこんな行動を取るのか、俺にはその理由がわかっていた。
俺には、誰にも話したことのない秘密がある。
数分の抱擁の後、麗良はようやく俺から離れた。彼女は袖で涙を拭うと、表情を引き締める。
その瞬間、再び麗良の雰囲気が変わった。優しく愛おしそうな表情から、威厳に満ちた支配者の顔に戻る。
そして、
「皆、聞け!」
澄んだ、よく通る声で周囲に向かって叫んだ。力強く、威厳に満ちた声だった。教室にいる全員が息を呑み、麗良の一挙手一投足に注目する。
その声には、絶対的な権威が込められていた。まるで王女が家臣に命令を下すかのような、高貴で威厳に満ちた響きだった。
誰もが麗良の言葉に注目した。先ほどの暴力を目の当たりにした後では、誰も彼女の言葉を軽視することはできない。
教室の空気が再び張り詰める。先ほどとは違う緊張感だった。今度は、これから何が起こるのかという期待と恐怖が入り混じった緊張感だった。
カリスマという言葉が、これほど似合う人間はいないだろう。
静まり返った教室で、麗良が俺を抱き寄せる。
その仕草は自然で、まるで長年連れ添った恋人同士のようだった。だが、昨日までの麗良を知っている生徒たちにとっては、この行動こそが最も理解できないものだった。
「ショウに手を出す輩は、この私が許さん!」
先ほどより更に強く、鋭く叫んだ。異論など絶対に認めないという、鋭利で容赦のない眼差しだった。
この宣言に、教室がざわめいた。
困惑の声が教室のあちこちから聞こえてくる。
「ショウって誰?」
「白石のことか?」
「なんで急に名前で呼んでるんだ?」
「昨日まで名前も覚えてなかったのに」
周りのクラスメートたちは皆、麗良の突然の豹変に困惑していた。昨日まで虫けら扱いしていた俺を、学園のマドンナが必死に庇っている光景を、信じられないという顔で見つめている。
麗良の俺を見る瞳が、文字通りハートマークになっていた。もはや別人と言っても過言ではない。
そして、その宣言の意味を理解した生徒たちの顔に、新たな恐怖が浮かんだ。
草乃月財閥の一人娘が、本気で俺を守ると宣言したのだ。つまり、俺に手を出す者は草乃月財閥全体を敵に回すということになる。
田上の顔が青ざめた。さっきまで俺を蹴っていた自分の行為を思い出し、身を震わせている。佐藤も同様だった。スマホを落としそうになりながら、麗良の表情を窺っている。
女子生徒たちも同じだった。見て見ぬふりをしていた自分たちが、麗良にどう思われているのか不安で仕方がない様子だった。
教室全体が、新たな権力構造の誕生を目の当たりにしていた。昨日までの序列が完全に覆され、最底辺だった俺が一気に最上位に押し上げられたのだ。
これで俺は救われた。紫門のいじめからも、クラスでの孤立からも。
ただ普通の学園生活を送りたい。それだけが俺の願いだった。友達と笑い合い、部活に打ち込み、恋をして——そんな当たり前の高校生活を。
だが同時に、胸の奥で重い罪悪感が渦巻いていた。
俺は本当にやってはいけないことをしてしまったのかもしれない——。
話は、三ヶ月前に遡る。