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ムゲン  作者: タマゴ
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9/13

夢幻

宙に浮いたような、フワフワした感覚が雅を襲う。見た事があるようなないような世界が、雅の目にいくつも流れ込んでくる。知っているような風景、聞いた事のあるような声、全く知らない匂い。その全てが雅の心臓を指で撫でるような感覚で襲い、雅は気持ち悪さを覚えた。

おそらく今、何層にも重なった「あったかもしれない世界」を旅しているのだろうと雅は混乱の中でぼんやりと思った。ただ、これが夢である事は分かった。そして、数え切れない程の世界を通り過ぎ──雅は、いつの間にか自分の家の前に立っていた。


気持ち悪さは緩やかに消え、景色も変わらない。「目的の夢」に来たのだと分かった。家の外観は、今よりも手入れされていて綺麗なように思える。辺りを見渡すと、今と変わらないようで、少し違う事に気付く。やっぱり、ここは「あったかもしれない世界」なのだと、雅は痛感した。

目的を遂行するためだけならば奏海を探しに行くべきなのだろうが、雅は唐突に、家の中に入りたいと思った。時間がない訳ではないし、自分の家庭がどうなっているのかを見ずにはいられなかった。

家に鍵はかかっていなかった。玄関にある靴が、見覚えのあるもの、ないものに分かれている。無言で靴を脱ぎ家に上がった雅の耳に、信じられない声が届いて来た。

「あら雅、お帰り。今日はずいぶん早いのね」

雅が数秒の硬直の後振り返り、その視線の先に立っていたのは、亡くなったはずの、母だった。

「か、母さん…?」

雅の記憶にある(ゆかり)の顔よりも少し年はとっているように思えたが、それが縁である事を雅は確信していた。

「どうしたの?」

動揺を悟られないよう、雅は「何でもない!」と言って、自分の部屋に飛び込んだ。

雅の中で記憶と思考が錯綜する。つまり、奏海を救いに来た世界では、縁が生きている。すぐにでも奏海を救おうと思っていたはずが、考えが揺らぎ始めていた。

「何かの過去が変わって、母さんが生きている…?」

雅は呟く。

雅にとって縁の存在は幸せだった頃の記憶そのものであり、縁の死は家庭から幸せを奪った記憶である。縁がいるこの家を簡単に去る気は起こらなかった。

雅は部屋を出て、縁の元へと歩く。

「何だ、雅も帰ってきてたのか。全員揃うのは珍しいな」

「おう雅、何だ今日講義ないのか?」

「まあまあ2人とも、紅茶淹れたから座りなさい」

現実では物が散乱していたはずのリビングには、長らく見ていない笑顔の父と、記憶とそれほど相違のない兄と、いないはずの母がいた。

雅は夢だと分かっていながら、困惑の中ながら、この状況を幸せだと感じてしまう。もう少し、この家にいたい。その思いから、雅はつい長居しようとしていた。

「──ちょっと私、脳の病気があってね」

不意に、雅の脳に声が響いた。

「一緒に帰ろ」

「じゃ、またねー」

何度か聞いて、その度に幸せだと感じていたその声が。

「お母さんひどいんだよ。自分とお姉ちゃんの名前には『美しい』って漢字入ってるのに、私は『奏美』にしてくれなかったんだよね」

いつの日か聞いたような、奏海の言葉が脳に響き渡る。

雅はハッと気付いた。奏海を助けに行かないといけないと、漸く思い出す。

確かにこの瞬間、この状況はとてつもなく幸せだけれど。もう失われたはず(、、、、、、、、)の世界(、、、)に執着していて、現実に愛する人を失うなんて考えられない。ギリギリの所で雅は思い直した。

「3人ともごめん、今から行かなきゃならない所があるんだ、外出てくる」

3人の家族に向かって、表情を見せないように雅は言った。

「そうなの、気をつけて行ってらっしゃい」

雅は母の言葉を背中に受けて、駆け出すようにして家を出た。いつぶりか分からない涙が、雅の両目から溢れ出していた。




「ご、ごめんなさい!」

川野奏海は、自分の家だったはずの場所から飛び出すようにして出てきた。正確に言うと、自分の家だと思って入った場所に、知らない他人が住んでいたのだ。思い返せば確かに少し自分の家と外観が変わっているように思えたが、自分の家の場所を疑う事などした事がなかった。

「ここ、どこ?」

奏海は辺りを見渡し、何かが普段と違う事に気付いた。見慣れたはずの街灯、何年も立っている松の木、何度か訪ねた事があるはずの隣の家。それらが微妙に記憶と違うのだ。

「とにかく、誰か知ってる人に会わないと…」

混乱した頭で奏海は考える。そして走り続けた先の大宮駅で、漸く知り合いを見つける。

「凛花!」

同じクラスで親友の藤沢凛花を見つけ、奏海は安堵した。しかし、親友のはずの彼女の反応は予想外のものだった。

「えっと、ごめん、誰だっけ…」

からかった様子もなく、藤沢は奏海に答えた。

「な、何言ってるの?奏海だよ!川野奏海!」

奏海は今まで以上の混乱の中叫んだ。

「本当にごめん、私覚えてないや…

どこで会った事あるっけ?」

藤沢の当惑した声を聞きながら、奏海は藤沢の着ている制服が、自分の学校と違う事に気付いた。奏海が通っている私立の高校に対し、藤沢は県の中でもレベルの高い公立高校の制服を着ていた。

「人違いです、ごめんなさい!」

またもや奏海は駆け出した。

誰も知っている人がいない。知らない建物も少しながらある。奏海はどうすればいいか分からずに走り続けた。

そして走り続けるうちに、これはほぼ記憶と変わらない佇まいの出身中学校の前を通りすぎた。その道路の向かい側を、自転車が通りすぎる。しかし、その自転車に乗っている人は奏海の記憶の中にある人物だった。あれは──中村くん!!


雅はとりあえず奏海の家の近くあたりには行ってみようと思い、全力で自転車を漕いでいた。そして懐かしい中学校の校舎を通り過ぎた辺りで、間違えようのない奏海の姿を発見した。

「川野!」

雅がそう言って止まった時、奏海も雅の方へ向かって走って来た。


奏海には何故か分かっていた。この人は本物の中村くんだ、と。そして自分の事を見て戻って来ようとするのを見て、確信に変わる。

「中村くん!」

奏海の中で雅に対する恋心はなかったが、この時ばかりは縋るような気持ちを覚えた。

そして混乱まみれのこの状況について聞きたいと思った瞬間、雅が叫んだ。

「川野、ここにいちゃダメだ!君はこの世界にいるべきじゃない!!!」

その言葉が、奏海の脳を直接叩いたような衝撃を与える。そして唐突に気付く。『ここは夢の世界なのだ』と。ただ困惑だった意識が、明晰夢のような感覚へと変化する。奏海はその場に立ち尽くした。


雅はやるべき事はやったと思い、その場から自転車で逃げ出した。と同時に、縁が生きている幸せな家庭のある世界に留まれない事を悲痛に思ったが、失ったものを追い続ける事の意味を考え直す。雅は自分と、奏海と、野田のために、この世界への執着を捨てた。


そしていつの間にか、雅の意識はまた曖昧な気持ち悪さに包まれた。






「お帰り、雅君。よくやってくれた」

目覚めると、そこには病院の天井があった。幾秒かの間の後、雅は現実に帰って来た事を知った。

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