兄の話
「ふうん、じゃあやっぱり医大って忙しいんだねえ」
「医大っていうか、大学院だったらどこも忙しいと思うぞ。レポートやら実験やらさ」
新大阪に向かう新幹線の中、中村賢悟は並んだ席に座る杉崎千早に向かって言った。
「でも、久しぶりの大阪、何かワクワクする。賢悟は大阪初めてだっけ?」
「子供の頃に一回行ったぐらいだな。ぶっちゃけそんな覚えてないな」
「へえ。私は何だかんだ関東に来てからは全然帰ってないから、何か懐かしいな。賢悟と旅行行くのも久々だし」
純粋という言葉をそのまま人の形に整えたような端正な恋人の姿に、柄にもなく心の高鳴りを賢悟は覚える。眺めた窓の外には名前も知らない場所の景色が広がり、通路側に座る千早の顔と見比べる。
「な、何よ、そんなジロジロ見ないでよ。何か変な物でも付いてる?」
「いや、大阪出身て言う割には千早って全然訛りとか方言出ないなと思って」
実際は千早の顔に見惚れていただけであるが、それを紛らわすかのように賢悟は質問した。
不自然な会話の流れに千早は一瞬むすっとした顔を見せたが、
「私さ、大阪にいた時から標準語に憧れみたいなものがあって。関東そのものも何となく好きで、なるべく埼玉来てからは標準語を完璧にしようと頑張ってたんだよね。むしろ今じゃ関西の訛りに付いてけるか不安なぐらいだよ」
と笑顔で素直に答えた。賢悟は千早の事をどんどん知れているような気持ちに幸福感を覚えた。
賢悟が千早と出会ったのは大学4年の冬で、友人にコンパだか合コンだか、賢悟にとって名前はどうでも良かったが、そんな形の集まりに人数合わせ的な感じで参加した時の事だった。千早も友人との付き合いで仕方なく参加したというような感じだったため、友人たちが相手側の女子達と話が盛り上がるのを見ながら、一人ほぼ沈黙のままだった千早しか話し相手がいなくなり、成り行きでお互い話し始めた。ところが賢悟にとっては思いのほか話が合い、連絡先を交換した。数日後に賢悟から千早に連絡を入れ夕食に誘うと、千早は快くOKし、賢悟は初めて会った時よりも随分と可愛げな格好で現れた千早を見て、前はわざと目立たないようにしていたのだと気付いた。それから何度か会ううちに、お互いがお互いの好意を感じ取り、交際を始めた。
「あ、661の肉まんだ!食べたい!」
「肉まんじゃなくて豚まんな。そんなに懐かしいか?」
千早が本当に大阪に住んでいたのか疑わしくなってくるレベルではしゃいでいるのを見て、何となく賢悟も嬉しくなってくる。
「実は大阪いた時はわざわざあんまり食べてなかったんだよ。いつでも食べれるし、みたいな感じでさ」
はしゃぎながら小走りで移動する千早を賢悟は追いかけながら、いつも考えすぎな自分の世界に土足でズカズカと入ってくる千早に感謝の気持ちを覚えていた。亡くなった母やそれを引きずる父、7歳離れた弟の事などを考えすぎた時期があったが、千早と会ってからは全ての事を前向きに考え、割り切る気持ちを覚えた。とにかく賢悟にとって、千早に会ってからの日々はそれまでの人生に比べ、何倍も輝いているという事を自覚していた。
「賢悟、早く行こうよー」
いつの間にか豚まんを買い終えた千早に声をかけられ、そういえばもう付き合って2年か、などと考える。結婚も真剣に考え始める時期であり、そうなると当然、最近はあまり考えないようにしていた家族の事を考える。この状況で挨拶とかいらないよな、とか、そもそも千早に家族の事をいつ話そうか、とかを色々考える。
しかし、目の前で千早の出発を待つ目を見ると、考えるのは後でいいかなどと思うのであった。
携帯電話が鳴ったのは、駅の近くのレストランで食事をとっている時の事だった。
「ごめん千早、ちょっと電話」
と千早に声をかけ、携帯電話の画面を見る。画面には「野田行宏」と表示されており、野田先生か、と考える。
「もしもし先生、どうされました?」
電話の向こうから聞こえて来たのは、少なくとも賢悟は普段聞いた事のない、野田の焦り混じりの声だった。
「賢悟君、君は今どこにいる?」
今まで中村君としか呼ばれた事がなかったにも関わらず賢悟君と呼ばれた事にも驚きを感じたが、電話の様子から重要な話である事に賢悟は気付いた。
「自分は今大阪にいます」
「お、大阪?」
野田のどことなく間抜けな声が賢悟の耳に届く。
「分かった、ちなみにいつ頃帰るか教えてもらっても良いかい?」
賢悟は少し混乱しながらも答える。
「2日後には帰る予定です。どうしました?」
「いや、今話す事じゃない。ただ、埼玉に帰ったら、次の日の朝僕の病院に来てくれるかい?」
事情は全く分からなかったが、賢悟は素直に承諾した。
「分かりました。では失礼します」
と言って、賢悟は電話を切った。
「どうしたの?」
千早が首を傾げながら聞いてくる。
「大学の非常勤講師の先生だ。医者と脳医学者を両方やってる凄い先生で、自分で脳医学の権威とか言ってた。大学で結構お世話になってる」
「ふうん、やっぱり凄い人もいるもんだねー」
千早を見ていると他の全てがどうでも良く思えてくるが、賢悟は野田の様子に微かに不安を覚えていた。
そしてそれは的中していた。




