暮れの雑音
秋も暮れに向かい、この頃になると夕方と言える時間には日が落ち、辺りは一面暗くなってくる。冷え込み始めた外の空気に思わず「寒っ」と漏らしながら、雅は病院を出た。バス停に向かおうとすると、
「あっ、中村くーん」
という声が背後から飛んで来て、雅は飛び跳ねそうになった。
「川野?随分早かったね」
「それはお互い様でしょー。今日はちょっと診てもらってお話しするだけだったから、思ったより早く終わったんだ」
奏海は手袋に向かってはーっと息を吐きながら、
「中村くんも帰りでしょ?一緒に帰ろ」
と雅に言った。雅は暗闇でもはっきりと感じ取れるこの笑顔に、一生かなわないと思った。
帰りのバスも運良く二人とも座席に座れた。
行きよりは会話が弾み、雅は野田が見せた冷たい表情の事など完全に忘れて話に夢中になっていた。
「この病院何回来ても広くて迷っちゃう。もう慣れたつもりなんだけどなー」
「さっきも言ってたけど、結構病院来てるんだね。無理に聞く気もないけど、どこか悪いの?」
全く気の利かない質問をしてしまい、雅は一瞬慌てたが、
「うん。ちょっと私、脳の病気があってね。そんな大した事じゃないんだけど、今は経過観察みたいな感じで通ってるんだ」
奏海はあっけからんと答えた。雅はそういう事を素直に自分に話してくれる事に嬉しさは覚えたものの、その内容自体には不安にならざるを得なかった。
「だ、大丈夫?」
「ほんとに大丈夫だよ」
奏海に聞いてはみたが、軽く返してくる奏海の様子から、これ以上深掘りされる方が嫌かと感じ、その話はやめる事にした。
「じゃ、またねー」
「おう」
病院前と全く同じようなやり取りを繰り返し、駅で雅と奏海は別れた。
雅はそのまま家に向かい、野田からもらった資料に目を通す事にした。奏海が脳の病気を持っているという事に驚きや不安も覚えたものの、それを考えるよりも奏海と話した高揚を抑えるのがなかなか難しかった。病名くらいは聞かないと不安だったが、それを聞くのは失礼な気がしたうえに、本人の様子的に大丈夫だろうと軽視したためであった。
脳動静脈奇形。それが奏海の患っている病気の病名だった。脳の血管の奇形の病気である。とはいえこの病気は痙攣などの何らかの異常があるまで発見されないような事も多い病気であり、場合によっては全く病院に行かずに済んでしまう事もある病気ではある。しかしこの奇形部分の破裂によってくも膜下出血や脳内出血などを起こすケースもあり、発見次第早急な治療が求められる。出血や痙攣から判明する事の多いこの病気だが、奏海の場合、部活動で脳しんとうを起こした際、念の為脳の細かい検査をしましょうという事になり、偶然発見された。血管の複雑な部位で発見されたため直接の手術はできず、ガンマナイフという放射線レーザーによる治療が行われた。これが奏海にとっては3年前の事だったが、この場合脳動静脈奇形が完全に治るまで長い場合5年以上かかる事もあり、奏海はちょうどこの経過観察期間であった。なお、幼少期に病院に通ったのは全くの別件であったため、雅の推測は外れている。
ギィ…という音が静寂の中に響き、無人の家に雅が入る。外は完全に暗くなっており、カーテンを閉める。夕食にはまだ早いかと思い、雅は鞄を床に置き、制服を着替えた後、縁の部屋に入った。この部屋も例外でなく人が住んでいないような乱雑さであったが、雅の視線は部屋の隅にあるピアノに向いていた。
雅の通う高校は進学校であり、2年生の秋始めには原則全員が部活を引退し、受験に備える。雅も例外ではなく、所属していた剣道部を2ヶ月程前に引退していた。その部活の時間には基本的に放課後講義があるのだが、この日のように講義がなく時間がある日は趣味としてピアノを弾いていた。
雑音が混じらず、ただ綺麗な音色を奏でるピアノが、雅は好きだった。
自分の好きな映画の主題曲を弾きながら、雅は思う。夢の誰かの声、何かに没頭しているらしい誠、意味深な野田の顔、奏海の病気、医大の大学院に通う賢悟。世の中がもっと単純な世界であればいいのに、という願いが、雅の脳に音となって聞こえたような気がした。




