夢限①
ガコン、という鈍い音がして扉が開いた。部屋の中は雅の想像よりも大きく、常夜灯のような薄い光が点いているだけで暗かった。
その大きい部屋の中央にはベッドのようなものが置いてあり、その上には人が寝ていた。
雅は直感的に分かった。
「川野!!」
その時、奏海の近くに駆け寄ろうとした雅の目に漸くもう一人の人影が映った。それはベッドからは少し離れた所にあるデスクで、パソコンの前に座った男だった。白衣を着ており、座ってはいるが雅よりも身長は大きい。雅がどうしようかと迷っているうちに、その男が口を開いた。
「誰だ。何故ここに来た」
男の顔や表情は暗がりに隠れて見えなかったが、この男が彼である事を雅は感じ取った。と同時に、その声に何となく聞き覚えがある事を思い出した。
「何故って、あなたが一番分かってるんじゃないですか?」
奏海の姿を目の前にして、雅の心は平静でいられるはずもなく、やや喧嘩腰の返答をした。しまった、冷静にならないとと雅が思っていると、雅の声を聞いた男は何かに驚き、思慮しているように見えた。
雅が言葉を繋げようとすると、男が先に呟いた。
「成る程、行宏か。あいつ、余計な事を…」
男は憎々しげに言った。
ゆきひろ、ゆきひろ…ああ、野田さんか、と雅は少し時間がかかりながらも理解した。
「ここにこうして来た目的は何だ?」
男は顔を上げ、雅に尋ねた。雅は即答する。
「そこに寝ている子を助けるためです」
「まあ、そうなるだろうな」
返答は予想通りといった感じで男は言った。
「それでここに来たという事は、俺の目的も、ここで眠っている彼女がどういう状況なのかも分かっているんだろう。あえて隠すつもりはない。俺の目的は、夢の中で妻と再会し、その夢から一生戻って来ない事。完全な部外者のお前に、何が分かる」
最後は吐き捨てるように男は言う。それでも雅は黙る訳にはいかない。
「あなたの気持ちも、目的も知っています。でも、その実験で危険に晒される彼女の気持ちはどうなるんです」
雅は気持ちを抑えながら言った。すると、雅にとって流石に予想外の言葉を投げつけられた。
「彼女の事なんか、知った事ではない」
「──は?」
雅の口からは思わず声が漏れ出した。
「できる事ならば彼女は元に戻すつもりだが、その結果何かしらの事故が起こっても脳の急性疾患という事で処理するつもりだ」
雅は野田との話を通じて、男は感情のある、話は通じる者だと思っていた。その想像を全く裏切る男の反応に、雅は遂に怒りを抑えられなくなった。
「どうでもいい!?ふざけないで下さい、あなたは人の命を何だと思っているんですか!?」
敬語こそ守ったものの、言葉自体は明確な怒りをもって雅の口から発せられた。
すると、男は落ち着きを少し失った声で、しかしながら静かに尋ねた。
「では聞くが、お前は募金をするか?」
唐突すぎる、場面にはそぐわない質問であった。しかし、雅はなぜか答えなければならない気がして答えた。
「しますけど、それが何か?今は関係ないでしょう」
「関係あるから質問しているんだ。では、何のために、そしていくらぐらい入れる?」
弾丸のように男の質問は即座に飛んで来た。
「少しでも人の役に立てればと思って、数十円、多くて100円くらいですが」
「なるほど、人のためを思って、帰りの電車賃や娯楽代を残して募金するという訳だな」
男の言葉を聞いてから理解するのに少し間を要し、その意味を理解した時には男が次の言葉を発していた。
「結局、人間なんてそんなものだろう?人を思いやれと謳いながら、自分の事が最優先。人の事を第一に考えろだと?ふざけるな、本当にそんな事を思っていながら、今この瞬間世界のどこかで飢えて死んでいく子供の事など全く気にしないのか?本当に人を思いやれるなら、自分の夢など放っておいて、世界中を飛び回って人を救い続けるだろう。そんな人間がいるか?少なくとも何かしら自分の事を考え、美味い物を食べながら人を思いやれなどと虚言を吐く。人の事など、結局皆どうでもいいのだろう?自称人道的な人間も、何人も殺した殺人犯も、人を本当には思いやらないという点で、少し程度が違っただけだ。人間なんて、自分が良ければ良い生き物だろう?」
徐々に、沸々と男の感情が溢れ出して行く。雅は何も言えなかった。
「俺も同じだ。俺は人を救いたくて医者になった。でも、妻を喪失して気付いた。今まで自分が救えなかった患者の比にならないくらい、愛する人を失うと悲しさを感じるのだと。結局、他人なんてどうでもいいのだろうと。自分の人生で、自分の救いたい人を救い、愛したい人を愛する事の何が悪いと言うつもりだ!!正義ぶったメディアや人々は誰々不倫不祥事失言事件事故噂話差別不公平他人他人他人他人、何が楽しい!他人なんてどうでもいい、自分が愛した妻ともう一度会いたいとただ思う俺のどこに、非難される謂れがあると言うんだ!」
息を切らしながら、先程までの冷静さはどこかに吹き飛ばした男が、雅に向けて言葉の弾幕を容赦なく浴びせた。
雅はしばらくぽかんとしていたが、少し時間が経って漸く我に帰った。
男の言う事は、決して間違ってはいなかった。確かにこの世の偽の利他主義が、反吐の出るものである事は間違いなかった。それだけに、雅は反論に窮した。だが、引く訳にはいかなかった。男が自分の気持ちをぶつけてくるのであれば、雅も同じ事をやる他なかった。
「確かにあなたの言う事は間違ってないかもしれない。だけど、僕も下らない利他のために、ただ人を助けるために来た訳じゃない」
雅は力強く言った。
「何?」
男はやや驚いた表情で雅を見返す。
そして雅は、前から何度も見た奏海の笑顔を、バスで奏海と話した時の高揚を思い出しながら言った。
「僕は、そこにいる子が、川野奏海が好きだから助けに来たんだ。あなたと同じように、愛する人を救いたいから来ただけだ!」
雅の強い口調と、その内容に男は驚き、反応に窮する。
「あなたは、あなたと同じように愛する人を失い、あなたのように悲しむ人をまた作り出したいんですか?僕が彼女を助けに来た理由に、何か不満がありますか?」
男の眼は、雅の眼を強く睨む。雅も力強い眼差しで見つめ返す。
男のペースを崩す事はできたが、雅は次に何をすべきか測りかねていた。野田さんの言っていたもう一人というのはまだか、と思った。
「何と言われようと、妻と会う事を諦めるつもりはない。それで諦める程、俺も覚悟は甘くない」
男は折れなかった。雅は口の中で小さく舌打ちし、目の前にいるのに奏海を助けられない事を歯痒く思った。
その瞬間、部屋の入口が突然開いた。そして部屋に入って来た白衣のもう一人の姿を至近距離で見た雅は、その人物に向かって呟いた。
「…兄貴?」
「…雅?」
二人は、お互いの兄弟を交互に見て言った。




