出発前に
本棚が並ぶ空間には、呆れた表情の管理者ポチに向き合い、ソファーで寛ぐ運命神の姿があった。
『ねえ、その書類の山、大変じゃない?』
『気にせず寛いでいるから、見えていないのかと思いました。見えて、わかっているなら、邪魔しないで出ていってください。こちらは忙しいので』
『面倒なら、地上の感覚を持ち込まなくてもいいのに』
『……不便もありますが、便利でもあります。箱庭は、神さえ他の世界から集まっていますからね。現在対応する世界に合わせて、統一したほうが感覚を共有しやすい……って、元管理者なのですから、知っているでしょう』
『知ってて前から面倒だと思ってるんだけどねえー』
運命神は間延びした声で気だるそうに告げて、向き合うのをやめソファーに横たわってあくびする。管理者としての仕事や書類に手を出すなど、直接邪魔をするつもりはない。
『ポチは本当に面倒じゃないの? ねえ、聞いてる?』
『静かにしていてください』
『ふーん。そんなに忙しいんだ。だから、ラウも放置?』
『……放置したつもりはありませんよ?』
『だって、記憶を戻そうとしたことを責めるわけじゃない、かといって戻せなかったことを責めるわけでもない。ポチは何が目的なの?』
『彼女の幸福を』
『わかりきった答えだね。ポチはどっちの味方?』
『私は今までもこれからもずっと、彼女の味方ですよ』
『そう。何度聞いても変わらない答えだね』
作り笑顔に変わった管理者ポチの対応に、運命神はつまらなそうな反応をして立ち上がった。
『誰よりも、早くエリスに会いたいと思っているのは、ポチだと思っていたのに』
『……焦って失うわけにはいかないでしょう?』
『ああ、そうだろうね』
返事のしかたに納得していない様子で、不満そうに運命神は空間から出ていく。
管理者ポチはゆるりと尻尾を揺らし、表情を消して運命神の後ろ姿を見送った。
『私は彼女以外の……。どちらの味方でもないだけですよ』
山積みの書類を払い落として、机に取り出した白い髪を愛おしそうに撫でる。
しばらく撫でたあとにそっと持ち上げ、名残惜しそうに口付けて。
本棚の隙間から、髪を白い繭に投げ入れた。
中立神殿の一室で、ヨシュカがハサミを持ったまま困っている。
背を向けて座るライラが嬉しそうにしていて、はっきり断りづらい。
「整えようとは言ったけど、俺が切っていいの?」
「お父様がいいの」
「……下手になってないといいんだけど」
ライラの髪は何度も切ったことがある、それは地球での話だ。
「魔法で済ませちゃだめ?」
「だめ、じゃないけど……お願い。久しぶりに、ねっ?」
「他に任せるよりは安心だけど……いや、なんでもない。わかったよ」
ヨシュカは諦めてライラの髪に触れた。
「ありがとう。えっと、横は左に合わせるだけで、後ろはもうちょっと短めで」
「ええと……左右を揃えるだけでいいと思う」
「森でお父様に会った時くらいの髪型がいいっ」
「……うん、わかった」
希望通りにしようと決め、ヨシュカが少しずつ髪を切っていく。
しゃりしゃりと小さな音がするたび、白い髪が散らばった。
切った髪を風魔法で足元に集めながら、間違えて短くしすぎないよう集中する。
サウラとレンは声を出さないようにして、椅子に座ったまま身動きもせずじっと見ていた。
側でソファーを独占するリュナも、静かにしようと自分で口を押さえている。ただ、尻尾と耳はどうしても落ち着きがなく動いてしまった。
ハサミと白い毛先を見てしまう皆と違い、カイは風魔法で集められた髪が淡く光るのを見つめる。
髪として実体化していた神気が淡い光に変わり、部屋の空気にとけて消える。見えなくなるごとに、柔らかな甘い香りが濃くなっていった。
ライラは鏡を出して浮かべ、自分の前髪をつまんだ。
「前髪も少し……かな……あっ、おでこは出さないでね」
「もうしないよ。……ほら、目を閉じて」
懐かしさに目を細めたヨシュカは、鏡越しの表情を見られる前にライラの前髪へ触れる。素直に従ってくれたことにほっとして、少しだけ手をとめた。
「お父様? どうしたの?」
「ああ、ちょっと緊張しただけ」
笑ってごまかすと、前髪にゆっくりハサミを入れていった。
地球でライラが安心して散髪を任せていたのはヨシュカだけ、そこに少しの優越感と、それ以上の悲しさがあった。最初の頃は失敗もして、でも次もお願いしてくれて、続けてきた。
店での散髪をさけた理由は悲しくても、二人にとって、親子で過ごした思い出の一つは、悪いものじゃなかったとも思える。
「……これくらいでいいかな?」
「うんっ。ありがとう、お父様」
ライラは緩んだ表情で微笑み、立ち上がって服を軽く叩いた。
「あれっ? もっと切ったと思ったけど……」
足元に集まる白い髪が少ないことに気付き、首を傾げる。
「俺が収納したわけじゃないよ? 実体化していただけの部分が消えたんじゃないかな」
「ラウ様に渡した髪は消えなかったのに? って、渡す前に消えなくてよかった……」
「それより、体内の流れが不安定になったり、何か変化があったりしない?」
「あ、うん。大丈夫だと思う」
「よかった」
ヨシュカは安心して溜息を吐き、ハサミを収納した。
残った白い髪を回収して布に包み、このあとの扱いに悩む。
『ヨシュカ。困っているなら神殿からこちらへ』
『チェルハイデア様、お断りします。どこまで見てるんですか』
いきなり管理者ポチに声をかけられて、頬が引きつりそうになったのを我慢する。
『断ってもかまいません。……ああ、腕輪にでも加工して、心配な二人へ持たせてみては? 以前の髪とは違いますから』
『え……』
戸惑ったヨシュカが説明を求める前に、繋がりが消える感覚がした。
「残った部分も変化してる……だからって腕輪? いや、別のものでもいいのか……」
白い髪を見つめたまま呟くヨシュカの顔を、ライラがのぞきこむように見上げる。
「私の髪って、腕輪の素材になるの?」
「素材って言い方は……まあ、一応、お守りみたいな? 身に着けやすいものなら何でも平気だと思うけど。リュナちゃんとサウラに持たせようと思って」
ヨシュカが頬をかきながら視線を向けると、リュナとサウラはどうすればいいのかわからないといった顔になった。それまで散髪を終えたことで気を抜いていて、皆の分の果実水を用意しようとしたところで固まっている。なぜ自分たちなのかわからない。
「オレたちに、何を持たせるって言いました?」
「ええと、ライラの髪を使った、お守り?」
「わけわかんねえ、なのです」
「リュナちゃんは身を守るため。外からだけじゃなくて、自分の力からも、ね。サウラは……今のところ里の薬を使わずに済んでるけど、必要な時に足りなくなったら大変だから、魔物の魔力から影響を受けにくくするために」
二人に対して、ヨシュカは必要なことだけ話した。以前よりライラの髪に女神の神気が濃くなっているなら、生命の助けになる性質を持っているはずだ。
どうしてそんな効果があるのかと問われれば、天族を理由にごまかすしかないけれど、効果自体が間違ってはいない。
「特にリュナちゃんには持っていてほしい、かな。サウラは一緒にいれば、俺かライラが対処できる可能性もあるけど」
「もらいすぎ、なのです」
「気にしないで。リュナが受け取ってくれたほうが、私も安心だから」
ヨシュカだけでなくライラにも言われて、リュナはうなずいた。
「もらってや……ありがとう、なのです」
そわそわと尻尾を動かし、恥ずかしそうにライラへ駆け寄ってくっつく。
サウラもこれ以上は聞かずに受け取ることにした。
「ライラさんの髪ならいくらでも受け取りますけど? せっかくだから指輪にしましょう」
「サウラは弓を使うから、腕輪のほうがいいんじゃないかな?」
「指輪で問題ありません。ヨシュカさんは、身に着けやすいものなら何でも、って言ってませんでしたか?」
「聞こえてたか」
「同じ部屋にいましたからね」
わざと軽い口調で言い合ってから、ヨシュカとサウラは笑いあう。
それからリュナは腕輪、サウラは指輪に決めた。どこかへ依頼するわけにもいかないので、加工はライラの能力に任せることになった。
ライラがヨシュカから白い髪を受け取ったところで、神官たちが鍛冶師の情報を書き写した書類を持ってきた。