解毒と浄化
神も惑わすレキュリアの果実は、本来なら薬になる成分が強すぎて、ほとんどの種族にとっては毒みたいなものだ。
ただ、カイが苦しんで血を吐いたのは、レキュリアのせいだけではない。強すぎる鎮痛効果は体の自由を奪っているが。他にも一つ一つは毒にならない薬用植物を、組み合わせで竜にとって毒になるよう計算された料理のせいだった。
どの料理をどれくらい食べるか想定できなくても、食べ合わせさえすれば効果が出るよう考えてきた。
カイ本人に匂いで気付かれることより、薬を知るヨシュカが気付いてしまわないか警戒していた。
そうして追い詰めたカイを、神獣ラウシィエンは涙に濡れた瞳で見つめる。
「鍵を開けてください、カイ。もう、大丈夫でしょう? あとは神界で癒やせばいい。誰が使うとも決まっていない器が壊れても、かまわないでしょう?」
神獣の体になった器の涙は、とっくに枯れ果てたと思っていた。三百年前の悲劇でさえ泣けなかった。いや、あの時は泣くことも考えず、必死に土地を浄化していた。唯一の光を失った身には、神獣という立場で女神の愛したものを守ることしか残されていなかった。
「今ここで鍵を開ければ、すぐに解毒しますよ。たとえあなたでも、竜核まで蝕まれればどうなるかわからないでしょう?」
「こ、とわ、る」
「カイだって会いたいでしょう? わたしは会いたい、会わせてください、どうか――」
「ま、て、まだ、だ」
「もう待ちました。今すぐ開ける気がないなら、せめて……。抉じ開けても閉じ直せないよう、鍵がなくなってしまえばいい」
一秒でも早く、昔のエリスに会いたい。
一秒でも長く、今のライラに忘れていてほしい。
二人の求めるものがすれ違う。
以前はたとえ仲が悪くても、どちらもただ女神が戻ってくることを望んでいたのに、今は同じ気持ちではなかった。
ふわりと、惹かれる甘い香りが感情的になった心を撫でる。
「だめ、だよ?」
小さく呟かれたライラの声で、驚いた神獣ラウシィエンは視線を落とす。
押し付けられた手を乱暴に振り払うこともせず、心配そうに見上げるライラの瞳は、涙を浮かべた白銀だった。
「誰かを犠牲にしたら、きっとあとで後悔するの」
見つめ合う白銀の瞳に負けて、押さえていた左手を離してしまう。
「生命の中では、幸福は、誰かの犠牲の上に、成り立っていることも、あります」
神獣ラウシィエンは力なく反論するけれど、もう、わかっていた。
「幸福の裏で、誰かが泣いてしまうこともある。でも、自分から誰かを犠牲にするのは、違うと思う。あなたが気付いて後悔するのかもしれないし、もしも平気だったとしても……犠牲があったことを知った誰かが悲しむ。その悲しむ誰かを見て、あなたも後悔するかもしれない」
「……ライラ様は、カイを失ったら悲しみますか?」
「うん」
「犠牲になるのがわたしでも、悲しんでくれましたか?」
「うん」
「まだ、許して、いただけますか……」
「許すのは、私じゃない。でも」
ライラは力の入らない両腕をゆっくり持ち上げて、両手で神獣ラウシィエンの頬を包む。
次から次へとあふれてくる涙を、何度も優しくぬぐった。
顔にも降ってくる涙は温かく、柔らかい肌触りの薬湯みたいだ。甘くて、苦くて、優しい香りがする。
温もりを感じながら白銀の瞳を閉じ、杖もなしに浄化魔法と回復魔法を使った。
輝きが静かに空間を埋めていく。
「もう、苦しまないで、ほしい」
白と緑に輝く癒しの中で再び開いた瞳は、全てを受け止めて吸い込むような、澄んだ深緑色をしていた。
間に合ったのはカイの解毒だけではない。
緋色の衣を通り抜けて、神獣ラウシィエンの体から黒い煙のような魔力が散っていく。
「そ、んな……ありがとう、ございます――」
病んだ竜の魔力が、三百年前からずっと残っていた。どうしても、棘のように刺さった一欠片が消せなかった。器より深いところへ刺さった棘は、神界に戻っても消えるかどうかわからないものだった。
女神の神核が完全には消滅していないと知れたのに、このまま朽ちていくことになれば、再会できないかもしれないと思っていた。
「わたしは、焦っていたのです。失った番に会いたいという竜に、影響されていたのかどうかは……いえ、わからないからといって、わたしは……正しくないことを、選んでしまいました」
聞かせたいのか、誰も聞いていなくてかまわないと思っているのか、神獣ラウシィエン自身にもわからないほど小さな呟きが、ぽろぽろと口からこぼれた。
よろよろとテーブルから身を起こし、緋色の袖と裾を整えて床に跪く。
ライラもくらくらしながらなんとか起き上がり、テーブルの縁に座ったところで足に手が添えられた。
「もう二度と、今回のようなことはしないと……今のあなたに誓います」
神獣ラウシィエンはライラのつま先に口付けてから、まっすぐに深緑の瞳を見上げる。
言葉と視線を受け止めたライラは、へにゃっと笑った。
「うれしい。みんな、仲直り、だね?」
「ライラさ――」
「すき、だよ? あったかい、今のほうが、もっと」
喜びの声をあげ終える前に、安心した可愛らしい声で好意を告げられ、見上げたまま息をとめた。
細く白い指先が添えられたライラの頬は、ほんのり赤くなっている。
「酔って……いますか? いえ、酔っていますよね。わたしがレキュリアを口にさせたのですから……」
今更の後悔と共に、頭を抱えた神獣ラウシィエンが床にうずくまった。変質していた空間も元に戻っていく。
ふにゃふにゃと笑うライラが、酒の残った瓶へ手を伸ばすのを、動けるようになったのに誰もとめられない。
カイがぐったりした状態から強引に立ち上がり、威圧感のある足音で神獣ラウシィエンに歩み寄る。そのまま緋色の襟首を掴み、むりやり引き上げて椅子へ座らせた。
瞳を潤ませたライラがカイを見上げる。
「カイっ! けんかは、だーめ。らんぼーに、しないで?」
「あー、もう許したから、ぜんっぜん、問題ねーわ。ただなー、ちょーっと休まねえときついから、嬢ちゃんが仲良くしてやってくれる?」
「うんっ!」
元気いっぱい返事したライラを、戸惑う神獣ラウシィエンに押しつけて、カイは自分の席へ戻った。
ヨシュカが苦笑いでシザシャ酒に手を伸ばす。
「俺たちは一応見張ってるけど、勝手に飲んでるから、がんばってくださいね」
心のこもらない応援をしておき、注ぎ直したシザシャ酒をカイにも渡した。
「よーし、リュナの機嫌が直るように、杏仁豆腐でも追加してもらうか?」
けらけら笑うカイに対して、リュナは頬を膨らませて不満を表しながら、ちゃっかり甘い物は欲しがっておいた。
すでに神域ではなくなった広間で動けるはずなのに、サウラとレンは静かに溜息を吐いて、まだテーブルの惨状を見つめるしかできていない。
今まで何が起きたか認識できなかった神官たちは、乱れたテーブルの上や、無事だったグラスで酒を飲み始めたカイとヨシュカを見たのに、露骨に何も見ていないといった顔で酒と甘い物を追加し始めた。
テーブルから下りたライラは魔法で服をきれいにして、不安定な足の動きで神獣ラウシィエンに歩み寄り、すとんと膝の上に座る。
横抱きにするような向きで腰を下ろしたため、膝から落ちそうになって、とっさに支えてしまった神獣ラウシィエンの顔がこわばった。
「あの――」
「あったかーい」
ライラが胸元に頬ずりすると、頭上の顔は赤くなったり蒼白になったり忙しい。
「許してください……」
「カイはもう許してるよ?」
「そうではなく……」
神獣ラウシィエンは心から反省したけれど、酒を片手にした夜は始まったばかりだった。
初めから用意されていた解毒薬も、今となってはただの酒扱いになり、見守るだけになったヨシュカとカイの腹に消える。
「カイが一番怒っていいと思うんだけど」
「解毒をギリギリまで待たせたのは、自分だしなあ」
カイは眉尻を下げつつ笑い、ヨシュカと目を合わせないよう、杏仁豆腐の皿をまるごと抱えたリュナへ手を伸ばして撫でた。
「誰も盗らねえから、ゆっくり食え」
「うめえ、なのです」
まだ少し不満そうに尻尾で椅子を叩き、大きなスプーンでカイにも分けようとする。
「怒ってくれてありがとな」
「し、しらねえ、なのです……」
リュナはぷいっと顔をそむけたが、そわそわ動く耳は隠しきれなかった。