病んだ炎が求めるもの
周りは暗く狭い、いや、狭いか広いかも判断できない、ただの暗闇。
暗闇が『それ』の世界を埋める唯一だった。
生命は焼き尽くし奪う炎を恐れ、思い通りにならない炎を閉じ込めた。
炎を恐れているのに、思い通りになる火は欲した。
扱いを間違えた生命が森を焼けば、炎を恨み。
扱いに成功した生命が灯りを与え、食卓を彩れば、与えた生命を褒め称えた。
閉じ込められた『それ』は、炎を抑え、火を提供するためだけに存在を続けさせられていた。
恐れ、恨み、利用する生命に、いつか喜んでもらえると信じて、力を使い続けた。
ある時は覚えのない罪を背負わされ、「どうか怒りを鎮め、焼かないでください」と一方的に懇願される。
助けたい一心で力を使い、炎を鎮めれば、「やはり『それ』の怒りだったか」と一方的に肯定したと決めつけられる。
違う、助けたかった、そんな『それ』の言葉は生命に伝わらなかった。
心が芽生え、芽生えた心が折れ、生命に寄り添っていきたいという願いを諦めかけた頃。
もう『それ』を閉じ込めておけなくなった暗闇が、崩壊した。
新たに存在していた炎の神、まだ小さき神である『それ』を、その世界の古き神は受け入れなかった。
他の神たちが「生命の思い通りになる」と誤解されては困る。
解放されたはずの『それ』は、地上にも神界にも居場所を失った。
このまま知られずに消えていくだけだと、『それ』が自らを手放そうとした時。
『あなたは、とっても温かいのね』
初めて聞く女神の『声』が、消えかけていた『それ』を包み、悲しみから拾い上げた。
『一緒にいこう? あっ! ま、間違えた、ちゃんとあなたの希望も聞かないと、怒られちゃう』
『……えっ? あの』
初めて抱く感情と共に、『それ』はどうしようもなく間抜けな音しか返せなかった。
『わたしが、一緒に行っても……いえ、わたしに、居場所をいただけるのですか?』
『居場所になるかは、わからない』
『そうですか……』
『だって、あなたが私の世界を気に入ってくれるか、まだわからないから』
困ったような優しい『声』に包まれたまま、初めて温かいというものを知った。
その『声』は『それ』を温かいと言ったけれど、『それ』はただ熱く、燃えるだけの自らに似合わないと思ってしまった。
『温かいのは、わたしよりも……』
優しい女神の『声』に存在を預けたその瞬間から、温かな女神の光が『それ』の心を埋める唯一になった。
『わたしには、返せるものがありません』
悲しそうに『それ』が伝えても、女神は笑っていた。
『私に返さなくていいの。……ずっと怖かったと思う、悲しかったと思う、けれど、少しずつ……もう一度、生命を愛してみて?』
『生命を焼いてしまうことが怖い、恨まれてしまうことが怖い、わたしは自分の弱さのせいで、動けないのです』
『あなたの火は、生命を焼くだけのものじゃない。凍える生命を、柔らかく温めることができる。熱がなければ食せないものを温かな料理に変えて、心を豊かにすることができる。毒を薬に変化させる作業にも、火は使われているの。火を恐れる生命も在るけれど、ちゃんと火を愛してくれる生命もたくさんいるから、大丈夫』
『それ、は……わたしを扱える生命が、優秀だっただけのこと……わたし、には……』
『もちろん、生命の発想は素晴らしいと思う。すてきで、おもしろくて、そして彼らはとってもたくましくて、時にとても弱くて、輝いている。その生命たちは、あなたが自我を持つ前から……火が世界に存在していたから、使うことができた。ないものを使うことはできないの。生命も私たちも、万能じゃないから。私たちの在り方を思い描いたのは生命だけど、自我を持った今なら……あなたが生命に与えたいことを選んで、正しいと思うことを考えていい』
炎は、『それ』は、焼き尽くし奪うものとされてきた。
けれど、今は違うと女神は言う。
今までは生命が勝手に使ってきた『役目』を、『使い道』を、選んで自らの力とすれば。
少しは役立てる日が、いつか。
『わたしは、再び地上で、生命を学びたいと思います』
『……私たちが干渉できることは、思っているよりも少ないよ。助けたいと思った時に、手を伸ばせないこともある。それが目の前で起こったことなら……』
生命に喜んでもらいたい、助けたい、その再び芽生えた想いを見抜かれている気がした。
そして、叶わなかった時の悲しみも、女神は『それ』以上に知っている。
『耐えることは、慣れています。たとえできることが少なくても、身近な存在として、彼らのことをもっと知りたい』
『うん、わかった。生命と……あなた自身のことも、忘れず愛してね』
『あなたは……エリス様は、いえ、ありがとうございます』
――巡る生命だけでなく、歪んだ炎さえも気遣い、愛してくれるのですね。
微笑むことができるようになった『それ』は、地上で生命を見守った。
ドワーフとも呼ばれる小柄なもぐらの獣人が鍛冶をするために、山羊の獣人が毒を薬へ変えるために、そうして火ができることから学び、協力し合って暮らし始めた。
彼らの力量以上の力を勝手に与えることはできないけれど。
彼らは火を、炎を愛してくれた。
火が生活を豊かにしていく様子を、直接確かめることができた。
毒さえ生命を救う薬に変えられることを喜び、自らも薬草を育てて、山神の力も強くなっていった。
火の山神ラウシィエンは、再び生命を愛し、願いを叶えた。
幸福だった。
『助けたい時に手を伸ばせない……その悲しみを、あなたがわたしに与えるなんて……』
唯一の光だった女神を失うまでは。
冷たい氷が溶けて割れる音で、神獣ラウシィエンは目を開けた。気付けば食事はほとんど終わり、目の前の卓上で赤い食後酒が注がれている。
食後酒に選ばれた濃いシザシャ酒の、甘い香りが漂う。
料理の感想など当たり障りのない話題で、気まずい時間をごまかしていたサウラやレンが、この食後酒で最後だろうと安心した表情を浮かべた。
グラスを睨むように見つめるカイとヨシュカは、まだ警戒して考え込んだ。
皆を心配そうに見ているライラの姿から、神獣ラウシィエンは目をそらす。幼いリュナが尻尾を丸めている様子に申し訳なく思いながら、見せる表情は穏やかな笑みをかぶった。
「……みなさん、特別な神酒も飲んでみませんか?」
注がれたばかりのシザシャ酒を左手で持ち上げ、その赤が映るグラスを傾ける。酒の赤に負けない緋色の袖から見える、病的に白く変化した右手で、一つにまとめた淡い金髪を後ろへ流した。
神酒を出すことへの返答は得られなかったが、元より出すつもりだった酒を神官に指示する。
コトリとグラスの置かれる音は妙に響いた。
「珍しいお酒は、喜んでもらえると聞いていたのですが」
寂しそうとも言える声音を出した神獣ラウシィエンの表情は、変わらず微笑んでいた。
返答に困るライラたちの前で新しいグラスを並べ、酒瓶を神官から受け取り自らの手で注ぎ分ける。薄紅色とも、薄紫色ともいえる、不思議な色合いの酒だ。
「……ヨシュカ、カイ……この席での言葉はまだ有効です。最後のお酒くらい、笑って飲みましょう?」
酒瓶を置いて立ち上がり、視線で合図を送った神官の手でグラスを運ばせる。
「仲直りしたいと、わたしは言葉にしたでしょう?」
「ああ、悪かったよ」
目を合わせずに謝罪したカイは、手元に運ばれてきたグラスを持って一気に飲み干した。
直後、空間が変質して床に複雑な模様が浮かぶ。
「っ――! こ、れ」
カイがグラスを床に叩きつけて、口内にあふれてくる血を吐き出す。
慌てて立ち上がったライラの手は神獣ラウシィエンに捕まり、テーブルの上に押さえつけられた。
食器が倒れ、乱れた赤い布の上に白い髪が広がる。
押し倒された格好の背中へ、こぼれた酒が染みて赤や薄紫に染まった。
「毒は、入れていませんよ」
今も穏やかに微笑む神獣ラウシィエンが、体の下で抵抗をためらうライラに顔を寄せ、反射的に閉じられたまぶたへ口付けを落とした。
ライラの両手首を左手だけで掴み直し、右手でレキュリアの混ざった神酒に触れる。
「最後だから、仲良くしたかったのですが」
呟きをカイに向けて、神酒で濡れた人差し指をライラの口に差し入れた。
神域へ変質した空間で、声も出せず、暴れることも叶わず、誰も動けない。
「カイ、あなたがいなくなれば、鍵は開きますか?」
「あ、か、ねえ、よ」
答えを求められた声だけが発せることに苛立ち、ただの鍵でしかない自分にも苛立つカイ。
「いなくなっても、現状維持ですか。では、あなたの意思で鍵を開けてください」
穏やかに告げる神獣ラウシィエンを無言で睨み、カイは拒絶を示した。全ての名を知らない者に命じられても、力の使用が強制されることはない。
「お願いします、カイ」
突然、今までからは想像できないほど、揺れた声が神獣ラウシィエンの口からもれた。
「お願いです。わたしに……世界に、エリス様を返してください――」
それは息苦しさの中で強引にしぼり出すような、悲痛な声だった。