飛び交うワイン
無事に開けられたワイン樽から、一杯目は現領主フェルセの手に。
続いて領主挨拶も終わり、今は屋外の祭壇前で行列にワインを配っている。
女神役のライラは退場しても良かったのだが、女神役を近くで一目見たいという声が多く、ワインを配る手伝いを続けていた。
「早く買い物に行きたがっていたのに、あの調子だと……最後まで手伝いそうだね」
力なく首を振るヨシュカが、神殿内にカイたち三人を案内する。
休憩所代わりに借りた一室へ入り、サウラとリュナに紅茶を出した。カブのクリームスープと、炒ったカボチャの種を混ぜたクロワッサンもある。神殿関係者用の昼食に用意してあったものだ。
「カイは少し俺の仕事を手伝ってくれる? サウラとリュナちゃんは、ここでゆっくりしていて」
実際には手伝ってもらう仕事などない。誰とも目を合わせずに部屋を出て、神殿の中をただ歩く。
黙って隣を歩いていたカイが、小さな女神像の前で足をとめた。天空島にあったものより、少し幼い姿をした女神エリス。成長の余地がある姿のほうが衰えを知らないという意味で縁起が良いと、昔エルフが作らせたものだった。
ヨシュカも足をとめてカイに並ぶ。
「……記憶は、戻ってない、よね?」
「ええ、神気が濃くなっていますが、髪の変化以外はないようです……」
笑顔でワインを配るライラは、伸びた髪以外、今までと変わらないように見えた。
「何度も神気に触れてきたはずなのに、急に遠くなったみたいだった」
「自分も、近くなったような遠くなったような……よくわかりません」
記憶が戻らなかったことに、完全に覚醒しなかったことに、安心してしまった。
「俺たちは本当に、ライラ様……エリス様のために、記憶が戻らないほうがいいと望んでいるのかな」
「自分たちのために望んでいると?」
「そう。俺たちはって言ったけど……少なくとも俺自身は、娘じゃなくなると思ったら迷ってしまった」
女神への感謝だけでなく、親子として、本当の娘のように大切な存在になった。「女神だから」を理由に、「娘だから」を言い訳に使ったりもしたけれど。
「戻ったら、俺をお父様って呼んでくれるライラは消えてしまうのか、なんて……同じ存在のはずなのに。自分の娘にも、エリス様にも幸せになってほしいなんて、別に考えてる時がある」
「自分は貴方ほど関係性が変わるわけではありませんが、少しわかる気がします。今は、それでいいのではないですか? 状況は違いますがティアだって母親役を楽しんでいたでしょう。……記憶を残して何度も繰り返していると忘れがちですが……生命によっては本来記憶を残さない転生が普通。貴方も今回で消されるかも、消えるかもと言うくらいなら……今限りの暮らしを一つの生として、もっと自由に過ごしていいのでは?」
「カイ……」
「正直自分も楽しんでいないと言えば嘘になってしまいます。記憶があってもなくても、変わっても変わらなくても、あの方は眩しすぎる。惹かれて当然です。自分は……か、数少ない友人にも、幸せになってほしいと思っていますからね」
「カイって俺以外に友達いるの?」
「お答えできません」
「天井見たって何もないよ……。ええと……励ましてくれてありがとう? カイも動揺してるのに」
「……今のライラ様の前で隠せる自信がありません」
「が、がんばれ……」
サウラとリュナの前でも黙っていたくらいだ。ライラの前で今までのようにできるか心配しつつ、二人とも落ち着きを取り戻して笑いあった。
屋外の祭壇前で、ワインや花が飛び交う。
誰かの投げた花が、また別の見知らぬ誰かの頭に乗り、誰がぶちまけたかもわからないワインが周囲を濡らした。
祭壇に上がったライラの衣装もワインまみれだ。
裏側から上って駆けつけたヨシュカにも、狙ったようにワインがかけられる。
「お父様っ!」
「騒ぎはこれか……もう最後の樽だったんだね……」
白かった衣装や神官の正装は、どんどんワイン色に染まっていく。一応は事前に聞いていたけれど、想像以上の騒ぎになっていた。
配るワインが最後の樽になると、お祝いと言って酒をまき散らすのが定番なのだ。樽のワインだけでなく、皆勝手に持ってきた瓶からあちらこちらでまき散らしているが。
神殿の前だけで行われることになっているので、街全体に被害が出るわけではない。
ワインを浴びたくなければ逃げる、浴びたければ神殿に来ればいい。毎年少し離れたところまでは騒ぎが広がってしまうらしいが、逃げ遅れなければいいだけだと皆楽しんでいる。
魔法も使ってまき散らしている者たちもいた。
「女神様ーっ!」
「ひゃぁっ……冷たい……」
しっかり冷やしたワインまで混ざっていて、冷たさに驚く。このくらいで風邪をひいたりはしないけれど、濡れてまとわりつく髪と衣装で動きにくい。手伝いのためにスカート部分のボリュームを減らしていたのは幸いだった。
「私もっ!」
ライラが上から全体に向けてワインを降らせる。
赤紫の雫が日差しを弾いてキラキラ輝き、ひときわ大きな歓声が響いた。
「……ライラ」
「なーに、お父さ――」
「もう酔ってるね」
ヨシュカは心配そうにしながらも、瓶でライラの頭にワインをかけている。
頭の上から、頬や髪に流れ、衣装も残っていた白が消えていく。
「え、ま、一本全部!?」
思わず上を向いたライラの口にもワインが入った。
「んっ……これ、おいしいやつ……」
「お祝いだから、もったいなさそうな顔しないの」
グラス二杯分ほど残った瓶を渡して、かけやすいように頭を下げる。
「ほら、俺にもかけていいから」
「だっこして」
「え?」
「これじゃ頭だけになっちゃうっ」
瓶を持ったまま腕を広げて催促するライラ。
染みたワインで重くなっている衣装でも軽く持ち上げ、ヨシュカは困った顔で首を傾げた。
「これでいいかな」
「うんっ」
頭の上からワインをかけると、正装の白まで染まる。ライラの衣装からも染み出して移っていった。
「もう一本とっておきを……」
「待ってライラ、とっておきは夜に残しておいて」
「じゃあどれか違うのを」
「かけないって選択肢はないのかな」
「私にはもっといっぱいかけたくせにっ」
「ごめん――」
ドバドバと二人の頭上にワインが落ちてくる。
小さめの樽を持ち上げたカイだった。こっそり近付いていたらしい。関係者以外が上ってはいけないなどおかまいなしだ。
「やっぱこれくらいやんねえとな!」
樽を抱えたまま飛び降りて、人混みに混ざっていく。下にいた神官も白い部分がなくなってしまった。
「竜のワインを浴びたいやつはかかってこい!」
「おおーっ!」
いつの間にかコラードまでカイを追いかけていた。溜息を吐くフェルセの背中を、グラツィアがそっと撫でている。
「お兄様、こちらはそろそろ片付けを始めておきましょう?」
「そうだね……」
「ライラさ――ん、着替えのできる部屋へお連れします。必要なら着替えのお手伝いも。その、ライラさ――ん一人では脱ぎにくいでしょうから」
グラツィアは「ライラさん」と呼んでいたはずが、パレードの後から「ライラ様」と呼びそうになっていた。冒険者としてではなくイヴァレラ家のグラツィアとして人前に出ているため、隠そうとは意識しているようだが変な間がある。
「あのっ」
「ライラさん、ライラさ――ん、ライラさん、ライラさん……もう大丈夫ですわ」
「はい……」
目を合わせると頬を赤くして顔ごとそらされてしまうので、大丈夫そうには見えないけれど。
「着替えは一人でできるので、案内だけお願いします」
「喜んで!」
着替えや片付けを終えて、屋台に寄ってから、宿の部屋に入った。昨夜は準備や打ち合わせもあったためバラバラだったが、今日は五人一緒の宿だ。
野菜たっぷりのサンドイッチや、赤ワインに白ワイン、ジャガイモの串揚げ、紅茶を使ったジャスミン茶などいろいろ買ってある。カボチャのパイとサツマイモのパイは、何種類買ったか覚えていないほど。山ブドウの果実水と紅茶、焼き菓子もあった。
「やっぱりみんな一緒が落ち着く……」
ライラはリュナを抱えて耳の柔らかい毛を撫でていた。
されるがままのリュナは、気にせず串焼きの肉をかじっている。香草の種類も野菜ダレの種類も豊富で、どの串焼きにしようか目移りしながら選んだ品だ。
「果実水は山ブドウで大丈夫?」
「ありがとう、なのですっ」
撫ですぎる前にリュナを解放して、果実水を渡した。
「私はカボチャパイ食べようかな」
慣れない長さの白い髪を耳にかけ、肉や他の野菜も入ったカボチャのパイを出す。ライラの髪は今、腰くらいの長さまで減ったところでとまっていた。
伸びた分の髪を切ろうと思っていたけれど、少しずつ戻ってきたので切らずにいる。
「そういえば、髪が伸びた原因はわかったんですか?」
「えっと、神気が信仰心に影響されたから? 天族は女神の縁があるから、そのせいかもって……神気が強くなってる間は長いままみたい」
「切ってしまうと、戻った時に元より短くなる可能性もあるんですか」
「それが怖いから様子見て……かな……」
もし魔法が使えなかったら、着替えや風呂が面倒でばっさり切るところだった。切る前にポチへ確認しておいて良かったと思う。
ポチは天族を理由にして、神核の存在は伝えていない。天族に女神との縁があることは本当だが、女神の神核が受けた影響は天族でなくても同じだ。直接ライラに信仰心が向けられたことで、癒やされて力が強くなった。一度に吸収しきれなかった力が髪として実体化したようなもの。
「一ヶ月くらい戻らなかったら、切っちゃうつもり。ハゲたらお父様になんとかしてもらう!」
「そこで俺を見ないで。たぶんなんとかできるけど……」
「長いままでも、変じゃない?」
「うん、似合ってる」
「お母様やリラみたいに、少しはおとなっぽくなれたかな?」
「ライラはそのままできれいだよ」
「……おとなっぽくなってないってこと?」
「……ええと……自分でそういうこと聞いちゃうところが、まだ幼いんじゃないかな……」