保護者会議
サウラの出ていった扉を暫く見つめた後、ヨシュカは肩を落として首を振った。音のない溜息が、テーブルに落ちる。
「カイも、早くライラの様子を見に行きたいだろうけど……」
「ああ……」
カイは、ライラのことはもちろん、リュナのことも心配していた。意識を失って運ばれたライラとサウラを見て、泣いてしまったのだ。先にサウラの意識は戻ったけれど、今はリュナが泣き疲れて眠っている。
心配していても、今この場から逃げられるとは思っていない。世界の内側で、管理者から逃れることは難しいのだから。カイだけでなく、ヨシュカも、ティアもラルムも同じだ。
部屋の空気が止まり、衣擦れの音一つしなくなる。
もう何年前からと数えることも忘れた、聞き慣れた声が降ってきた。
『そちらの話し合いは終わりましたか?』
「チェルハイデア様……」
ティアが小さな声を漏らして、相手の姿も見えないのに頭を下げる。
「この度は――」
『報告を聞きましょう』
「……夜神の加護は、回収できました。肉体への定着も無事……ですが、自我が安定するまでにはもう少し時間をいただきたく……」
『冬までには落ち着きそうですか?』
「はい。早ければ秋には……」
『それは良かった』
柔らかな声を聞き、一瞬だけ安堵しそうになるが、まだ気を抜けない。ティアは深く息を吸い、次の言葉を待った。
『安定したらすぐに教えてください。では、私はこれで……』
「へっ?」
勝手な行動に対して、何も言われないとは思っていなかった。報告だけで終わらないと思っていたから、驚くと同時に理解が追いつかず、呆然とした声が出る。
『どうしました? ……今回の件で、罰を与えるつもりはありませんよ』
「それは……」
『貴女の首一つで時間は戻りません。ライラが悲しむだけです。加護の回収を利用して、ライラの力を削ったことも知っていますが……。ただの言い訳ではなく、夜明けの子が提案を受け入れたのはライラの名を出したからでしょう。二人に別の目的があったとはいえ、不必要なことだったとは思っていません』
「……ご理解いただき、ありがとうございます」
『ですが……そうですね。罰ではなく、もう一つ仕事をお願いします。ライラの器の拡張を、急いでください。天空島なら、各地の神獣から神樹の実を集めることはたやすいでしょう? ライラが滞在しているうちに、拡張と、強化を』
「っ……そんな……いえ、喜んで引き受けさせていただきます……」
ティアは肩を震わせ、血が滲むほど強く手を握った。白い指先がさらに白くなり、細い指が自身の握力で折れてしまいそうなくらいに。
口を挟むことも許されていなかったカイが、沈む空気を振り払ってテーブルを殴る。
「急ぐ、理由は?」
『神核が、思っていたより早く癒えているので、器の成長が追いついていないのです。これは貴方のためでもあるのですよ? 器に余裕があれば、不安定になることも少なくなる』
弱った神核が癒やされ、女神エリスが戻ってくることは、喜ばしいことのはずだった。なのに、今は、心から喜ぶことができない。記憶を取り戻し、また昔のように呼んでほしい。記憶を取り戻さずに、何も知らずに幸福な一時を過ごしてほしい。両立できない願いが頭を巡る。
神核が癒えてしまえば、後は器が完成するだけで、いつでも復活させることができてしまう。もし管理者が器に固執していなければ、器が完成していなくても、神核を回収して記憶を戻すことになるけれど。引き伸ばす理由を、取り上げられたようなものだ。
『器が先に完成すると思っていたのですが、やはり世界の外側で眠らせているよりも、循環の早い内側に在ったほうが――』
「黙れ――いえ、もう、聞きたくありません」
カイは低い声を絞り出して、何もない空間を睨む。その先にいるはずの存在へ向けて。余裕がないように見えたが、これでもまだ少しは余裕があるほうだった。竜の名を掌握されていない今、鍵を開けろと命じられても拒絶できるからだ。しかし、どうしても不安が拭えない。
『……長話はやめておきましょうか。では、頼みましたよ』
意図的に感情を殺したような、淡々とした言葉の羅列が降って、途絶えた。
空気が動き出したはずの部屋は、静かなまま。誰も動こうとせず、黙り込んでしまった。
ライラがこの世界に受肉してから、短期間で、どうしてこうも変わったのだろうと振り返る。最初から、女神エリスの復活が目的だった。再会を願っていた。今は、記憶を取り戻してほしくないと願い、現状が続くことを望んでいる。
「器が完成したら……神核が安定するまで回復していたら……どれだけ力を削っても、引き留めるのは難しいのかな……」
「ヨシュカ様……申し訳ありません……私たちが勝手なことをしたばかりに……」
「気にしないでいい、とは言えないけど。……ねえ、カイが鍵を守っていても、神の前では無意味だと思う?」
「……全力で抗ってみます」
「カイ、戻ってる」
ヨシュカは不自然に笑顔を作って見せ、暗い雰囲気を壊そうとした。すぐに笑っていられる状態ではないけれど、何もしないわけにもいかない。
「……せめて、今だけは……。俺たちも現状を楽しもうよ。残された時間が短いなら、今のうちに満喫しておかないとね」
「酒でも飲むかあー」
「ああ、めちゃくちゃ強いやつあるけど、どうする?」
「飲むに決まってるだろ」
カイも強張った表情を崩して、部屋を出るために立ち上がった。ヨシュカと二人で部屋を出ていく。
残されたティアとラルムは、二人をただ見送るだけで、まだ作り笑顔さえ難しい。祈るように天井を見つめて、誰へ向けるでもなく想いを呟く。
「急ぎたくないと思ってしまうのも……私たちの身勝手なのでしょうか……」
泣きたいけれど、何より自分自身が泣くことを許せない。
自分を責めるティアとラルムに、困ったような雰囲気の声が降った。
『私は、器の育成を急いでほしいと頼んだだけで……神核の回収を急ぐとは、言っていませんよ』
驚きの声さえ返せなかった。ティアとラルムは一度顔を見合わせてから、再び天井に視線を向ける。
天井に姿が在るわけでもないのに、なぜか困った顔で頬を掻く姿が見えた気がした。
『余計なことを聞かせられない相手がいるので、必要最低限しか伝えませんが……私だって、ライラの幸せを望んでいるのに』
「え、あ、はい。嘘が言えないことは知っていますので……お気持ちを疑ってはいませんけれど……」
『そちらでも、あまり音にしないよう気を付けてくださいね』
困ったように笑い、申し訳なさそうに尻尾を揺らす様子が想像できる。
ティアは全身から力を抜いて、テーブルに身を預けた。ラルムは椅子から落ちたまま、無抵抗に床へ倒れ込む。
『二人も笑っていないと、心配をかけるだけですよ』
「はい……あの、ありがとうございます……」
『無理をして笑えというわけじゃありませんが。その……』
「気遣いが下手ですね」
『必要がないなら、しませんけれど』
「申し訳ございませんでした!」
慌てて姿勢を正してから、つい笑いが漏れる。
雰囲気の変わった声を聞いて安心したのか、降る声は溜息と共に消えた。
ライラが眠る部屋の前で、サウラは扉を開けられずにいた。罪悪感もあり、今までと同じように振る舞えるかわからない。
開けることをためらっているうちに、部屋の中から物音が聞こえた。続いて、床に何かが落ちる音がする。
起きてすぐに倒れたのではと心配して、慌てて扉を開けた。
「大丈夫ですか?」
サウラが部屋に駆け込むと、ベッドの横でライラがへたり込んでいた。
「立とうとしたら、力が入らなくて……」
着替えようとしてベッドを下りたら、足に力が入らなかった。歩けなくなったわけではない。
「もう少し安静にしていてください。疲れているんですよ」
「心配させちゃってごめんなさい。迷惑もかけて……」
「オレが勝手に心配してるだけです。何も迷惑なんて……というか、ライラさんになら、いくら迷惑かけられてもかまいませんけど」
なるべく軽く返して、サウラはライラを抱き上げた。
ベッドへ座らせて、服の乱れも直す。部屋の中は涼しかったので、冷えないように足へタオルケットをかけた。
「何か必要なものがあれば、遠慮なく呼んでください。オレは皆さんに、ライラさんが目を覚ましたって伝えてきますから」
外へ出ようとするサウラの手を、ライラが慌てて掴む。思わずとった行動だったようで、掴んだライラも驚いていた。
「あ……ごめんなさい」
謝りながらも、手を離せない。
「あの……」
「一人になるのは、不安ですか?」
「……うん」
「怖い夢でも見たんですか」
「えっと、怖いっていうか、寂しいっていうか……いろんな気持ちが混ざってて。気を失う前の感じが残って……」
「覚えているんですね」
「はっきり覚えてるわけじゃないけど、なんとなく……夢みたいな感覚だから、怖い夢っていうのも、近いのかも?」
表現に困りながら、言葉を選ぶ。
申し訳なさそうにしながらも離せない手は、頼りなく震えていた。
「だから……迷惑、かけてもいいなら、まだ一緒にいてほしい」
縋るライラに見つめられて、サウラは断れなかった。手を払わないように気遣い、隣に腰を下ろす。
ライラはそっと距離をつめ、遠慮がちにサウラの顔を見上げた。
「もっとくっついても、怒らない?」
「……怒ったりはしませんけど」
引き止めていた手が離れ、サウラの背に回った。今にも泣き出しそうな顔が、抱きついたことで隠れる。
「触れられるって、やっぱり嬉しい。……私ね、いろんな人から避けられてた。でも、誰も悪くないの。でも……悲しかったの」
ぽつり、ぽつりと、小さな声で、混乱する記憶を吐き出した。
「家族は、違ったの。本当の家族より、家族でいてくれたの。だから、私も、また、家族がほしかった……。望めなかった、子供に、憧れていたと思う。喜んで、ほしかったのも、本当だけど。自分でも、ずっと、いいなって……もっともっと昔から、憧れていたような気がする」
気を失う前に溢れた感情には、覚えがないものもあった。言葉にすることで、頭の中を整理していく。
「だから、お父様に……もう家族なのに、家族になってほしいって……」
不安定になる直前の会話を思い返して、声が沈んだ。
「いきなり、こんな話して、ごめんなさい。今は、天族だから、みんな優しくて、近くにいてくれて……怖くないはずなのに、なぜか不安で……」
「オレは、ライラさんが天族じゃなくても、一緒にいますよ。……他の皆さんだって、きっと同じです」
サウラはためらっていたはずの両腕で、ライラを抱きしめ返していた。
確かに触れているはずなのに、腕に閉じ込めてもまだ心許ない。
「天族でも、天族じゃなくても、ライラさんはライラさんです。もし今から種族が変わったとしても、ライラさんの内面が同じなら、こうして同じように触れたい。触れても許すじゃなくて、触れたいんです。怖がらないでください」
「……みんなが、種族で判断するような人じゃないって、知ってたのに、不安になってごめんなさい。種族関係なく……サウラさんが一緒にいてくれるのは、どうして?」
「一緒にいたいから、だけではだめですか。ええと……オレも、避けられたり、珍しいものを見る目で見られなかったことが嬉しかったというか……。まあそれは、里の中では気にならないことで、同族にも避けられていたわけじゃありませんが。その……最初は、正直に言うと、面白かったんです」
「面白かった?」
「オレは里で必要なことを、他者より楽にこなせていました。姉貴のことは例外ですけど、強いほうではあったから、狩りも頼られる側で……。魔力が異常に多いから、驚かれて嫌な思いをしたこともあるけど、魔法で苦労した覚えはなかった。里の中にいれば安心して暮らせて……代わりに、刺激も達成感もなかったんです。何十年も変わらない……それが、ライラさんが来て、変わりました。外の人にも偏見なく接してもらえて喜んでいたら……いきなり何をするかわからないし、驚かされて振り回されて……」
「ご、ごめんなさいっ」
「それが、楽しかったんですよ。面白い人だと思った。上辺だけじゃなく、本心から同族と変わらず接してくれる……以上に、違いを気にせず引っ掻き回して、オレの手に負えない。思い通りにならない。他は姉貴くらいですよ。でも、姉弟とは違う。違うのに、ライラさんは遠慮しているのに、そのくせ踏み込んでくる。そんな貴女と、ずっと一緒にいて、もっと見ていたいと思ったから……離れたくなかった」
腕の中からすり抜けてしまわないよう、けれど壊してしまわないよう、抱きしめる力を強くする。
「ライラさん……今は触れることを喜んでくれていますけど、いつかライラさんのほうから離れたいと思う日がきても……逃げられると思わないでくださいね」
開き直って浮かべた笑みは、腕に収まるライラからは見えなかった。
「……すみません。オレは、自分のために勝手な判断をした。責められてもいい、恨まれてもいい、むしろそのほうが楽にさえ思えるような。でも、離れることだけはしたくない。ね、オレは好き勝手してるでしょう。ライラさんも、もっと望んでください」
驚いて雰囲気の変わったライラから、サウラは一旦体を離す。顔を上げさせて目元を拭い、額に口唇を落とした。
「誰かが喜んだり、幸せだって言わないと不安なら、オレがいくらでも言いますよ。だから、まずはオレを幸せにしてください」
「……一緒に、幸せになってくれるって言ったこと?」
「それも、覚えていてくれたんですね。オレを幸せにするために、ちゃんとライラさんにも幸せになってもらわないと。笑っていてくれないと、安心して眠れません」
自分が、と強調する。あえて、今のライラが、他者を意識したほうが受け入れられるなら。自分勝手でもかまわない。
ライラは、サウラが自分のために言っていると気付いて、申し訳なくなる。けれど、申し訳ないだけではなく、感謝の気持ちもあった。嬉しいと思えた。
わからなくても、不安でも、止まっていた歩みを一歩先へ。見えない鎖に絡め取られていたような感覚は、少しだけ軽くなっていた。