天空島
季節感を無視した楽園。それが、ライラが天空島を見て感じた印象だった。
地上へ落ちる滝に繋がった川は、一切の濁りがなく透明で、綺麗過ぎる。水中では魚のような生き物が、蝶に似た形のヒレをなびかせて泳いでいた。
川岸には夏の活気付いた草が茂り、春を思わせる花が咲き乱れ、氷のような結晶も生えている。
豊かな森には、鮮やかな夏の果実も、恵みの秋を連想させる熟した果実も実り、春を感じさせる満開の花も咲いていた。
離れた山の上には雪が積もっているように見え、今が真夏だという事実を霞ませる。
飛ぶ鳥は猫に似た尾を生やし、棲み家らしき場所へ潜る時は丸くなった。島へ入ってきたライラたちに興味を示して、隠れながら様子を窺っている。
島に上がったはいいものの、ライラはどこへ行って良いのかわからず、ただ景色に見惚れていた。
そこへ、心地良い涼やかな風が吹き抜け、白い翼を持った一人の女性が現れる。
一目で天族とわかる女性の、白い髪は腰が隠れるほど長く、大人らしい体つきで身長が高い。
「会いたかった……ライラさ――こほん。ライラ」
天族の女性は、一瞬病的なまでに恍惚とした表情を漏らして、慌てて優しい微笑みを作る。完璧な仮面を着けたように、整った笑顔だ。
愛しさを溢れさせた声音でライラの名を呼び、ゆっくりと歩み寄った。
戸惑うライラを庇って、ヨシュカが前に出る。
「久しぶりだね、ティア。自己紹介もなしじゃ、ライラが困ってしまうよ」
「あら、貴方から何も教えていないの?」
わざとらしく首を傾げつつ、ティアと呼ばれた天族は、ヨシュカの横をすり抜けてライラを抱き締めた。
「ここへ来ると知った時から、楽しみにしていたの。会えて嬉しいわ、ライラ。私が貴女のお母様よ」
頬を擦り寄せ、さり気なく匂いまで嗅いでいる。
ヨシュカとカイは、ほぼ同時に溜息を吐いた。過剰な歓迎をされなかったことには安心したが、ティアが母親役を満喫するつもりなのだと察して。
ライラは戸惑いながらも、そっとティアを抱き締め返す。
「お母様、って、呼んでもいいんですか?」
「ええ、もちろん」
ティアは息が荒くなるのを堪えて、体を離した。
「本当は一緒に暮らしたかったけれど、ライラには父親の知る世界も見てほしかったから。物心がつく前に手放すことになって、ごめんなさい。狭い天空島の中だけで満足してほしくなかったの」
実際にはこの世界で幼少期と呼べるものはなかったが、ティアの中では設定が決まっているらしい。
続く言葉を発する前に、サウラが口を挟んだ。
「あの、成人してから外に送り出しても良かったのでは?」
「ここで暮らしていたら、一緒に過ごす時間が長いほど……手放せなくなっていたと思うわ。世界を見て自由に生きてほしいという願いよりも、閉じ込めておきたいという気持ちのほうが強くなってしまう前に……って。願うのも、閉じ込めるのも、どちらも親の身勝手だけれど」
サウラから目を逸し、ティアはライラと手を繋ぐ。
「今日は神殿に泊まっていって。そこでゆっくり話しましょう」
軽やかな足取りで、ライラの手を引いて歩き出すティア。勝手に設定を考えていたわりに、質問されると弱いようだ。
繋いだライラの手を指先で撫でながら、神竜の居る神殿へ向かった。
案内された神殿には、神竜の気配だけでなく、精霊の気配も満ちていた。周囲を流れる川の上流に、全ての精霊を繋ぐ場所があるためだ。
天族と神竜は精霊の源を守り、精霊は無限の湧き水を提供している。おかげで、天空に在りながら水が枯れることはない。
上空から落ちる滝の勢いが、高さのわりに激しくない理由にも、精霊が関わっていた。
ティアが精霊の話をしながら、広い神殿の中を進む。
途中の広間には、女神エリスの像が置かれていた。
「この神殿は、神竜様の居住というだけでなく、女神様を信仰する神殿でもあるの」
足を止めて見上げていると、横の扉から男性の天族が一人出てきた。頼りがいのあるたくましい体を晒し、下半身しか服を身に着けていない。乱暴に掻き混ぜたかのように乱れる短い髪は、当然のように白かった。
「何百年ぶりでしょうか……」
温和な表情を作ったまま、涙を流す。
カイが慌てて布を投げ付け、余計なことを口にする前に遮った。
「相変わらずだな! ったく、とりあえず顔とか鼻水とか上半身とか隠せよ! 子供もいるんだから怖がらせるんじゃねえ」
適当に怒鳴ったが、実際リュナは大男がいきなり泣き出したことに驚いていた。引き気味になりながら、カイの服をがっしり掴んでいる。
ヨシュカも苦笑いで頬を掻いた。
「な、何年ぶりだろうね。元気そうで良かったよ」
天族の男性の呟いた言葉が、ライラに向けて発した言葉だと悟られないよう、自分やカイに向けられたかのようにごまかす。
母親役を満喫しようとするティアよりも、こちらのほうが厄介だった。
「来たばかりで悪いんだけど、カイたちのことお願いできるかな? 久しぶりに、家族だけで話したいこともあるから」
カイとリュナ、サウラを任せるというより、カイにこの男性を押し付けると言ったほうが正しい気もするが。天族の男性にはもっと冷静になってから出直してほしい。
「わかりました……ライラ様には後ほど改めてご挨拶させていただきたく――」
「さっさと行くぞ! 客に酒くらい出せよ」
布ごと顔を掴み、カイが片手で天族の男性を引きずっていく。
『覚えてねえんだから余計なこと言うなよ』
『すみません……』
カイは半ば強制的に念話を送って、顔を掴む手に力を込めた。焦っているが、リュナを抱えているほうの腕には力を入れないよう気遣い、潰さないようにしている。
「サウラも早くこい!」
「は、はい」
サウラも後を追い、広間にはヨシュカとライラ、ティアが残った。
微妙な表情の二人と違い、ライラだけは心配そうにカイたちを見送る。
「カイ、あんまり乱暴しちゃだめだからねっ」
「彼なら大丈夫よ……たぶん。私と同じ、最初の天族だから……竜に引きずられてどうにかなるほど、弱くないわ」
ティアはライラとヨシュカを連れて、カイたちが去った方向と反対側の扉を開いた。
広間と扉一枚で繋がった部屋へ入って、冷やしてあった香草茶を注ぐ。
薄紫色の香草茶が注がれたグラスには、いつの間にか氷が浮かび、パキパキと高い音を立てて揺れた。
簡素なテーブルにグラスを並べ、ライラと向かい合って席に座る。
「……なれなれしい態度をとってしまい、申し訳ありませんでした」
「いえ、あの……嬉しかったです。地球でも、お母様はいなかったから……。あっ、嫌じゃなければ――」
「嫌だったら母親役を望んだりしません! あわよくば甘えられたいと思って……すみません」
つい溢れた妄想を飲み込んで、ティアが頭を下げた。
「安心してください。外界転生者の多くは、普通の赤子として生まれるのですが……状況によっては、ライラ様のように……成人した体を必要とすることもあります。そのため、私たちのように事情を知る者が、親の役割を担うことは珍しくないのです。本当の母親だと思って、遠慮なく何でも言ってください」
満面の笑顔で拳を作り、張り切って気合いを入れる。
ライラも嬉しそうに笑い返した。
「ありがとうございます……ティアお母様」
少し照れたように頬を赤くして、澄んだ瞳でティアを見つめる。柔らかな口唇から紡がれる呼び声は、慣れない甘えを含んでいて、聞く者の庇護欲を掻き立てた。
甘え慣れていない姿はいじらしく、心を奪う。
「くっ……想像以上の破壊力っ……。ヨシュカ様……私の呼吸は、ここで止まるかもしれませんっ」
「少しは自分と似た顔なんだから、慣れようよ」
「似ているのが申し訳ないくらい違います……私たちが材料になったとは思えないっ……それに表情が……」
ティアにとって、思い描いていた女神エリスが実体化して、息遣いを感じられるのは幸せなのだろう。
実体のなかった頃からエリスは、生命の想像する好意的な感情や、曖昧な感覚を集約した姿は持っていた。それがまだ未熟とはいえ、生命たちが惹かれる漠然とした想像を体現して、受肉したのだ。顔立ちは、ライラがティアに似ているのではない。エリスの一部から女性に変質したティアが、影響を受けてエリスに似ているだけだった。
「とりあえず深呼吸して。あと、なんとなくだけど、材料って言い方やめようね……」
「どうして瞳の色が今のヨシュカ様に似て……。使われたのは、以前の体のはずでは……」
「ごめんね。一人の世界から帰ってきて」
「っ……すみません」
ティアは香草茶を一気飲みして、冷静になろうとする。
「娘ができたことが嬉しすぎて、取り乱してしまいました」
「喜んでもらえて、私も嬉しいです。それで、あの……また最初みたいに……」
「ええ、大丈夫。ライラ様……ライラも、気兼ねなく甘えてね」
「……うんっ」
安心した表情で、香草茶を飲むライラ。
そんなライラの仕草を眺め、ティアは頬を緩めた。
ふとライラがヨシュカを見て、首を傾げる。
「前の体から私が……って、もしかして、お父様が大賢者って呼ばれてた頃?」
「そうなるのかな」
「だから前に、大賢者様の匂いがするーって言われたのかも?」
「ああ、あのストーカーエルフか……もう大丈夫だから忘れていいよ」
ヨシュカが溜息を吐くより先に、ティアのグラスに亀裂が入る音がした。
「ライラは先に広間へ戻っていてくれる? 私は少し、ヨシュカ様と個人的にお話があるから」
ライラは素直に頷き、部屋を出ていく。
残されたヨシュカは眉間を揉みつつ、今度こそちゃんと溜息を吐き出した。
「ライラのストーカーしてたわけじゃないから、安心してよ」
「とりあえずその危険人物は気になりますが置いておきましょう。それよりも……」
急に部屋の空気が変わって、空間が外から隔離される。
「チェルハイデア様のことでお話があります。あの方は、エリス様の記憶が戻った後……管理者の立場にエリス様を縛り、ご自身が再び地上へ下りるつもりかもしれません。今のエリス様……ライラ様の器を使って。以前の器には、もう収まることができないのでしょう。エリス様の復活と同じくらい、器の完成を重要視していらっしゃるようでしたから」
「どうして……」
「エリス様を失ったあの日に戻るつもりなのかと……私たちの憶測に過ぎませんが。あの方は、全てを語ってくださらないので……」
「でも、両立させたいなら、神核の回収を急ぐことはなさそう?」
「おそらくは……。ただ、早く記憶を戻して再会したいと望む方や、長居することを良く思わない方もいらっしゃるので……。ヨシュカ様も――」
「俺は、それまでの間……今のままでもいいと思っているよ。早くと思ったこともあるけれど、戻るより幸せそうに見えてしまったからね。少しでも長く……」
「私も今は……ライラ様に記憶を取り戻してほしくありません……。悲しむ姿を見ているしかできなかったあの頃と違い、今の私たちなら何かできることはあるはずですが……それでも、一切の憂いを払うことはできない。なら、地上でも悲しいことはあるでしょうけれど、あの頃よりは今のほうが……」
「お互い変わったね」
「これでも、あの日のことを後悔しているのです。エリス様の力になりたくて、望まれるまま地上に下りたことを。失うとわかっていたら離れたりしなかった。いえ、エリス様がご自身を犠牲にしてでも守ろうとする方だと知っていたはずなのに!」
ティアは悲鳴のように感情を吐き出し、泣き崩れた。
「今、私たちが、エリス様のためにと思っていることも、正しいものかわかりません……でも……」
「エリス様の行動は、全て正しいものだった?」
「え……」
「頼まれなくても助ける。守る。幸福を願う。ねえ、俺たちだって、同じことをエリス様にしても、許されるんじゃないかな?」
「私たちは、エリス様に幸せになってほしくて……でも……エリス様の望みを……」
「それで後悔したんだから、次は自分の望みを優先する。また後悔するかもしれないけれど……繰り返したくはない」
今が終わらないことを願ってしまう。記憶が戻らないことを望んでしまう。
けれど、生が終われば状況は変わる。終わらなくても、戻されて変わってしまうかもしれない。
永遠ではなくても、せめて今だけはと祈ってしまう。
祈りを聞く神が、女神の復活を望んでいるとしても。