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雪原に咲く椿

鋭利な爪が、まるで空間ごと切り裂くように振り抜かれた。

「っ!」

 天堂椿は紙一重でそれを躱し、彼女の長く美しい黒髪が僅かに切断された。

 すかさず態勢を立て直し、相手へ槍を向ける。


「ブフォ、ブフォ」

 槍先の煌めきに促され、それはより一層興奮したように息を荒げた。

 胸元に特徴的な模様を持つその姿は、間違いなくツキノワグマであると分かる。


 食肉目クマ属クマ科。

 黒色の固い毛で全身を覆われ、手足には鋭い爪を備える。

 本来臆病な性格であるが、いざ人間が戦おうものならまず勝ち目はない。


 それにしても、と天堂は自問する。

 目の前にいるコレの大きさたるや、果たしてすべての熊がこれほどに巨大なものなのだろうか。

 四つ足で立っているにもかかわらず、目線はほぼ天堂と同じ程度の高さにある。

 それにこの雪に覆われた山中。

 真冬であれば冬眠の時期であるはずのツキノワグマが、積極的に活動をしていることも妙である。


「ブフォッ」

 戸惑う天堂に、熊はまた威嚇するように鼻を鳴らした。

 理由はどうあれ、どうにかこの場を切り抜けるしかない。

 逃げ道はない。

 背を向ければたちまち追いつかれ、その巨大な胃袋に飲み込まれてしまう。

 それ以前に、天堂にとって勝負における選択肢の中に逃避という文字は存在していなかった。


 生きるか死ぬか。

 それは誰が相手だろうと変わらない。

 槍を持つ手に力が込められる。

「来なさい…」

 天堂が言うと、その言葉を理解したように熊が涎を垂らしながら駆け出した。


 獲物へ向けられた牙は一本一本が彼女の指よりも太く、丹念に研がれた刃物のように鋭い。

 力任せに組み付かれでもされてしまえば、抵抗する間もなくその爪や牙で切り裂かれてしまうだろう。

「ゴフォッ」

 天堂の間合いに侵入した熊は、彼女に突進しつつ丸太のように図太い腕を振りかぶった。

 斜角に振り抜かれた腕を、彼女は寸前まで引きつけ相手の視界外へ回避する。

「こっちよ」

 声に反応した熊がすかさずそこへ次の一撃を打った。


 だがすでにそこに天堂の姿は無い。

「はぁ」

 熊の背後で天堂がため息を吐いた。


 つまらない。

 命のやり取りと呼ぶには一方的すぎる。

 天堂は思い出す。

 男と刃を交えた、月も羨むようなあの燃える夜のことを。

 互いが剥き出しの命を差し出し、それを切り刻み合う最高の夜。

 襲い来るその刃で早く滅して欲しい、でもまだ斬り合っていたい。

 幸福な矛盾の中で、天堂は己の歪んだ欲望が満たされていくのを感じたのであった。

「それと比べたら…」


 ようやく振り向いた熊に、天堂はもう一度ため息を吐いた。

「野生動物に多くを求めるなんて無理な話よね。もういいわ、終わりにしましょう。熊って、どこを突けばいいのかしら」

 天堂はそう言って相手の全身に視線を這わせる。


 そんな彼女に、熊は間髪入れずに再び突進を始めた。

「シッ」

 その首元へ、天堂は初動も見えない一瞬の突きを放つ。


 しかし。

『ガキィッ』

 …金属音。

 槍は弾かれ、滑るようにその軌道を逸らした。

「ガフッ」

 上体をのけ反らせた天堂の顔の先を、鋭利な爪が通過する。

 彼女は舞うようにまた熊の背後へ回るとすぐに構えた。

 そして全てを理解して口元に笑みを浮かべた。


「そう…。あなた、『作られた』のね」

 まるで命じられたように執拗に突進してくる熊へ、天堂は憂いを宿した瞳を向ける。

 荒々しい吐息を漏らす鼻が間合いに触れた時、槍は煌めき熊の両眼をほぼ同時に穿った。


「ゴォォォ!」

 大きく開かれた口から辺りを震わせるほどの雄叫びを放ち、熊は立ち上がった。

 天堂はそこへ最後の一撃を放つ。

 体内の最奥へ達した手応えを感じ、さらに槍へひと捻り加えると、熊はそのまま力なく倒れ込んだ。


 天堂は槍に付着した血を振り払うと、舌を出したまま絶命している熊を一瞥した。

「被検体は人間だけではない、ということね…」

 そして何事も無かったかのように歩き出した。


 細やかに降っていた雪はいつしか勢いを増し、ぼたぼたと重たく落ちている。

「くしっ」

 天堂は小さくくしゃみをした。

 寒さに震えるその姿は、一見するとただの年頃の乙女である。

 しかしその内には歪な灼熱の炎が滾る。


 己の全てを喰らいつくす絶対的な力。

 それを求め彼女は旅を続ける。

 深淵に燃ゆる炎。片腕が機械の男を追いかけ、雪原に椿は咲く。


読んでいただきありがとうございます

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