後
「なあ、右腕に包帯を巻いてるけど、なにか怪我でもしてんのか?」
雪の降り積もった山道で、高峰は後ろを歩く万兵衛に聞いた。
昨日までの吹雪は止み、辺りは不気味なほど静まり返っている。
朝の雪山を歩く二人を静寂が包む中、それは沈黙に耐えられなかった高峰が発した何でもない一言だった。
「これはそうだな、たぶんどうやったって治らねぇ。大変なもんを背負わされちまった」
「背負わされた?」
「もともとあった腕はある日突然失われた。災いみたいなもんだ」
「……大やけどでもしたのか? まあいいや、苦労したんだな」
高峰はそれだけ言うと、それ以上は詮索しなかった。
万兵衛にとっても、そのほうがありがたかった。
年の離れた少年に対して不幸自慢なんてしたくなかったからだ。
「ひとの心配をしてるが、随分と余裕じゃねぇか。これから狩るのはただの熊じゃねぇんだろ」
「余裕だ? とんでもねぇ、さっきから震えが止まんねぇよ。だから気を紛らわそうとしてんじゃねぇか」
「そいつは結構だ。だがあまり固くなるなよ。なにも出来ずにおいしく食べられちまうぜ」
「へっ、それこそ余計な心配だ」
軽口を返す高峰であったが、不意にその足が止まった。
息をひそめる少年に、万兵衛も自然と口をつぐむ。
「見ろ、奴の足跡だ」
そう言った高峰の見つめる先を、万兵衛も目を凝らしてみるがそこはどう見ても真っ白な雪が積もる平地にしか見えない。
「俺には分からねぇ。流石は猟師の息子といったところか」
「きっと奴の通り道だ。今からここで待つ。万兵衛さんはもうちょっと後ろにいな」
万兵衛は言われた通り、背後の少し離れたところに立つ木の下に入って高峰を見守ることにした。
高峰は背負っていた猟銃を重そうに下ろし、その場に身を屈めて弾を込め始める。
しん、という音が聞こえそうなほどの静けさの中、万兵衛は空を見上げ白い息を吐いた。
「寒くてしょうがねぇ、早いとこ終わることを願うぜ」
それは小さく呟く声だったが、万兵衛自身に大きく響いた。
時間まで白く染まったかのようなこの時の中に二人は身を沈めた。
「…来た」
どれほど待っただろうか。
寒さで足の感覚が失われようとしていたころ、高峰が吐息のように囁いた。
相変わらず万兵衛の目には何も映っていなかったが、代わりにどこからともなく鼻を突く獣臭が漂う。
ついにやって来た。
それを確信し、思わず万兵衛も息を呑む。
高峰は猟銃を構えたまま動かない。
ただじっと真っ直ぐを見据えるのみである。
やがてそれは姿を現した。
遠くに、ゆっくりと歩く一つの黒点。
「あれをここから狙うのか」
「……」
沈黙する少年の背中は歳不相応の気迫を放っていたが、それがむしろ万兵衛の不安を煽った。
高峰は今、相手の命を奪うことにのみ気を取られ、その逆は全く眼中にない。
戦いにおいて、己も死ぬかもしれないという可能性を度外視している。
目に力を込めたその先で、高峰は引き金に掛けた指へ僅かに力を込めた。
その瞬間、熊の歩みが止まりその双眼は高峰を一直線に捉えた。
「っ⁉ アイツ、この距離で…!」
獲物を発見した熊は、積もる雪を蹴散らしながら凄まじい速さでこちらへ向かって来る。
「馬鹿、殺気が強すぎたんだ」
「来るな、一発で仕留める!」
高峰はそう叫んで万兵衛を制し、迫り来る標的へ狙いを定める。
互いの距離は離れているが、だからこそ僅かに生じるズレが大きな誤差となってしまう。
限られた瞬間、高峰は息を止め討つべき親の仇を迎える。
そして引き金は引かれた。
それはまるで父の魂が降りたかのように完璧な角度であったが、それと同時、否やや相手が先に、一直線だった軌道を逸らした。
銃声が山中に虚しく響き渡る。
しかしそれに余韻を感じている暇などない。
熊は速度を上げ、高峰のすぐそこまで迫っている。
「あ、ぅあ…」
恐怖に怯える少年へ、熊は走る勢いを利用した腕の一撃を振るう。
僅かに起き上がった体は驚くほどに巨大で、高峰にはそれが一族もろとも連れ去る死神のように映った。
まさに死そのものとして迫る腕を前に、彼は固く目を閉じて最後の瞬間を待つのみであった。
「おいこら、なにを休んでやがる!」
訪れるはずの終わりに代わって届いた怒声に目を開けると、そこには熊の一撃を右腕で受ける万兵衛の姿があった。
「下がってろ、俺が何とかする」
「ぁ……」
目の前に広がる現実味の無い光景に高峰は唖然としていたが、意外にもその手は再び強く猟銃を握りしめた。
「お、俺は逃げたりなんか、しない」
「誰が逃げろと言った! こいつはてめぇが仕留めんだよ!」
「っ!」
高峰は瞬時に己の役割を理解し、万兵衛の背後へ弾かれたように駆けた。
そして懸命に心を落ちつかせ、次の弾を込める。
この距離。
この十分に狙える至近距離で、万兵衛は必殺の機会を作り出そうとしている。
すぐさま構えた先で、万兵衛が覆いかぶさるような熊の押しに耐えている。
「くっ、やっぱ熊は強えぇ…。おい、どこを狙えばいい!」
「目か鼻を狙え! 刀でそこを突けば怯む!」
それを聞くや否や、万兵衛は空いた左手で刀を逆手に取ると、それを熊の目へ力の限り突き立てた。
「ゴフォォ!」
熊が雄叫びを上げたその瞬間、万兵衛を押す力が僅かに緩んだ。
万兵衛はすかさず刀を諸手に持ち換えると、それを頭の高さまで振りかぶった。
「もう片方も頂くぜ!」
力を込め刃を振り下ろしたと同時、熊はまるで図ったように頭部を横へずらした。
「馬鹿、頭は鬼のように硬いんだ!」
「そうじゃねぇ、こいつ…!」
頭蓋を打った刀から、万兵衛の手へ痺れるような衝撃が伝わる。
だがその衝撃は、想像していたものとはまるで異なり、肉や骨、生けるものが持つものから伝わるそれとは程遠く、言うなれば…。
「機械……」
万兵衛の中で、静かな炎が音を立てて燃え上がった。
目の前のこれは、ただの野生動物ではない。
脳裏に研究所の陰がちらつき、万兵衛はさらに刀へ力を込めた。
「胴体なら!」
放たれた一閃は、熊の胸部に示された月の印の僅か上を裂いた。
だが浅い。
万兵衛が放った横薙ぎは、剛毛に覆われたその恐ろしく頑強な体表に弾かれる。
「ブフォ、ブフォ!」
興奮した熊はまた相手に覆いかぶさると、今度は全体重を乗せ力ずくで押し倒した。
眼前に迫る牙を、万兵衛は右腕で受け止めている。
やがてそこに巻かれていた包帯が解けていき、禍々しくもどこか美しい銀色に光る機械の腕が現れた。
「我ながら頑丈な腕だ…! 今日ばかりはこの腕で良かったと思うぜ」
「万兵衛さん、その腕…」
「そんなことはどうでも良い、ここからどうすりゃいい!」
「どうって、そんな…。鼻か目を…」
途切れ途切れに呟く高峰をよそに、熊の牙は万兵衛の顔面を裂かんと迫る。
「くせぇ…! そんなとこに大人しく食われてたまるかよ…!」
歯を食いしばる万兵衛に、荒々しい鼻息がぶつかる。
むせかえるような湿気を含んだそれは、すでに鼻先に触れる距離から吹いていた。
「触れる距離……か」
頬に熊の唾液が落ちた時、万兵衛の口元が怪しく歪んだ。
「躾をしてやる、熊畜生が!」
叫ぶと同時、大きく開いた万兵衛の口は相手の鼻に噛みつき、そのまま肉を裂いて噛み千切った。
「ゴフォォォォ!」
鼻を失った熊は血をまき散らせながら立ち上がり、地を轟かせるほどの雄叫びを上げた。
そして高峰の目に映る。
血に染まった、紅い三日月。
少年は露わになった熊の胸部へ狙いを定めた。
一寸の躊躇もなく撃つ。
父と母を喰らった機械仕掛けの獣を。
銃声が辺りにこだまする中、熊の胸に空いた穴からは勢いよく血が溢れ音を立てて雪の上に流れている。
やがて力なく倒れた熊を中心に目の覚めるような赤が広がっていく。
万兵衛は動かなくなった巨体を前に、立ち上がり着物に付いた雪を払った。
下手をすれば命を失うような強敵だった。
しかしそんな窮地を脱したにもかかわらず、男の表情は冴えないのであった。
「やったなあ! 俺、一人じゃ絶対出来なかったよ。本当に感謝するぜ」
高峰が意気揚々と駆け寄り、万兵衛の背を叩いた。
「……この近くに何か人の暮らす所はあるか」
万兵衛はそれを気にも留めない様子で、熊から目を逸らすことなくそう言った。
高峰はそれを訝し気に思ったが、ただならぬ雰囲気を感じて素直に答える。
「村はずっと遠くにあるけど…。あとは山を下ったところに一つだけ良く分かんない建物があるぐらいだなぁ」
「それはここから遠いのか」
「その建物のことか? それなら山を下ったら本当にすぐだけど、もうあそこには人の出入りはないぜ。もうずっと前かなぁ、急に静かになっちまったんだ」
「……そうか」
万兵衛はそう言って振り返ることもなく歩き出した。
「おい、どうしたんだよ。せっかく二人で仕留めたんだからさ、これから腹いっぱい食べようぜ。こんなの一人じゃ何日かかっても食いきれねぇよ」
その言葉に、万兵衛は立ち止まった。
そしてやはり振り返らずに高峰へ言った。
「俺にはそれを食う気が起きねぇ。おめぇが立派に復讐を成し遂げるのを見られただけでも良かったぜ。じゃあな」
高峰は遠ざかっていく男の背中を見ていることしかできなかった。
そこには何者も寄せ付けぬ淀んだ悲しみが感じられたからだ。
単に寒さからではない、異様な悪寒が少年の身体を震わせた。
高い塀に囲まれた、白塗りのこじんまりとした建物。
山を下ったところにぽつんと立つその前に、万兵衛はいた。
開け放たれた門は錆び、門そのものの役目を果たしていない。
万兵衛はそこから真っ直ぐに建物の中へ足を踏み入れた。
中は暗く、足音だけが反響して聞こえてくる。
人の気配は無く、壁は所々剥げ落ちてまさに廃墟という様相を呈していた。
歩みを進める万兵衛の足が、一つの部屋の前で止まった。
『実験室』
万兵衛の目にその札が映り、彼の疑念は確信に変わる。
ここはかつて国が抱える研究所であった。
理由は分からないが、ここでの研究は中断されもぬけの殻となったのだ。
万兵衛は僅かに開いた扉に手を掛け、部屋の中に入った。
机も何もないその部屋の中心には、巨大な檻だけが置かれていた。
檻の中にはなにも囚われてはおらず、扉は開け放たれている。
暗闇に佇む冷たい鉄の檻。
それは二つあった。
「…ここで玩具でも作ってやがったか」
万兵衛は呟き、部屋を後にした。
研究所を出た万兵衛は村を目指し歩き出した。
男の後ろには、雪の上に一人分の足跡だけが残る。
その歩みを止める者はいない。
止めることが出来ない。
燃え盛る復讐の炎は、どんな深淵であろうと眩く輝く。
読んでいただきありがとうございます