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 真冬の雪山は全てを飲み込む白に染まり、そこにある全ての色を覆いつくす。

 また降りしきる雪は止む気配もなく純白の世界に踏み込んだ者を惑わす。


 進むべき方角も分からないその無垢の中に、一つの人影があった。

 風景の中に溶け込みそうな一つの点は、荒れ狂う吹雪の中をゆっくりと、だが着実に進んでいく。

 褪せた紺色の着物は風にはためき、頭の後ろに結わえた髪と生え散らかした無精ひげには溶けた雪が凍りついている。

 風が強く吹くたび、腰に差した刀が大きく揺れ冷たく光った。

 心身ともに消耗する状況下で、男はその足を止めることなく一歩ずつ確実に踏み出していく。


 男の名は万兵衛という。

 彼にはこのような道を行くほどの理由があった。

 どのような障害があろうと、斬らなければいけない相手がいる。

 万兵衛は復讐に生きていた。

 険しい雪山が今、越えるべき試練として彼の前に立ちふさがっている。

 瞳の中には常に熱い炎を宿していたが、今一度吹いた強烈な吹雪が万兵衛を叩いたとき、それは微かに揺れた。

 復讐に燃える炎も、流石に丸一日飲まず食わずでは若干の翳りを見せている。


 ただでさえ過酷な山道である。

 万兵衛の疲労は,自身の知らないうちに限界まで達しようとしていた。

「ハァ、ハァ」

 吐く息はたちまち風にさらわれ、彼方へ消えて行く。

 目に吹き付ける雪を腕で避けつつ進むが、万兵衛は己の腕が僅かに霞んで見えるのに気が付いた。

「…流石にまずいか」

 万兵衛は呟き、辺りを見渡す。


 白一色のこの中で何かが見つかるとも思えなかったが、それはまるで用意されたように彼の視界に映った。

 岩場にぽっかりと開いた洞窟。

 待ち構えるようなその穴へ、万兵衛は吸い込まれるように入っていく。


「ありがてぇ」

 万兵衛は一息つくと、洞窟の壁に背を預けそのまま力なく座り込んだ。

 外では相変わらず吹きすさぶ雪が真横に降っていたが、それでも風を凌げるというだけでも幾分か暖かく感じられた。

「冬の山ってもんを舐めてたぜ…」


 膝を抱える万兵衛は向かいの壁を眺めていたが、やがてその視界はさらに霞んでいく。

「これはいよいよやばいか。それになんだか、眠く……」

 重くなっていく瞼は徐々に閉じ、万兵衛の意識は暗闇に沈んだ。





 薪の弾ける音が洞窟に響き、万兵衛の目を覚ました。

 揺らめく光と共に、火の暖かさが伝わる。


 その時、万兵衛はすぐ近くに人の気配を感じ、すかさず右手を刀に添え構えた。

 いきなり飛び起きた万兵衛に、その人物も驚いたように体を跳ね上がらせる。

「うわ、ちょっと待って! 斬らないで!」


 その声の主。

 それはまだ小さな少年だった。

 尻もちをつき、身体は恐怖に震えている。

 万兵衛はそれを見て警戒を解くと、刀から手を離した。


「いつからいた。ここで何をしている」

「何をって、ここは俺の家みたいなもんだし……」

「なに?」

 その言葉に、万兵衛は洞窟の中を見渡した。

 来た時には気が付かなかったが、奥には毛皮が敷かれた寝床のような場所があり、木彫りの食器なども並んでいる。

 少年の言う通り、彼は長い間ここで暮らしていたようだ。

 万兵衛はまた座り込むと、目の前に燃え盛る炎を見つめた。


「すまねぇ、たまたまここを見つけたもんでな。少し休ませてもらっていた。さっきのは癖というか、お前を斬ろうなんてつもりはないから心配するな」

「そうだったのか。驚いたよ、帰ってきたら薄汚いおっさんが寝てるんだもん。でも起こすのも申し訳ないと思ってさ」

 少年はそう言い、若干の緊張感を残しつつ火の前に座りなおした。

 そして背後に積まれた薪を一本手に取ると、慣れた手つきで焚火の中へ放り込んだ。


「でもさ、こんな雪山に一人でいるなんて、もしかしておっさん死ぬつもりだったのか?」

「そんなわけあるめぇ。俺にはどうしてもこの山を越えなくちゃならねぇ理由があるんだ。それと、俺をおっさんと呼ぶのはやめろ。これでもまだ若いんだ」

「……ふうん」

 少年は疑うように万兵衛の顔をまじまじと見た。

 そして興味なさそうにまた火へと視線を戻す。


「じゃあ名前はなんていうんだよ」

「万兵衛だ。成り行きでそんな名前になった。おっさん以外ならなんとでも呼ぶといい」

「万兵衛さんかー。絶妙に古臭い名前だな。俺は高峰ってんだ。立派な名前だろ。ここで動物を狩ったりして暮らしてんだ」

「お前のようなガキが一人でか?」

 万兵衛の問いに、高峰は表情を曇らせた。


 そのまま少しの間沈黙していたが、やがてゆっくりと重い口を開く。

「父ちゃんと、母ちゃんと、三人で暮らしてたんだ。でもな…」

 そこで言葉は途切れたが、それ以上聞かずとも万兵衛は理解した。

 高峰の両親は既に亡くなってこの世にはいない。

 この国で幸せに暮らす家族なんて僅かしかないのだ。


 よくある身の上話だと思いながら、万兵衛は話に耳を傾けた。

「いつものように狩りをしてたんだ。そんな時『アイツ』は現れた。これまで見たことも無い位にどでかい熊だ。流石に驚いたけど、大きさなんて父ちゃんにとって何の問題でもない。でもあいつが違ったのはその大きさだけじゃなかったんだ」

「……」

「まるで心を読んでるみたいに、猟銃がぶっ放される寸前で避けやがるんだ。弾は当たらねぇし、逃げようにも先回りして待ってやがる。頭がいいなんてもんじゃねぇ。それでいて執拗だった。あっという間に父ちゃんも母ちゃんも殺されちまった。そして俺を見ると、相手にする価値もねぇと言わんばかりに帰って行ったんだ」

 高峰は歯を食いしばり、膝を抱える手に力を込める。

 目には涙を浮かばせ、それを揺らぐ炎が眩く照らした。


「そんな危ねぇ熊が居るってのに、なんでまだこの山に残ってる」

 何気ない問いに、高峰はばっと顔を上げ睨みつけるように万兵衛を見た。

 そして傍らに置かれた猟銃を手に取ると、それを力強く握りしめた。

「俺が殺してやるんだ、アイツを。父ちゃんと母ちゃんの仇を討ち、そしてあの時俺を逃がしたことを後悔させてやる」

「おいおい、それって異国の武器だろ。そんなもん持ってるって国にばれたら怒られるじゃ済まねぇぜ。それにおめぇみたいなのがどうにか出来るとも思えねぇが……」

「舐めんじゃねぇ。俺だって狩りの何たるかは父ちゃんからみっちり教えて貰ったんだ。アイツの縄張りは分かってるし、ついてることにこの吹雪も明日には止みそうだ。万兵衛さんもついて来るなら、明日は熊鍋を吐くほど食わせてやるよ」


 高峰の表情は自信に満ち溢れていたが、万兵衛にはそれが根拠の無いものであることがはっきりと分かった。

 そしてこういった人間のほとんどが死ぬまで己の無力さに気付くことはない。

 復讐が果たされようという高揚感に目を輝かせる高峰であったが、万兵衛はその瞳の奥に少年の死を見ていた。

「だが、まぁ俺に止める理由もねぇわな。あわよくば肉が食えると思って、明日は俺も付いて行ってみるかね」

 万兵衛はそう言って壁にもたれかかった。


 高峰はその言葉を聞くと意気揚々と洞窟の奥から何やら持ってきて、それを万兵衛に差し出した。

「前祝いと言っちゃなんだが、これは鹿の干したやつだ。少しだけだが、何かの縁だしな。一緒に食おうぜ」

「うお、まじかよ。かたじけねぇ」

 万兵衛は干し肉を受け取るとすぐさま齧りついた。

 高峰も同じようにそれを噛み締め、燃え上がる炎をまっすぐに見た。

「これは立派な借りだ。なにかあったら俺が助けてやるからよ」


 万兵衛が素直にもそんなことを言ったのは、少年にかつての自分と似たものを感じたからであろうか。

 それともただ単純に、その言葉通り高峰に恩を感じたからであったのかもしれない。

「ふっ、狩場はな、刀の出る幕はねぇぜ」

「そうだと良いんだがな」

 生意気に笑う高峰に、万兵衛も深く笑った。


 風は止み、穏やかに降る雪の中で洞窟から洩れる微かな光が浮かんでいる。

 そこには復讐に燃える二つの炎が笑っていた。


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