VNDE SPIRAT VENTVS VITAE: III
「ほれ、できたぞ」
とりあえずの素描をフラウィアに手渡すと、彼女はそれをアントニウスに回した。絵は金梅花の形態的特徴を正確に捉えていたが、それだけいっそう、色彩が欠けていることが惜しまれた。
「絵具を貸そうか」とアントニウスは親切心から申し出たが、しかしゼノビアはかぶりを振った。
「ここに振られている字と数字が『帝国公式色彩番号』になっていて、首都に送ってから転写させて担当に塗らせるんです。時間がもったいないですし、絵具の種類が違いますからね」
そう会話する二人の間にフラウィアはずいっと身を乗り出す。
「そう、時間がもったいないからね。でもこのペースなら明日にはすべて記録できるのじゃないかな」
「だが……んん、ですがこれでもまだ素描ですので、すべてきちんと記録するとなると時間はかかるでしょうね」
アントニウスも会話相手に含まれていると判断したゼノビアは、かろうじて口調を正して答える。
フラウィアは「具体的にはどれくらいかな」と問い、「三日以上」とゼノビアは即答した。皇女は銀色の髪を左右に揺らして、「明日一日」と無茶を言う。奴隷は深くため息をつく。
「別にやろうと思えばできなくはないが、出来は悪くなるぞ。いいのか」
「それはだめだ……さて、どうしたものかな」
顎に手を添えて悩むフラウィアに、アントニウスは自分が彼女の予定を聞いていないということを思い出した。
「お急ぎなのですか?」
「うん。総督にはもう書簡を送っていて、会う日程も決まっているんだ。今後の予定を考慮すると明後日には絶対に出る必要がある。あ、伝え忘れていてすまないね」
なるほどとアントニウスは頷いた。この地域を通過し調査するフラウィアとしては総督との対談は必須なものに違いない。総督はおおむね属州の最大都市、「第五管区・南東属州」で言えばナルボに滞在しているが、職務遂行のために移動することも頻繁であるから、事前の通達から日程を変えれば不都合もでるだろう。
事情を理解したアントニウスはフラウィアのとなりで一緒に悩む。
ゼノビアは悩まない。彼女の発言がなんであれ、それが聞き入れられる可能性は相当に薄いからだ。
ややあってアントニウスは肉付きの良い手をぽんとたたいた。
「でしたら押し花はどうでしょうか」
「お、それは……。いやしかし、花を摘ませるというのもな」
彼の提案にフラウィアは遠慮するような表情を浮かべたが、
「苗はそれなりにありますし、この時期には咲いてないものも保管してありますので。作れないものは彼女に描いてもらった方がよろしいかと存じますが……」
案ずることなど何もない、という表情だった。実際、皇女の機嫌を取れるのであれば、全く考慮に値しない程の対価であろう。
そうしたことを承知した上でフラウィアは少し考えたが、やがてこっくりと頷いてにこやかな笑みを浮かべた。
「素晴らしい。共同執筆者として君の名前を記しておこう」
「それはありがたい。では戻ったら手配しましょう。こちらから首都に送ればよろしいですかな」
「いや、こちらで預かりたい。旅の途中で確認したいからね」
その時、まるで機を読んでいたがごとくアントニウスの奴隷たちが姿を現した。アントニウスは当初彼らを無視したが、奴隷の一人が近づき身を伏せると、フラウィアに一言詫びをしてその奴隷と話しはじめた。
もしや見えなかっただけでひそかに随伴していたのでは……とゼノビアは警戒したが、どうもそうではないらしい。漏れてくる会話を聞くに、彼らは晩餐について主人にお伺いに来たようである。
やがてアントニウスはフラウィアに向き直った。
「失礼ながら、一足先に本館に戻らせていただきます。御用事があればこやつに申し付けていただければ」
アントニウスはやってきた奴隷たちのうち、若い男を指さした。
姿勢をきっちりと正しているがその表情は強ばっている。現れているものは緊張というよりも怯えに近い。彼の生殺与奪権が目の前にいる背の低い少女に握られていると思うと、いつものことながらゼノビアは同情せざるを得ない。
「晩餐はいつ頃かな」
一方フラウィアは、奴隷ごときの心情になど一片の感傷も抱かず、取り出した奇妙な道具を撫でると、アントニウスに尋ねた。彼はその円形の金属に対する好奇心を抑えつつ、時刻を伝える。のこり三刻ほどであった。
「じゃああと二刻ほどで戻ろうか」
「簡略ではありますが浴場もありますので、そちらを先に済まされては」
『帝国』においては昼過ぎから夕方前、晩餐に先立って入浴を行うのが一般的である。
「む、それもそうだ。となると一刻もない。本格的な記録は明日になるな。君にいろいろと聞きたいこともあるしね」
「どうぞお手柔らかに。……ああ、それと」
好意的な笑みを浮かべ続けるアントニウスではあったが、ゼノビアの目は確かに、その雰囲気が変質したのを察知していた。
「土には触れないようお願いいたします。土質の調整が難しいのもありますが、根が繊細でして、少しの力ですぐに傷んでしまいます故」
「花は?」
「触れないでいただければ幸いですが、必要とあれば。できるだけ優しくしていただけますと助かります」
「うん、承知した。大事な帝国の財産だ、決して粗雑には扱わぬと誓おう」
その言葉を聞くと、アントニウスは名残惜しそうにしながらも、本館の方へと去っていった。食事の準備をしているはずの奴隷たちに指示を出すのだろう。ゼノビアはさっとフラウィアの手に文字を刻もうとしたが、主人はそれを無視して残された奴隷に顔を向けた。
「さて、そこの君」
「は、はいっ」
「そう怯えるな。別に取って食ったりはしないから。人間はあまり好きじゃないからね」
フラウィアのつまらないがおぞましい冗談は哀れな奴隷の精神に負の影響を与えた。しばしば帝室は悪徳に塗れた邪悪な生き物として描写されるが、彼の中で想像と現実が一致しつつあった。
見かねたゼノビアは「俺が話す」と提案する。奴隷相手なら奴隷のほうがましだろう、という判断であった。フラウィアが相手方に伺うと、彼は震えながらお望みの通りに、と答えた。その反応にフラウィアは自身の奴隷の判断の確かさを理解する。
「私はぶらぶらしてるから、君はその子に聞いて必要な絵を描いておいてくれ」
そう言うや、フラウィアは杖を片手に花壇のまわりをうろつき始めた。一品種ごとに顔を近づけ、指で形を確かめているあたり、やはり匂いで花の位置を正確に感知しているようであった。この様子なら転んで怪我をすることも無かろうと判断し、ゼノビアはさしあたり自分の仕事に集中することに決める。
「おい、あんた」
「は、はい」
相も変わらず緊張している案内役に、ゼノビアはついため息をつきかけた。当然と言えば当然である――皇室の奴隷は、並みの平民よりも高い社会的地位を持つ。一般の貴族の奴隷から見れば雲の上の存在だ。ゼノビアは可能な限り事務的な口調で、押し花にはできない花の種類を尋ねた。彼が答えるところによれば、計60種。意外と多い。覚えるのも面倒である。
彼女は少し考えたのち、男奴隷に質問を重ねる。
「お前、字書ける?」
「はあ、一応」
「図と表をこっちに書いてくれ。いちいち聞くのも手間だからな」
そう言ってゼノビアは草紙と筆を手渡した。奴隷はおっかなびっくりそれを受け取り、床の上で絵と字を書き記す。受け取ってみると存外見やすいものだったので、ゼノビアは喜んだ。
さしあたり表に従って手近にある花にとりかかろうとする。その花は彼女の真下に咲いていた。
金床草、というらしい。その名のごとく背が低く平坦な外見をしているこの植物は本来、北方の地にのみ生える希少な植物だが、ゼノビアはそれを知らない。
とはいえ、それがただの植物とは異なることは分かる。葉が円を描くように広がるのではなく、きれいな長方形を形作るのであるのだ。一方、花は平凡である。ささやかな白い花はちゃんと丸く咲いている。絵描きは奇妙な安心を覚えた。隅から隅まで異常な物品は心をざわつかせる。
筆を走らせていると背後から視線。振り向くと、案内役の奴隷が挙動不審にうろたえていた。そこに害意を見いだせなかったゼノビアは、再び深く息を吐いた。
「あんまり見ないでくれると嬉しいんだが……」
「すす、すみません!!大変お上手ですので、つい……」
「そりゃどうも。だがあんたも字は上手いじゃないか。誰に教わった?」
「親が商人でして、子供のころに」
ああ、孤児か、とゼノビアは判断する。両親を喪い、頼るべき親類もいない子供は、戦争が少ない地域においては貴重な奴隷供給源である。首都ではそうした孤児に対する福祉制度も存在するのだが、属州と首都では状況が異なる。
「字がそれだけ書ければそのうち絵も描けるようになるさ」
「本当ですか」
「俺はそうだった」
社交辞令のようなものだった。彼女は絵の専門的教育を受けている――教育? 拷問の間違いでは?そのようなことを口から滑らせてはご主人様の「教育」を受けてしまう。ゼノビアはそれきり黙って、金床草の絵を描き上げた。案内役を伴って次の花に移る。
そうしているうちに再び邪魔が入った。
「どうだね、作業は順調かね」
ゼノビアは良く通る舌打ちで答え、その態度に案内役は身震いをしたが、女主人はそれらすべてを無視し自分の奴隷の肩を揉んだ。ゼノビアは煩わしそうに手で払ったが、主人が何かを要求していることは理解した。
「やっぱりそっちについてくか」
「いや、いい。良く整備されている。筆と紙を貸してくれ」
奴隷から筆記具を受け取ると、フラウィアは再びふらふらと花壇の間を散歩し始めた。今度はたびたび記録を取っているようである。案内役は驚愕した。
「あの方は字も書けるのですか」と、不敬を恐れたためか、ごく小声でゼノビアに尋ねる。そういうことは聞かんほうがいいだろう、と思いつつも、ゼノビアにはいちいち咎める気はない。
「下手だけどな。何のために書いてるのかあれじゃわからん」
彼女の文字を読み取ることができるのはゼノビアだけである。フラウィアは基本的に手先が器用ではない。例外的に解剖に際しては精妙な指さばきを見せるが、その技術は努力と経験によって得られたものである。
疲れたような口調であったが、なぜか案内役は笑った。いぶかしむゼノビアに彼が答えて曰く、
「ゼノビア様は、殿下と仲がよろしいのですね」
「あん?」
「い、いえ。大変砕けた調子で会話されているので……」
凄みのある声に怯えつつも、案内役は返答した。
確かに、彼女たちの会話は通常の主人と奴隷との間のそれを逸脱している。知らぬものからすると、見た目はともかくある種の友人関係に近いものを感じ取るのも仕方のないことかもしれない。
ただ、ゼノビアはそう認識していない。
「あれはあいつの命令だ。ぶっちゃけ、普通に話した方が楽だよ」
「まあ、それも殿下なりの親愛の証なのでは……」
「そうかもな」と応じつつ、ゼノビアはそれきり口を閉ざした。
もちろん、そうだとは思っていなかった。
目上の人間が憐れみゆえに目下のものに向ける感情を、「親愛」と表現するだけの修辞術を、ゼノビアは持ち合わせる気はない。たとえ主人がそう意識していようとも、奴隷からそうした感情を向けるのは「誤り」だと考えている。社会の道義に反するからではない。彼女の信念に反するからだ。
恩はある。奴隷にしては良い思いをさせてもらった。義理もある。いつか返さなければならないものだと信じている。そういう意味では、ゼノビアはフラウィアに好意的な感情を抱いている。「らしい」振る舞いをしてやっても良いと考えるほどに。
だがそれは、けっして親愛とは結び付かない。親愛と友情は対等者の間でのみ発生する感情だ。奴隷がそれを感じるとすれば、それは追い詰められた精神が生み出した、悲しき錯誤に過ぎないのであり、主人がそれを求めるならば、その態度こそ強者が抱く、優越感と傲慢の所産に他ならない。
「寛容であれ」と母に教わり、「高貴であれ」と父に習った。主人の無邪気に付き合う気はあるが、魂までも売り渡す気はない。奴隷に身を落としながらも、彼女はその精神を捨てる気はなかった。……もっとも、両親が存命のうちからすでに、この精神性をゼノビアが若干はき違えていたことは、誰の目にも明らかであったのだが。あるいはだからこそなのかもしれない。
彼らの死後、そして彼女の転落以後、彼女はずっと、自分の生の意義を考え続けている。
沈思黙考しつつ新たに素描を終えたゼノビアに、遠くからフラウィアの高らかな声が聞こえた。
「ゼノビア、そろそろお風呂の時間だよ」
解放されるまではそれに付き合わざるをえないのだが――と、陰鬱な気持ちを隠しながら、ゼノビアは返事をした。
× × ×
入浴は塗油から始まる。微温室で発汗を促しつつ体の汚れを落とすのだ。この作業を経ずに入浴する無作法者は、口さがない諷刺詩家たちの格好の餌食となる。
当然、これもまた奴隷の仕事である。
「昨日もやっただろう」とゼノビアは抗議したが、
「淑女に恥をかかせるつもりか」「臭ったらどうする」「これだから蛮族は」「お小遣いあげるからさあ」などという主人のしつこい言葉についに屈服した。
文句を言っていたゼノビアではあるが、一度始めるとその作業は丁寧だ。寝そべったフラウィアの体に香油と乳を混ぜたものをまんべんなく塗り、軽く揉む。銀髪の少女は奇妙な鳴き声を上げたが、ゼノビアは無視して青銅製の垢すり器を手に取った。
肌に傷をつけぬよう、しかし汚れはきちんと落とせるよう、適度な力加減でフラウィアの表面を撫でていく。そのたびにフラウィアは異様な声を上げ、そのたびにゼノビアは青筋を顔面に浮かばせた。途中までは我慢していたのだが。
「あぁ……、良い、良いよ。良い手つきだ……」などと言うに至り、
「気持ち悪い声を出すな」と、反射的に答えてしまった。
それを聞いてフラウィアはにやにやと笑う。
「君の手つきがやらしいのだ。猥褻だ」
「手は使ってない」
「ははん、なるほどその垢すり器で如何わしいことを……って痛い! やめろ! もっと優しく! あっほんとやめておねがいごめんなさい」
ゼノビアが無言で力を加え続けたので、フラウィアはついに言葉だけの謝罪ののち、完全に沈黙した。はるかに円滑となった作業にゼノビアは満足し、すいすいとフラウィアの体から垢を擦りだす。
背面が終わって仰向けになるよう指図すると、フラウィアは沈黙のまま体を回した。理解不能な震えを見せる主人の胴体に油を塗りながら、先に沈黙させておいてよかったなとゼノビアは考えた。
彼女がこの状態の問題点に気付いたのは、フラウィアの腹を擦っているさなかであった。ゼノビアはやや躊躇したが、果敢な決断こそが美徳であると信じた。
「ところでよう、」
「もうしゃべっていいのでしょうか」
即座に帰ってきた言葉の調子を無視して、ゼノビアは低い声で問う。
「黒かな、あれ」
フラウィアは一呼吸ほどの間をおいて、
「ここよりは向こうのほうが良いでしょうか」
「もういいよそれは」
微温室は脱衣所から近すぎる。聞かれる可能性が高い。手文字でも良いが、ある程度以上複雑な会話は口頭で行うべきであった。
ならばさっさと済ませようと垢かき器を動かす手を早めるゼノビアであったが、
「あ、洗髪と按摩もよろしくね」
と言われ、虚脱感を覚えつつも当座の作業に集中することに決めた。
さて、微温室に続くのは高温室である。蒸気式や乾燥式の浴場もあるが、アントニウスの浴場は湯を張った一般的なものであった。
一般的でないのは形態ではない。湯に花が浮かんでいることであった。ゼノビアはその光景に思わずぽかんと口を開ける。
「すげえな、ここまでするか普通」
「前王朝の皇帝が似たようなことを好んでいたという記録はある。ただ流石に普段はやらないのではないかな。たぶんアントニウス流のおもてなしだよ」
ゼノビアの声ははっきりと呆れを含んでいたが、反対にゼノビアは明らかにこれを楽しんでいた。
移動した二人はかけ湯をしたのち、木製の湯船に体を沈めた。
花たちが追いやられ、あるいは浴槽の反対側に、あるいは浴槽の外に、思い思いに泳ぎ去って行く。
「水がきれいなのは良いことだね」とフラウィアは呟き、ゼノビアも内心同意する。浴場によっては汚濁していることも稀ではない。浮いている花びらはしっかりとしたもので、花びらがばらばらに広がることもない。加工しているのだろうとフラウィアは考える。
ただ、ゼノビアの関心は今そこにはない。
「で、さっきの話だが」
黒髪をかき上げながらゼノビアが言うと、フラウィアは手で花をもてあそびながら、
「半々かな。やはり物証が欲しい」と答える。
「さっき掘り返しても良かったんじゃねえか?」
「個人的には彼からもう少し話を聞きたい。いいかね、私は『世界誌作成十人委員』なんだぞ。動くなら記録に値するものを全て集めてからだ。そもそも突き出すのは今の段階でもできる」
言ってフラウィアは熱で赤らんだ顔に陰湿な表情を浮かべた。
「彼、東方の商人と取引しているだろ。商品はあるし、恐らく文書もまだ残しているんじゃないかな、あの不用意さではね。商取引に偽造して、あるいは商取引自体によって『王国』に有利なことをしでかし、ひいては『帝国』の不利益を生んだ……という証拠を発見ないし偽造して、それを首都に送る。皇帝陛下は激怒し、ここは潰される。ま、殺されるのではないかな、最近の様子だと」
言いながら彼女は手にする花弁を一枚一枚引き千切り、残った柄を浴槽の外に放り投げる。
そいつは素敵だなとゼノビアは呟いたが、それを聞いたフラウィアはむしろ嬉しそうに、手でぱちゃぱちゃと湯を跳ねさせた。
「だが、しない。その筋道だと私の働きが弱く見える。そうなると肝心なものが手に入らない。私が潰し、あの男に知られる前に私の所有にする」
本当、素敵なやり口だよ、とゼノビアは口には出さずに呟いたが、それは言わずとも伝わるだろうと確信していた。
その証拠に主人はあたまを揺らして鼻歌を歌っている。ゼノビアがフラウィアの人格を批判すると、なぜか主人は機嫌を良くする。ゼノビアには理解しがたい奇妙な性質であった。
「君も歌いたまえ。お風呂で歌うと歌がきれいに聞こえるんだよ。私の大発見だ」
ゼノビアの懐に身体を滑り込ませつつフラウィアはご機嫌な様子で命じた。彼女の体重がたいへん軽いのは人間性の分だろうとゼノビアは信じている。
疲れるからやだよ、と言いかけたゼノビアであったが、ふと悪戯を思い付き、考えを改めた。彼女の慣れ親しんでいる、東方の猥雑な詩を歌うことに決めたのだ、ただし、現地語で。
自らの歌唱力を存分に発揮し、意味が分からなければ祭儀に用いられる聖歌の如き調子で歌い上げる。あまりの馬鹿々々しさに何度か吹きそうになったが、あくまでも峻厳に、かつ朗々と、最後まで歌い上げた。
じっと奴隷の歌唱に耳を傾けていた主人は、聴き終えてからもごく神妙な表情で何度も頷いた。が、ゼノビアが嬉々としてネタ晴らしをしようとした瞬間、突然淫猥な笑みを浮かべる。
「ゼノビア、君は特殊な趣味を持っているのかい」
あっけにとられるゼノビアの腹を肘でぐりぐりとこね回しながらフラウィアは揶揄した。ゼノビアは自らの敗北を悟らざるを得なかった。
「……結構俗な言葉遣いだと思ったんだがね」
フラウィアが習得しているのは公的か学術上の語彙だけだと思っていたが、まったくそんなことはなかったのである。
「私、勉強家だからね。あ、君が××と歌ったところ、公用語では『睾丸』と言う」
「もういいよ……」
珍しくか細いゼノビアの声に、フラウィアはけらけらと笑い続ける。
しばらくようやく笑いを収めると、ぐいっと伸びをしながら、
「やっぱり風呂は良いねえ。『帝国』の作った文化の極みだよ」
と、真面目腐った表情で言った。伸ばした腕がゼノビアの鼻を掠めたので、主人の頭をぺしりと叩く。風呂に入るとフラウィアの精神の程度はだいぶ下がる傾向がある。
生き生きとしているフラウィアに対して、ゼノビアはむしろだいぶ疲弊しつつあった。
盛大に声をあげたからという理由もあるが、
「お前本当に風呂好きだよなあ。俺はこんな暑いの苦手だよ」
「軟弱だなあ。まあ確かに、あまり暑すぎる風呂は良くなのだがね。薪をたくさん焚くから贅沢だとみなされてきたし、そういう意味で『魂を腐らせる』とも言われているけど、医学的にもそれは本当なのだ」
「というと」
「馬鹿になる」
なるほど確かにと納得して、ゼノビアは速やかに風呂から出るよう促した。
フラウィアが動こうとするまで、もうしばらくかかった。
狸金玉ソングのメロディーはもともと讃美歌だそうです。知見ですね。