VNDE SPIRAT VENTVS VITAE: II
屋敷の中央に広がる吹き抜けの中庭まで着くと、アントニウスは客人(と、その奴隷)へと振り返った。
「ところで本日はいかがお過ごしになられる予定でしょうか。早速ですが、花屋敷を見に行かれますか?」
「花屋敷?ああ、そう呼ぶのか……。うーん、それもいいんだが」
フラウィアは腹のあたりに手を当てた。ゼノビアもこっそりと同じように振る舞う。
「実はお腹が空いている。今朝ちょっと乳酪と果物を囓った程度だ。不作法とは承知しているが、なにか軽いものを出してくれると大変ありがたい」
「さようでございますか。では……、天気もよろしいですし、ここで食事にしましょうか」
返事を待たず、アントニウスは短く「花蜜の用意をしろ」と命じた。するとどこに隠れていたのか、10を優に超える奴隷が素早く姿を現し、中庭の木陰に椅子と丸机をしつらえた。別の奴隷は一角から銀器を運んでくる。中身を確かめると、アントニウスは奴隷に小声で何事かを伝えた。奴隷は頭を垂れ、素早くもと来た方へと戻っていく。
かような光景も、フラウィアとゼノビアにとっては驚くほどのものでもない。アントニウスに促され、フラウィアは椅子に腰かけた。
「どうしようか」
ゼノビアは小声で問うた。この場に居て良いのかが疑わしかったからである。二人が歓談している間、荷物を置きがてらこっそり奴隷から食事をたかるというのが一番良いやり方だろう。
「いや、ここにいたまえ」
奴隷の心遣いを知ってか知らずか、フラウィアは小さく短く答えた。奴隷をつけましょうか、というアントニウスの申し出も丁重に断る。アントニウスはそれを、自身の奴隷に対する信頼だと読み取ったが、当のゼノビアはそう考えない。
そのようなやりとりをしている間にも、アントニウスの奴隷たちはてきぱきと動いて昼食の支度をする。
卓上に置かれたのは杯と皿、それと深さのある椀である。杯には葡萄酒、皿の上には麺麭、乳酪、果物、胡桃をはじめとする木の実。ありきたりな食事だ。ゼノビアはさらなる空腹を覚え、主人に対しての嫉心を募らせた。彼女には着座する権利はない。
しかし卓の中央に置かれた椀の中身に視線が及ぶと、ゼノビアは一瞬空腹を忘却した。そこには文字通り花が咲いていたのである。嗅覚に意識を寄せずとも、濃密な花の香りがそこから漂っているのが分かった。
とはいえ、それはフラウィアには見えない。こういう時に状況を伝えるのは彼女が所有する奴隷の仕事である。ゼノビアは耳に唇を寄せたが、しかし主人はそれを手で制した。
「待て、君に言われなくても……」
ゼノビアを押しとどめたフラウィアは、左手を鼻にかざし、こっそりと鼻をひくつかせた。
匂いを吟味したのち、にやりと笑う。
「ふうん、花びらの蜂蜜漬けかあ。それにしてもずいぶんと種類が多い。薔薇……うん、三種か? あとは金梅花、絹葵、菫、黒爪草。さすがだね」
「おわかりになられるのですか」
アントニウスの驚嘆を泰然と受け止めて、フラウィアは「目が悪いと他の感覚に頼らざるを得なくなるからね」と答えた。
「ただ、さすがにどれがどこにあるのかは分からないな。すまんがゼノビア、とってくれ」
「あいよ」
アントニウスがゼノビアの声を聴いたのはこの瞬間が初めてであった。
やや低めの、しかし耳に心地よく通りの良い声と、ぞんざいな言葉遣いとの両方に、アントニウスは少しぎょっとしたが、他人、それも目上の人物の奴隷教育に口出しするのは憚られた。
「おすすめはあるかな」
「白薔薇と菫ですかな。赤薔薇はすこし癖があるやもしれません」
「ゼノビア」
「了解。アントニウス様、お目汚し失礼いたします」
ゼノビアの、打って変わって完璧な『帝国』公用語に、アントニウスは今度はあからさまにぎょっとしたが、それを気にすることもなく彼女は白薔薇を匙で掬い、指でつまんだ。それをフラウィアの唇に近づける。フラウィアは眉をひそめた。
「口」
ゼノビアの短い言葉に、今度は眉を吊り上げる。
「君は私が幼児だとでも思っているのか? 手元の皿によそってくれればそれで良いんだ」
「おっと大変申し訳ない。東方ではこうするのがしきたりなもので」
「軟弱な民族はこれだから困る。すまないねアントニウス。これ、たまに馬鹿なことをするんだ」
アントニウスは二人の関係を推し量りかね、曖昧に笑った。奴隷に対して甘すぎる主人、あるいは躾の足らない奴隷というものはいるが、はたして彼女たちがそういうものであるのかといえば、まだ出会ってから僅かしかたっていないアントニウスには自信がない。
ゼノビアが主人の銀器に花を飾ると、フラウィアはそれを一枚手に取り、口に入れた。
「いかがですかな」
やや不安そうな問いかけ――地方の名望家であるアントニウスと言っても、皇族と卓をともにした経験はない――に、フラウィアは笑みをもって答えた。
「おいしい。本土でも食べたことはあるが、薔薇の香りが強いね」
「元からして普通のものとは比べ物にならない、と自負しております」
「ふうむ、がぜん興味がわいてくるねえ」
言いながらフラウィアは喉の渇きを覚え、短く「ゼノビア」とつぶやいた。
不意の言葉にゼノビアは正しく反応し、フラウィアの手元にある飲み物の器、その取っ手を爪で軽くはじいた。フラウィアは献身に言葉をもって報いることなしに、薄い赤色の液体を口に含んだ。
「おっと、これもか」
フラウィアが驚いたのは、葡萄酒からも花の匂いが香ったからである。彼女の率直な驚きに、アントニウスは破顔した。
「ここらの葡萄酒は悪くはありませんが、さりとて本土の名産品とは比べ物になりませぬゆえ、こうして一工夫しておるのです。もちろん晩餐にはファレルヌムを出しますが、さしあたりこちらをお楽しみいただければと」
「組み合わせを考えるのも大変だろう。配合は……」
「申し訳ありませんが、それは貴重な財産ですゆえ」
「うん。ま、後で聞こうか」
二人はお互い意地悪い笑みを浮かべた。その様子、茶番を、ゼノビアは眺めてすらおらず、その視線はたまたま中庭の吹き抜けの向こうに泳ぐ白い雲に向けられていたが、
「ゼノビア、赤薔薇を」
という言葉には即座に対応した。赤薔薇を掬う。
「ほい」
赤薔薇の蜂蜜漬けを食べたフラウィアは、少し遅れて苦笑いを浮かべた。
「なるほど、独特の癖があるね。これはなぜなんだ?」
「さあ……、少なくとも生では白薔薇と大きな違いはないのですが、漬けたり調理するとこうなるのです」
「興味深いね。ゼノビア、菫」
「ほい」
「これは素朴においしいね。ゼノビア、桜」
「は……、は??」
ゼノビアは困惑した。この場には桜はなかった。
「冗談だ。桜の花びらなんて食べられないだろう。なあアントニウス」
「ふふ、じつは食べられるのですよ。なんと葉も食用となるそうです」
今度困惑の表情を作ったのはフラウィアである。彼女の脳内事典の中ににはそのような項目はなかった。
「わたくしは東方の、そうですね、商人から聞きました。もっとも我々の舌に合うかというとかなり微妙かと」
「なるほど。とはいえ何らかの薬効があってもおかしくないからね。そのうち試してみるとしよう」
アントニウスがやや言葉を選びながら客人の疑問に答えると、フラウィアは納得と好奇心をあらわにして応じる。
ゼノビアはアントニウスの言動に奇妙な違和感を覚えたが、「君もどうだ」と問われて姿勢を正した時には、すでにそのことを忘れていた。視線を下げると主人の肯定的な笑み。誘われたからには断る理由は無いし、なにより彼女も空腹であった。一言断って、花を掬い取り、口に入れた。
なるほど確かに悪くないと感じ、実際当たり障りのない感想を二人に告げる。だが内心では、先ほど馬車で食べた無花果のほうが美味しかったなあなどと、彼女は考える。できれば麺麭も食べたいが、それは主人が独占していた。さすがにアントニウスの前で強請るのは憚られた。
ささやかな昼食--『帝国』には昼食を本格的に摂る習慣はない--はその後半刻ほどでお開きとなった。フラウィアとアントニウスが立ち上がり、その場を後にすると、奴隷たちは再び現れて片づけを始める。
よく躾けられている、とゼノビアは感想を抱いた。
「さて、そろそろ花屋敷?とやらを見に行きたいのだが、ここからどのくらいなんだい」
「歩いて半刻ほどです」
「そうか、じゃあ今日は下見といこう。ゼノビア、杖をくれ。あ、筆を忘れるなよ」
そう言葉を交わしつつ二人は屋敷の隅に向かって歩き出した。そちらに裏口があるのだろう。
フラウィアの短い言葉のうちに、ゼノビアは「荷物を置いてこい」という命令を聞き取った。適当に奴隷たちを捕まえると、彼らは荷物を預かって客室まで運ぼうと申し出た。彼らの言葉の裏に後ろめたいものを見出しえなかったゼノビアは素直に礼を言ったが、提案自体は丁重に断った。
客室に案内されて荷物を置き、革袋からいくつかの道具を取り出したころ、ちょうど遠くからゼノビアを呼ぶ声が聞こえた。慌てることなく、しかし足早く主人の下へと向かう。
献身からではない。彼女も内心、その名も高き「アントニウスの花園」に、興味がなくはなかったのである。
× × ×
「花屋敷」は丘の上にある本館からやや下った先にある。
坂上から見渡すかぎりでは、面積は本館を確実に超えている。倍、いや三倍近くはあるだろう。しかも石造りの水道が独自に引かれている。煙が立っていることからどこかで薪も消費しているはずだ。相当の費用が掛かっていることを伺わせる。
小走りで坂を下るうちにすぐにゼノビアは主人に追いついた。ゼノビアが傍にいない時、フラウィアの歩む早さは大幅に落ちる。アントニウスとしてははらはらさせられたことだろう。
音を察知したのか、ゼノビアが近づくとフラウィアはぱっと振り向いた。
「遅いぞゼノビア」
「すまん、これでも全力疾走だったんだ」
「嘘をつくな、匂いでわかるぞ」
せめて呼吸で確かめてくれとゼノビアは思ったが、薄ら笑いを浮かべているフラウィアにそれ以上言っても無駄だと確信し、それきり沈黙した。
「今更ですが、馬を出した方が良かったでしょうか。気が回らず大変申し訳ありません」
アントニウスが額の汗をぬぐいながら言う。彼はやや多汗ぎみであるが、その汗は暑さのためではなかろう。
その言いぶりからすると、普段は徒歩で行き来しているのだろうと推察できる。この程度の距離であればそれは不自然ではない。
「あるなら明日は乗せてもらおうかな。……いやしかし、昼の腹ごなしにはちょうど良いだろう。明日は日傘を持ってこなければな。持ってきてるだろう、ゼノビア」
軽い調子で答えるフラウィアにアントニウスは安堵のため息をつく。無論アントニウスは馬を出すことを渋っているわけではなく、皇女の機嫌が損なわれるのを心配していたのであった。
雑談をしているうちに、三人は目的地に到着した。遠目に見ても広大な建築物であったが、接近するとよりその特異性を感じさせる。なにより、思ったよりも高さがあった。
アントニウスは扉に近づく。
一目で厳重とわかる鍵。まるで宝物庫だが、主人にとっては同じだけの価値があった。
解錠の音を聞くやいなや、フラウィアは自身の奴隷に耳を向けた。
「どう?」
「でかいな」
「そうじゃない」
ゼノビアも承知していたので、言葉に出す代わりにフラウィアの手のひらに短く字を書いた。
フラウィアは顔をしかめたが、アントニウスが振り向くとすぐさま表情をにこやかなものに戻す。
「ではこちらへ」
アントニウスに促され、二人は扉をくぐった。
赤。青。白。黄。紫。緑。紺。橙。紅。桃。碧。
ゼノビアの視覚はまず色で覆い尽くされた。認識が知覚に追いつかない。
花。花。花。花。花。花。花。花。花。花。花。
世界を分節する言語能力も、それがさしあたりの限界だった。
まさしく文字通りの「花屋敷」。ゼノビアの視界いっぱいに花が広がり、眩しくもないのに反射的に目を細めざるを得なかった。
「うわぁ……」
ゼノビアが思わず上げた感嘆の声を耳にするや、女主人は軽薄に唇を歪めた。
「おっ、久しぶりに聞いたぞその声。いいねえゼノビア、もっと聴かせておくれ」
「……ばぁ」
フラウィアは唇を対称的に曲げた。彼女は奴隷の声を率直に好んでいたが、それを率直に告白したことはない。
ともあれ、花である。床と内壁は大理石。花壇は人が二人程度歩けるくらいの幅を開けて、腰くらいの高さで均等に並んでいる。地上だけでなく壁にも、ゼノビアの肩あたりの高さに花瓶が吊されていた。その上にぎっしりと、しかし秩序だった仕方で、花が列を作っている。ゼノビアはその様子を正確に記憶していく。
菜の花、蒲公英、沈丁花、薊、苺といった小柄なものから、菫、菖蒲、長百合、花一華、春薔薇……あと、よくわからない花がたくさん。ゼノビアはそこまで花に詳しくない。
彼女は再び目を瞑った。色彩の暴力だ。花弁の密度が高すぎる。
「ここは春の部屋です」というアントニウスの解説をゼノビアは了解しかねたが、フラウィアは頷き、花壇を手で少し押した。地面に固定されているにしては緩すぎる感触。可動式である。
「季節に対応させて花を動かすのか。それにしてもどうやってこの気温を維持しているんだい」
「この時期ならまだ耐熱材で対応できます。冬は薪を焚いて。真夏は氷を輸送します」
「氷だと?」
平然と答えたアントニウスにフラウィアは素朴な驚きをもって答えた。
「お耳を」と断って、アントニウスはこっそりと囁く。
「この施設の維持にはルテティアの『支部』が協力しています。その代償として私は薬の素材を渡す、という取引をしておるのです」
『第五管区・北属州』の州都にして、管区全体を見渡しても最大の都市のひとつ、ルテティア。
そこに支部を置く団体は一つしか存在しない。彼らは『自然哲学・魔術研究協会』を自称している。
『協会』は皇帝より認可を得ているが、あまり評判の良い集団ではない。属州に置かれた『支部』はなおさらだ。アントニウスの憂慮も当然であった。
「心配しないでくれ、私は連中とも付き合いがあるからね。まあ、それは本部の奴らだが」
アントニウスの配慮に、フラウィアは小声をもって答えた。首都にある本部はともかく、遠く離れたルテティアで一体何をしているのか。本部が支部の活動にめったに言及しないこともあって、いっそう首都民は「北方のまじない使い」に対して疑惑の視線を向けざるを得なかった。それはフラウィアも同様であったが、
「これだけの施設を作れるとは驚きだ。君の尽力あってのこととは承知の上だが、連中への評価も改めなければならないね」
フラウィアにはその光景を目視することは叶わないが、そのかわり鼻を上品にならすという器用な真似をする。数秒の間をおいて、彼女は困ったように笑った。
「いやしかしとんでもない数だな、これは。鼻には自信があるが、これはちょっと難しい」
「あまり無理をなさらず」
あまり皇女の身分にはふさわしくない振る舞いにアントニウスは苦笑したが、すぐにその笑いを引っ込め、代わりに憂慮の表情を浮かべる。
「いかがいたしましょうか。触れて匂って確認するとなると記録にも差し支えありましょうし、時間も大いにかかるかと存じますが……」
アントニウスのもっともな指摘に、しかしフラウィアは答えることなく、「ゼノビア、頼んだ」とそっけなく命じた。
ゼノビアもぶっきらぼうに「おう」と応じると、背負っていた荷物から筆と草紙、墨汁を取り出した。胡坐をかき、花をじっと凝視しながら、筆をさらさらと紙の上に走らせる。
「アントニウス、一応確認してくれたまえ」
館の主は奴隷の背後から紙を覗き込んだ。ゼノビアとしては見られながらの作業はいささか居心地の悪いものであったが、拒否することなどできないので無心に描画を進める。
「ほう」というアントニウスの驚嘆の声に、フラウィアは自慢げに笑い、ゼノビアの肩に手を載せる。
「上手いらしいね、私は見たことが無いからわからないが」
「これも教育したのですか」
フラウィアはうなずいた。皇帝や官僚の下には業務を遂行するための専門技能を有する奴隷集団が養われており、一般向けにも奴隷を教育する教師や設備が存在する。高い技術力を持つ奴隷は、当然ながら値段も相応のものとなる。
「私も絵が描ける奴隷が欲しくなってきましたよ」
アントニウスは心中で家計について考慮しながら呟いた。ゼノビアのごとく体格が良く、美しく、公用語で会話ができ、かつ絵が描けるとなると相当高値となるだろうが、絵が描けるだけならそこまで高くはなるまい。一考の余地は十分にあった。
フラウィアは悩めるアントニウスに、偉ぶったように腕を組んで助言する。
「私の経験上、そういうのは繊細で扱いづらいんだ。わがままな上に陰険、恨みは長く覚えるが、しかし恩はすぐに忘れる。よくよく吟味することだね」
言い終えた瞬間フラウィアは飛び跳ねた。ぎょっとするアントニウスを尻目にフラウィアはゼノビアのほうに顔を向ける。無論奴隷は無心で絵を描き続けている。
「いかがなされましたかな」
「虫にでも嚙まれたかな。や、気にしないでくれ。この程度大事ない」
顔を青ざめさせるアントニウスにやんわりと対応しつつ、フラウィアはゼノビアが今浮かべているであろう表情を(非視覚的な仕方で)想像し、あとで問い詰めなければと決意するのであった。