MIRACLVM MVNDIS: IV
「え?」
ゼノビアがフラウィアの肩から手を離したと同時に、皇女の口から無意味な音が漏れた。
動転を隠そうと彼女は数回咳ばらいをし、今度ははっきりとした口調で言う。
「ゼノビア、こういう時は目的語を明確にしないと私も混乱してしまうだろう。誰が、誰の案に乗るんだい」
「そうだな。アントニウス、お前の提案は理解した。過程はともかくとしても魅力的だ。だから俺はお前に付くことにする」
広い執務室を冷たい沈黙が埋め尽くした。
アントニウスは瞠目し、フラウィアは身を固まらせ、ゼノビアは冷酷に彼女を眺める。
それを引き裂いたのは皇女である。彼女は立ち上がり、奴隷に憤激の表情を向けて絶叫する。
「『私は命じる――!』」
「口をっ」アントニウスは短く叫ぶ。
「いや、いい」ゼノビアは即座に答えた。
「『アントニウスを拘束し、私の下に引き立てよ!』」
アントニウスは無駄であると知りながらも腕で自身の体をかばった。怪物的膂力を有するゼノビアにこの程度の守りは気休めにもならない。
実際、それは無為に終わる。
『命令』されたゼノビアは、首を軽く回しながら、皇女の上で手をひらひらと閃かせた。
その身体は、もといた位置から一ウンキアも動いていない。
『命令権』は機能していない。
幸運を噛みしめながらも疑問を表情に示すアントニウスに、ゼノビアは、
「昨夜の侵入時、鍵の処理に『命令権』。さっき俺を一時的に拘束するために『拒否権』。で、俺に許可を与えるために呪術行使。これだけ使えばもう何も残っちゃいねえ。長く付き合ってる俺には分かるが、葡萄汁を濾した後の滓みたいなもんだ、今のこいつは。使えるふりをしてたのはこいつお得意の詐術だよ」
と、彼女の主人を見下しながら説明する。その侮蔑の視線はアントニウスにも向けられた。
「あんたも散々騙されてるんだ、いい加減理解しろ」
「……そうだな」
「お、なかなか物分かりが良いじゃないか。てっきり奴隷の言い分にキレるかと思ってたが」
「お前と私はもはや運命共同体だ。機嫌を損ねられたら元も子もない」
「いいね。裏切ったかいもあるというもんだ」
ゼノビアはへらへらと笑い、アントニウスは苦笑いを浮かべる。
フラウィアはただ一人、この会話についていけない。
彼女は奴隷の裏切りにはっきりと困惑しているように見えた。
その証拠に、常よりもいっそう気軽な調子でゼノビアに問いかける。
「ゼノビア、君は自分がやっていることの意味が分かっているのかい?」
「分かってるよ」
「だったらなぜだ。ああ、そうか。おいおい馬鹿だなあ、もう演技はしなくてもいいんだよ、あれはアントニウスが君を求めるきっかけを作るためのものだったのだからね。だから」
「演技じゃねえよ」
フラウィアの言葉を遮ってゼノビアが答えると、今度こそフラウィアの表情から楽天的なものが抜け落ちた。かといって悲観的なものが浮かぶまでもなく、ただただ素朴に、
「あ、そうなのか。だったらなぜ?」
と問いかける。やや間をおいてゼノビアは答えた。
「そうだな。……お前はもう、いらないからだよ。今の上手かったか、アントニウス」
振られたアントニウスはかろうじて首を縦に振ったが、その視線は皇女に向いていた。
わずか数日のうちに、彼はフラウィアの多彩な表情を目の当たりにしている。
皇女らしい厳格な面持ち。好奇心旺盛な少女の笑み。屈折した策謀家としての冷酷な顔。
それらすべてが作りものであるように今は思える。
かくん、と口を半開きにしたフラウィアは、もはや帝都一流の学者ではなく、そこらに居る只の阿呆な小娘にしか見えなかった。
圧殺されそうなほど重苦しい沈黙。
かかる状況において、フラウィアが脱出という不可能事に挑んだのも、彼女が冷静さを失っていたからかもしれない。
むろんゼノビアがそれを見逃すわけもなく、即座に長い腕を主人に伸ばし、その手首を掴んだ。
「もうちょっとですからね、動かないでくださいねー」
滑稽劇の仮面のごとき笑みを顔面に張り付かせながらゼノビアは言うが、その眼には表情に相応の感情は浮かんでいない。
見えぬフラウィアにもそれは伝わったようで、彼女は膝をかくんと落とした。
「なんで……」
「で、これからの予定だがな」
フラウィアの呟きを遮って、ゼノビアはさっぱりとした声音でアントニウスに言う。
アントニウスが気をとりなおして向き合うと、彼女は先に渡した書簡をこんこんと指で叩いた。
「お前の計画はちと穴がある。まずこの書簡だが」
いまだ返却していない巻物を再び開きながらゼノビアが言うには、
「フラウィアを含めた『帝国』の要人は特殊な羊皮紙を使っている。こういう事態を避けるためだな。透かしが入っていて複製は困難だ」
「ということは今持っているのだろう、それを」
「ああ、荷物にしまってある。あと、羊皮紙の四方に記号を書く必要もある。これは基本的には本人が記すわけだが、当然これまでも俺が書いてきた。だからこれは駄目だ。俺が改めてその羊皮紙を使って作成する」
アントニウスは深く頷き、内心この奴隷を味方になしえた幸運を神々に感謝した。
彼は数日の観察で、この奴隷が決して馬鹿などではなく、明晰な判断能力を有していることを把握していた。今用いている『俺』でさえ、昨日の演技でははっきりと『私』と発音しているのも耳にしている。彼女が粗雑に見える第一の理由は主人による強制だ。ゼノビアは疑いなく『帝国』公用語を流暢に発音できるのであり、その他の知識も水準以上に違いない。
その証拠に、さらに彼女は言い募る。
「一番しんどいのは『帝都』の連中だ。下手に動けばすぐに発覚する。判断の難しいところだが、ここは積極的に動くべきかもしれない」
「というと?」
「沈黙で押し通すのではなく、適当な下手人を用意することを検討すべきだと思う。こいつに敵対する連中はこっちにもいるだろう?そいつに罪を押し付けることも、今のうちに検討すべきだ、ということだ」
ここでゼノビアは、嘲笑の視線を自身が拘束する少女に向けながら、耳にそっと唇を近づけ、アントニウスに聞こえる程度の音量で、
「――神々に呪われた娘。父母の尊き血統を穢す者、婚姻にも利用できない出来損ないの娘」
そう、粘ついた声音で囁いた。フラウィアは身を震わせ、今にも泣きそうな表情を顔に浮かべた。
それを満足げに見届けたゼノビアはぱっと顔を離すと、今度はアントニウスに不真面目に指を回しながら言う。
「――が、こういう立場に居ることを憎む連中は帝都にもいる。こいつの妹あたりは典型的だな。まああれはちと特殊だし余計危険だが……。そっから辿れば良いかもしれない。つまりそういう連中とつながりがある、ここいらの貴族だ。帝都の情勢は後で教えるからそっからはあんたが考えろ」
「お前は常にそういうことを把握しながら、フラウィア様に仕えてきたのか」
アントニウスがおののきつつも問うと、ゼノビアは頭に疑問符を浮かべつつ答える。
「当然だろう? 仕えるならその程度の事理解しておかなきゃ困る。裏切る時には武器になり得る。どんな奴隷だってそうさ、お前らが思っているほど俺たちは馬鹿じゃねえ」
アントニウスは自らの奴隷たち一人一人を詰問したいという欲望に駆られた。
彼らもそうなのか? 私に忠実に見えて、内心は背中に刃を突き立てようと欲しているのか?
違うと思いたい。少なくとも彼は自身の奴隷を虐待した覚えはない。世間一般の目からすれば不名誉なことはたくさん命令してきたが、それに見合う報酬を与えてきたつもりだ。
少なくとも、皇女に盾突くという危険を冒してくれた程度には信頼がある。そう信じたい。
そう結論付けつつも、なお彼は、この「信頼」という言葉の意味に懐疑的にならざるを得なかった。
かかる思考を読み取ったがごとく、まさに今主人を裏切りつつある奴隷が言う。
「とはいえ、だ。俺だってお前が信じきれるか分からん。まだな」
そう言ってゼノビアは、いまだ座り込んでいるフラウィアの手首を持ち上げ、アントニウスの足元に放って投げた。
皇女は小さく悲鳴を上げる。
それを気にも留めず、今度はゼノビア自身が打ち倒した奴隷が握っていた小刀を奪い取り、それをアントニウスに手渡す。
そして、元主人を指さして、
「そいつを殺せ。今、ここで」
と、アントニウスに命じた。
奴隷に命じられるという屈辱を、その意想外な内容に対する驚きが上回った。
内心の狼狽を隠しつつも彼は言う。
「……正直、憎んでいるのはお前の方だと思っていたよ。昨日お前が叫んだ言葉には、隠し切れぬ真意を感じたが」
「そりゃそうだ。できるならそうする。だが」
ゼノビアは何気なくアントニウスとフラウィアに近づき、ふいに右腕を振り上げた。
彼女の拳は猛然たる速度でフラウィアの顔面に振るわれる。アントニウスは皇女の頭部が血の花を咲かせる様を幻視したが、その寸前、ゼノビアの肉体はぴたりと停止した。
ぎしぎしと骨がきしむ音をアントニウスは耳にする。
「俺たちは、殺せない。首都の連中はそこまで阿呆でもない。こういう身分の人間に随伴する奴隷は主人を殺せない呪術を掛けられている」
彼女が浮かべていた苦悶の表情は、身をフラウィアから離してすぐに消えうせた。
アントニウスはすでに半ば納得していたが、奴隷はなお言葉を続ける。
「それに、お前には覚悟を決めて貰わなければならない」
その指摘は彼にとってまったく慮外のものであった。反論しかけたアントニウスを先取りしてゼノビアは言う。
「まだ躊躇している。まだ他人任せにしようとしている。ここだよ、アントニウス。そこが俺たちを分かつ川だ。まだ俺はお前を信じきれない。俺を待ち受けている危険にお前の覚悟は見合っていない。その川を越えたいなら、お前の腕をもってその高貴な血を絶やせ」
それは絶対的な条件であった。これを呑まねばこの奴隷は従わぬ、そうアントニウスには理解された。
彼女はすでに賭けを行っている。ここでアントニウスが妥協し、法の下で裁判を受けることを認めれば、彼女を待つのは破滅だけだ。彼がどこかしらで逡巡して判断を誤った場合も同じこと。その場合、二人は見事に共倒れとなる。
それを阻止するために彼女は求めている。アントニウスが絶対に引き返せぬ地点に身を置くことを。もはやそれ以上の悪行を犯せぬ次元に達することを。
それを象徴的に実現せよと要求している。
『帝国』を統べる尊き血統。それを身に宿すものを、自らの手を以って殺めろと。
彼は、ゼノビアの提示する道を進むことを決意する。
皇女を拘束する手に十分な力が籠らないのは、百年の間帝国を支配し続けている絶対的権力への恐れ故だ。
それでも簡単に捉えられるほど、少女は小さく、無力であった。
罪への畏怖を抑え込みつつ、アントニウスは右手の短刀をフラウィアの首元にあてる。
まだ、力が入らない。
「嘘だ」
沈黙を保ち続けていたフラウィアは、ここに至って小さく声を漏らした。
かたかたと震える身体は、多くの女性を殺めてきたアントニウスにさえ、なお同情の念を掻き立てられるものであった。
「嘘だよな、ゼノビア? 冗談だろう?」
「冗談じゃねえよ。お前はここで死ぬ」
フラウィアは笑いながら問い、ゼノビアは無表情に答える。
元主人は未だ奴隷の忠誠に縋ろうとするが、元奴隷には憐憫なんて感情はない。
「ははっ、信じないぞ」
「まあ別に構わねえが。アントニウス、さあ……」
「ゼノビアっ!」
アントニウスは困惑したようにゼノビアに目を向ける。
ゼノビアは諦めたように、刃を一旦下すよう身振りで促した。
彼女にも慈悲の心があるのかもしれない。彼はそう理解して、彼女の指示に従った。
死がわずかに遠ざかったフラウィアだが、しかし、すぐには言葉は出なかった。
呼吸は荒く、歯はかちかちと音を立て、
結局、彼女が漏らしたのは、
「いやだ……」
という、陳腐極まりない言葉だった。
ゼノビアは少しだけ気まずそうに、がしがしと頭を搔く。
「……正直、ちったぁ悪いなと思ってるよ。裏切りは私たちの間でも罪だからな。だが因果応報さ。お前だって、そうやって何人も」
「君だけは」
「俺だけは殺さないって? 馬鹿言え、そんな話を……」
ゼノビアが続けようとした皮肉は、フラウィアの叫びに遮られた。
「君だけは絶対、絶対に裏切らないって、絶対、私の味方だって、」
アントニウスはある種の感嘆を覚えた。
フラウィアの絶望は恐らく、避けがたい自らの死によるものではない。
それは奴隷の裏切りそのものによるものだった。
ゼノビアが彼女の死を願うこと自体、フラウィアには耐えられないことであった。
「いやだよゼノビア、私を、私を離さないでよ、私を見捨てないでよ……」
きっと彼女は、ずっとゼノビアを頼りに生きていたに違いない。その程度の事、アントニウスにも想像がつく。
彼は知っている、フラウィアの母が彼女の幼いころに亡くなっていることを。
それ以降、父たる皇帝からの愛を受けることなく、自らの政治的無力さを承知したうえで、ただ一人、「学問」という領域に活路を見出したフラウィアは、きっとその傍に控え続ける奴隷に対し、余人の想像も及ばぬほどの愛情を向けていたに違いない。
もしかしたら、ゼノビアに向ける感情だけは真実純粋だったのかもしれない。
「ゼノビアぁ……」
雛鳥のように鳴くフラウィアに、アントニウスはゼノビアがここに至って絆されてしまうのではないかと危惧した。彼女も、もしかすると一定の情は抱いているのかもしれない。
その証拠に、彼女はじっと、黙ったままフラウィアの泣き声を受け止めている。
アントニウスはこの二人の間に、いかに介入すべきか解しかねた。
――だが、続くゼノビアの反応は、彼の想定を遥かに越えていた。
ここに至って彼女は、これまで沈黙のまま押しとどめてきた感情を、ごく短く言い表した。
「その名で、私を呼ぶな」
取るに足らない言葉であったが、声に包摂された憎悪は明らかに昨日のそれを上回っていた。
ひっ、と声にならない悲鳴をあげるフラウィアの面前に、激情に歪み切った顔ばせを寄せて、ゼノビアは詰る。
「私には父上と母上から頂いたまことの名前がある――ゼノビアなどという名は、私を奴隷の身に落としてから貴様らが投げつけてきたものに過ぎない。そのような烙印を喜ぶ人間がいるとでも思っているのか? 足枷を嬉しがる奴隷が本当に存在するとでも? 分かっているのか? 本当にお前は分かっているのか?」
ゼノビアはなおもフラウィアに迫る。悪鬼のごとき表情には殺意しか現れていない。
そしてそれはフラウィアという個人だけに向けられたものではなかった。
皇帝に。その血族に。彼らを支える元老院。歓呼によって承認する民衆。
すなわちそれは、『帝国』を構成するすべてのものに対する怨恨だ。
「おまえらは屑だ。人を踏みつけにせねば自分の生を生きることもできない、本当の意味での出来損ないだ」
「知っているよ、お前が私のことを『大切』に思っていたことなんて。気持ち悪い。犬にでも欲情していろ。お前の面は淫売のそれだったよ」
「わかるか? おまえの『愛』はそういうものだ。劣っているものに対する憐憫だ。奴隷はね、いつもご主人様のお顔を伺っているからすぐに分かるんだよ。あ、今この人は俺を見下しているな、ってね。私はここで死ぬのかな、ってね。あはは。そんなこともわからないほど私たちが馬鹿であると思うのか? 思っているだろうよ、それがお前の本質なんだからな」
「それがお前の罪だ、お前の傲慢だ。打ち砕かれろ。後悔して死ね。それがお前の報いだ」
一言一言、臓腑を抉り抜くようにゼノビアは言い募る。
復讐の快楽を、彼女は確かに堪能していた。
そしてフラウィアの耳元に、いっそ優しささえ感じさせる、彼女の大好きだった声で、最後の告白を伝える。
「知っているか。私はあの忌々しい名前を耳にするたび、いつもお前を絞め殺してやりたいと思っていたということを」
フラウィアはもう、何も言わなかった。彼女は愚かではなく、ゼノビアの言葉をまったく理解し尽くし、そしてただ、涙を流した。
ゼノビアは充足しきったように体を起こし、今度はアントニウスにぎらついた目を向ける。
彼はすでに、皇女を殺さない限り絶対にこの奴隷は自らに従わないだろうと確信していた。
「さあ、賽を振れ、アントニウス。そこがお前の生死を分かつ最後の川だ。世界の底を、お前自身の脚で踏み抜くんだ」
「……ああ、分かっている」
ゼノビアに応えて彼は短刀を再度フラウィアに押し当てる。彼女は抵抗しなかった。
自己の運命を受け入れたのか、それとも何もかもを受け止めきれずにいるのか、アントニウスには判断がつかない。
「フラウィア様、お赦し頂けるとは思っておりません。冥府で私を呪いください」
躊躇は無く、むしろ慈悲があった。これ以上、悲しみを背負わせるのは耐え切れない。アントニスの心中に残存していた僅かな良心が、速やかな死をフラウィアに求めていた。
喉を一突き。それですべてを終わらせよう。
「本当に、」
フラウィアの末期の言葉。
アントニウスはそれを聞き逃すまいと思いながら、右腕に最後の力を籠め切った。
「最高の奴隷だな、君は」
その言葉は、彼が刃を彼女の柔肌に突き立てた瞬間、彼女の口から放たれた。
文字通り、突き立っている。
刺さっていない。
アントニウスは困惑する。私の憐憫が力を奪い去ったか? それほどまでに私は軟弱なのか?
更なる覚悟を込めて右腕に力を籠める。
刺さらない。
刃はまるで、何かに防がれているがごとく、フラウィアの白く透き通る皮膚に届かない。
おかしい。
その疑問と同時に、アントニウスは奇妙な手触りを右腕に覚えた。
例えるならばそれは、腐敗した泥水が血管を走って肉体に広がっていくような感覚。
思わず短刀を手放す。いや、右手の指が勝手に力を緩めたのだ。すぐに拾おうと試みるが、その手は決して刃を握りえない。
その時点で、右手を蝕んでいた異様なものは全身に広がりつつあった。
「まったく、ここまで理想通りに進むとは。さすが私と言わざるを得ないんじゃないかね」
「顔拭け、顔」
「ああ、ゼノビアもご苦労様。すばらしい演技だったよ」
フラウィアの声だけが明晰に聞こえる。彼女はもう、泣いていない。戸惑っても怯えてもいない。
ガリアの地を吹き抜ける風のように軽やかで、透き通り、まるでそれは歌のごとくアントニウスの耳に響いた。
汚泥は心臓に達する。
「あああああ……ッ!!!」
アントニウスが絶叫したのは、彼がことさらに精神の力において劣っていたわけではない。
間違いなくそれは、人の身には耐えられない苦痛であった。
神経の一本一本を舐めるように広がる痛み、かゆみに近いざわめく感触。蛆が肉を蝕み、獣が臓物を食む。生きながらにして肉体が腐敗する。
全感覚が「汝死すべし」と命じている。
「汝我が身を傷つけること能わず。その試みはただ死をもってのみ償われるべし」
フラウィアの言葉が耳に届くと同時に、彼は灼熱が額に押し当てられるのを感じた。
その熱は全身にまだらに広がる。涙でかすむアントニウスは、辛うじて腕に刻まれた紋章を認めた。
死罪に対して与えられる刻印。彼は直ちに、自らに起こりつつある現象の意味を理解する。
すなわち、『神聖不可侵権』。
『帝国』がのちに『自然哲学・魔術研究協会』と呼ばれることになる魔術師・呪術師集団とともに作り上げた、三大法呪術の一角。
付与されたものの肉体を悪意から守護し、その身を傷つけんとした者を同定し、然るべき裁きを確実なものとするための呪い。
皇帝権力の秘奥であり、その身体を謀反より守る最強の守り。
それをフラウィアは有していたのだ。しかしどうやって?
三つの法呪術を与えられているのはただ一人皇帝だけ。それ以上の特権は皇帝の権威を揺るがせる。
皇族だからか? いやしかし、たとえ崇高なる血を引けども、法の上で彼ら彼女らは他の者共の変わらぬ一人の人間に過ぎない。
「まさか」
「たぶん正解だ。私は『拒否権』なんて持ってないよ」
フラウィアの口ぶりは、まるで親しい友人の気軽な質問に答えるようなものだった。
『命令権』は有している。彼の前では行使していないが。
『神聖不可侵権』は保持している。今しがた発動したように。
だが、『拒否権』を使用したことは一度もない。
つまり先ほどゼノビアが行動を『拒否』され、あたかも身動きが取れないかのようにふるまったこと、それらすべてが演技だったわけである。
その後フラウィアは白々しくも『許可』を与えたわけであるが、むろんそれも虚構に過ぎない。
「さて、アントニウス」
それが最後である。フラウィアは今や、人とは別の存在としてアントニウスに語り掛ける。
すなわち今の彼女は、『帝国』に遍く広がる『帝国法』の生ける具現だ。
「汝は余を殺害しようと試み、神聖にして不可侵たる余の身を傷つけようと刃を向けた。その罪と穢れが汝の死を以てしか贖われぬことは、万人が神々へと誓ったことなれば、その額に刻まれた烙印はその証。これより汝の生命を神々へと奉献し、その儀を持って汝が罪を浄化する」
人民が神々の前にその権威を誓約した「神聖不可侵権」保有者。
彼らに対する加害行為に値する刑罰は、死刑以外に存在しない。
この場合法的な意味での「命令権」を有する者は、裁判を介さず即座な死刑を執行することが許される。
それを知るアントニウスは、ついに、皇女の意図を全く把握しきった。
なぜこれほど迂遠な手口を以て、彼をこの場で殺害しようと試みたのかを。
「はは、ははっ、そうか、あなたは!あなたはそうまでして!私の花を!」
アントニウスが叫ぶのを二人は粛々とした態度で無視した。
処刑には儀礼が必要である。
「奴隷の手を以て為すのは甚だ不適当であるとはいえ、かかる状況においては致し方なし。『十人委員会』の一人たる余が、その従者にして刃たる汝に命ずる。この者の首から血を流し、以て神々への償いと為せ」
それは魔術的命令ではない。「命令権」に基づく法的命令だ。
ゼノビアは既に習得している様式に従って応答する。
「承知した。これより我が振るう刃は、元首の権威、元老院の同意、諸神祇官の決定、並びに万人の合意によって聖別されたものなれば、かかる行いによりては我に穢れの起こらぬことを汝承認されたし」
「承認する。執り行え」
一連の儀式を完了させると、ゼノビアはアントニウスの背後に回り、その首を持ち上げた。曝された頸動脈に冷たい刃が押し当てられると、その感触に彼は身を震わせた。
二人はそれを冷然と見下ろす。その目は人格を有する存在に対して向けるべきものでなく、それを奪われ、一個の物質と見なされたものにのみ相応しいものであった。
「フラウィア様、最後に一つだけ」
アントニウスは声を振り絞る。死の恐怖に耐えながら、彼の言葉は震えずに吐き出された。
「――あの子たちをどうか、よろしくお願い致します」
どの子だろうか。きっと花だろう。奴隷かもしれない。ゼノビアには判断がつかない。
いずれにせよ同じことだとフラウィアは考える。
そして、決して偽りでない優しさを、死にゆく者のために拵えた。
「あれらはすでに私の財産となった。私はこれでも、自分のものには優しいんだよ」
その刹那、彼女は自身の奴隷に顔を向けた。幸か不幸か、処刑に気を取られているゼノビアはそれに気が付かない。
それを見てアントニウスは、納得したように表情を緩ませた。
フラウィアは最後の言葉を彼に伝える。
「君の名誉が穢れても、君が咲かせた花々は決してそうはならぬと神々に誓約する」
そして彼女は右手を振り下ろし、即座に彼から身を離した。
ゼノビアは迷いなく、彼の脳と心臓とを繋げる血管に刃を通す。
多量の血液が吹きあがるのを、フラウィアにかからぬよう手で防ぐ。
アントニウスの身体は数度の痙攣を見せたのち、やがて動かなくなった。
その最後の鼓動を聞き、皇女は宣言する。
「これで喜劇はおしまいだ。さ、後片付けと参ろうか」