MIRACLVM MVNDIS: III
暴力に伴う高揚。流血が引き起こす昂奮。そのような感情とゼノビアは無関係である。
自らが引き起こした事態を見下ろしながら、彼女は実に同情と悲嘆を覚えつつ、しかし同時にそれさえも無化して、冷ややかに周囲の変化を観察する。
なにもない。
なにもない。
なにもない。
なにもない。
「最初から、」
肥満気味な身体を執務机に預けつつ、アントニウスは喘ぎながら言う。
「こうなさるおつもりなのでしたか」
「最初から、という言葉をどうとるか。今日の朝から、ということであればそうとも言える。ここに来た時から、という意味であれば答えは否だ」
一方のフラウィアは、饗応の卓に肘を立て、すっかり落ち着いた面持ちで相対する。
背後にたたずむゼノビアの拳からは、床に寝そべるものどもの体液が滴り落ちた。
無垢に笑うフラウィアと、無表情で血塗られたゼノビアの姿は、好対照に主従の関係を示している。
「市民女性や女奴隷が失踪していることに気付いたのはマッサリアに着いてすぐ。それが君のところで消費、うん、まあ、この表現は字に起こす時に直すとしよう、ともかく利用されているだろうな、と直感したのは数日前。で、実際に確認したのは昨日の深夜だ」
指で中空をなぞりながら皇女は説明する。
すでに聞いていたフラウィアの行動と食い違う時系列に、アントニウスはそれを聞かされた時にはすでに、彼が騙されていたことに気が付いた。
そして、もうひとつ。
「見たわけですね、あれを」
「見ては無い。触って確かめたのだ」
目を血走らせて問うアントニウス。それに応えるフラウィアの調子は、冗談を言う時のそれである。彼女はアントニウスを弄んでいた。
その証拠に彼女は未だ『命令権』を行使していない。一言「這え」と命じればすべてが決着するにもかかわらず、彼女はその札を切らない。
アントニウスは自らの肉体が汗に塗れていることをようやく自覚した。同時にその不快感を意識的に無視した。
断崖に追いやられたことを自覚し、これ以上動転することもできず、むしろ平静さを取り戻しつつあるアントニウスの胸中に、再び火が灯されつつあった。
人はその火を、怨恨、嫉妬、憎悪と言った語彙で表現する。
その種火を注意深く押さえつけながら、アントニウスは静かに口を開いた。
「私は、ええ、私は殿下を、尊敬申し上げております」
「へえ」
不真面目に笑うフラウィアに惑わされることなく、しっかと足を踏みしめて、アントニウスは滔々と己の内面を語る。
「帝都最大の知識人の一人。百の学問を修め、千の書物を納めた皇女と聞き及んでおりました。その貴女を、心から崇敬しておりました」
「照れるね」
「盲目という枷を負い、女性という立場にありながら、かかる頂きに上り詰めた貴女は、帝国に在って知を探求せんと欲する我々の如きもの共の、いわば一つの憧憬の対象でありました」
「嬉しいな」
「その貴女が、」
口より漏れ出ずる激情に、アントニウスは一言とどまらざるを得なかった。喉を焼かんとする感情の熱は彼を苦しめてやまない。彼にはいまだ信じがたかった。希望を捨て去るのは本意ではなった。
だが、冷然と彼を待ち受けるフラウィアが、彼の言葉を喉の奥から推し進める。
彼は眼に何かを光らせながら、言った。
「どうして分かってくださらないのですか?どうしてこの、私が為したことを認めてくださらないのですか? なぜ私を――あの忌々しい、法の裁きの下に曝そうとするのですか?なぜ、あれだけ期待させておきながら、なぜ? なぜですか?」
憤激に変わろうとした心の炎は、一言一言重ねていくうちに、やがて失望に変質していた。
その感情の動きが、フラウィアには愛おしく、ゼノビアには哀れに映った。
皇女には理解できないだろう、奴隷が抱くその同情を。
彼女は知っている。「世界の底が抜けた」ときの、あの衝撃と悲痛を。
自らの奴隷の感情に気が付かないまま、フラウィアは別の種類の憐憫を表情にあらわして、たっぷりと抒情を込めて応える。
「ああ、アントニウス。可愛そうなアントニウス。だけどそう悲嘆することはないのだよ。私はそのことに関しては何一つ嘘はついていない。君の行い、それは決して余人の正義では計り知れぬもの。私の『世界誌』に載せられるに相応しいものだよ」
その返答はアントニウスをむしろ困惑させた。
そうだ、その言葉を信じていたのだ。だから彼はフラウィアを神のごとくあがめ、その権威に預かろうと欲したのだ。そうすれば彼女が応えてくれると信じて。
「ならばっ」
「でもね」
アントニウスの言葉を予測していたかのように、フラウィアは完璧に機を制してその言葉を遮り、唇の両端をぐにゃりと歪めた。
「君はもういらないんだ」
『君は』の部分をはっきりと強調しながら、フラウィアは宣告した。
彼女にとって人間は必要ない。それは単なる知識の伝達媒介か、そうでなければ労働力だ。
不要になったら、それぞれの取り扱い方に従って適切に処理しなければならない。
「必要なものはもう集めた。この屋敷も私のものになるだろう。そう、君、お金に困っていただろう? 私はこれでも結構お金持ちなんだ。あんな安っぽいものではない、もっとずっと大きく、広く、美しく、いっぱいの花で埋め尽くされた本当の『花屋敷』を完成させてあげよう。喜びたまえ、君の偉業は私の下でいっそう優雅に花開く」
夢見る少女のごとくフラウィアは自己の抱く未来像を描く。
アントニウスが成し遂げた仕事を、フラウィアは引き継ぐつもりだった。より正確な表現をするなら略奪する気だったのである。
だが、暴君が如き振る舞いは世の反発を買う。それを無視することはフラウィアには不可能だ。
だから罪を以て彼を裁き、所有者を抹殺してから物件を預かる。
この土地を引き取ろうとするものがどれだけいるだろうか? すでに十数名の遺体で穢されたこの地を。
その穢れを引き受けるとすれば、それは神々の恵与の下に地上を支配する皇帝と、その血縁者だ。
「君の罪をどう世間に告知するか、それはまだ検討中だ。いずれにせよ裁判になるからマッサリア市民には知れるだろうが……。それを『世界誌』に記録しないとなるとさすがに不適切な関与を疑われかねない。せいぜい君の名望が地に落ちるように脚色させてもらう」
ここで蒼白になったアントニウスの心理を正確に理解するには、当時の帝国人、とりわけ貴族身分の「名誉」に対する強い執着を理解しなければならない。彼らは自らの名や業績が、好ましい形で広まることを強く願っていた。それは現在の政治的利益のためだけでない。自らの死後、未来へと長く残り続けることを祈願する。それは彼らにとっての生の意味を構成する。
アントニウスもその例外ではない。彼は疑いなく花に人生の多くを捧げていたが、それと同時に政治家、貴顕層であった。だからこそ彼は、自らの花の屋敷が「アントニウスの」という属格とともに『世界誌』に残り続けることを欲したのだ。
だがそれももう叶わない。
フラウィアの表情は今や静謐だった。
「憂うことは無い。万が一神々がここを無みにせんと欲したとしても、君の偉業は私の記録と人々の記憶に永劫に残存する。君の家族への愛も、また君が犯した大罪も、そしてその悪しき企みを打ち砕き、花をなお眩く輝かせるであろう私のことも、『世界誌』は等しく市民たちに語り続けるだろう」
彼女がそこで浮かべた微笑みは、人間ではなく神々にこそふさわしきものである。
彼女が向ける慈悲と慈愛は、決して常命のものに耐えられるものではない。
「『帝国』も我々も、その『歴史』を決して忘れたりはしない」
昨日の同じころと同じような口調と同じような語り口で、フラウィアは言った。
アントニウスの神経を逆撫でするための修辞術は、適切な効果を発揮した。
それに耐えることができたのは、彼の精神に燃えつつあるものを、理性が上回っていたからに他ならない。
「貴女は、私から何もかも奪っていくつもりなのですね。私を是認し、我々『世界の外側』に居るものを肯定し、我々を救ってくれるお方なのではなく」
アントニウスの言葉はここに至って平静であった。それは確認作業であり、弾劾などではない。
その想いを受け取ったのか、フラウィアは冷然と言い放つ。
「違う。私は『帝国』だ。たかが属州の一貴族の分際で、我が恩恵を独占できるなどと思ったか」
その瞬間の気づきだけは、決して誤りでないとアントニウスは確信する。彼女に騙され玩弄され続けた彼だからこそ、それは理解できた。
フラウィア・ウェスティアは疑いなく皇帝の娘だ。
血統ではなく存在様態において。そして威厳ではなく、傲慢において。
彼女は知識の略奪者だ。知識の担い手など気にも留めない、悪魔の如き「編纂者」。
彼女という花が一輪咲くために、周りすべての植物は一本残らず枯れ果てる。
そしてその有様をさえ笑って愉しみ、やがては『物語』として記録して、それを以て己が「偉業」とする。
「貴女にとって、『知識』とはなんですか」
その問いは最終確認だった。こちら側とあちら側に引かれた線の最後の一本。
『世界誌』の綴り手にして、『帝国』の学の総覧者は、かく応えて知を規定する。
「それは力だ。私は欲する。私は知る。そして私は支配する。見える世界は奪われた――ならもう半分は私のものだ。それは私の統治を待っている」
彼女はまごうことなき『帝国』の具現として、そう宣告した。
そしてアントニウスは、彼女が決して彼らの庇護者と理解者とには為りえぬことを、理解したのであった。
彼はもはや言葉一つ発することなく深く項垂れて、今しがた目の前に出現した現実を悲嘆しているように思えた。
その間にもフラウィアは注意深く音を拾い、その反応を観察する。ゼノビアは彼女の眼としてその一挙手一投足を見逃さない。
彼女たちは、アントニウスが自暴自棄になってフラウィアに刃を向ける可能性を、依然として捨て去ってはいなかった。
やがて、その可能性が極めて薄いとみなすと、フラウィアは柔らかく口を開いた。
「さて、残りは裁判でゆっくりと聞くとしよう。恐らくは死刑になるだろうが、なに。運が良ければ身体刑で済むのではないかな。今のうちに弁護人を考えておくとよい。ゼノビア、拘束しろ」
「ようやくか。さ、おっさん。悪いが……いや、悪くもねえな。俺たちに付いてこい。あんまり暴れられるとちと痛くしないといかんからな。抵抗しないでくれると助かるんだが」
二人はもはや勝利を疑っていないように、軽快な調子でアントニウスに語り掛ける。残る作業は事後処理であり、面倒ではあるが形だけのものであって、早々に済ませるべき事柄であった。
しかし、アントニウスはいまだに屈していなかった。騎士の身分に生まれ、商才によって身を起こし、マッサリア有数の貴顕層にまで上り詰めた彼は、この程度の状況に圧殺されるほど無力ではなかった。彼は心中の躊躇いを全く取り去り、不退転の覚悟を決めた。
「ゼノビアだったかな、君の名前は」
その意図を測り兼ねつつも、ゼノビアはとりあえずといった形で頷いた。異論は無くもないが、彼女は基本的にゼノビアと呼ばれている。
それを見てアントニウスは、目に強い力を込めて、こう言った。
「フラウィア様を裏切れ。私に味方しろ」
二人は五拍分ほど硬直した。あまりにも大胆な提案。
やがて麻痺から解かれた二人は、驚きよりも嘲笑の念を込めて彼に笑いかけた。
「おいおいおい、この状況で? いい加減負けを認めようぜ。第一俺には利益がない」
「アントニウス、たぶん勘違いしているようだがね、これが裏切る可能性は皆無だよ」
二人の嘲笑いを受け流し、アントニウスは、
「解放してやる」
と、つとめて冷静にゼノビアに告げた。
彼女は一瞬、表情を無くしたが、すぐにからかうようなにやにや笑いを浮かべる。
「ほーん。だがこんなとこで解放されてもねえ」
「東方に知り合いがいる。そこまで運んでからだ。私も随伴する」
「ここは放棄するってか?」
アントニウスは頷いて、執務室の窓から外を覗いた。位置関係上、花屋敷を見ることは不可能であるが、その目は確かに自分のもっとも貴重な財産に向けられているに違いない。
それを放棄すると考えただけで、胸に鋭い痛みが走る。命とようやく釣り合いが取れる、そういう宝物だ。
だが彼は自分に未来があると信じている。いや、信じたい。信じるために彼は語る。
「いずれにしてもここはもう、無理だ。船は用意できる。奴隷も全員……は難しいが、ある程度は連れていける。種はある。技術は記録してある。そちらでやり直すことは十分可能だ」
そのとき響いた舌打ちはフラウィアのものである。
先ほどまで比較的気楽な態度を取っていたフラウィアは、ここに至って顔を顰めていた。
「ゼノビア、無駄話をやめろ。いい加減私も飽きてくるぞ」
「俺だって少しは喋りてえんだ。まだ時間はあるだろ。で、当然策はあるんだろうな。こいつはどうするんだ」
主人の言葉を遮りつつ、ゼノビアは彼女の頭を指さす。
アントニウスはわずかに考えるそぶりをして、答える。
「この場に残っていただく。拘束して連れていく可能性も考えたが、あまり長くすると『命令権』が回復するのではないか」
「なら死体にしてから出発するのかい」
アントニウスは沈黙したが、ゼノビアは当然承知していた。
生かしておくという選択肢は無い。生きていようと死んでいようと、皇女に手を出したことが発覚すれば無事でいられる道理は無いのだ。
「で、それで?」
殺したとして、さてどうするか。
すでに属州総督との約束をしているし、それ以前に迎えがじきに来る。
彼らを説得できなければ、フラウィアの失踪は速やかに明らかになり、そうなった場合、まさしく彼女が姿を眩ませることとなるこの屋敷とその主に疑いの目がかかるのは間違いない。
むろん、アントニウスもそれを承知していた。
執務机の隅に立てかけられている、いくつかの巻物の一本を抜き取り、それを差し出す。
「読め」
「読まなくても良い」
ゼノビアは主人の命令を無視し、その巻物を受け取った。まだ封のされていないそれを開き、書かれている文字列に目を通す。
「……読んだからには私にも伝えろ」と不機嫌さもあからさまに言う皇女に、ゼノビアは読み上げる。
「『「世界誌作成十人委員会」のひとり、フラウィア・ウェスティアより。予定に変更があったので先に出る。アントニウス氏の馬車を借用したので安心されたし。さしあたりマッサリアに帰還せよ。要件があれば再度連絡する、云々』」
最後まで読み上げることなくゼノビアは打ち切ったが、少なくとも形式的な面での瑕疵はそれほど無いように思われた。
アントニウスに目を向けると、彼はフラウィアの方に視線を注いでいる。
「フラウィア様は字がお上手ではない。少なくとも他人には見られないほどには。ならばこれまでの書き手は君だったはずだ。むろんかかる状況下で筆を執らせるとしたらゼノビア、君しかいない。これは別の人間に書かせたものだが、もし協力するなら君が書いたほうが良いだろう」
アントニウスの予想は正しかった。と、いうより一般的な貴族は自ら筆を執るということはあまり無い。重要な案件で自筆が要求されない限り、奴隷なり召使なりに口述筆記させる。こうした文書がどの位置にあたるかは微妙なところであるが、フラウィアに限って言えば、彼女の文書はすべてゼノビアが記述したものだ。
「これはセルウィウスか。あいつ、なかなか字がうまい」
「当然だ、そう仕込んだのだから」
あの奴隷はゼノビアの字を見たことがあるはずである。絵に書かれた『帝国公式色彩番号』は複数の文字列の組み合わせで構成されているからだ。むろんそれだけでは完璧であるとは言い難いが……。
「そんなにうまくできているのかい」
「ああ。紙さえまともなら少なくとも時間稼ぎにはなる」
「……ふうん、私には分からないがゼノビアが言うならそうなのだろうね。まったく、皇族の書簡を偽造するのは大罪だぞ。これは確実に死刑だな」
フラウィアはアントニウスに厳粛な声を向けたのち、今度は背後のフラウィアに振り向く。その端正な顔立ちは怒りと苛立ちに歪んでいる。
「いい加減にしておけよゼノビア。べらべらと喋られてはは口に出されては裁判で何を証言されるのか分からん」
「もう少しだって。で、アントニウス。これはたぶんお前の知らんことだが」
ぽんぽんと親し気に肩を叩いてフラウィアを落ち着かせると、ゼノビアは男に真剣な表情を向ける。
「俺にはいくつか呪法が掛けられている。これを解かないと奴隷契約を解除できない」
「それは盲点だったが……。おそらく問題ない。マギ僧どもなら解除できるだろう。そっちの知り合いは例の商人から辿れる筈だ。先にも言ったが私も東方に落ち延びるから、その後で解放してやる」
「ほう、亡命かい。素晴らしい忠誠心だな」
「いずれ露見する。交渉も不可能。ならばそれしかない」
アントニウスは重々しく言った。その顔には狂気の色は認められない。
彼は理性的に、彼が生存する道は皇女を処理することでしか開かれないと判断したのである。
帝国での名望はこの上なく失墜する。だが、いずれにせよ結果は等しい。
それもまた、『帝国』の外で求める他ないのだ。
ゼノビアにも、彼の決意は明瞭に伝わっていた。
「なるほどね」
巻物を数度、手に軽く打ち付けながら、ゼノビアは呟くように言う。
「それなりに考えていたというわけだ」
「殿下に露見した場合には最初からそうするつもりだった。お前は処理するつもりだったが……お前が手を貸してくれるというならずっと楽になる」
「正直だな。それは美徳だぜ」
ゼノビアがその時声に漏らした笑いは、ついにフラウィアの機嫌を破裂させたかのように思えた。
「いい加減にしろ、ゼノビア! 奴隷の分をいい加減弁えろ! アントニウス、私に敗北したというならともかく、奴隷を誘惑してあまつさえそれが失敗に終わったとしたら、その屈辱がどれほどのものになるかは分かっているだろう? 君が今為すべきことは、」
「ゼノビア。殿下の奴隷としてこれからも安楽に生きていけると思っているのか」
フラウィアの言葉をアントニウスは遮った。彼の視線は今や皇女ではなく、ゼノビアの両眼をきっぱりと射貫いていた。
「その子は確かに優れた資質を持っているだろう。しかしその偉大さは決して誰も幸せにしない。他者を踏みにじってその汁を啜る、生まれついての専制君主だ。分かるか、お前もやがて彼女に捧げられる贄とされるぞ」
「自分がそうなったからと言って他人もそうなると? 傲慢だな、アントニウス。この子はちょっと特別なんだよ。私の可愛い、最愛の奴隷なのだからね」
「愛」という語はフラウィアには決して相応しくない。仮に彼女が何かを愛するとすれば、その感情は確実に歪んでいる。決して長からぬ会話によってもアントニウスはそう確信できた。
そして彼はまた、ゼノビアも同じ結論に至っていると期待する。
「私には分かる。主人は決して奴隷を愛さない。奴隷もまた、決して主人を愛することはできない。そのような執着はやがて両者を滅ぼす。必要なのは信頼だ。互いが互いを必要とする、そういう確約なのだ。私は約束する、お前が欲するところのものを与えると。お前のあるべき場所はどこだ? この退廃の帝国か? それともお前の生まれ育ったあの東方か?」
その語りに関して言えば、そこに嘘偽りは一切含まれていなかった。
彼はゼノビアを説得する最後の力が、真摯さであると信じた。
裏切らないこと、裏切られないこと。そのような特質と意志を両者が有すること。
それこそが主人と奴隷の関係を成り立たせるもっとも重要な留め金なのである――その認識を、ゼノビアもまた共有しているという可能性に賭けたのだ。
ゼノビアは瞼を閉じ、沈思黙考した。
アントニウスの額ににじむ汗は、眉を跨いで目じりに入り込むが、彼はそれを拭うことも瞬きすることもなかった。
盲目の皇女は泰然と背もたれに身体を預けるが、その沈黙が彼女に不安を強いているのは、アントニウスの眼にも明らかであった。
「そうか。……まあ、なんだ。演説ご苦労様。あんたが本気っぽいのは分かったぜ。だけどな、熱意じゃ足りねえんだよ」
目を開いたゼノビアはまず、アントニウスにそう告げた。
彼女は彼の熱意を認めたが、その策を是認することは無かった。
続いて前に座るフラウィアの肩を両手で優しく叩く。
声の調子とその振る舞いに、フラウィアは自らの奴隷の忠誠を喜ぶように、勝利の笑みを頬に浮かべた。
ゼノビアは主人と同じ表情をアントニウスに見せつける。
「乗ってやる。もう少し話を詰めようか」