表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
14/17

MIRACLVM MVNDIS: II

 その瞬間、アントニウスは自身が皇女に裏切られたことに気付いた。

 彼の反応は早い。即座に椅子を蹴って後退し、ゼノビアを中心とする危険域から逃れる。


「囲め!奴隷は殺しても構わん、武器の使用を許す!」


 直後、どこに姿を隠していたのやら、即座に姿を現す奴隷ども。数は22。彼らはそれが恐るべき大逆であるかもしれないのに、容赦なく皇女に刃を向ける。


「あの奴隷は皇女殿下が目の見えぬことにつけ込み、不敬にも私に害を与えようと企む奸臣だ! 躊躇することはない、私が許す!」


 なるほどとフラウィアは感心する。確かに私はそう見えるのだろうし、ゼノビアもまたそう捉えられているのだろう。と同時に、その理論の困難さに気付けぬ奴隷たちに、彼女は本心から哀れみの情を抱いた。

 よく訓練されている。ゼノビアは端的にそう感じた。


「まったく準備がいいね。まるで私が何かしでかすと考えていたかのようだ。それとも何かをしでかすつもりだったのかな」


 アントニウスは答えない。沈黙し、身動きをせず、とにかく音を立てないことに集中する。

 フラウィアに補足されれば『命令権』が行使される恐れがある。そうすればそれだけで何もかもが瓦解ししうる。経験を積んだ彼は、そうした判断を即座に下すだけの知性を持っていた。

 無駄なんだけどな、とゼノビアは同情する。彼はフラウィアの知覚能力を甘く見ている。

 その方が楽でいい、とフラウィアは喜ぶ。これ以上『命令権』を行使するのは望ましくない。

 そのように、各人が各人の思考を巡らせている間にも、奴隷たちは二人に武器を突きつけて接近しつつあった。

 対するゼノビアは何らの構えもとらず、両手を下ろして戦闘の開始を待つ。

 傍らに悠然と座るフラウィアの不遜を、あえて語る必要もないだろう。


 一人の奴隷が拙速に槍を突き出す。

 窓から入り込む陽光が反射し、独特のきらめきがゼノビアの視界を照らした。


「動くなよ」

「殺すなよ」


 そう軽口を交わしながら、ゼノビアは襲い来る敵対者を、まったく冷静に迎撃した。

 彼の下顎から破砕音が響く。ゼノビアの手は粘ついた血液と体液で汚れた。

  

 彼女は無防備にもその背中を敵に向ける。明白な失敗。第二の奴隷はここぞとばかりに躊躇無く槍を振るう。

 その判断が間違っていたと認識することもできずに、彼は側頭部をしたたかに打たれ意識を喪失した。残る二十人が知覚したのは、同僚が槍を突くや即座に地に伏す不可思議な現象と、悠然と佇む褐色の女の姿だけだ。

 二度にわたって、ゼノビアは長柄の優越をものともせず、紙一重の回避と精妙な打撃で反撃した。

 反撃? 頸椎を圧し折る寸前のそれに、その語はどれだけふさわしいだろうか。彼らの生存を保証するのは、その身が示すわずかな痙攣のみである。

 敵対者は直ちにゼノビアの強力を警戒した。彼らは油断なく彼女を取り囲む。


 ああしかし、彼らは依然それが「世界の驚異」たることの意味には気付いていなかった。

 彼らはゼノビアの隙を見出さんと、その姿に視線を集中させる。

 それをゼノビアは隙と見出す。

 跳躍。振腕。再度の跳躍。

 この三つの動作が完了した頃には、一人の奴隷が戦闘不能状態に陥り、一方のゼノビアは一切変わらぬ体勢で自らの主人の身を守る。

 

 奴隷たちは驚愕しつつも狼狽えない。

 彼らは知恵を持っていた。彼らは彼女を撃破する手段が、ただ積極的で、不断の、絶え間なき攻撃であると理解した。慎重な戦術は、かくも常識を逸脱した存在に無意味であった。彼らに必要だったのは賭であった。そしてそれに身を投じる勇気を彼らは持っていた。


 彼らは愚かだった。なにより、彼女に戦いを挑んだ点において。


 鋭い刃が近づけば、持つ手の骨ごとその試みを打ち砕く。

 二人が同時に襲撃するなら、倍の速度で同時に撃破する。

 三人だったら?同じことだ。相手の数が増えるだけ、彼女の運動は加速する。

 囮の覚悟を決めた一人は、鉄拳の一撃によってただちに失神した。

 即座に振り返ったゼノビアは、背後の男の頭を握りしめ、別の側頭部に向けて強かに投擲(・・)する。彼らの頭蓋骨は愉快な音を立ててフラウィアの耳を楽しませた。

 見ようによってはまことに滑稽なそれは、アントニウスの眼には惨劇にしか映らない。

 筋肉の収縮を告げる軋んだ低音、それに続いた風を切る高い音色、人体が破壊される悦ばしき音階、そして体液が飛び散る軽やかな響き。ただ一人それを聞き分けるフラウィアは、奥で震える部屋の主に嗜虐的な笑みをはっきりと見せつけていた。


 彼は風を感じた。

 否、そこには確かに風が吹いていた。

 それは決して平穏なこの地の静かな別荘に似合うものではない。

 それは暴風であり、嵐であり、悪疫であり、神々の怒りの顕現なのであって、おそらくは遙か遠き東方の戦場にこそ、吹き荒れるべきものである。


 あははははは。


 それが笑いだと認識するために、誰もがいくばくかの時を要した――その間にもまた一人の男が地に伏せたわけだが。


 ははははははは。


 奴隷は哄笑する。

 すべてが無価値であることを証明する笑い。

 なにもかもを否定するための笑い。


 ははははははは。


 血は、いくらかの意味も持たない。実に、肉は物質に過ぎない。

 ヒトならざるモノたる奴隷は、自然の法をむき出しにする。

 恣意的な区別は骨と共に打ち砕かれ、秩序は腱と共に引きちぎられる。


 ははははははは。

 

 ゼノビアの目がアントニウスのそれを捉えた。彼は()()を見た。

 

 ()()()()()


 加速しつつあったはずのアントニウスの拍動が停止しかけたとき。

 彼の二十二の奴隷は皆、執務室の床に倒れ伏せていた。


「馬鹿なっ……」


 彼が自らの軽率さに気づけなかったのは、彼の理性を驚愕と驚嘆とが破壊したからであった。

 戦場での経験がある彼にも、ここに発生した出来事の異常性は明瞭に了解できる。と同時に、彼は目の前に泰然と座す女性が、なぜただ一人の共のみを自らのそばに置いているのかも理解する。

 この褐色の女奴隷は、彼らが知る世界の外側に在って、彼らの常識を覆し、あるいは神々が自然に与えた法則さえも捻じ曲げる、「世界の驚異」に他ならない。


「ゼノビアは、」


 自然の事物を解説をするように口を開いたフラウィアだったが、思い直したようなわずかな沈黙をはさんで、


「とっても、強いんだよ」


 とだけ続けて、静かに笑った。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ