MIRACLVM MVNDIS: II
その瞬間、アントニウスは自身が皇女に裏切られたことに気付いた。
彼の反応は早い。即座に椅子を蹴って後退し、ゼノビアを中心とする危険域から逃れる。
「囲め!奴隷は殺しても構わん、武器の使用を許す!」
直後、どこに姿を隠していたのやら、即座に姿を現す奴隷ども。数は22。彼らはそれが恐るべき大逆であるかもしれないのに、容赦なく皇女に刃を向ける。
「あの奴隷は皇女殿下が目の見えぬことにつけ込み、不敬にも私に害を与えようと企む奸臣だ! 躊躇することはない、私が許す!」
なるほどとフラウィアは感心する。確かに私はそう見えるのだろうし、ゼノビアもまたそう捉えられているのだろう。と同時に、その理論の困難さに気付けぬ奴隷たちに、彼女は本心から哀れみの情を抱いた。
よく訓練されている。ゼノビアは端的にそう感じた。
「まったく準備がいいね。まるで私が何かしでかすと考えていたかのようだ。それとも何かをしでかすつもりだったのかな」
アントニウスは答えない。沈黙し、身動きをせず、とにかく音を立てないことに集中する。
フラウィアに補足されれば『命令権』が行使される恐れがある。そうすればそれだけで何もかもが瓦解ししうる。経験を積んだ彼は、そうした判断を即座に下すだけの知性を持っていた。
無駄なんだけどな、とゼノビアは同情する。彼はフラウィアの知覚能力を甘く見ている。
その方が楽でいい、とフラウィアは喜ぶ。これ以上『命令権』を行使するのは望ましくない。
そのように、各人が各人の思考を巡らせている間にも、奴隷たちは二人に武器を突きつけて接近しつつあった。
対するゼノビアは何らの構えもとらず、両手を下ろして戦闘の開始を待つ。
傍らに悠然と座るフラウィアの不遜を、あえて語る必要もないだろう。
一人の奴隷が拙速に槍を突き出す。
窓から入り込む陽光が反射し、独特のきらめきがゼノビアの視界を照らした。
「動くなよ」
「殺すなよ」
そう軽口を交わしながら、ゼノビアは襲い来る敵対者を、まったく冷静に迎撃した。
彼の下顎から破砕音が響く。ゼノビアの手は粘ついた血液と体液で汚れた。
彼女は無防備にもその背中を敵に向ける。明白な失敗。第二の奴隷はここぞとばかりに躊躇無く槍を振るう。
その判断が間違っていたと認識することもできずに、彼は側頭部をしたたかに打たれ意識を喪失した。残る二十人が知覚したのは、同僚が槍を突くや即座に地に伏す不可思議な現象と、悠然と佇む褐色の女の姿だけだ。
二度にわたって、ゼノビアは長柄の優越をものともせず、紙一重の回避と精妙な打撃で反撃した。
反撃? 頸椎を圧し折る寸前のそれに、その語はどれだけふさわしいだろうか。彼らの生存を保証するのは、その身が示すわずかな痙攣のみである。
敵対者は直ちにゼノビアの強力を警戒した。彼らは油断なく彼女を取り囲む。
ああしかし、彼らは依然それが「世界の驚異」たることの意味には気付いていなかった。
彼らはゼノビアの隙を見出さんと、その姿に視線を集中させる。
それをゼノビアは隙と見出す。
跳躍。振腕。再度の跳躍。
この三つの動作が完了した頃には、一人の奴隷が戦闘不能状態に陥り、一方のゼノビアは一切変わらぬ体勢で自らの主人の身を守る。
奴隷たちは驚愕しつつも狼狽えない。
彼らは知恵を持っていた。彼らは彼女を撃破する手段が、ただ積極的で、不断の、絶え間なき攻撃であると理解した。慎重な戦術は、かくも常識を逸脱した存在に無意味であった。彼らに必要だったのは賭であった。そしてそれに身を投じる勇気を彼らは持っていた。
彼らは愚かだった。なにより、彼女に戦いを挑んだ点において。
鋭い刃が近づけば、持つ手の骨ごとその試みを打ち砕く。
二人が同時に襲撃するなら、倍の速度で同時に撃破する。
三人だったら?同じことだ。相手の数が増えるだけ、彼女の運動は加速する。
囮の覚悟を決めた一人は、鉄拳の一撃によってただちに失神した。
即座に振り返ったゼノビアは、背後の男の頭を握りしめ、別の側頭部に向けて強かに投擲する。彼らの頭蓋骨は愉快な音を立ててフラウィアの耳を楽しませた。
見ようによってはまことに滑稽なそれは、アントニウスの眼には惨劇にしか映らない。
筋肉の収縮を告げる軋んだ低音、それに続いた風を切る高い音色、人体が破壊される悦ばしき音階、そして体液が飛び散る軽やかな響き。ただ一人それを聞き分けるフラウィアは、奥で震える部屋の主に嗜虐的な笑みをはっきりと見せつけていた。
彼は風を感じた。
否、そこには確かに風が吹いていた。
それは決して平穏なこの地の静かな別荘に似合うものではない。
それは暴風であり、嵐であり、悪疫であり、神々の怒りの顕現なのであって、おそらくは遙か遠き東方の戦場にこそ、吹き荒れるべきものである。
あははははは。
それが笑いだと認識するために、誰もがいくばくかの時を要した――その間にもまた一人の男が地に伏せたわけだが。
ははははははは。
奴隷は哄笑する。
すべてが無価値であることを証明する笑い。
なにもかもを否定するための笑い。
ははははははは。
血は、いくらかの意味も持たない。実に、肉は物質に過ぎない。
ヒトならざるモノたる奴隷は、自然の法をむき出しにする。
恣意的な区別は骨と共に打ち砕かれ、秩序は腱と共に引きちぎられる。
ははははははは。
ゼノビアの目がアントニウスのそれを捉えた。彼はそれを見た。
なにもない。
加速しつつあったはずのアントニウスの拍動が停止しかけたとき。
彼の二十二の奴隷は皆、執務室の床に倒れ伏せていた。
「馬鹿なっ……」
彼が自らの軽率さに気づけなかったのは、彼の理性を驚愕と驚嘆とが破壊したからであった。
戦場での経験がある彼にも、ここに発生した出来事の異常性は明瞭に了解できる。と同時に、彼は目の前に泰然と座す女性が、なぜただ一人の共のみを自らのそばに置いているのかも理解する。
この褐色の女奴隷は、彼らが知る世界の外側に在って、彼らの常識を覆し、あるいは神々が自然に与えた法則さえも捻じ曲げる、「世界の驚異」に他ならない。
「ゼノビアは、」
自然の事物を解説をするように口を開いたフラウィアだったが、思い直したようなわずかな沈黙をはさんで、
「とっても、強いんだよ」
とだけ続けて、静かに笑った。