MIRACLVM MVNDIS: I
「この度は、智慧において万人を上回り、慈悲によって遍く世界を恩恵で満たされる……」
「おいおいアントニウス。いまさらそれかい? もう少し気楽に別れを告げることも私には許されないのかい?」
「これも帝国の頂きにある者の義務であると理解していただければ」
「いや、贅沢とはわかっているがね。時にこの地位を捨て去りたくなる気分にもなるのだ
……」
二人の会談は和やかに開始された。意図的な堅苦しさは当初とは異なりひとつの冗談として成立する。
アントニウスの執務室は別荘の奥まったところにある。それなりの広さはあるが飾りつけはごく簡素で、石畳の床はきれいに磨かれているものの、例えばフラウィアの本邸のごとく最高級の大理石というわけではあるまい。花以外に対してアントニウスは比較的質素であるが、この部屋にもそれが表れているようにゼノビアには思えた。
二人は今、部屋の中央に備え付けられている丸い机を挟んで、別れの前の言葉を交わしているのであった。
「君のおかげでだいぶ私の仕事も進んだ。クラウディウスたちも今頃懸命になっているだろうが、これで負けることは無いだろう」
「フラウィア様の事業に貢献できるとのであれば、これ以上の名誉はございませぬ」
フラウィアは言って、アントニウスの奴隷が注いだ葡萄酒に口をつけた(一昨日同様花で香りづけされていたが、フラウィアは一切躊躇を見せなかった)。六名いる奴隷は平素よりもゆったりとした、少し値の張りそうな衣服を纏っているが、これも皇女に対する主人のもてなしの気持ちだろうか。
『世界誌』編纂十人委員会は文字通り十名の人間で構成されている。本土で最終編纂を担当する一名を除けば、おのおのが管区に割り当てられ、その地での博物を蒐集する。そこにあるのは協調ではなく競争であり、それゆえ『世界誌』の完成度は各自の名望に影響する案件なのである。
上位者の利益になることは下位者の義務であり、その報酬は名誉と称賛である。ただし本当にそれだけで済ませるのは、上位者の沽券に関わってくる。
「さて、かかる奉仕になんの報いも与えぬほど、私も吝嗇ではないつもりなのだが」
「『世界誌』に記録されることさえも、身にあまる幸運でありますゆえ……」
「『帝国の頂きにある者の義務』、それを果たしたいのだよ。それに過ぎた謙遜は悪徳だぞ」
畏まって定型的に応対するアントニウスに、フラウィアはからかうような口調で言った。今度は彼女が攻める番である。……という茶番である。アントニウスも最初からこうした流れは予想しているはずなのだ。
それゆえアントニウスは、わずかに黙考するふりをしたのち、フラウィアへと向き直って口を開いた。
「それでは、無礼極まりないと承知の上で、殿下に嘆願申し上げたいことが御座います」
「なんでも言え。私の力が及ぶ限り応えよう」
感謝の言葉とともに再び頭を垂れて、アントニウスは言った。
「殿下の奴隷を、わたくしに譲っていただきたく存じます」
フラウィアとゼノビアは同時に眉をあげた。見ようによっては滑稽な光景であったが、アントニウスの頬はひくりとも動かなかった。
やや間をおいて、
「さて。さて、さて、さて。これは少し困ったな。私の力は確かに及ぶが、素直に頷くわけにもいかない。これがいないと私は満足に旅も出来ないのだ」
と、フラウィアは苦笑いを浮かべながら言う。一方アントニウスはごく真剣な表情で次のように説得する。
「無論、私の信頼する奴隷をお付けいたしましょう。ネマウススかナルボでなら代わりとなる奴隷を求めることもできましょう。あちらには知己もおります故、旅に事欠かないことは保証いたします」
フラウィアは表情を消し、ほっそりとした顎を親指で数度撫でた。
「なぜだ」
短く問うたフラウィアに、アントニウスは答えて曰く、
「昨日の一件。わたくしも一晩熟考致しました。あの折殿下のお慈悲を求めたことが、まったく間違っていたとは思いませぬ。ただ、その時の自らが、状況への配慮のみに専心し、未来の危機に対する警戒を怠っていたことに気が付きました。そしてその奴隷が十分な適正を欠いていること自体は、まぎれも無き事実だと判断いたしました。それゆえ、こちらで一時引き取らせていただき、きちんと教育差し上げようと考えた次第でございます。万が一、今後彼女が殿下に刃を向けるようなことがあったとしたら、悔やんでも悔やみきれぬことであります」
「私があれを誰かに話すとでも?」
「名誉の問題ではございませぬ。これは信義の問題です」
言って、アントニウスはさらに頭の位置を下げた。
「ご一考を……」
フラウィアは機嫌を悪くした風でもなく、今度は前髪を指で弄び始めた。しばらくしてくくっと小さく髪を引き、ぱっと話すと、体を大きく前に動かす。
「興味深い提案だ、検討するに値するかもしれない。……だがその前に、もう一つ聞いておかねばならぬことがある」
フラウィアは透明な表情で言った。
「ゼノビアの頭の上に、どんな花を咲かせようと思っているんだい?」
その場に居たすべての人間が同時に驚愕した。
ゼノビアさえ、口をぽかんと開けてフラウィアの後頭部を凝視する。
アントニウスは言わずもがな、雷に打たれたがごとく身を震わせ、その後しばし硬直したのち、ようやく口を開いた。
「・・・・・・お気づきになられていましたか」
「アントニウス、君はすこし不注意に過ぎる。君の動向を気に掛ける者がいることをもう少し意識すべきだ」
そう言い放って、フラウィアは身分に相応しき傲然たる頬笑をアントニウスに見せつける。
その時にはすでに、彼は対照的に決然とした表情を浮かべていた。何を決断したのかはゼノビアにも理解できた。この状況で取るべき選択肢はあまり多くない。
だが、フラウィアはその意志を遮るように手のひらを向け、闊達さを感じさせる声音で言う。
「誤解するなよ。私は君を咎めようなどとは思っていない」
次に執務室を満たしたのは混乱である。
アントニウスは理解しがたいという内心を露骨なまでに顔面に表した。
「おい、フラウィア」
ゼノビアの咎めるような言葉をフラウィアはまったく無視して強引に続ける。
「言っただろう?君の偉業は永遠に我が『世界誌』に記録されるのだと。私は今でも心からそう思っている。君の仕事は尊敬されるに値するし、そのような事柄は平俗な善悪の尺では計り得ぬものなのだ」
異様な主張は平静な声音と表情のもとで発せられた。むしろそれこそがひとつの異常であった。
かかる空気のもと、アントニウスは万事が解決される可能性を見出した。
「それは、その、つまり……」
「そうだ。私はこの件を秘すると決めた。それに見合うだけのものがあると確信している。そう、そして――」
その時フラウィアは、ゼノビアの方を向こうともしなかった。
「その保証として、この奴隷を譲渡することに同意しよう」
ゼノビアはアントニウスの眼にも哀れなほど動揺していた。
それは怒りへと変質し、やがて暴力へと移行する。
「フラウィアッ、てめえ話がっ……!」
掴みかかるゼノビアの手よりも、フラウィアの言葉の方が早かった。
「『私は拒否する、汝がその身を動かすことを』」
ゼノビアの体は即座に停止する。無理な体勢と反動に苦しみながら、彼女の筋肉は命令通りにその体勢を維持した。
アントニウスは安心と驚嘆を心中で攪拌しながらも、その混沌を顔に出すことはなかった。
「なんと、『拒否権』の呪術ですか……。『命令権』をお持ちなのは存じ上げておりましたが」
「さすがに『身体不可侵』までは頂けなかったが。『世界誌』作成に携わるものに、元老院と皇帝陛下はこの権能を私に賜った」
三つの法呪術のひとつ、『拒否権』。あらゆる能動的行為の完全否定。
人間のみを対象し、『拒否』という否定的権力のみを有するそれは、その代償に、より上位の者が持つ『命令権』をもってすら撤回できない強力な効力を有する。
解除されるのは宣告者がそれを宣言する、つまり「許可」した場合のみだ。
「一応拘束はしてもらいたい。割と体力の消費が激しくてね、油断すると解けるかもしれない。ああ、解除するまでは動かせないからそこに置いてくれればいいよ」
フラウィアがくたびれたように言うと、アントニウスは傍にいた奴隷二人に命じてゼノビアの両腕を掴ませた。フラウィアの発言通り、彼女に力を加えてもその体はぴくりとも動かない。奴隷たちは『拒否権』の恐るべき効力に内心震えた。
「さて。先に言った通り、私は君のことを密告するつもりはない。君の偉業への敬意、そしてまた、密告が不本意にもあの厭わしき習俗の先例となるのを恐れるがゆえに」
ここでいったんフラウィアは言葉をきり、アントニウスの反応を伺う。
漂う気配は、納得半分警戒半分。当然であろうとフラウィアは考える。この程度なら十分だ。
「とはいえ、私にもいくつか君に要求したいことがある。これからの旅と仕事を円滑に進めるためにも」
条件を出すのはアントニウスにとっても想定内のことであろう。むしろ無条件であればその真意を疑いたくもなるはずだ。
彼は深く、慎重に頷いた。
「伺いましょう」
フラウィアは指を三本立て、すぐにそのうちの一本を折りたたんだ。
「一つ。まず君が先に言っていた通り、今後の旅に随伴する奴隷。これを3名。また、新規に奴隷を購入するための……そうだな、金貨500枚相当。これに対する見返りだ。はっきりいっておくが吹っ掛けているわけではない。これに掛けた費用はそれを相当上回っているはずだ」
アントニウスは頷く。金貨500枚は決して安い金額ではないが、比較的富裕な都市における有数の資産家からすればゆとりをもって支払うことができる。
「二つ。当然ではあるが、私がここを『見逃した』こと、これについても決して誰にも話さないこと。ああ、それに付随して、そうだね、もっとうまくやりたまえ。私に気付かれる程度では帝都の連中は一人も招けないぞ。それは少し勿体無い」
「お恥ずかしいことです。ええ、もちろんフラウィア様の『慈悲』は私のこころの内にとどめておきます。万が一事が露見したとしても決してご迷惑はおかけしません」
フラウィアは柔らかな表情で首肯した。
少し考えたそぶりをみせなぜか指を一本戻し、再び折りたたむ。
「三つ。これは大変私的で、かつ確認することも困難だから、それこそただのお願いなのだが……。ゼノビアはできれば、百合の花に使ってやってほしい」
「なぜでしょう」
「単に私の好みだよ」
「黒百合で良ければ」
「うん、良いね」
二人の契約が成立した瞬間、ゼノビアは身動きの取れぬまま、眼光のみで憎悪をフラウィアの頭頂部にぶつけた。無力と知りつつアントニウスはわずかに身震いし、それによって奴隷の様子を把握したであろうフラウィアは、まったく反応を示すことなく最後の指を曲げる。
「四つ。私に、君があの『特別な工夫』をするに至った経緯を話すこと」
「……それも、フラウィア様の単なる好み、好奇心の為でしょうか」
「いいや、『公の事柄』、としてだ。私の『世界誌』は遍く事象を記録する。それ以上に優先すべきことなど何もない。とはいえ、だ。『事実』だけを残す必要もない」
はっきりと躊躇するアントニウスに、フラウィアは身振りも豊かに説得を試みる。
「例えば『誰それから聞いた話』として記録する。もちろん『誰それ』は君ではないし、『聞いた』のはこの時期ではなく、『話』も細部を変更する。具体的には、そうだな……君、男は使ってないだろう、勿体無い。花は女性的だという先入観か、はたまた単純に大変だったからか。まあそれはどちらでも良いとして、そうした肝心な部分に虚偽の情報を差し込みつつ、『もっともらしい話』に改変する」
それでもアントニウスは葛藤する。仮に露見すれば元も子もない。
それゆえ彼は慎重に問うた。
「もしお話しできないなら」
「困る。『命令権』を使ってしまうかもしれない。君一人くらいならなんとかなるよ」
「それでは脅迫のようなものではないですか」
アントニウスは『命令権』の力を目にしたことがある。彼は軍団に所属していたこともあり、その折に最高司令官がそれを行使したのを目の当たりにしたのだ。
彼の半ば呆れたような言葉に、フラウィアは誠意を感じさせる切迫した声音で迫る。
「私を信頼しろ、アントニウス。良いか、私は何も言わずにここを立ち去ることもできたのだよ」
「ええ、存じております。フラウィア様が如何に、この件にご関心を持っているのかも」
アントニウスは悩む。悩んだ末、決断を下す。
彼は昨日の昼、フラウィアに見いだしたものに賭けることにした。
「…・・・わかりました。お話ししましょう。こうなったら最後まで信じることにいたします」
「本当? やったあ! ……っと、今のは見なかったことにしてくれたまえ」
親に駄賃を貰った子供のごとく喜ぶ高貴なる少女に、アントニウスはつい吹き出してしまった。
と同時に、自身が賭けた方が間違っていないことを、強く願う。
「…・・・とは言ってもどこから話せば良いのやら。長い話になってしまいます故」
「ふむ。では私から聞くとしよう。君にこの技術を伝えたのはルテティアの連中か、東方のマギ僧か、はたまた別の誰かか」
「二つ目が一番近いでしょう。彼は僧侶ではなく商人のようでしたが、しかし魔術に精通しておりました」
「良くあることだ。知識が相応しからざる者の手に及んでいるのは、あのあたりなら珍しいことではない」
「ご存知のとおり、私はかつて商人をしておりまして、その折に得た知人であります。彼から聞いたのは『死体を用いて植物を豊かにする魔術』であって、『人間を用いて花を育てる魔術』ではありませんでした。もっとも、彼は明らかにわたくしの関心を理解したうえでその知識の値段を設定したようですが」
「さすがの君と言っても、最初から人間を利用したわけではあるまい」
ふんふんと頷いていたフラウィアはふと思いついたように問う。アントニウスは首肯する。
「はじめは動物を、それも老年で生かしておいても仕方なくなった家畜などを用いました。おっと、恐縮ですが、この点について説明するためには、まずこの『工夫』が如何なる手順で行われるかを説明しなくてはなりません」
フラウィアが黙って頷き促すと、アントニウスは淡々と語り始める。
「まずは適当な生きた動物の体を準備します。この時点で身体に過剰な傷害を加えるのは望ましくない。かといって暴れられても大変ですから、薬毒を用いて麻痺させてから処理します。ここから先が重要です。この魔術の本質は腐敗の力を植物に供給することなのです。その点では堆肥と似たところがあります。そしてまた、時宜に応じて適切に与えなければ、過剰であっても過少であっても、植物の生育には負の影響を与えるということも同様です。そして施肥とは違うのは、腐敗したものが影響を与えるのではなく、腐敗するというそのこと自体に意味があるということ。よって、例えばどこか別のところで腐敗させて投与する、ということはできないわけです。それでも栄養にはなりますが」
そこで一端言葉を切ると、アントニウスは慮るようにフラウィアの様子をうかがった。
「書き写させましょうか」
「『まずは適当な生きた動物の体を準備します。この時点で身体に過剰な傷害を加えるのは望ましくない。かといって暴れられても大変ですから』」
つらつらと繰り返すフラウィアにアントニウスは舌を巻きつつ、自らの非礼を自覚する。
「大変失礼を……」
「いやいや。さて、ではどうやってこの問題を解決するのだね」
さらりと流したフラウィアに安堵しつつ、咳払い一つとともにアントニウスは続ける。
「死体を処理する前に、腐敗を抑制する液体を塗ります。分量は肉体の重さに応じて。没薬を中心に少量の蝋、葡萄酒、烏蒲公英の花、銀梅花の葉を特別に配合したもの。これをよく全身にすりこむ。こうすることで適切な速度で死体は腐敗し、植物に必要なだけの力を与えることができる。こののち、全身あるいは一部であっても致命傷でなければ生きたまま、頭部のみの場合のみは切断後速やかに土中に安置する。あとは自然の働きに任せます」
「脳や内臓はどうするのかね」
「内臓はいくらか試してみました。抜いたり、防腐液に浸したり。正直に言いまして、これらの臓器がどのような効果を持つのか、絶対数が足りないことから確たることは言えません。脳ですが、腐敗しやすいことから、多少の損はあっても取り除いてしまおう、と試したことはあります。これははっきりしています。脳は絶対に外すことはできません。死後に埋めた場合においても脳の有無は結果に大きな影響を与えます。いずれにせよ生き埋めの効率が良いことから、脳を取り出すことは無くなったのですが」
ここでアントニウスは大げさに息を吐き肩を落とした。
「そう、ここからが大変でした。ええ、本当に。私が試したのは脳に液体を注ぐことです。いくつかの経路がありますが、鼻や頭蓋骨の頂点に開けた穴から注入します。これが難しい。防腐液の量や濃度によってはすぐに死んでしまう。辛うじて生きてはいるが腐敗の程度は抑制する、そのような配合は簡単ではありません」
言葉の端々からアントニウスが経験した苦労が窺えた。皇女はねぎらいを込めて微笑しつつ、彼を賞賛する。
「もしそれが完成したらそれ自体記録に値するだろう。進捗はどうだい」
「おおむね完成に至っています。対象がほぼ確実に発狂することを欠点とみなすべきか……。すなわち、この施術を適応したのちに麻痺が解除されると、対象が言語能力と理性、外界の認識あるいは反応能力を失うことが確認されたのです。これは発狂者の身体が花にどのような効果を及ぼすかにも依りますが、さしあたり調査が難しいので保留しております。ああ、無論、防腐液自体は植物に害をもたらしません」
それを聞くと、フラウィアはぱちぱちと手を叩いた。彼女の顔にははっきりと尊敬の感情が浮かんでいる。
「実践者。そう、君はまさにそれだ。時に知識人はそうした努力をないがしろにするが、新たな見地はいつもそこから生じる。それを今、はっきりと確信した。正直に言えば書物に閉じこもっていた己の不見識を恥じるばかりだ」
アントニウスは頭を下げ、皇孫の賞賛をじっくりと味わった。
ひとしきり彼を褒めちぎると、フラウィアは、
「さて、かくして君は自らが改良した花の栽培に関する、卓越した技術について語ってくれたわけであるが、次に期待されるのはその境地に君がどのように至ったか、いわばその『歴史/物語』であるわけだ」
と、彼の更なる語りを促した。アントニウスは重々しく頷き、先ほどよりも生き生きとした声音で続ける。
「先にお話ししたとおり、当初は畜獣、それも老いて使い物にならなくなったものを使用しておりました。数度試してみたところ、個体の特徴が花に反映――といっても直接的な仕方ではありません、例えば眼病を患っていた牛とそうでない牛では、花の寿命と実の大きさに影響を与えます――という事実に気が付きました。これについては書にまとめてありますので、後程ご確認いただければ」
「良いのかい?」
「ええ。あさましい願いでありますが、フラウィア様であればより合理的に、体系だって整理していただけるだろうと期待しているのです。もちろん無理には、とは言いませぬが。といっても単純な観察記録ですし、このたびのご滞在で確認されるよりは、後日改めていらした折に、あらたな記録と一緒にご覧になるのがよろしいかと」
「いや、興味深い。私も君の偉業の助けになれれば幸甚の至りだ」
フラウィアの心底うれしそうな表情に、アントニウスは胸に暖かなものを感じながら、続ける。
「有難き幸せ。さて、そのような事実をこの目で確認し、例の『商人』が言っていたことの正しさを理解した私は、続いて若く健康的な家畜の利用に移行しました。ですが十分な数が確保できないこと、しばしば望ましくない、あるいは予測不可能な結果をもたらすことが分かってきたのであります。この点は私も理解しかねるのですが、わたくしの眼にはどうも、調和がとれていない、いびつな、奇形的な成長であるように思われました。この生き詰まり、それを結果として解決してくれたのが、人間の利用です」
語りながらアントニウスの顔に浮かぶのは後悔ではなく、辛くもあったけれども得るものも大きかった、そのような過去に対する回顧の感情であった。
「人間を使うようになったきっかけは一人の奴隷でした。彼は長く献身的に使えてくれましたが、事故で脚を失ってしまい、もはや長くないとみられました。彼はわたくしへの遺言として、彼自身の遺体を花に用いるよう進言しました。私はひどく驚きましたが、それもまた彼のわたくしへの愛であると考え、彼の肉体をある花に捧げました」
「今思えば、それがああもうまくいったのは奇跡でした。当時はまだ防腐剤の開発も進んでいませんでしたし、ある種の葬礼としてそれを行ったに過ぎなかったのですから。わたくしはまさしく彼の献身、奉仕が、あの成果を生み出したのだと信じております。いまでは別の人間を使用しておりますが、彼の働きを忘れることはこれからもないでしょう」
「もしやそれはカンベキかな。あれはすこし見事すぎた、人の技にしては」
アントニウスは「ご賢察の通りです」と形式的に答えつつ、
「かかる奇跡を体験した時の感動、フラウィア様なら理解していただけるかと存じます」
と、今度ははっきりと、情感を込めて言った。
フラウィアは深く、ゆっくりと頷いた。そこに込められている嘘偽りのない同意を理解して、アントニウスは強い喜びを覚える。
それを慈しみつつも、フラウィアは確認するようにアントニウスに問いかける。
「・・・・・・そうすると、まず君は自身の奴隷を用いるところから始めたのかな? 違うだろう、たぶん」
「彼らには愛着というものがございますし、その後の作業に支障がでますので。新しく、かつ従順とは言い難い、反抗的な奴隷を購入し、それを用いました。当初、良心のとがめを感じなかったとは申しません。ですが日に日に発展していく技術、それによっていっそう見事に咲く花々は、疑いなくそれらの犠牲を正当化するには十分なものでした」
ただし、とアントニウスは指を一本立てる。
「ここで家畜でも起こった問題が発生します。すなわち値段の問題。奴隷もただではありません。一方で花を増やすことを止めるわけにもいかない。屋敷を増築するのにも金はかかります。さてどうするか、と考えた時に、では、攫ってしまえば良いだろう――と思いつきました。これなら魅力的な材料をごく安い経費で手に入れることができる」
腿の上に手を重ねて、彼は物思いにふける様に目線を下げる。
おそらくは彼は、かつて自分が直面した葛藤を反復していた。
「そこを飛び越えるのはたやすいことではありませんでした。なにせれっきとした犯罪行為ですから。露見すればただでは済まない」
「君はその川をどう攻略したのだね」
「信仰です」
アントニウスが間をおかず即答すると、ここで初めてフラウィアの表情に意外の感情が浮かぶ。
「はっきりと申し上げます。私の行為は、私がかつて信じていた神々の教えに背くものです。時間をかけてだんだんと進行した結果、そのことから目を背ける余裕を与えられてしまっていましたが。しかし、です。未だに神々の怒りは私を罰してはいない。なれば可能性は二つ。神々は私を最後の川で溺れ殺そうと罰を延期しているのかもしれない。いや、そうではないだろう、そう信じているのです。すなわち私はかつて誤った信仰を抱いていたのであり、私の行為は、逆に、神々の真なる意志に全く適ったものであると」
フラウィアは黙然として思索する。アントニウスにはもはや恐れやそれに類する気持ちはなかった。ある種の高揚感、告白の快楽がそこにはある。
「今振り返れば、当時の私の手は、まるで神々の導きがあるようになめらかに動いたのです。事に望む前の躊躇は、作業に移れば直ちに消え失せ、おそらくはおぞましいと見なされる技も自然になすことができました。私の忠実な奴隷が文句一つ言わず働いてくれたことも、その一因ではありますが」
「意地悪なことを聞くが許してほしい、アントニウスよ。君は君が神々の意志に捧げたものたちに、あるいは残された家族たちに対して、何らかの感情を抱いたことはあるかね」
アントニウスはその問いに気を悪くしたようでもなく、むしろ堂々と胸を張った。
「率直に申し上げれば、私はその都度ひどく申し訳の無い気持ちになります。ただ、その気持ちが私を押し止めたことは一度もありません」
そうきっぱり言い切ると、彼は恭しく礼を捧げた。
「これが、私が語り得るおおむね全てでございます。記憶違いや誤りはありえますが、これ以上語ることはできませぬ」
フラウィアは拍手によって彼の語りを称えた。
「素晴らしい。大変興味深い話だったし、とりわけ君の信仰に関しては共感させられるところもあったよ。きっと何かを成し遂げようと欲するすべての人間は、あの善悪の川を彼らなりのやり方で飛び越えなければいけないのだ。たとえそこで振った賽が、いかなる目を出そうともね」
その言葉にアントニウスは安堵するとともに、はっきりと確信する。
彼女は本物だ。本当にこちら側に住まう、求道者の一人だ。
政治的に彼女がどこに至るかはまだわからない。だが、彼のような薄暗い領域に自らの欲望を抱くものにとって、彼女の助けは疑いなく救いになる。
その思いを知ってか知らずか、フラウィアは先ほどとは打って変わって、喜ばしい困惑を表情に浮かべた。
「いやしかし、この物語をいかにして記録すべきだろうね。丸ごとすべてとはいかないが……」
「脚色は如何様になさっても文句は言いませぬ。本音を言えば記録に残るよりもフラウィア様のご記憶に残り続けることのほうがはるかに嬉しいことなのです」
あまり媚びを売っても何も出ないよ、とフラウィアが笑うと、アントニウスもまた破顔した。重々しい空気は全く消え去り、代わって柔らかな雰囲気が戻りつつある。
「ところで。君は私に一つ嘘をついたね。ああ、違う違う、もっと前の話だ。この奴隷のことだよ」
アントニウスが顔色を変える前に、彼女は笑ってゼノビアを指さした。
「個別的な事柄はまた後日、ということにしておくが、これだけは訊いておく。これ、良いのかい」
「とても。ええ、とても魅力的です。東方の奴隷はいくつか使いましたが、どれも乱暴に扱われていて、元来有していたはずの生命力や気品と言ったものが失われているのです。故地から遠く離された、ということもあるでしょうが……。それに引き換えこのゼノビアは、恐らくは殿下のもとで自由を楽しんだのではないかと推察します。隠しきれぬ粗野もまた面白い。声も眼も透き通り、病気もない。四肢は頑健。完璧です」
「べた褒めじゃないか。よかったね、ゼノビア」
主人は奴隷の、奴隷は主人の顔を見る。
主人のそれには朗らかな喜悦が、ゼノビアのそれには諦観の混じった憎しみが籠もっている。
フラウィアはゼノビアを手で指したまま、アントニウスに振り向いた。
「ひとつ、この奴隷の取り扱いについて助言したいことがある。こいつは案外繊細でね、処理するまでにとても反抗すると思うのだ。薬も効きづらい。本当にやっかいなやつなんだよ」
「有難い。お聞かせ願えれば幸いです」
「ふふふ。よく聞くといい。ゼノビアを拘束したいなら人間なんて使ってはいけないよ」
アントニウスはその言葉の意味をとれず困惑した。
ごくごく自然に言い放たれたにもかかわらず、彼女の語りは明らかに文脈を逸脱している。
そしてその表情には、悪意しかない。
言葉の意味が了解される寸前、フラウィアは明朗に『宣言』する。
「『私は許可する。汝が欲するところを為せ』」
それがアントニウスの耳にも届いた瞬間、ゼノビアは造作なく両腕を降ろした--拘束されているにも関わらず。
べきょりという奇怪な音。
これを足元に聞いた奴隷たちは、彼らの両足がへしゃげていることに気付いた。
誰もが状況を理解できぬ中、ゼノビアは腕を跳ね上げ、即座に地に向かって振り落とす。
不動のはずの大地が不機嫌に揺れ、彼らが叩きつけられた床面には今や無残な亀裂が刻まれてた。
唖然とするアントニウスに一目もくれず、ぞんざいに拘束者の手を引きはがしたゼノビアは、彼女の主人に問いかける。
「あー、すっきりした。で、俺は今から何をすればいいんだ?」
「決まっている。『世界の驚異』を知らしめよ。彼らの驕りを打ち砕け」