表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/17

NIHILVM PARS II

 産まれて初めて海を見た。

 ヒトとしてではなく、モノとして。

 積荷として。商品として。道具として。

 運搬されていく私の足元を、海が通る。 


 それは葡萄酒の色をしていると聞いていた。巨人ですら飲み干せぬ大きな酒盃。

 それはひどく塩辛いのだと話す人がいた。巨人とても倒れるほどの苦い水。


 なんということだろう。世界は驚きに満ちている。


 その匂いについてある人は、胸をむかつかせるはなはだ不快なものだと述べた。またある人は、胸のすくような爽やかな芳香だと述べていた。

 海など見たことのない私には、その匂いは思い浮かべようとも難しい。

 海で泳ぐのは気分がいいという。――私は泳げないので全くぴんとこなかったけれど。

 たまに溺れて死ぬ人もいるそうだ。――なるほど、海は怖いところだと私は思った。

 

 そこには魚やら蟹やらが住んでいるらしい。ぶよぶよとした白い茸も泳いでいるという。

 ごくたまに食べたことがある「貝」というのは、実は海で採れると聞いたときには驚いた。

 それを採って暮らしているひとがいるそうだ。

 きっと彼らは毎日貝を食べているに違いないと私は考える。私はそれを羨ましく思った。


 そればかりではなく、身の丈象よりも大にして、カエルのような滑る皮膚を持ち、目は無く、しかし耳が良いことあらゆる四足獣をもしのぎ、十二本の手足をもって人や馬を捉え貪る、恐るべき怪獣も潜んでいるという人もいた。


 なんということだろう。世界は驚きに満ちている。


 海には馬は居るのか――私が聞くと、もちろん居ると彼は答える。

 脚は無いが逞しい「ヒレ」を持ち、賢く従順な海の獣。人々はそれを飼いならし武装せしめ、恐るべき軍団を作り上げたのだ――アカイアの「海馬騎兵」の名は海の西方に轟いている。


 苦笑いを浮かべた父上との会話は、なぜだか奇妙に覚えている――いや、今思い出しつつあるのだ。


「あんまりいい加減なことを教えないでくれ、この子はちょっと素直すぎるから」

「馬はいないのですか。なあんだ」

「海馬はいる。居ないのは怪獣だのなんだのとか、そういった類の生き物だ」

「では魚は? 蟹は? 白い茸ってなに?」

「ほら、こうなる」


 詩人は頭を掻いて私に詫びる。謝られた私は、なんだかおもちゃを取り上げられた気分になって、ふいに母の方を見た。

 こういうとき、私と父を――いや、ある種の「世界」とをとりなしてくださったのは、いつも母だったからだ。

母はあの、きらめく瞳に微笑を浮かべてこう言った。


「すべての命は海より現れたのです。いま生きている者たちだけではありません――未だ彼女の胎の中に眠る生き物たち、やがてはそこから陸に上り、我々とまみえるであろう者どもの姿かたちは、想像もつかないものでしょう」


 「鹹き水と甘き水の交わるところ」にて、すべての霊魂の支配者たるエメントリアーテが沐浴すると、そこから最初の生き物が現れたのだ。

 虫も、魚も、鳥も獣も人も。

 王国も、帝国も、四方の果ての人々も――すべては等しく海より来る。


 そこで母上はちらりと父上に目配せしたのだった。父はふうむと唸ったが、しばらくして一つ頷くと、ゆっくりと語り始めた――海の彼方よりこの地に至る、新しき人々とその歴史について。商いをして暮らしていた人々は、海の周りを転々とするうちに、いつのまにかこの地にたどりついた。そしてその一人が定着し、この地の者と交わったのだと。

 そして私を指さして、深い声でこう言った。

 その黒い肌はその証。長き旅を乗り越えた、かの偉大な旅人たちより受け継いだもの。

 あらゆる白き肌の者と等しく、そこには歴史が宿り、いとも高貴なるなにかが宿っている。

 

 海、それは私にとって他なるもの。それと同時に私の根源を作っているはずのなにか。

 驚くべきもの。恐るべきもの。やがては至るべき場所。

 それは死と生に同時に結び付けられている。

 

 私がかつてその不思議に捉われ妄想をたくましくした、草原の対極たるあの海を、私は今眼下にしている。


 そこに色は無かった。

 そこから臭いはしなかった。

 いかなる生き物もそこにはいなかった。

 ひとびとが暮らしている痕跡はなかった。

 私のふるさとはどこにも見えない。


 あの日から、ずっとだ。耳は聞こえているし、味は感じているし、目は良く見えるし、鼻も利いている。

 だけど、何も感じない。

 音はする――ただの音が。

 食べ物には味がある――ただの味が。

 見えるもの全てがものでしかなく、臭気と快気の間にいささかの差異も存在しない。

 

 なにより、風が吹いていない。吹いているはずの風を、なぜか私は感じていない。

 

 私が思う人々はどこにもいない。海について語ってくれたあの人たちは、存在することを止めてしまった。

 私の幼い好奇心を、その豊かな教養によって満たしてくださった、私の愛しい母上。

 何かを知るということが、何かを受け入れることだと諭してくれた、いとも慈悲深き我が母上。

 私の未熟な自己認識を、その確固たる自負によって鍛えて下さった、私の愛しい父上。高貴であるということが、その血によって定まるものではなくて、自らを十分に知るということであると諭してくれた、いとも気高い我が父上。

 私を形作ってくれた、すべての人々。すべてのことがら。あるいは――あるものの全て。

 それらが欠けているということ。

 何かが欠けているというのではなく、すべてが失われてあること。

 生きたまま死んでいるということ。

 それがヒトでなくモノであるということ。

 運搬物。商品。道具。

 それらが存在をしらないように、私もまた存在の意味を忘れてしまった。


 それがなぜだか面白くて、私はまた、あの笑いを笑った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ