SCIENTIA FLORENS: V
不信感ではない。むしろ納得している。
そうはあっても、思うところはある。
矛盾している? そうじゃない。ひとのこころはそういうものだ。
あの善良そうに見えるアントニウスが殺人者であること。
平素は皇娘として申し分なく振る舞い、二人きりとなれば童女のごとく笑うフラウィアのうちに、血と毒薬への抗いがたい欲望が存在すること。
それと同じだ。あるいは逆に、それも同じことなのだ。
一人の人間の内に食い違う欲望が混在する。愛するのと同時に憎悪し、尊重しながら唾を吐く。それを咎める理由は無い。咎められて止めることができるなら、私だってこんな感情は持っていない――。
そのような思惟はゼノビアの手を如何ともしがたく鈍重にし、そしてかかる態度はフラウィアにとっては態度のごとく感じられた。
「ゼノビア。気持ちは分かるがもう少し手を早く動かしてくれたまえ」
本当に分かるのかよ、と心の中で呻きながらも、手はその指示を忠実に実行する。奴隷の悲しい習性であった。
そしてその手はやがて、望ましくない感触を握る金属の先に覚える。
掘り出した人間の頭骨を主人に手渡す。これで何個目だろうか。少なくともまだ、推定される被害者の数を超えてはいない。
暗鬱とした気分になるゼノビアに比べると、彼女の主人の気分はずっと明朗であったように思われた。
彼女は頭蓋骨を興味深そうに弄っている。
「骨盤はあるかな」
「いや、見たところそれしかないぜ」
これまで複数の死体を発掘したわけだが、それらの状況には異同があった。全身の場合。腕や足などの一部を伴うもの。頭部だけ。いずれにせよ、頭蓋骨はすべての場合に見つかっている。
「うーん、腰の骨があれば簡単なのだが……。いや、でもこれだけでもわかるな。恐らく若いの女性。……私と同い年ぐらいかもしれない」
フラウィアは解剖学にもそれなりの見識がある。首都で過ごしていた時期にも、剣闘士の解剖などの機会を逃すことは無く、こっそりと見物、あるいは参加していたのだ。医者たちはたいてい煙たがっていたが、皇女の好奇心を止められるものは彼らの内にはいなかった。
とはいえさすがの彼女も、人間の骨に鼻を近づけて匂うなどという振る舞いを、帝都でしたことは無い。
「それほど古くは無い」
「やめろよ、それ。そんな重要か」
「被害者遺族とのあれこれを考えると死体の同定は重要なのだが……。まあ、いいか」
奴隷に言われて彼女は顔を離した。肉の付き方は多種多様だ。まったく消えているのもあれば、腐敗したまま付着しているものもある。ほとんどすっかり残っているものすらある。最後のものは身分や死亡時期が同定しやすいが、それ以外では困難だ。
その後もフラウィアは頭蓋骨をためつすがめつしていたが、ある箇所に指が及ぶと、ゼノビアの服を呼び寄せるように引いた。
「ちょっと確認してくれ、ここに不自然な穴はないか」
「……ああ、きれいな円だ。分かるのか」
「どうだろう……。たぶん脳に何らかの液体を注いだのではないかな。この魔術において脳のもたらす効果はちょっと計り知れない。少なくとも取り除くわけがないとは推察するが、かといって下手に腐敗させれば植物の生育に不具合をもたらす可能性もあろう。それを防ぐ液体、となると……」
「いや、いい。俺はあんまり聞きたくない」
そういってゼノビアはフラウィアから頭蓋骨をもぎ取り、土の中に静かに置きなおした。
埋めなおすのは心が痛む。一刻も早く埋葬してあげたい。そういう気持ちがゼノビアにはある。
しかし、骨を露見しないよう保管する手段はない。また骨が減っていれば見た目にも怪しくなるかもしれない。フラウィアはそう言って、ゼノビアに原状維持を命じた。
アントニウスの眼が誤魔化せるか。それはもしかしたら難しいかもしれない。だが、さしあたり奴隷には気付かれない程度に。ゼノビアは出来るだけ自然に土を埋めなおす。
そうしているうちに、彼女はあることに気付いた。
「……今思うとさ」
フラウィアに導かれて次の花壇に向かいながら、ゼノビアはぽつりとつぶやいた。足を止める主人に、彼女はこう言って疑問を伝える。
「俺たち、人の死体を吸った花を食べたよな。病気とかにならないよな? 人の肉を食べると気が狂うって……」
彼女は真剣だった。当然だが、人肉食は彼女にとってなじみ深い文化においても明確に忌避されている。そこでは、人の肉とりわけ近親者の肉を食らう行為は神々の怒りを買い、何を口にしても癒せぬ飢えとそれに伴う狂気が罰として与えられる、という伝承が存在する。もっとも、彼女のあずかり知らぬことだが、その反対に人肉を至高の食材とする人々も同じく当然のごとく存在していたのであるが。
「それは迷信だよ。現に私はどうだい?いつでも理性的だろ?」
彼女の疑問にフラウィアは笑って答えたが、その回答が意味するものをゼノビアは聴きのがさない。
「ちょっと待て、お前」
「冗談さ。……大丈夫、呪いはないし、病気にもならない。これは本当。私も先に食べたのだから心配するな。第一、君は知らずに口にしたのだから、神々だってそれを咎めたりはしない。私はちょっと怪しいが、何、君は大丈夫。怒りはアントニウスに向けられるはずさ。だからほら、そんなに鳥肌立てるなよ……」
ゼノビアの震えが止まるまで、フラウィアは背伸びをして彼女の背中をさすり続けた。ゼノビアははじらいからいったんその手を跳ねのけたが、フラウィアが諦めずに手を握りしるので、あきらめてフラウィアの「気まぐれ」――とゼノビアは認識している――に身を任せた。
ゼノビアのあずかり知らぬところではあるが、その時フラウィアは偽りのない心配を自らの奴隷に向けていた。ほかの誰も心から信頼することの無いフラウィアは、彼女にだけは、名状しがたいある種の感情を抱いていたのである。
× × ×
そこから三刻ほど。ゼノビアは無心で仕事を続け、ついに最後の花壇を掘り返した。
「冬の部屋」。花の種類は「金木犀」。開花時期は秋であり、同種のものが「秋の部屋」に甘い香りを提供しているが、この花壇は冬季を経験させるためこの部屋に置かれている。
骨は見つからなかった。表に載っていないすべての花を確認しおえた段階で、発見された骨格の数は16。前失踪者の数にはまだ満たない。
フラウィアはしかし、その結果にはさして頓着していないかのように満足げに頷いた。
「そろそろ撤収するか。これで証拠は十分だ」
「ようやくか……」
「うん、これだけあれば訴訟には足りる。入れ替えたりしたのではないかな。いずれにせよ捜査権を行使しても何も見つかりませんでした、ということはなくなった。」
二人の会話、あるいは認識は微妙に食い違っていたが、誰もそれを指摘するものは居なかった。痕跡をもう一度注意深く取り除き、問題がないことを確認すると、彼女たちは「花屋敷」を後にした。
ゼノビアがまず驚いたのは、空の明るさだ。いまだ太陽は姿を見せていないが、にもかかわらず星々と半月の光は、彼女の視界を満たすに十分なものだった。
そして同時に彼女は、フラウィアの世界をわずかなりとも理解した。
その感傷はさておき、締めくくりに鍵を閉めなければならない。ゼノビアは扉を繋いで封鎖する錠前を取り、今は外れているそれを再びつなげようと試みる。
だが、予想された金属音は鳴らない。
「ん?んんー?」
「どうしたんだい」
「いや、閉まらん」
その答えにフラウィアは硬直した。ゼノビアは構わず、さらに力を籠める。
「中で引っかかっている……?」
「それかもともと固い奴かもしれんな。もうちょっと」
「まて、やめろ、壊れるかもしれん」
フラウィアは奴隷を制止した。万が一破壊してしまえば修復する手段は無い。
かといって、開けたままにしておく選択肢もあり得ない。
彼女は深くため息をつき、ゼノビアに命じて自らの手を鍵に触れさせた。
それだけでゼノビアはすべてを察する。
「良いのか」
「仕方ないだろう、まったく……」
はっきりと嫌そうな顔をするフラウィアだったが、わずかな躊躇を挟んだのち、表情を完全に消した。
そして厳かな声で、次のように「宣言」する。
「『人民と元老院に承認されし「世界の驚異を記録するための十人委員会」の一人、「神君フラウィウスの孫」、「人民の娘」たるフラウィア・ウェスティアが、法務官級の権限を以て汝に命じる。自らを施錠せよ』」
言い終えた瞬間、錠前は即座にかちゃりと音を立て、二人が立ち入る前の状態に戻った。
「絶対命令権」。自己より劣る魂および非生物に対し、能動的な動作を強制する法呪術。
ほぼすべての行為や宣言を停止する「拒否権」か、あるいは同格の「命令権」以外によっては阻まれることなく、一回限りの動作であれば広範かつ多数の対象を支配する。
彼女がその力を行使することを厭うのは、第一にそれが皇帝権力と密接にかかわっていることもあるが、それと同時に――
「ああ、うう、……ゼノビア、おぶって……」
「あいよ。今のお前はなめくじよりも弱そうだな」
別荘を出た時とは打って変わって懇願するフラウィアを、ゼノビアは無造作に担ぎ上げ、その背中に乗せた。皇女は恥も外聞もなく、また同時に力なく、奴隷の体にしがみつく。
「絶対命令権」がかかる状態を引き起こすのは、その消費する体力の大きさもあるが、単純にフラウィアのそれが平均を下回っていることに起因する。
ゼノビアは主人を担いで元来た道を引き返す。最初からそうするつもりではあったが、フラウィアから願い出たのは少し意外で、若干気分が良くなるものではあった。
「ゼノビアぁ、なんか話してくれ……。このままでは寝てしまう……」
「よしきた。昔々、あるところに……」
「やめてくれよう……」
寝てしまっても問題は無い。どうせ彼女はもうろくに行動することも、思考することもできないのだ。これからの相談は起きてからすれば良い。
にも拘らずフラウィアは目覚めていることに拘った。責任感は強い方である。奴隷を一人野にさらすことを厭うたのかもしれない。
ゼノビアは黙って道を進んだ。彼女はむしろ主人が睡眠を取ることを望んだ。悪意からではなく、単純にそのほうが好ましいと思ったのだ。もともと体力のない若い少女の体を彼女は慮っていたた。
その心遣いはどうも主人には通じなかったらしい。やがてフラウィアはゼノビアの体をよじ登り、その耳元で囁いた。
「……ゼノビア、星は出ているだろう」
「ん、たぶんお前が知っているとおりだ」
星の読み解き方は知識人の教養のひとつであり、当然フラウィアも習熟している。彼女ほどの者であれば、日ごとの星界の様態は、確認せずとも分かることであるが、しかし彼女は、
「教えてくれ」
と、奴隷に請うた。その声には何のてらいも無かった。
「……悪いが公用語でどういうのかは分からんな」
「君の知っている言葉で良いよ。君の声を、聞いていたい」
体力を損なって弱気になっているのか。そう考えてゼノビアは主人の願いに応えた。もちろん、ごくごく小さな声で。
しかし無限に散らばる星を、いかに説明すべきであろうか。彼女はさしあたり、月の位置と傾きを伝える。
黄道を走る乙女とそれを追う磨羯。それを狙うのは射手の矢であり、小さな天秤はけなげにも乙女を守ろうと大蠍に立ち向かう。それを尻目に、獅子は悠然と空を立ち去ろうとしていた。
その物語と、それをとりまいて煌めく星々を、ゼノビアはきっと伝わらない言葉でひとつひとつ語っていく。
フラウィアはまるでなにもかも分かっているかのように、一言一言にこくりこくりと頷いた。
明けの明星が姿を見せ始めている。水と火の星を待っているわけには行かないだろう、そのまえに日輪はそれを追い越してくるだろうから――。
そう説明し終えた時には、フラウィアはゼノビアの背中で静かに寝息を立てていた。
決して主人の安眠を邪魔せぬよう、彼女はいっそう静かに日の出前の野を進んだ。。
ゼノビアは自分が主人の精神の支えになりつつあることに気付きつつある。
文句を言いながらも忠実についてくる存在。
打算と策謀に塗れた首都においてただ一人、絶対に裏切らない存在。
彼女の夜に文を読みつつ、眠りにつくまでいつもそばにいた存在。
彼女の世界は言葉の世界であり、その言葉の媒介者は常にゼノビアであった。
フラウィアの内面はある種複雑だ。彼女にとって「見えない」ということがどのようなことなのか、ゼノビアには理解しきれない。光だけでなく闇すらも知らぬということが、彼女の精神にどれほど影響を与えたのか。それを推測することはきわめて困難だ。
それでも、私が彼女を導く手は、あの暗闇で彼女の手がそうしたように、多少はその心に安らぎを与えることができているのかもしれない。
それを思うと、それが不適切な感情だと思いながらも、主人に対するある種の愛着を感じざるを得なかった。両親を失った子供と、ただ一匹生き残ってその子供を支えた犬、それに近い感情だろう、と思う。
それは暖かであるというよりは、もっと素朴に、とてもよく馴染むものとして心の中に落ち着いたのであった。
同時に、ゼノビアの胸中に、不可思議な欲望がふつふつとわいてくる。
誰にでもある、一見矛盾したふたつの感情。
私がこの手を離したら、彼女はどんな顔をするのだろうか。
× × ×
さすがに屋敷に戻る時には起きてもらうほかなかった。フラウィアの体をゆすると、案外あっさりと彼女は動き出し、ゼノビアの指示にもすんなり従った。
まだ奴隷たちは起きていないが、時間的には頃合いだろう。二人は速やかかつひそやかに客室へと戻った。
フラウィアはその後、ゼノビアに化粧を命じた。睡眠不足を隠蔽するためである。同様にゼノビアにも同じようにさせる。
しかる後本日の予定、計画を話し合う。
「結局どうするつもりなんだ?告発するのか?」
「いや……。うん、それも選択支のひとつだが、理想的なものではない。これからは相手の反応を伺って進める。無理を通してひっかかるのもまずいからね」
その気になれば、フラウィアは自らが有する強力な立場を利用することもできる。
皇帝の娘がもつ権威は、そうでない民草をなべて平伏せしめる。その言葉は真実でなくともおなじ効力を持ち、そうであれば速やかな実行を促す。
言い換えれば、すべてを解決しうる最強の切り札だ。
だが、そうはしない。それは彼女の好む方法ではない。そしてまた、そのようなやり方は時に不都合を生む。「卓越した先見性」と理解される可能性もあるが、疑惑の目で見られる可能性もある。彼女は後者の可能性を恐れている。
そして何より――皇帝に察知されることを、彼女は恐れている。解決に時間がかかることではなく、露見してから裁定が下るまでの時間。こちらを早めることこそ、フラウィアの目的であった。
「裁判に持ち込むのは次善の手段だ。だからこの場所で、この午前中に解決する」
「あてはあるのか」
ゼノビアの問いに、フラウィアは得意げに笑った。
「それは自分で作るものだ」
そう答えるだけで、彼女はそれ以上説明を行わなかった。彼女はごく簡単に彼女が目指すべき最善の結果を口にして、後は奴隷の判断に合わせる、と決めた。彼女の演技はあまり上手くない。だからこそ、思うがままに振る舞えば、あとは私がなんとかする、と。
ゼノビアはそれを正当であると考える。主人の奴隷に対する認識は、その点では間違っていない。
それと同時に、彼女の主人が、奴隷が自らを疑ったり、あるいは自らを裏切るという可能性を、一切考慮していないということに気が付いた。
それは彼女が語らなかっただけかもしれないが、恐らくそうではないのだろうと、ゼノビアは考える。
もうひとことほど尋ねようとした瞬間、フラウィアの手は即座に奴隷の口を塞いだ。
やや間をおいて、扉が叩かれる。昨日と同じ奴隷が、昨日と同じように朝食を持ってきたのだ。
ただし、昨日とは違い、その奴隷は部屋を出る間際、平伏して次のように伝えた。
「アントニウス様が一言ご挨拶申し上げたいと。お時間がありましたら、何卒執務室においで下さいますよう」
「ん、無論私もそのように考えていた。アントニウスにもそう伝えておいてくれ。頃合いになったらまた誰か呼びつけるから、そのときにはよろしくお願いしよう」
ゼノビアが鷹揚に応じると、奴隷は眼に見えてほっとしたように頬を緩め、感謝の言葉とともに去っていった。
しばらく朝食をつまんだ後、気配が消えたことを察したフラウィアは、初夏の平原に吹く風のような、爽やかな笑みを浮かべた。
「さあ、賽は投げてしまおうか」