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SCIENTIA FLORENS: IV

 その日の晩餐は昨日のよりも豪勢であった。それはアントニウスの客人に対する好意が強まったことと対応しているのかもしれない。

 フラウィアが要求した秋桜は茹でて生野菜とともに供されたが、彼女はそれを一口齧るとあいまいな笑みを浮かべざるを得なかった。噂に聞いていた食べ物が想像していたほど好ましい味でないのは、彼女には良くあることである。

 秋桜よりもずっと彼女を楽しませたのは、ふんだんに使われたサフランである。きわめて高価なこの香辛料を、アントニウスは惜しげもなく晩餐に用いた。彼が栽培したものだという。


「サフランと言えばキュレネやキリキアだけれども、これもそれらに劣るものではないね」


 フラウィアは匙で掬った米料理の香りを味わいながら論評した。

 

「売ればそれなりに稼げそうだが」

「量的に難しいものがありますね。個人の利用には十分ですが、売り物にするとなると」

 

 フラウィアの下世話な発言に、アントニウスはやや薄い頭髪を掻きながら答える。サフランは生産に広大な面積と人員、そして時間を要求する。それこそ今日の晩餐だけで、貯蔵していたサフランすべてを使い切ってしまったのではあるまいか。

 それまでおおむね沈黙し、主人の為に手を動かしていたゼノビアであったが、ひとしきり仕事が終わると、昨晩主人に叱られたことを思い出した。夜中には「運動」するのだし、ここはたっぷり頂くとしよう、というたくらみで、フラウィアの耳に唇を寄せ、「腹減った」と囁いた。

 にっこりと笑ってフラウィアはアントニウスに許可を願う。彼もまた破顔して、


「君は今日良く働いていたからな。思う存分食べてくれたまえ」


 と気前の良さを見せつけた。

 そう言われてなお躊躇するゼノビアではない。卓上にある料理を片っ端から皿によそい、下品にならない程度にむさぼる。

 その量の多さに、アントニウスはびっくりし、気配で察したフラウィアは微笑んだ。


「すまないね。これはなかなか大食らいなんだ」

「いえいえ、まさに若者の食べっぷり。老いた身にはいささか寂しさを感じますが」

「君だってまだまだ若いじゃあないか。わが父君と同じ年頃だろう。隠居気分では私たちとしては困ってしまう。とはいえ私も似たようなもの、もう少し頂くとしよう」


 アントニウスは丸みのある体を楽しそうに震わせた。

 身分において隔絶しているとはいえ、彼にとって客人とその奴隷は、育ち盛りの娘のようにもみえるのかもしれない。とはいえゼノビアの場合は少し歳が行き過ぎている感があるが……。

 ゼノビアが秋桜を齧り、平気そうな表情でそれを飲み込んだあたりで、フラウィアはアントニウスにどこか面白がるような表情を向けた。


「ふふ、知っているかい。かのヒッパルコスによれば、東方蛮族の『貴族』たちはみな大変な大喰いらしい。首都でごくまれに、吐くために食べて食べるために吐く、という習慣が噂にのぼるだろう。あれはもともと彼らの風習に実在するものなのだ」

「ほう、それは初めて知りましたな」


 そのような風習が帝都に実在しているのかは定かではない。

 が、ある種の常套句のごときものとして、口の端に上るものではある。

 アントニウスにそのような食卓の光景は想像しづらいもので、どうしてそのような噂が成り立つのだろうと不思議に思ったことはあるが、なるほど東方の習慣であるならば納得できる。

 軽微な不快感を顔に浮かべる彼に向き合って、フラウィアもまた憂いをこめつつ眉をひそめた。


「道徳的退廃というやつだ。所詮王の下に従属し、自由ではなく安逸を選んだ連中だ。精神的にやはり柔弱なのだよ。これは文化的なものではない。生得的なものだ。我々が実感しているようにね――」


 アントニウスは頷いた。彼女の発言は荒唐無稽なものではなく、『帝国』の知識人を含めた多くの人々に共有された価値観である。

 だが、それを共有しない者がこの場にただ一人存在していた。彼女は手を不意に止めた。


「――その観点から言えば、多くの犠牲を払うことになった先の東方遠征にも一定の価値があったと言っても良い。なにせそうした連中を少なからず撃滅し、わずかな領土ではあるけれど、そこに文明と平和をもたらすことはできたのだからね。そこに慰めを求めるのは――」

 

 アントニウスが首肯しかけたその時、皿が卓に置かれる音が高く響いた。


「訂正しろ」


 驚いたのはアントニウスだけであったか。いや、彼の目にはフラウィアもまた、奴隷の突然の暴言に虚を突かれているように見えた。


「何を」


 わずかな間をおいて、冷静さを保ちつつ主人が問う。

 奴隷の全身からは灼熱の感情があふれ出ているようにアントニウスには感じられた。

 それをかろうじて押さえつけるようにゼノビアは、


「私たちはそんな風習は持っていないし、そんな退廃は私たちのものではない。お前ら帝国のくそったれ学者どもが大好きな、いつもの大嘘だ」

 

 と、恐るべき無礼を口にした。

 アントニウスは蒼白となり皇女の様子をうかがうが、意外にも彼女は冷静そうだった。いやむしろ、愚昧な子供に言い聞かせる大人がするような、慈愛の困った表情を浮かべて言う。

 

「ああ、ゼノビア。君がそのように言う理由も分からないでもないよ。まるで生まれを冒涜されたように感じたのだろう? だがね、これは事実なんだ。私たちと君たちはそこからして違うのだよ。四方世界を征服すべき使命を帯びた『帝国』と、やがて滅ぶべき『王国』とでは」

 

 指を弄びつつそういうと、ゼノビアは慰めるように微笑んだ。


「だが安心しなさい。君はこうして私の奴隷となることができた。しかるべき教育をうけ、しかるべき道を歩めば、生まれの不利も克服して立派な淑女になれるはずさ。君は自らの幸福を噛みしめたまえ」


 ゼノビアは主人が口を閉じるまで、黙ってその言葉に耳を傾けていた。

 主人が口を閉じてからも、何かを期待するように姿勢を保ち続けた。

 そして主人が慈悲を感じさせる手つきで彼女の肩に触れようとしたそのとき――。


「戯言もいい加減にしろ、恥知らずの野蛮人(・・・)が!」


 絶叫に思わず手を引くフラウィアに向けて、ゼノビアはなおも声を上げる。


「私たちは隷属に甘んじる種族ではないし、『帝国』の戦争にそのような大義などなかった! お前たちは私たちからすべてを奪い去って、たくさんの命を踏みにじって、何もかもを真っ平にして、それを『平和』などと呼んでいるだけじゃないか! お前らの欺瞞に付き合わされてたまるか、私たちは、父上も母上も、私たちが信じる気高さを、価値を、意味をもって生きてきたんだ、それをお前に否定される謂れなど……!」


 激高する奴隷の声は美しく高く響き、それだけいっそうそこに込められた憎悪を聞く者に伝えた。

 一方の主人は、わずかに体を震わせた後、表情から感情を喪失させる。

 ――皇女はここでこの奴隷を処分するおつもりだ。アントニウスはそのように判断した。

 それは彼にとっても、あまり望ましい展開ではない。

 

「『私は命じる、汝自らの手を以て――』」

「フラウィア様、その、僭越ではございますが」


 無礼を承知でアントニウスは割り込んだ。フラウィアは『宣言』を中止し、人の持つべきでない表情をアントニウスに向けた。

 アントニウスは背が汗まみれになっているのを感じながらも、頭を深く下げて説得を行った。


「殿下の先のご発言はまことに正当ではありますし、それを否定しようなどとは全く思いませんが、この奴隷の気持ちも理解できぬわけではありませぬ。先の戦争で両親を亡くしたのであればなおさらです……」


 フラウィアは黙したまま、アントニウスの言葉を促した。

 彼はいくつかの理由を並べる。いまだゼノビアが加害行為に及んでいないこと、仕事に対する熱心さ、外国出身奴隷の増加とその対応にかんする幾つかの事柄、皇族による怒りに任せた行為の危険性。

 とりわけ彼が、奴隷の発言に覚えた「野蛮な高貴」という表現に、皇女は興味深そうに眉を挙げた。それを確認してアントニウスは、さらに深々と頭を垂れて陳情する。


「ここはひとつ、御寛容を示されてはいかがでしょうか。若い奴隷でもありますし……」


 アントニウスが言い終えてからもしばらくの間、フラウィアは沈黙を保ち続けた。瞳が見えないがゆえにいっそう彼は彼女の心の動き方を推察しかねた。

 アントニウスがさらに言葉を続けようと意を決しかけたころ、ようやくフラウィアは深くゆっくりと息を吐いて、アントニウスに微笑みを浮かべた。


「……すまない、アントニウス。私の奴隷が迷惑をかけた。私も少し、品の無いことを口にしたように思う。心配するな、君の美しい邸宅を奴隷の死体で穢したりはしないさ。後で教育は施すがね」

 

 しかるのち奴隷に顔を向けたときには、その面持ちから好意的なものは消えうせていた。

 怒りでもなく、失望でもなく、一匹の動物に対して向ける感情を、果たしていかに名状するべきだろうか。


「ゼノビア、アントニウスの好意と慈悲に感謝しろ。彼の嘆願なくしては、君の生命はここで終わっていたぞ」


 ゼノビアはやや沈黙を挟んだのち、弱弱しい態度で二人に平伏した。


「……はい。フラウィア様、アントニウス様。お二人の慈悲と憐憫をこの上なく有り難く思います……」

「よろしい。二度とあのような妄言を口にするなよ。下がれ」


 そう告げてゼノビアから顔を背け、アントニウスに向き合った時には、フラウィアは一転朗らかな表情を浮かべていた。


「アントニウス、すまないが奴隷を一人貸してくれないかな」

「喜んで。おい、フラミニア。急いでこっちに来なさい」


 歓談が再開される声を背にゼノビアは広間を後にした。

 奴隷たちはみな一様に、不快と嫌悪の視線を彼女に注ぐ。

 奴隷が恐れるのは自分たちが危険な性質を有していると主人に思われることである。それゆえそうした「反抗的な」奴隷は、他のだれよりも奴隷からこそ厭われるのが常である。

 そのような目に、できるだけ沈んでいるように振る舞いながら、ゼノビアは客室への通路をゆっくりと進んだ。


× × ×


 客室で待機してどれほどの時間が経過してただろうか。その間ゼノビアは智慧の輪を弄って暇をつぶしていたが、一つとして解けたものはなかった。

 やがて扉が叩かれることもなく開かれた。それは主人がもどってきたことを意味している。

 短い別れののちの再会に、ゼノビアは幾分気まずい気持ちで口を開きかけたが、フラウィアは即座に指を唇にあてた。

 彼女が指を話した瞬間、ゼノビアは若干の怒りを込めて言った。


「お前さあ。さっきのは言い過ぎなんじゃないの」

「あれは私の見解ではない。ごくごく一般的な考えなんだよ」


 そう、演技であった。目的とするところは、二人が不和の状態にあるということを示すこと。奴隷は主人に不満があり、主人は奴隷に怒りを覚えている。

 一つには、もはやそうした状況で協同することなど不可能だと思わせること。要するに今夜のことを悟らせないため。

 そしてもう一つの目的だが、それは今だフラウィアの口を通じて語られていない。


「君だってあれは言い過ぎさ。あれじゃあアントニウスだって相当躊躇したはずだよ。あれは私個人への批判だけではなく政策批判も含まれていた」

「そりゃそうだ。お前だっていつも皇帝の悪口言ってるだろう」

「それはアントニウスのあずかり知らぬ事だ。私の立場からもあれは相当危険だった。本気で殺してしまおうか悩んだくらいだ。君、本当にアントニウスに感謝したほうが良いよ」

「はいはい……」


 アントニウスはおろか帝都でもわずかな者しか知らぬことであるが――当代の皇帝に対してフラウィアほど批判的な人物は、片手で数えるほどしかいない。それは客観的な評価というより、むしろ個人的敵愾心によるものだった。

 この事実を知る「わずかな者」にゼノビアは含まれている。それゆえ彼女は、主人が東方戦役に関して本気で好意的に語るなど決してありえぬことだと承知していた。だからこそ、ゼノビアも本気で怒っていたわけではなかった。

 そのはずである。ゼノビアはそう自覚している。

 にも拘らずフラウィアは、どこか危ういものを、その鋭い嗅覚で敏感に感じ取っていた。


「……あと一応言っておくがね」


 ひとしきりの愚痴を怒ることなく聞き流した後、フラウィアは念を入れるようなやや強い口調で言った。


「君はもう決して東方に戻ることはできない。いつか解放する、それは確約する。でも、君はもう帝国人としてしか生きていけないんだ。君が生きるべき場所はもう、あそこにはない。それは変えられないのだ。ここで生きていけばきっと幸せに生きていける。ずっと、私の下に居れば良い」


 ゼノビアはフラウィアの言葉に切迫したものを感じ、動揺した。

 このような物言いはこれまで聞いたことはない。


「なんだよ、突然……」

「いや、君のさっきの発言、やけに熱がこもっていたからね。まあその、少し心配になったんだ」


 それきりフラウィアはこの件を話題にすることは無かった。

 二人は今夜の計画をより詳細に詰めることにした。むろん、誰の耳にも入らぬよう、小声で密やかに。

 それと同時に、フラウィアの作成した鋳型に特製の石膏を流し込み、鍵を作成する。

 そうしているうちに火を消すべき時間になった。これから一刻ほど仮眠をとる予定である。

 寝床に身体を横たえながら、ゼノビアは主人のことばを反芻する。

 私もやがて自由を得ることになる。その後私はどう生きるのか。帝国人として?

 ――父上と母上を、あのような残虐な仕方で殺めた、この連中と同じように生きるのか?

 私はあのことを許すことはできない。

 絶対に、絶対に、絶対に。

 そのような怨念を抱きながら帝国人として生きることができるのだろうか。

 私は何者として生き続ければ良いのだろうか。

 それは彼女がずっと目を背けていた問題であり、すぐには答えを見出しえない難問であった。


× × ×


 月が煌々と輝き、星々が夜空に人々の運命を刻む。天体観測には素晴らしい天候は、隠密行動には素晴らしく不適であると言わざるを得ないが、それでも今更計画を変えるわけにもいかない。

 

「おい、起きろ」


 ゼノビアがごく小さな声でフラウィアの体を揺らすと、彼女は毎朝のごとくむずがった。


「……もうちょっとくらい寝かせてくれ。まだ日も出てないだろう」

「お前には見えんだろ」

「それもそうだ」


 そう答えるとフラウィアは即座に身体を起こした。まったく緊張感のない奴だ、と思いつつも、振り返ってみれば自分もそうであることに気付く。

 必要最低限の道具を手に、二人は静かに客間の扉を開けた。この部屋にも窓は付いているが、とても人の通れる大きさではない。あらかじめ探しておいた経路から屋敷を出る予定だ。

 かかる状況では、フラウィアの耳(と鼻)は極めて強力な武器となる。指文字での指示を受けながら、ゼノビアはフラウィアを先導した。

 脱出口は厨房の窓である。煙が発生しやすいこの部屋では、煙突だけでなく窓も大きく取られている。先にゼノビアが体を外に出し、そこからフラウィアを引き上げる。周りに人がいないことを確認して、二人は柔らかな草々を音も無く踏みつけた。

 さて花屋敷へと移動である――というところで、フラウィアの体は重力に逆らって宙を舞った。軽い衝撃ののち、彼女は人の体温を腹側に感じ、慌ててその肌を撫でさすった。

 馴染みのある滑らかな感触に胸をなでおろしつつ、彼女は自身の置かれた体勢を自覚し、自分を背負っている奴隷の頬を探し当ててつねった。


「馬鹿にしているのか、夜中であれば君と大して変わらんぞ」

「違う、速さの問題だ。それに『命令権』を使う可能性だって零じゃないだろう」

「……ぐ、それもそうだな」


 夜間であれば認識上の優位はフラウィアにある。が、運動上のそれは変わらずゼノビアに存するのだ。彼女は不満げにではあるが奴隷の言い分を認めた。

 嫌がったのは、単に恥ずかしいからである。

 小柄な女性と言えど人ひとりの体重を、ゼノビアの方と脚は物ともしなかった。人目を警戒するのは当然のこと、舗装された道から離れた起伏の大きい経路を通り、足音ひとつたてぬというのに、その移動速度は常人のそれをはるかに上回る。十分もかからずに二人は花屋敷に到達した。

 ゼノビアはフラウィアを下ろして懐から鍵を取り出した。

 複製は二本。その一本を、錠前に慎重に差し込み、ゆっくりと回す。


「いけるかな」

「ちょっと待ってろよ……」


 石膏でできた鍵も強度については確実ではない。無理に回して折れてしまえば面倒である。そうなれば二本目に賭けるか、法呪術を行使するしかない。

 とはいえ、そうした心配は心配のままで終わった。合鍵は正確に内部構造に一致していたようで、鍵と内筒はゼノビアの指に従って滑らかに回転した。

 

「開いた。入るぞ」

「よくやった。多少なら灯りを使ってもいいよ」


 天井がふさがっているため、外を照らしていた月光は花屋敷には入ってこない。内部は完全な暗闇である。無論内部に光源は無いので、ゼノビアは念のため持ってきていた形態灯を取り出した。金属製の網でできた手のひら大の箱の中には数匹の「光る虫」が入っている。適切に養育すれば中々の光度を提供してくれるため、それなりに便利な道具だ。ひとつ銀貨10枚。ゼノビアの私物である。

 とはいえこのサイズでは、せいぜい手元一ペース程度しか照らせない。ゼノビアは暗闇の中、おっかなびっくり歩を進める。対照的にフラウィアの足取りによどみはない。


「普段視力に頼っているからだ」


 からかうようにフラウィアは言う。確かにこの環境ではフラウィアの感覚能力は目を見張るものがある。

 

「さて、どっから行くか」

「うーん、そうだな……。や、どっちにしろ一体だけではないだろうし、手近なとこから行こうか。表にあったのは後でね」

「……すまんが、覚えてねえしよくわからん」


 ゼノビアの記憶力はそれほどでもないうえ、この暗闇では記憶と視界をすり合わせることも難しい。

 フラウィアは呆れて怒るだろうな、と思っていたゼノビアだったが、その予想を裏切って聞こえてきたのは、どこか嬉しそうなため息だった。


「仕方ないなあ、私が案内してあげよう」


 ゼノビアの手を取ったフラウィアの言葉は、もはや隠し切れない優越感を帯びていた。

 が、すぐさま彼女は何かに気付いたように停止する。


「……と言ってもとりあえずはここだ。ここ」

「ここか」

「まあそっちでも良い。その右隣りも」

 

 フラウィアの指示を了解したゼノビアは、左手に持つ革袋から小さな円匙を取り出す。

 一応根を傷つけないよう、丁寧に掘り進める。花はフラウィアが支えた。

 やがて円匙は高い音を立て、ゼノビアの心をざわつかせたが、深さからして明らかに底であった。落胆と、それと同じだけの安堵。それに浸る間も無くフラウィアは命じる。

 

「では次は隣だね」

 

 同じように繰り返すが、結果もまた同様であった。

 二人はそろって息を深く吐く。ゼノビアは丁寧に花を埋めなおした。


「まだ夜は長い。気長に行こうか」


 そう言ってフラウィアはゼノビアの手を取る。やはり、どこか嬉しそうな声音であった。

 ゼノビアとしてはあまり楽しいものではない。体を動かしているのは彼女だ。


「そうはいってもこれだけ繰り返してたら陽が暮れ、いや、明けるぜ」

「君が手を三倍の早さで動かせば良い」

「花をばらばらにしても良いなら」


 それは駄目だ、とフラウィアは首を横に振った。花が勿体無いというのもあるが、そもそも直ちに侵入が露見する。それは避けるべきであった。

 腕を組み少し考えたフラウィアは、進行方向を直角に変え、部屋の奥に向かった。つんのめりながらもゼノビアは転倒することなく後を追う。

 フラウィアが立ち止まったそのすぐ奥に生えていたのは、ゼノビアと同じくらいの高さの木であった。携帯灯を近づけて見てみれば、指を広げたくらいの大きさの赤い花が咲いている。


「これを掘ればいいのか。結構手間だな」


 フラウィアは黙して首肯した。その態度に違和感を覚えたゼノビアだったが、主人の命令は絶対である。

 しゃがんで円匙を立て、土を浅く掬ったあたりで、フラウィアは小さく唇を開いた。


「カンベキという植物は、」

「蘊蓄は後にしてくれよ」

 

 いつもの病気だと判断したゼノビアはからかうように言ったが、止められるかは微妙なところである。

 案の定フラウィアは即座に続けた。


「このような花を決して咲かせない」


 主人の静かな声にゼノビアの手は止まった。灯りを花に近づけると、ほっそりとしたフラウィアの指が、花びらを繊細に撫でていた。


「正確に言えば、こんな大きな花は咲かせない。金貨一枚くらいの小さな花で、色も薄くて目立たない。そのうえすぐに枯れてしまう。香りは甘く好ましいのだけれどね」


 フラウィアはいったん言葉をきり、身振りで作業を促した。ゼノビアは指示に従い土を掘るのに専念する。


「花はすり潰して液を出せば眼薬になる。葡萄酒、蜂蜜と混ぜて胃痛や膀胱の病気にも用いられる。油と混合したものは炎症だけでなく瘰癧にも効果を及ぼす。その上、強力であるにもかかわらず副作用は弱い。これらのことから珍重されているのだが、採取できる数は少ない。花が小さいからね。木自体も希少だ」


「だが、この木はこんなにも大きく花を咲かせている。こんなものは聞いたことが無い。記録されている最大の大きさを遥かに超えているし、咲かせている数もまた然り、だ。これが品種改良なり土壌や生育の工夫、なんであれ人の技術の為すところであるならば、それは疑いなくひとつの『世界の驚異』……人間が自然を乗り越え、征服した証となるはずなのだ。だからこそ、早い段階で確かめておきたい」

 

 彼女の語りはゼノビアの想定していたものとは異なっていた。だが――あるいはそれゆえに――その言わんとすることは理解できたような気がした。要するに、これがおぞましい魔術の所産であることは、彼女を失望させるに足るということであり、だからこそ逆に、期待を先延ばしにすることを避けたかったのだろう――ゼノビアはそう、好意的に解釈した。

 そして彼女もまた、そうであれば只の徒労になると知りつつも、この下には何も埋まっていないようにと願う。

 だが、その想いを裏切るように、ゼノビアのふるう円匙の先は、固いものに当たったような高い音を立てた。

 先に試した二つの花壇とは明らかに違う感触。まだ底には十分な深さが残っている。

 ゼノビアは冷静さを失うことなく、丁寧にその塊の周辺を削った。それは丸みを帯びており、頭上に咲く花よりも大きく、より深く探ってみれば複雑な形態をしていた。明らかに石ではない。


「……なるほど」


 音、そして沈黙から結果を察したのだろう、フラウィアは納得したように呟いた。その声から感情を聞き取ることができなかったゼノビアは、半ば反射的に、灯りを主人に向けてしまった。

 その時彼女は、ある一つの事柄を思い出した――彼女の主人がその好奇心の奴隷であるということを。

 ゼノビアが欲するところのものが、皇女の内面を支配することなど、決してありえないということを。

 そこに浮かんでいる表情は彼女が想定していたものと正確に一致している。


「素晴らしい」


 無自覚に動かしたであろう唇は、ゼノビアの眼にはそう語っているようにしか見えなかった。


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