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NIHILVM PARS I

 目の前に一脚の椅子がある。

 私の両親だと彼らは言う。

 不思議なことを言われた気がする。目がひどく霞んでいる。ぼんやりとした視界を少しだけすぼめてみる。

 かたちだけを見るかぎり、それは典型的なひじ掛け椅子。

 商品としては安物以下で、私の屋敷じゃこんなもの、いっとう身分の低い召使にだって与えていない。

 革張りの台座の中央には、雑然とした縫い跡が残っていた。そこを挟んで、皮の色は二色に分かれている。私のそれより濃い褐色と、よくよく見慣れた薄い色。

 つまりそこが父と母との分かれ目であり、同時につなぎ目なのだろうと私は気が付いた。

 どこからともなく笑い声が聞こえる。理由も無いのに喉が震える。いいや、何もかもはっきりしている。この馬鹿笑いは、私のものだ。だっておかしいじゃないか、こんなの。笑うほかないじゃないか。おかしなことがあったら笑う、これほど自然なことは無いだろう。

 私の様子に彼らは困惑したようだったけれど、ひょいと顔を覗き込むや、私と同じように笑った。おうおう、お嬢ちゃん。可愛らしいお顔が涙で汚れていらっしゃる。

 涙。涙だって。私は泣いてない。泣けない。泣けるわけがない。私のこころはまだ()()にたどり着いてない。()()はとても危ないところで、そこにあるものを受け入れてしまった瞬間に、私は木っ端みじんに砕けてしまうだろう。

 これは冗談だ。冗談だろう。さすがにそんなわけがないでしょう。馬鹿げている。阿呆らしい。いい加減にして下さい。

 否応なしに視界に入る、椅子にしては不合理な部分。それが何であるか理解したくない。それは手ではないし足ではないし耳ではないし鼻ではない。

 歯がかちかちと音を立てて喧しいのも今は救いで、その雑音に意識を移してしまえば、目の前にある何かじゃなくて、私自身のことだけを想うことができそうだった。

 その救いさえも彼らは奪い取る。

 「えーと、わかるよな、俺たちの言葉。あれさ、おまえの父ちゃんと母ちゃんで作ったんだけどさ、なかなか上手くできてるだろう。職人が仲間にいてさ、ま、皮ぁ剥ぐのは俺たちも手伝ったんだけども」

 彼らは笑っていた。私よりずっと楽しそうに笑っている。

 これは「お前ら」のやり方だと彼らは言う。

 俺たちの歴史家たちが証言している、などと真面目腐った顔で言う。捕虜の皮を剥いで辱める、お前ら東方人の残虐性を端的に示す逸話だと。

 これは報復なのだと彼らは言う。王を戴く低劣な種族、卑しき東方の蛮人、俺たちの戦友を殺めた夷狄には正当な報いなのだと。

 私には、理解できない。言葉の意味は分かっても、言葉が生み出す意義が分からない。

 「お前ら」とは誰だ?

 こんなことが出来る人間が貴様ら以外に居るとでもいうのか?

 もしかして――「お前ら」とは私たちのことなのか? 私たちがこんなことを喜んですると、そう言っているのか? そんな下らない、耳を塞いで然るべき戯言を、まさか貴様らは本気で信じているのか? 百歩譲ってそれが事実だったとして――かかる「蛮行」を繰り返すことが、お前たちの正義に適っていると、なぜそのようなことが言えるのだ?

 どうして? どうしてそんな馬鹿げたことを?


 平凡ではなかった。貴族の娘、権力者の子。そういう意味では特別だった。

 それを罪深く思ったこともある。働かずして食うものたち。特権者。驕ることなかれと自分に言い聞かせても、どうしてもそうは振る舞えないことはあった。

 悪いこともそれなりにしてきた。両親の言いつけを守らないことはしょっちゅうだった。

 友達と喧嘩をして泣いたり泣かせたり、またそのせいで友達の親を脅かしてしまったり、はたまたそのせいで自分の両親を慌てさせてしまうなどということもあった。

 もしかしたらどこかで誰かを傷つけてしまったこともあるかもしれない。知らないうちに、自分のせいで誰かが涙を流したのかもしれない。

 きっとあるだろう。意識したことはほんとうに少ないけれど、自分の生が何かの犠牲の上に成り立つことは知っている。その報いを返すことが、私の生の義務であることも。

 でも、こんな罰しかありえないほど、罪深いことはしていないはずだ。

 痛いのも、気持ち悪いのも、苦しいのも、頑張って耐えてきた。自分に良くしてくれた召使たちが、親しくしてくれた友達が、その両親が、あるいはその友達の友達とその両親が、あるいは顔くらいしか知らなかった誰かが命と尊厳を奪われた時、何もできなかった私に今できることなど、それくらいしか無かったから。

 でも、もう駄目だ。もう、嫌だ。

 悲しみにすらたどり着けずに、私の唇はいびつに歪む。

世界には底があったということに、私はようやく気が付いた。そしてその底が、もう、抜けてしまったことにも。

 ()()()()()

 いや、ただ一つ、それでも一個だけ、残っている。そしてそれに気が付いて、私はまた哄笑した。

「高貴であれ」と父は言った。「寛容であれ」と母は教えた。

 ごめんなさい、お父さま、お母さま。

 私は惨めで臆病で、貧相で矮小な魂しか持ち合わせていない、あなたたちの娘には相応しからざる愚かものでした。きっと私は、生まれてくるべきではなかったし、生きるべきではなかったのです。ごめんなさい。

 でも、許してくれとは言いません。だって、私は今、あなたたちへの仕打ちに怒り狂うべきなのに、全てを賭けて戦うべきなのに、今首に突きつけられている刃に媚びてしまっているからです。許される道理はないのです。

 あなたたちのようになりたくないと、そう願ってしまう私を、いつかそちらで罰してください。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい。

 

 やがて彼らはそれに座れと命じ、私は文句の一つも言うことなく従った。

 人であることをあきらめて。

 なにもないということを受け入れて。


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