第五話 異貌
ナイフで厚切りのステーキを一直線に切り、景竜はフォークでそれを豪快に口へと運ぶ。口元をナプキンで拭き、続いて赤ワインを口元へ運んだ。芳しい匂いを鼻から取り入れ、そのまま口に運ぶ。テイスティングッ! 脳に刺さる葡萄の芳醇な香りに景竜は満足げに頬を緩めた。
そんな景竜を森羅は真っ直ぐに、ただ、見つめる。
彼女の透き通るような瞳には魔力が込められているように景竜は感じる。その目をジッと見つめていると、まるで彼女に吸い込まれてしまいそうだ。自分が、自分でなくなってしまいそうな……そんな、魅力的な虹彩だった。
心臓が高鳴るのを感じる。上手く言葉を出すこともかなわない。
しかし、そんなことを意に関すこともなく、ただひたすらに森羅は景竜を見つめるのだった。
そんな時、不意に、鼻孔を突き刺すかのような嫌な臭い――。
生理的嫌悪を催すような『嗅ぎ慣れた臭い』を嗅ぎ分けたその瞬間、景竜の目が瞬間的に鋭くなった。
「……血の臭い……?」
「え……?」
小気味良い音と共にエレベーターの扉が開いた。それは景竜の席から見える形であった。
そこから降りてきた五人のフードの集団。彼らが持っているそれを目にして、景竜は即座に身を震わせながら立ち上がった。
それと同時に、何か球体のようなものが放物線を描く。
それはふわり空を舞い、滞空し、ごろんと森羅と景竜の居たテーブルの上を跳ね、スープの中に落ちた。
ドロリ、そこから赤ワインよりも濃厚な赤がスープの中に溶けていく。
余程、非業の死を遂げたのだろうか? 苦悶の表情に染まり、舌をだらりと垂らした男の生首がそこには在った。
その虚ろな目を見た瞬間、森羅が悲鳴にすらなっていない悲鳴を上げた。
「なっ……!?」
あまりに現実離れした光景を前に景竜が何も動くことができずに居ると、それを放り投げた集団が森羅と景竜の元へと歩き出した。
「お客様……!」
まだ状況を把握していないウエイトレスの一人が男達の集団に駆け寄ったその瞬間、巨躯な男の右腕がウエイトレスの身体を掴んだ。
「え……?」
そのまま、男はウエイトレスの身体をゴムまりのように一切の制御無く力一杯放り投げる。人が文字通り空を飛ぶ。ガラスが派手に割れる音が響く。彼女の身体は、二十五階の窓の外へと放り出される。
彼女の口から放たれた悲痛な悲鳴は、一瞬の内に外の世界に消え失せた……。
外から、高所ならではの寒気が一気に室内に押し寄せる。
その光景を目の当たりにしたスターロードの客達は喚き声を撒き散らしながら、一気に仰け反る。逃げ惑うようにエレベーターへと殺到した客達の身体を、一人の男の腕が切り裂いた。
そう。腕がまるでゴムのように伸び、その先端が鋭利な刃となって横一閃、客達の身体を上下真っ二つに断ち切ったのだ。まるでステーキを切り落とした景竜のフォークのように……。
客達の上半身が先に地面に散乱し、それから、上を失くした下半身が膝を地につけた。血潮とその悪臭が一気に室内へと広がる。
景竜は森羅を庇うような形で男達の前へと立ち塞がった。
「えっ、オェッ、オァッ……」
突然、森羅が口元を押さえた。目の前でおこなわれた狂宴と常識離れした存在を前に精神的な強いショックを受けたのだろう。
景竜は考えるのを即座にやめた。
目の前の奴らは、敵だ。自らの使命は、森羅を守ること。
獣の如き臨戦態勢――。
人間を一撃にして真っ二つにした鎌のような腕が、景竜へと一直線に伸びた。その動きを見て、景竜は狂ったかのように笑った。
「ハーッハァッッ!」
高揚したかのような声を上げながら、半身をずらしただけでその鎌を避ける。ギリギリの命のやり取り――一歩間違えれば死ぬと言う恐怖――それが、血を騒がせる……ッ!
なおも伸び続ける鎌の腕を掴み、それを叩き折るように、膝を全力でその面へと打ち付けたッ!
鉄球を真正面から受けたかのように、硬い刃が粉々に砕け散る轟音。景竜の巨躯な身体がその蹴りと共に一気に宙に翔び立つ。短距離走者のような勢いで、景竜はその腕ごと窓ガラスの方へと砲丸投げの如く放り投げた。
「っ!?」
伸ばした鎌の腕に強引に引っ張られるような形で、男の身体がふわり宙へと舞う。窓ガラスが砕け散る音が場を貫き、男の身体は闇夜へと溶けるように落ちていった。
それと同時に、巨躯な男が景竜の方へ向かって突進をした。生首を掴んでいた男だ。景竜に対して組み付くかのように両の手を真っ直ぐに伸ばして前傾姿勢で向かってくる。そんな男の今にも捉えんとする腕を受け流し、景竜は、鬼の頭蓋のように硬い自らの頭部を、その男を顔面に向かって叩きつけた……ッ!
「グォッ……ッ!」
巨躯な男が痛みに耐えかね、顔を押さえて怯む。膝をついた男のその膝に乗り、景竜は鋼のような脛を男の側頭部にぶち当てた。まるでダンプカーが首だけを狙って撥ねたかのような一点集中の脛は男の首を人間が曲げてはいけない方向に曲げ、口元からひゅー、ひゅーと空気を漏らしながらそのまま男はその場に崩れ落ちた。
油断を一切していない景竜の眼光が残りの男達へと走った。
不意に――……。
パチ、パチ、パチ。
拍手の音が、鳴り響く。
残った二人の前に立つフードの男が、景竜に対して賛辞の音を奏でていた。
「何のつもりだ……!」
業を煮やした景竜が男にそう問いかけた。男はスッと手を叩くのをやめ、フードを被ったまま若い男のようなテノールの効いた声を出した。
「素晴らしいね。彼ら相手にそこまで戦えるとは……まさに、個の極地。見た所、まだかなり若いようだし、筋肉の質も良い。それは持って生まれた天賦の才能だね」
「何者だ、貴様はッ! 答えろ、下郎ッ!!」
景竜の問いに対して、男はフードを脱いだ。
若き美青年がそこに居た。平均的ではあるが、景竜と比べればかなり細い身体つきをしたおそらく二十代半ばほどの男。その笑みは、まるで飛行機のファーストクラスでキャビンアテンダントが客に対して見せるような最上級の笑みだった。
パーマがかった茶髪は、男がここに来る前にワックスで流れを作ってきたのだろうか。その顔だけを見れば、まるで町中に居る顔立ちの良い一市民のようだ。
「刈闇正義です。正義と書いてまさよしと読みます。以後、貴方が死ぬまでの短い間、お見知りおきを!」
まるで、何事もなかったかのように、青年は笑う。
血溜まりの中で咲くひまわりのような素晴らしき笑顔――。思わず毒気を抜かれてしまいそうなその表情を前に、景竜は敵意を剥き出しにした。
「何をしに、ここへ来たッ!」
その問いに彼は困ったように微笑みを浮かべ、テーブルの横で苦しそうにうずくまっている森羅を指差した。
「何をしに来たって聞かれてもね。彼女を回収しに来たんですよ」
その一言は、景竜の額に青筋を走らせるのに十分だった。
「回収、だと……?」
「……えぇ、必要ですから」
刈闇はそう言って僅かに物悲しげに肩を竦めてみせた。景竜の背後から、森羅が喚き声のように問いかける。
「貴方は、誰ですか……!? 何で、こんなことを……!?」
その一言を聞き、刈闇は悲しそうな顔をした。
「そっか、記憶無いんだよね森羅。僕達の目的も忘れちゃったんだよね」
そう言い放つと男の目から突如、涙が溢れ出した。
光り輝くそれは一気に男の頬を伝う。
景竜と森羅は、彼の目から零れ出る涙に困惑を隠すことができない。
「……良いよ、良いさ。それはこれからゆっくり思い出していけば良いんだ。森羅は僕が守る。必ず守るから、安心して欲しい」
刈闇の物言いに対して、景竜が激高の声を荒げた。
「何を訳の分からぬことを……! ふざけた輩め!」
景竜は胸を張りながら堂々と刈闇へと向かっていく。刈闇の背後に居た二人の男が彼を庇うように前へ出ようとするのを、刈闇は手で制した。
「良い、僕がやろう」
「僕がやろう? ハッハッハ! この雅真景竜も舐められた物だな! やれるものならやってみよ! 往くぞ!」
樹木を一撃でへし折ることができるほどの豪腕が、刈闇を捉えた。
刹那の出来事だった。
確実に、男を捉えたはずの右腕は、彼には当たらなかった。
いや、正確には違う。
彼を捉えたはずの景竜の右腕が、そこには、存在していなかった。
「……なっ」
景竜はそう呟く。右腕の肘から先――それは、今まで当たり前のように存在していたそれは、そこには無く、まるで手品のように消え失せていて、そして。
その右腕を、刈闇が持っていた。
「危ないなぁ、こんな、凶器みたいな拳は持ってたらダメだよ」
そう言うが早いか否か、景竜の肘の先から、血しぶきが上がった。
「っ……!」
「……嫌」
森羅の悲痛な声が、ポツリ。
「嫌ァ――――ッ!!」
咆哮が、放たれた。
瞬間、彼女は、身を大きく仰け反らせた。
それはまるで、『心臓』の挙動に、身を揺さぶられるように。
鼓動に、全てを任せるように。
彼女の無いはずの心臓が、鼓動を奏でているかのように。
身を何度も、揺さぶり、彼女は言葉を零にして。
それを契機に、森羅の肉体が徐々に変貌していく。
巨大な爪が彼女の手先から生え始め、彼女の肉体が巨大化していく。それと同時に鋼鉄のような鱗が彼女の柔肌を包みだし、顔も異質な物へ変わっていく。
そう、それは、まるで神話に出てくる竜のように――。
「綺麗だよ、森羅」
刈闇の声が一つ、響き渡った。