第二話 竜の恋と、非日常の入り口
男同士の熱い友情が確かめられた書の後は、大学の講義の時間である。幾ら恋心にうつつを抜かそうと、彼らがそれを疎かにすることは決してない。なぜなら、彼らは文武両道を志している男だからだ。
常に何事にも全身全霊を尽くすこと。自分より知恵のある者に尊敬の念を抱くこと。自分の至らなさを自覚すること。それが、彼らにとっての礼節である。
よって、彼らは授業においても一切の手を抜かない。
巨躯な男二人が最前列に居座り、飢えた獣のような眼光で、教授の話を物凄く真剣に聞くと言う著しく圧迫感のある授業が始まる。疑問等があれば丸太のような腕を直立に掲げ、自分の考えと共に、なぜそうではないのかと言う点を論理的に問いかける。
とりわけ雨竜は若干近視の為、黒板が見えづらく、黒板を見ようとすると授業中常に教授を睨みつけるような目になる。それは、捕食者に睨まれる根源的な恐怖を思い出させることだろう。
なぜ、自分が巨漢な男二人組に敵視されているのか――教授達がそう疑問に思うのも無理からぬことだ。教授達が次々に大学を辞めていった理由を雨竜と景竜は知らない。ただ、二人は真剣に授業を聞き、知識を吸収しようとしていただけなのだ。
異常な緊張感の講義が終わり、二人は大学近くのハイカラな喫茶店へとやってきていた。雨竜はストレートの紅茶を、景竜はブラックのコーヒーを勢い良く飲み干し、二人同時に両の眼をカッと開く。
景竜は野太い腕で口元を拭い、満足げに心情を言葉に出した。
「くぁあっ! ……この一杯が、堪らんッ! 実感! 生! 俺は今まさに生きているッ!」
「まさしく」
二人はそんなことを言い合いながら一呼吸つく。そんな言葉を上げておきながら、景竜は憂いげに自らの顔を片手で覆った。
「ふぅ……」
「どうした、貴様らしからぬ溜息をついて。恋煩いか?」
「ふん。恋煩い、か。はっはっは、この景竜が恋煩い、か」
景竜はひとしきり笑い飛ばした後、額を机の上にゴンッと重い音を立てながら置いた。
「そうだ、笑ってくれ雨竜。この景竜は確かに恋煩いをしているようだ」
「ほう」
「授業中にも関わらず、なぜか森羅殿の笑顔が脳裏にちらついた。身が焦がれてしまいそうだ。分からぬ。こんな感情は生まれて初めての経験だ。……俺はいつから、ろくに喋ったこともない女一人にこんな頭を悩ませるような、軟弱な男になってしまったのだ」
自分自身の感情の変化に驚き戸惑っている景竜は、自らの心に確かに走る波紋に落胆を隠せない。
「俺はそうは思わんぞ、景竜よ」
意外にも、雨竜はそんな景竜に対して思いやりのような言葉を投げかける。
「明鏡止水。静なる心とはあらゆる清濁を併せ呑み、それでいて穏やかな状態だ。自分の身に降り注ぐ感情に対処するには、自身に湧いてくる感情を知らなければならぬ。それが恋煩いとして、身が焦がれるほどに人を好きになると言う感情は、何にも替え難い経験だろう」
「顔に似合わず良いことを言うな、雨竜よ」
サラリと失礼なことを言ってのける景竜に対し、雨竜はフフッと笑う。
「貴様に言われたくないわ。それはさておき、柄にも無く悩んでいる貴様は調子が狂う。往くぞ、景竜! 作戦ならば授けてやる! 男ならば女々しく悩む前に行動せよ! まずは、彼女と逢う約束を取り付る!」
雨竜はその言葉を契機に、雨竜は森羅から授かった電話番号の書かれている紙を机の上に叩きつけた。周囲の客の視線が一斉に雨竜と景竜へ向く。景竜がゴクリと喉を鳴らす中、雨竜は携帯電話を取り出し、紙に書かれてある番号を押した。
そして押されるプッシュ通知。
――静寂が澄み渡る店内。コール音のみが、鳴り響く。
二回、三回……そして、電話に彼女は、出た。
「はい、森羅です」
「どうも、我道です」
◆
「ちょっと待ってくれ! まだ、その、なんだ、心の準備がっ!」
景竜が慌てたようにそう言う。雨竜は、一時間後に森羅と食事の約束を取り付けたのだった。
「ふんっ。心の準備、などと言う者に限っていつまで立っても踏み切れぬ物よ。腹を括れ、景竜よ!」
「それはそうかもしれんが、……せめて、そうだ! 服くらいマトモな物に変えさせてくれ!」
「ほう? 貴様の言うマトモな服とは、何だ?」
雨竜の問いかけに、景竜は少し思案するように顎元へと手をやった。
「そうだな……。黒の洒落たブランドスーツに、サングラス。髪はオールバックだ」
「完全にヤクザのそれじゃないか」
雨竜は一つ溜息を付き、腕を組んでみせた。そして、高らかに声を張り上げた。
「良いか、そんな着飾る必要は無い! お前は、俺がこの世で唯一認めた男! ありのままの自然体で在れ!」
雨竜の言葉に、景竜は目を瞬かせた。
「自然体、なるほど! そうか……。確かに、俺は俺を見失っていたかもしれぬ! 目から鱗の気持ちだ!」
景竜は雨竜の言葉に素直に感嘆する。そんな景竜に対して、雨竜は続ける。
「そうだ、自然体だ! 良いか、胸を張れ! 顎を引け! 余裕の表情を浮かべてみせろ! そーだ、その顔だ! いつもの悪人ヅラだぞォ!」
「駄目ではないか」
そんな言葉を雨竜は笑い飛ばす。
「はっはっは、分かっていないな、景竜よ!」
雨竜は景竜の肩にそっと手を置いてみせた。
「……無理して偽りの自分を飾り、彼女と交際を経て婚姻したとして――貴様は、偽りの己を一生貫き通すことができるのか? 貴様の悪人面を許容できない女が、貴様の伴侶に相応しいと思うか?」
「正論だが、悪人面に悪人面と言われると不思議と怒りが湧いてくるな」
「ともかく、自然体だぞ! 良いな!」
そんなやり取りを交わしながら二人は大型バイクに跨り、約束の小料理店へと向かうのであった。
◆
「あ、我道さん! 雅真さん! お疲れ様です!」
小料理店の前に着くと同時に、私服姿の森羅がそう言って冗談っぽく敬礼してみせる。それを見ると同時に景竜は顔を紅に染め上げ、まるで借りてきた猫のように視線をそらし、黙り込んでしまった。そんな不甲斐ない友を横に、雨竜はにこやかに右手を上げてみせる。
「あぁ、森羅さんこんばんは。今日は災難でしたね。あの後、何かお変わりは?」
「あ、それがですね!」
そう言ったかと思うと、森羅は少しバツの悪そうな顔を浮かべてみせた。
「そのぉ……。我道さんと雅真さんがバイクで去っていった後、手錠をかけようとしたら、あの人達全員、起き上がってですね、車に乗って逃げちゃったんですよ……」
その言葉が森羅から放たれた瞬間、雨竜と景竜の尖鋭な瞳が森羅へと向けられた。
「逃げた? しかも、四人とも……?」
景竜は、信じられないと言うように言葉を震わせた。
「はい……。折角お二方には助けていただいたと言うのに、私が不甲斐ないせいで逃げられてしまい……。本当にすみません!」
そう言って、心の底から申し訳なさそうに森羅は腰を斜め四十五度に折る。しかし、それを前にしてなお雨竜と景竜は次の言葉に詰まらざるを得なかった。
ようやく、景竜が声を絞り出す。
「いや、それは、良い……。むしろ、その後に襲われなくて良かった。本当に良かった。いや、それより……。俺達が去ったすぐ後に、起き上がって、自力で逃げた? しかも、四人とも……?」
景竜は雨竜へと強い視線を向けた。
「雨竜。貴様、あの男達に手加減をしたのか……?」
「馬鹿な!」
憤慨と言うように雨竜は怒声を上げる。
「完全に急所を突いたはずだ! マトモな人間なら、丸一日は痛みに耐えかねて卒倒する程度の打撃を加えたはずだ!」
「俺だって、脳へ直接掌打を与えて完全に昏倒させたのだ! 丸三日はまともに動けぬはずだ」
二人は、困惑を隠すことができなかった。雨竜が景竜に問いかける。
「奴ら、人間か……?」
「殴った感触は、人間だったはずだが……。いや、完全に入ったと思っていたのだが、もしかして俺の思い違いだったのか……?」
口元を押さえ、景竜が独りごちる。
やがて、景竜が森羅へと向き直り、九十度に等しい角度で頭を下げた。
「すまぬ! 俺の未熟さが、森羅殿の身を危険に晒す結果になってしまったのかもしれぬ! 詫びても詫びきれることではないが、すまぬ! 煮るなり焼くなり、好きにしてくれ!」
「俺も、未熟だったようだ……。本当にすまない……」
誰もがカタギだとは信じないような屈強な二人の男が、完全に腰を曲げて自分に謝罪するのを前にして、森羅は慌てふためくような顔を浮かべた。
「あ、いえいえいえ! とんでもないです! むしろ、危険な所を助けていただいたので、そんな謝られると! 頭上げて下さい!」
そう言って森羅が雨竜と景竜の肩をトントン、とする。
景竜と雨竜が頭を上げたそこには、森羅の笑顔が、あった。
「ね!」
屈託ない子供のような笑みを前にして、景竜は、まるで熱したやかんのように顔を赤らめた。そのままの勢いで景竜が言い放つ。
「森羅殿!」
「……? はい? 何でしょう?」
「毎日、俺の為に、味噌汁を作ってはくれぬか……!?」
そう言い放つ景竜の口を雨竜の手が押さえた。そして、耳元で囁く。
「馬鹿野郎。段階すっ飛ばして、いきなりプロポーズをする奴がどこの世界に居るんだ……!」
「う、うぐ……! つ、つい……!」
そんな二人に、森羅が微笑ましく笑った。
「お味噌汁、好きなんですか?」
「あ、あぁ! 大好きだ! 毎日三食、一汁三菜しっかりと食べておるからな! 既に味噌汁無くしては生きられぬ身体なのだ!」
「そんなに! そうなんですか、では今度お味噌汁作りに行きましょうか?」
景竜の表情が喜色に染まった。
「本当かっ!?」
「今回、私の不注意で、折角のお二方の力添えを無為にしてしまったので、そのお詫びも兼ねて……。お休みの日にでもお邪魔させてもらえれば、お味噌汁作りますよ」
「お、おおおお! おお! おお! ぜひ! ぜひに、だ! おう!」
「えぇ、ぜひ」
取り繕うことさえ忘れ、景竜は子供のように強くガッツポーズを決める。
「っしゃぁっ!」
「うふふ、そんなにお味噌汁好きなんですね。作りがいありそうです」
彼女もまた天然だ、と思いながら雨竜は腕時計を眺めた。小料理店の前で話しはじめて既に幾分か時間が経っている。雨竜は森羅に問いかけた。
「ひとまず、続きは中に入ってから話しませんか?」
「あ、そうですね、すみません。私ったら! よっし、若人さん達! 今日はお姉さんにどーんと支払いは任せて下さい。どんどんと食べちゃって下さいね、ここ安いので」
そう言って、森羅ははつらつと笑いながら小料理店の扉を横開きに開けた。
恋に浮かれる景竜を横に、雨竜は記憶の断片を手繰り寄せる。
自らの拳の角度、打撃を加えた箇所、勢い、相手の肉体の感触……。全て。そう、今も全て鮮明に思い出すことができる。
記憶の中の雨竜の拳は、確実にあの男達の急所を捉えていたはずだ。
あの打撃を受けたすぐ後に起き上がるなんて、人間にできるはずが無いのだ。
そう、人間には。
店の中に入っていく森羅を見て、雨竜は半眼を鋭くした。
森羅が、嘘をついている……?
なぜだ?
それとも、雨竜が殴った奴らは、本当に人間でなかったとでも……?
答えの出せぬまま、夕風が雨竜の身体を撫で付ける。
「我道さん?」
小料理屋の中から森羅が雨竜を呼ぶ。今は、考えても答えは見つからない、か……。雨竜はそこで、思考を中断し、森羅の後に歩を進めるのだった。
横開きの扉を潜り抜ける。
これが、非日常の入り口とも知らずに――。