君が選んだ本棚は
「どうだろ。でもまあ、自分が好きなことやってるよ」
そう言って笑ったあの子に、わたしは恋をした。
* * *
わたしが高倉飛鳥君と再会したのは、高三の春休みのことだった。
美術部が午後から活動する日だったので、その日のお昼頃、わたしは電車に乗っていた。すきすきの電車でのんびりと席に座って、スマホをいじっていたとき。
――あれ?
ふと目を上げると、開いたドアから見知った顔の人が入ってきたのに気づいた。わたしの最寄りから一駅。中学が同じだったことを考えれば、ここで乗ってくるのもおかしくはない、けど。
最後にその子を見たのは、中学の卒業式だった。ひ、久しぶりすぎて緊張する。気づいてほしいけど、どうか気づきませんように……! 地味だったわたしのことなんて忘れてる可能性もあるけど、それだったらそれで助かる。いや、悲しいけど。うわぁ、複雑。
どきどきしつつ、目を逸らそうとしたら、ちょうど目が合ってしまった。
ぱち、と瞬きをしたと思えば、おもむろにわたしの隣の席まで来て腰を下ろす。席なんて他にも空いてるんですけど!? 内心で突っ込みつつ、慌ててスマホをスリープモードにする。
ドアが閉まり、電車が動き出す。電車の振動音は心地いいけど、無言で隣に座られるのはすっごく気まずい。
「……えっと、高倉君、久しぶり」
沈黙に耐えかねて口を開くと、高倉君は驚いた顔をした。
「覚えてたんだ」
「うん、まあ。高倉君こそ、わたしのこと覚えてたんだ」
「片瀬凛だろ?」
「えっ、フルネームで覚えてるの!?」
高倉君とは、中一で同じクラスになっただけだ。目立たない地味ーなわたしを覚えてくれていただけでびっくりなのに、まさか下の名前まで覚えててくれるなんて。
だから思わず大きめな声を出せば、ちょっと笑われてしまった。
「記憶力いいんだよ、俺。知ってるだろ?」
「知ってるけど……」
「なに、片瀬は俺の下の名前覚えてないわけ?」
ふざけた口調で言われ、言葉に詰まる。覚えていないわけがない、けど。同じ中学の男子の名前はほとんど名字しか覚えてないので、なんというか、少し後ろめたい。
「え、マジで覚えてない?」
「お、覚えてるよ! 飛鳥君だよね!」
名前で呼んでしまった……! だ、大丈夫かな、図々しい奴だとか思われないかな!? でも流れ的に不可抗力だよなぁ……許してください!
嫌な汗をかきながら反応を窺っていると、高倉君は普通に嬉しそうに笑ってくれた。
「そ。まあ俺の名前忘れる奴はいないよなー」
あ、この感じ懐かしい。
「顔良し、性格良しときて、勉強も運動もパーフェクトだったしな」
自慢げに言う高倉君に、つい笑みが漏れる。相変わらずだなぁ。
そう、高倉君はちょっとだけナルシスト気味なのだ。実際、彼自身の言うとおりなので何も異論はないけど。……その、わたしは高倉君に対しては盲目気味なので、客観的には見られていないかもしれない。だけど中学のころ、彼が皆から好かれていたのは確かだ。
うざいと言っていた人たちもいたけど、それは笑いながら言うようなもので、あくまでも好意的だった。こういうのも一種の才能なんだろうなぁ。
「高倉君は、今日は部活?」
そう訊いてから、ようやく気づいた。
……高倉君、手ぶらだ。
「あー……まあ、そんなとこ」
誤魔化すような言い方も、彼らしくない。何かあったのかな、と心配になる。最後に話したのは中一のときだから、そりゃあ変わるところもあるだろう。でも高倉君はいつも自信満々で、何を言うにもはっきりとしていた。
――追求できるほど、仲良くはないんだよなぁ……。
訊きたい気持ちを、ぐっとこらえる。
あ、でも。高倉君の学校だったら……反対方向の電車のはず、だ。大会とかだとしても、手ぶらなのはおかしいし。
何かあったの、と。
そう訊くことができなくて、わたしは膝に置いたバッグを少しだけ体に寄せた。
「学校楽しい?」
唐突な質問に、やっぱり変だなぁと感じる。高倉君なら、訊くより先に話し始めるはずなのに。
はず、と言えるほど、わたしは彼のことを知らないのだけど。……自分で考えたことにダメージ食らったぞ。もっと知ろうとしてればよかったなぁ。
「それなりかな。……高倉君は?」
「……それなり、かな」
わたしと同じ答え。自慢話は始まらず、会話は不自然に途切れる。
変わった、だけなんだろうか。だけど、相変わらずだと感じたのは間違いじゃない、と思う。
電車のドアが開き、人々が乗り降りする。さすがにちょっと人が増えてきた。他のホームからだろうか、違う路線の駅名のアナウンスが耳に入ってくる。
わたしはあと五駅で降りるんだけど、高倉君はいつまでいるんだろう。
それくらいなら訊いてもいいかな、とちらっと視線を向ける。学校のカースト的に、高倉君とわたしは天と地ほどの差がある。ここまでの会話でも相当緊張したのに、この沈黙をわたしは破れるか? よし、破ろう。いや無理だ。
「片瀬はさ」
「はい!?」
急に話しかけられてびくっとする。怪訝そうに見てきたものの、高倉君は口ごもりながら切り出した。
「えっと、さ。その……大学ってどうすんの」
「……大学?」
「まだ決めてないってことはないでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
たぶん、高倉君の行く大学とはレベルが違いすぎる。馬鹿にされるということは有り得ないだろうけど、答えるのは少し恥ずかしかった。
「内緒、ってことじゃだめかな……?」
おそるおそる尋ねれば、高倉君はうっと言葉に詰まった。そして慌てたようにわたしから目を逸らし、うつむく。
「ま、まあ言いたくなければいいよ」
「ありがとう。高倉君はやっぱり東大?」
「あーうん、そうそう。たぶん余裕だろーけど、一応頑張んなくちゃなー」
ちょっと調子が戻ってきたのかな、と思った次の瞬間には、高倉君は沈んだ表情を見せる。
わ、わたし、こういうときに相手が望む言葉をかけるとかできないんだよね! どうしよう! 何か言ったほうがいいような気がするのに、うぅ。
「た、高倉君なら大丈夫だよ。高校でも学年首位でしょ?」
結局口にしたのは、そんな薄っぺらい慰めの言葉。
そしてこの言葉は、間違いだったらしい。
「……それがさー。笑っちゃうことに、そうじゃないんだよなぁ」
「……え?」
「びっくりだろ? あーんな自信満々でこの学校来てさ。他の『天才』たちにうちのめされてんの」
空々しく笑いながら。高倉君は、そんなことを言う。
――ああ、これか。
違和感の正体に気づいて、わたしは高倉君の顔をじっと見た。
高倉君は確かにすごい。本人にその自覚もあるし、プライドが高いのだ。だけど、『天才』ではない。中学の皆は天才だ天才だと褒めていたけど、わたしはずっと違うと思っていた。努力の天才ではある、と思うんだけど。
それでも、本物の天才には勝てなかったらしい。
高倉君が行った高校は、偏差値が70を余裕で超えている。当然、その生徒の中には天才が何人か混じっていたのだろう。
そういう人たちに、高倉君のプライドは粉々にされてしまったのだ。
「大学もさ。東大に行ったら、更に打ちのめされると思うんだよな」
わたしの視線を居心地が悪そうに受け止めつつ、高倉君は続ける。東大に行ける前提で話しているのは、さすがという感じだった。
高倉君は、何を言ってほしいんだろう。どうして全然関わりのないわたしに、そんな弱い部分を見せてくれるんだろう。……むしろ、関わりがないからなのかな。周りの人はきっと高倉君に期待していて、だから高倉君は、何も吐き出せなかったのかもしれない。
相手が望むことを言うなんて、そんな器用なことはできないから。
ちょっと考えて、わたしは提案してみた。
「ねえ、部活ってさぼれるかな……? わたしも一応部活なんだけど、その、ゆるーい部活だから大丈夫なの。高倉君がよければ、一緒に本屋さん行かない?」
「本屋?」
ぽかんとする高倉君に、わたしは汗をかいた手をぎゅっと握ったのだった。
高倉君がうなずいてくれて、次の駅で降りたはいいものの。方向音痴なわたしが、近くの本屋さんの場所などわかるはずもなく、高倉君に案内してもらった。なるべく大きい本屋さんがよかったので、大型ショッピングモールの中の本屋さんへ。
……案内されちゃった。情けない。なんで初めての場所で、地図一瞬見ただけで把握できるんですか……。
さ、さて、気を取り直して。
なんかちょっぴりデートに誘っちゃった気がしなくもなくて、どきどきするのだけど。それも置いておこう。向こうはこんな地味子、なんとも思ってないんだから。平常心平常心。高倉君と会ったときから冷や汗止まらないけどね!
「で、本屋に何の用?」
高倉君の声にはっとする。
「え、ええっとね! 一時間、ここで好きなように過ごしてほしいの! うーんと、できれば漫画コーナー以外で」
「……一時間も本屋で? 漫画以外?」
「うん。時間取らせちゃってごめん、あの、嫌なら全然いいんだけど、ごめんね」
いきなりこんなこと言われても、やっぱり困るよね。そっと上目で高倉君の表情を窺う。よ、よかった、たぶん怒ってない。戸惑ってはいるけど、少なくともイライラしているとかはなさそうだ。
「……いや、いるよ。好きなように過ごせばいいんだな?」
「うん! ありがとう!」
ぱっと笑顔を向ければ、気まずそうに視線を逸らされる。わ、わー! ごめんなさいぃ! そうだよね、意味不明なことを頼まれて、こんなふうに喜ばれたら、何なんだって感じだよね!
涙目になりそうだったけど、うざがられたくはないのでこらえる。が、頑張れわたし。今日はなんか積極的に行動しすぎてて、自分でもびっくりだ。
「それじゃあ、一時間後に入り口で待ち合わせね」
「え、片瀬はどうすんの?」
「わたしもどこか適当に見てるから」
「……一緒じゃないの?」
「え、なんで?」
首をかしげれば、「いや、なんでもない」とちょっと不満げな顔をされる。確かに、急にこんなところに連れてこられて(いや、正確にはわたしが連れてこられてしまったんだけど)、一人でほっておかれたら不満に感じるのも当然かもしれない。
だ、だけど、これ以上高倉君といると緊張のしすぎでどうにかなっちゃいそうだから! 表面上は結構何でもないように振舞えてるけど、内心ばくばくだから!
この辺りで休憩しないと、わたしの心臓が持たない。――好きな人と二人で本屋とか、だって、それはなんかやっぱり、ちょっと。じ、自意識過剰だけど、デ、デートみたいで申し訳ないっていうか! ほんと自意識過剰でごめんなさい!
そんな心を隠して、それじゃ、と一旦別れる。
高倉君はどこら辺の本棚行くかなぁ。わたしはこれの意図を知っててやったけど、それでもまあ、予想どおりだったし。……わたしの場合、意味がある行為ではなくなってしまったけど。
高倉君の後ろ姿を見送ってから、わたしも動き始める。漫画コーナー以外、と言っておいたから、漫画コーナーは安全圏なはずだ。最新刊チェックとかしよう。
だらだらと時間を潰し、一時間が経った。五分前には入り口で待てるように歩き始めたはずなのに、高倉君がすでにいて焦った。
小走りで駆け寄って、高倉君を見上げる。
「ご、ごめん、待った!?」
「いや、別に。早く来ちゃったのはこっちだし」
一時間でも短いかなーと思っていたのに、それより前に切り上げちゃったのか……。うーん、ちゃんとわかったかなぁ。あらかじめ何を確認したいのか言っておけばよかったかも、と後悔しても遅い。
とりあえず訊いてみよう。
「じゃあさっそく。高倉君が一番長くいた本棚は、どの本棚だった?」
「へ? 小説のとこだけど……」
「なるほどなるほど」
わざとらしくうなずけば、高倉君は戸惑った表情をする。
「これ、何の意味があったんだ?」
へへ、とちょっと笑いかけてみる。
意味があるかないかは、きっとその人次第だ。わたしにとっては、何の意味もなかったんだけど。
「『大きな本屋へ行きなさい。あなたが一番長くいた本棚が、あなたが一番興味を持っていることだ』」
「……何それ」
「現国の先生が言ってたの。一回やってみるといいって」
高倉君は、小説か。確かによく本を読んでたし、この結果は予想できた。
「小説に興味があるなら、やっぱり文学部かな。どうせなら東大の文学部がいいよね。そこにしてみたら?」
「え、ちょっと待った、そんな簡単に……」
「簡単でいいんだって。……わたしさ、高倉君には好きなことやってほしいんだ」
「は?」
さっきから戸惑わせてばかりで申し訳ない。
うーん、どう言えばいいんだろうなぁ。
高倉君を見つめながら、中学のころを思い出す。あのこと、高倉君は覚えてるだろうか。――わたしが、彼に恋したきっかけを。
「中一のとき、総合かなんかの授業で、将来の自分は何してるか考えて、班で発表する、みたいな授業あったの覚えてる?」
「そりゃあ、まあ」
肯定が曖昧なのは、質問の意図を掴めていないからだろう。記憶力のいい彼のことだ、言われればすぐあの授業のことを思い出せるはず。
わたしは残念ながら、高倉君が言ったこと以外はぼんやりとしか覚えていないんだけどね。自分の言ったことでさえ覚えていないのだ。
「皆が具体的な職業を挙げたりしてるなか、高倉君だけは、『自分が好きなことやってる』って答えでさ。好きなことやってない大人なんていっぱいいるじゃん。なのにあのときの高倉君、自信満々に笑って言い切ってて、すごいなーって思ったの。この子には変わらないでいてほしいなって」
自分が今どんな顔をしているのか、いまいちよくわからない。変な顔をしていなければいいな、とだけ思った。
「それで、偶然再会して。変わってないな、って安心もしたけど、なんだか悩んでるみたいだったから、こんなところに連れてきちゃいました。ごめんね」
「あ、いや、それはいいんだけど……」
なんだか納得のいかない顔で、わたしを見てくる。どうしたんだろうか。
ちょっと考えるように目を伏せた後、「片瀬は、」と口を開く。
「なんでここまでしてくれんの?」
「……え? 今言ったとおりの理由なんだけど……」
「それだけじゃない気がする」
そして、とんでもない一言を発したのだった。
「もしかして片瀬、俺のこと好きだったりすんの?」
「……っ」
みるみるうちに顔が熱くなっていくのがわかった。え、ちょ、待って、これどうしよ。こんな反応じゃばれるじゃん。なんで何にも言えないんだ。あーもう、高倉君ぽかんとしてるし!
やだ、どうしよう、待って待って、なんでばれたの。わたし普通だったよね、なんでなんで。うわあ、きゃー、ひゃあああ。
動揺しちゃ駄目だってわかってるのに、頭は真っ白で同じようなことしか考えられないし、顔はどんどん熱くなっていく。
「ち、あ、な、さ……!」
違うの、あの、なんでもないの、さっき言ったとおりなのー! と言いたいのに、見事なほどまでに一文字目しか出てこない。
とりあえず赤くなっているのがばれないよう、顔を両手で覆う。
「え、マジで?」
思いっきり頭をぶんぶんと振る。も、もう手遅れかな!? ばれてる? 完全にばれちゃってる? どうにかして誤魔化せないかな! 無理かー!
顔を両手で隠した状態で、一度深呼吸。落ち着け落ち着け。動揺したら肯定してるようなものだ。
一度どころでなく何度もしてから、ようやく手をどけて高倉君を真正面から見る。うっ……いやいや、頑張ろう。
「まっ、まさかそんなわけないよー。わたしなんかが高倉君のことを好きとか絶対ないから、安心して! ごめんねー、勘違いさせちゃって」
言いつつ、ずりずりと後退を始める。え、という顔をされたが構わず後退。すぐに逃げなきゃぼろが出るもん。
「じゃあ、これで! わたしの用はおしまいだから! 今日のことは、ちょっとだけ参考にしてくれるくらいでいいからね! 気にしないでね!」
「あ、おい!」
「じゃあね!」
呼び止める声も聞かず、くるりと後ろを向いて全力ダッシュ。運動が得意な高倉君と、文化部かつ運動苦手なわたしだから、高倉君が追いかけてきたのならすぐに追いつかれる。だけど、駅に着くまで高倉君に捕まることはなかったから、そういうこと。
いや、うん。わかってた。わたしはただ、中学で同じクラスだったってだけの地味子なんだから。
うわああ、ほんと恥ずかしい。動揺しすぎてて、ショッピングモールを出るまでにも迷っちゃったしー! 追いかけられなくてよかったー!
電車に乗って、一息つく。……あ、家の方向乗っちゃった。もういっかー、どうせこんな精神状態じゃ絵に集中できないだろうし。
また電車がすきすきだったので、席にそっと座る。スマホをいじる前に、向かい側の窓の景色を見た。特に面白いものはないけど、流れる景色を見るのは心が落ち着く。
――ちょっとは役に立てたならいいなぁ。
おせっかいすぎた気もするけど、ほっとくなんて無理だった。
ま、まあ、中学卒業してから今日初めて会ったくらいだし、あと何年かは会わないだろう。そう考えて、中学卒業してからもずっと高倉君を好きな自分に引く。会わない間に気持ちが強くなるとか、逆に消えちゃうとか、そういうのはよく聞くけど。わたしの場合は変わらなかった。好きって気持ちが溢れちゃう、とかではなくて、ああ、やっぱり好きだなぁって感じだった。
なんていうか。ふわっとした幸福感だった。
『片瀬さん、絵めっちゃうまっ』
つい思い出し笑いをしそうになった。
わたしには、特に好きなものなんてなかった。きっとあの言葉がなければ、中学でも高校でも帰宅部だっただろう。
――それが今じゃ。
本屋を思い出して、一気に心がどんよりする。
わたしも、やってみたのだ。なんとなくわかってはいたけど、それでも諦めたくて。……結局、やってもやらなくても、諦めていたんだろうな。わたしはそういう奴だから。
なのに今日、わたしはまた同じような本棚の前にいた。
現実を、見なきゃいけない。
わたしは……絵なんて、趣味でやっていくだけで十分なのだ。学んだらきっと、嫌いになる。
楽なほう楽なほうへ進んでしまうわたしは、駄目なんだろう。そういう人は案外多いけど、だけどそれでも、そういう道だって楽なだけじゃない。そういう道を選んでる。
ただ楽なだけのことなんてないから、言ってしまえばわたしも同じなんだろうけど。
……わたし、あの授業で何言ったんだっけ。
そんなことを考えながら、最寄り駅に着くまで、わたしはぼんやりと外を眺めていたのだった。
* * *
何年かは会わないだろう、とか思ってたの誰だ。わたしだ。馬鹿だ。
「お、おはよう……」
「おはよ。もうおはようって時間じゃないけどなー」
あああのあの、なぜ普通に隣の席に座ってくるんでしょうか。ねえなんで!? 昨日の今日でなんでこう、平然と!
よし落ち着け。羊を数えよう。……あれっ、これはなんか違う気が。
気づかれないように、そうっと一つ隣の席に移動する。隣空いててよかった、と思ったところで高倉君も隣へ移動。……気づかれないようにとか無理だね。落ち着けてなかった。
「昨日はありがと」
そして普通に話が始まった。
失礼だとは思ったけど、うつむきながら「う、うん」と返事をする。昨日のあの別れ方で、ちゃんと目を見れるわけがない。
……でももしかして、この流れはばれてない感じ?
「片瀬も悩んでんの?」
「へ?」
「進路」
「ああ……別に大丈夫だけど。なんで?」
大学名は言ってないにしても、どこに行くか決めた、というのは伝えてある。昨日のやり取りからも、そう思う要因はないはずだ。
んー、とちょっと間を空けた高倉君は、確信を持った笑みを浮かべた。
「じゃあさ、美術系の大学行くの?」
「っいや、行かないけど」
「じゃあもう一個質問。昨日のあれ、片瀬もやったんだよな。何の本棚の前に一番長くいた?」
……あー。高倉君のことを好きだとはばれてないけど、大学についてはばれてる、のかな? なんでだか本気でわからないんだけど、なんでだろう。
まあ高倉君だし、と納得してしまう自分もいて、内心でため息をついた。
「やってないよ。現国の先生に聞いたって言ったでしょ。最初からあれの意味知ってたから、先入観が入っちゃうだろうなーって思って」
嘘。本当はやった。
「まあそうだとしても、昨日はそういう系のとこにずっといたじゃん?」
――は、い?
ま、ま、ま、まっ!? 待って!? ずっとってどういうことでしょうか!? み、られてた……? ずっと?
……うわああああああ!?
「な、なんっ、ずっ」
「ははっ、予想どおりの反応! 昨日から思ってたけど、片瀬変わってないよなー」
「ず! ずっとってどういうこと!?」
「小説のとこから丸見えだったけど?」
「うそおお!?」
焦りから語調は強くなってしまってるけど、電車の中だということは弁えてる。そうじゃなかったら、大声で叫びながら逃げたい。逃げたい。
「芸大行かねーの?」
「……無理」
よし、ちょっと落ち着いた。だいじょうぶ、わたしはへいじょうしんです。
それにしても、真っ先に芸大を挙げるなんて……高倉君だなぁ。
「他の美大は?」
「美大なんてお金かかりすぎて無理。そもそもわたし、画塾とかだって行ってないし」
「じゃあ諦めんの?」
「……諦めるとか諦めないとか、そういう話じゃないし」
諦めた、けど。
「片瀬、絵めっちゃ上手かったじゃん。今からでも間に合うんじゃねーの?」
「もういいんだって!」
思わず、大きな声を出してしまった。はっと口を押さえて、こっちを見ている人たちに「すみません」と頭を下げる。
……あーあ、むきになっちゃった。そこまで本気のつもりでもなかったんだけどなぁ。
「それ以上言わないでね」
「なんで?」
わかっていないはずがないのに、そんなふうにすっとぼける高倉君にイラっとする。
「わたしは高倉君と違って、ちゃんと大学決めてるの。そもそも美大とか、わたしレベルじゃ無理だから。高倉君にはわたしの絵も上手く見えてるのかもしれないけど」
自分で思っていたより、頭にきていたようだ。こういう嫌味とか、仲いい一部の子にしか言わないんだけど……だ、大丈夫かな。言ってから心配になってきちゃった。高倉君に嫌われるのは、できれば避けたい。ただでさえ、こんな地味子にいい印象は持っていないだろうし……。
びくびくして顔を窺えば、きょとんとしていた高倉君がいきなり吹き出した。うえぇ? なんだその反応。逆に怖いんだけど、わたしなんで笑われたの。
「いや、片瀬の嫌味とかきちょーだろ」
「け、結構仲いい子には言ってるけど……?」
「知ってる。けどまさか、俺に言ってくれるとは思わなかったからさー」
言ってくれる、ってなんなの。言ってほしかったの? 高倉君、実はマゾだったの?
驚愕の事実におののいていると、慌てて首を振られる。
「いやいや、そういう意味じゃないから」
「……えーっと、別に引かないよ?」
「違うからな!?」
「そっか」
わかってないだろ、とぼやきながら、高倉君は続ける。
「まあ、俺の唯一の欠点は絵が描けないことだし? 片瀬の絵が上手く見えんのも、だからかもしれないよな」
「そうだよ……あ、ごめん。その、高倉君の絵も個性的ですごくいいと思う」
うなずきかけて、慌てて訂正する。
その、うん。高倉君は、絵が独創的だ。他は本当完璧なんだけど、絵だけは駄目……ではないけど、個性的なのだ。
わたしの言葉に、高倉君は軽く笑う。
「はは、いいってフォローしなくて。上手く見えんのは確かに、気のせいの可能性もある。けど、俺は片瀬の絵好きだよ」
「………………ありがとうございます」
「大学でも美術部入んの?」
「……そのつもり、だけど」
「そっかー、ならいいや」
こっちの気も知らないでのん気に笑ってる。うーあー、もう、なんなの、なんなのもう。好きとか言われたら否定できないじゃんか。というか好きって……好きって……絵のことだとはわかってても、心臓に悪いんですけど……。
じとっとした目で見たら、わざとらしく首をかしげられた。くっ、様になってる。これだからイケメンは。
そして謎の無言。どうしろっていうんだ。
「……えっとさ。わたし、好きなこととかやりたいこととか、よくわかんなかったんだ。だから、そのー、昨日も言ったけど、中学のときの高倉君のあれは、考えさせられるものがあったというか」
だから何、という話ではないけど。無言が気まずかったから言っただけなのに、高倉君は相槌を打って続きを促してくる。
「何か好きになろうって思って、真面目に絵を描いてたら好きになりすぎたというか。……趣味な感じでやってくつもりだったのになぁ。あーあ、全部高倉君のせいだ」
「え、なんで俺」
「知らない」
八つ当たりです。
でも実際、全部のきっかけが高倉君なのだ。高倉君が絵を褒めてくれなかったら美術部に入らなかったし、絵を描くことをここまで好きになることもなかった。
――なんでだろうなぁ。
何に対して思ってるのか、自分でもよくわからないけど、とにかく色々。なんでだろう。
高倉君は、わたしの目をじっと見てきた。つい逸らしそうになったけど、なんとかこらえる。かなり距離が近いから、気を抜いたら逃げてしまいそうだ。
「俺、東大行くよ」
「……そっか。頑張ってね」
「うん」
なんとなく、それを言うために来てくれたんだろうな、と思った。
「――でさ、俺のことまだ好き?」
「…………」
今までにないほどの勢いでそっぽを向いた自信がある。
そこでぶっこむか。ぶっこむのか。というか、そんな流れじゃなかったじゃん今! なんですか!? 昨日高倉君と会ってからというもの、心の中で叫びっぱなしの気がする。
……さて。
ここでうなずいて玉砕すべきか、否定して今までどおり過ごすか。どうせもうしばらくは会わないんだし、どっちでもいいような気がする。いや、無理。やっぱり告白は無理だ。せめてメールとかで言わせてください。メアドもラインも知らないけど。
「あー、えっと、俺ここで降りるから」
電車のスピードが落ち始める。え、訊き逃げなんですか。
うぅ、高倉君がどんな表情をしているか確認できない。隣から立ち上がる気配がして、ようやく顔をそちらへ向けられた。
……なんかめちゃくちゃ晴れやかな顔なんですけど。わたしを散々動揺させておいて!
「昨日の本屋。ほんとは、俺がいたとこからじゃ見えてなかったよ。いや、ちゃんと小説の本棚の前にはいたんだけどさ、それでも十分に一回くらい、見にいってたっていうか」
「へ?」
「んじゃ」
意味がよくわからない言葉を言い残して、高倉君は電車を降りていった。
……見えてなかった? 見にいってた? それはえっと、えっと。……えー? い、いやいや、駄目だよわたし。勘違いしちゃ駄目。特に意味はないんだよ、きっと。
あー、どうしよう。今日も絵に集中できなさそう。
高倉君の言葉の意味がわかったのは、大分後のことだった。
あと一つわかったことといえば……高倉君の欠点は、絵が下手なことだけじゃなかったということ。あの高倉君がへたれとか、誰が思うだろう。
……まあ、わたしが言えたことではないんだけど。
片瀬凛
自称地味な女の子。目立ちはしないが、絵の上手さで結構な人に認知されている。普段はおどおどした子。仲よくなると毒舌っ子へと進化する。
本当は美大に行きたかったが、そんなにお金に余裕がなかったので断念。
「将来はたぶん、どこかの会社で働いてると思う」
後にこの答えを思い出して、わたしってつまらない奴だなー、と苦笑い。
大学二年で告白されるまで、高倉の気持ちには気づかなかった。
高倉飛鳥
ナルシスト気味の男の子だが、実力はちゃんとある。絵が壊滅的に苦手。
中一のときに凛の絵を見て、ちょっと衝撃を受けた。それからなんとなく気にしていたら、仲がいい子の前ではよく笑うし、たまに冗談言うし、なんかめちゃくちゃ毒舌だし、もしかしてこいつ面白い……? と気づく。好きだったのかも、と自覚したのは中二でクラスが離れてから。卒業するまで、凛のことは目で追うくらいだった。
春休み後、偶然を装って凛と会い、無事ラインを入手。でも初めて連絡したのは、東大に受かったときだった。
「どうだろ。でもまあ、自分が好きなことやってるよ」
後に、凛が自分を好きになったのはこれがきっかけだったと知り、過去の自分ナイス! と密かにガッツポーズした。
凛の気持ちを知りつつも、なかなか告白できなかったへたれ。プロポーズも上手くできなかった。