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咎人の砦  作者: 軌条
4/4

アシェニス無頼

   1


 アシェニスは馬から下りると、その清水に向かって馬の尻を叩いた。あばら骨が浮いて見える貧弱な馬は、清冽な流れの小川に首を傾けて、口の端から零しながらも、美味そうに水を飲んだ。

 それを見届けたアシェニスも、川上に歩き、水を手ですくって飲んだ。胸の中のわだかまりが溶けてしまうような冷たい水だった。美味いというより、目が覚める。

「アシェニス」

 オゼが馬を走らせて、近くに止まった。甲冑は着ていないが、兜だけは装着している。馬具にぶら下げた斧が紫に染まっている。ついさっき、悪魔の群れと交戦したのだった。

 アシェニスは顔を持ち上げた。雫が顎を伝う。

「怒っているか、オゼ」

 口を拭いながら、アシェニスは言った。オゼは小さく首を横に振った。

「お前のしたいようにすればいい。しかし、いささか不可解には思っている」

 アシェニスは苦笑し、立ち上がった。赤い髪を振り払い、そろそろ手入れをしなければ傷が残るな、と思いつつも、どうでもいいことだ、と面倒に思う自分もいた。商会の看板として働いていた頃は、毛並みにも気を遣っていたものだが、今は完全にそうした行為とは訣別している。洪鈞の壁の思い出は、アシェニスを苦しめるばかりだった。

「すまないと思っている。しかし、どうしても、哭臨の壁が落ちたのかどうか、確かめておきたい」

 アシェニスは哭臨の壁を出立してすぐ、悪魔の大攻勢が始まったことを知った。最初は必死に距離を稼いだが、すぐにその攻勢は終わった。洪鈞の壁のときは、もう少し長引いたように思うが。

 アシェニスは、このまま逃げていいのだろうかと悩んだ。そして何か結論が出る前に、引き返していた。

 理屈があったわけではない。アシェニスの内に潜む何かが、彼女を方向転換させた。悪魔たちで蔓延る戦場へと駆り立て、何かできることはないかと彼女を強迫した。

 オゼは何も言わず、ついて来ていた。アシェニスは深く感謝した。実際に悪魔と戦うのは彼なのに、ただ従ってくれる。単なる雇われ以上の行動を求めてしまう自分のわがままにも呆れてしまうが、彼の献身の理由も、大いに気になった。

 オゼは馬上で、遥か東の地を眺めていた。アシェニスもそれに倣った。そこには、哭臨の壁が聳え立っているはずだった。しかし、聖像ラクシューアの姿はなく、環状の要塞都市も見当たらない。地平線の向こうに埋もれてしまった要塞に、アシェニスは思いを馳せた。

「やはり、要塞は持ち堪えられなかったのだろうか」

「恩沢の壁でも、あの攻勢は厳しいだろう」

 オゼは淡々と言った。アシェニスは首を横に振った。

「あの、バルクも死んだのだろうか?」

「だろうな。あれで生き残れたら、人間じゃない」

 人間じゃない、か。アシェニスは苦笑した。ならば、生き残っていてもおかしくない。あのバルクという戦士の実力は人間のものとは思えなかった。悪魔の血でも流れているのではないかという戦いぶりだった。

 アシェニスの考えていることを察したのか、オゼが付け足した。

「妙な期待は抱かないほうがいい。あの男も人間には違いない」

「……そうだな」

 アシェニスは頷いた。そして、水を馬鹿みたいに飲み続ける馬の腹を叩き、それに跨った。馬は従順にアシェニスの向かいたい方向に足を向けると、トコトコと歩き始めた。戦いでは頼りないが、旅をする分には、おとなしくて使いやすい。アシェニスはこの駄馬を気に入っていた。

 左手には延々と森が連なり、右手には段差のある小川を挟んで、平原が広がっている。オゼは森に警戒を送り、アシェニスは平原で何かが現れないか注視していた。哭臨の壁に生存者がいるとすれば、あの平原を彷徨っているはず。しかし、人間どころか鳥獣の姿を見かけることさえ稀だった。

 雲が一切見られない、乾いた空気がかえって鬱陶しい朝だった。日差しは強くないものの、巻き上げられる土埃が目や口を責めてくる。アシェニスが平原から目を逸らし、強く瞼を閉じると、オゼの馬が驚いたように足踏みする音が聞こえてきた。

「オゼ?」

 アシェニスが見ると、オゼの馬が止まっていた。それにつられたアシェニスの馬が急停止し、アシェニスはつんのめった。

 軽く馬首を叩き、アシェニスはオゼの視線を追った。黒光りするその兜は森のある一点に全神経を集中させていた。アシェニスは目をすがめ、そして喫驚した。

「バルク……、ラミ、なのか?」

 森から歩いてくる大男は、バルクかどうか、正直判別できない。しかし彼が抱きかかえている少年の頭髪は緑色、明らかにラミであった。アシェニスは慌てて革の鞭を取った。

「バルク! ラミ! 生きていたのか!」

 アシェニスは彼らに近付いた。奇妙なことに、バルクもラミも裸だった。バルクはこけた頬をしていたが、血色は悪くなく、アシェニスの姿を認めると、にやりと笑ってみせたほどだった。アシェニスは彼に接近すると、目のやり場に困りつつも、声をかけた。

「生きていたのだな。ラミは大丈夫か?」

「眠っているだけだ」

 バルクは咳き込んで答えた。久しぶりに声を出したという感じであった。

「……心配は要らない」

 バルクはラミを地面に下ろした。そこでアシェニスは奇妙なことに気付いた。不意に見てしまったのだが、バルクの股には、確かに男性が備えているべきものがある。しっかり見たわけではないが、その気配を感じた。

 しかし、ラミの股には、少年とはいえ、何か違和感を覚えた。アシェニスは困惑し、とはいえ直視するわけにもいかず、馬上で身じろぎした。

「……良かったら服をくれないか。どうも寒くてね……」

「わ、分かった」

 疑問をそのまま投げかけられるほど、アシェニスは豪胆ではなかった。荷物の中にあった代えの衣服を投げたアシェニスは、くるりと背を向けた。

 すると、後ろからついてきたオゼと目が合った。彼はアシェニスに頷くと、じっとりとした視線で、バルクとラミを見つめた。

「オゼ、バルクが生きていたぞ。やはり人間の規格に収まらない男だった」

「開戦前に逃げ出したのでなければ、そうだろうな」

 オゼは再び頷き、バルクたちに近付いた。馬から下りて、手綱を引く。その動作に無駄はなく、アシェニスはそれを感心して見つめていた。

「バルク」

「オゼ、あんたか。困ったよ、全く。要塞を守れなかった」

 バルクは苦笑していた。アシェニスが投げた衣服を腰に巻いている。あんな風に使われるのなら、布切れを渡せばよかった、とアシェニスは思った。

 ラミは服を着た。大きさが合わなかったが、それで膝下まで隠れた。アシェニスは先ほど抱いた疑念を、胸の中に隠さなければならなかった。

 オゼはバルクを見据えていた。

「どうやって生き残った」

 バルクは肩を竦めた。オゼが履いている鉄靴をうらめしそうに見ている。

「どうもこうも、成り行きでね。そうそう、悪魔の女王と出会ったよ。色々と教えてもらった」

「悪魔と談笑したとでも?」

「そんなところかな」

 アシェニスはそれを聞いて、馬から飛び降りた。アシェニスの馬匹は重荷から解放されて、嬉しそうに体を震わせた。

「どういうことだ、それは。悪魔の一味に成り下がったというのか?」

「違う。俺は悪魔と対立している。宣戦布告をした、というのかな……」

 バルクは辛そうに言った。疲れているのか。あるいは、悪魔との戦いに恐怖を感じ始めたのか……。アシェニスは口を噤んだ。バルクの様子からは、どのように事態が推移したのか、推し量ることができなかった。

 オゼはそれでも質問を繰り出す。

「取引をしたのか? 二度目の」

「一度目の取引が不完全だったみたいでね。その延長みたいなものだ」

 アシェニスには意味が分からなかった。しかし、オゼの剣幕が、かつてのときのように険しいものだったので、口を挟むことが憚れた。

 バルクは軟弱な笑みを湛えていた。ラミも元気がない。

「どういう取引をした?」

「俺は、命を救ってもらったのさ。だからこそここにいる……」

 オゼが鼻で笑った。

「お前も、自分の命欲しさに行動するのか。で、何を差し出した?」

「俺の話ばかりじゃあ、申し訳ないな、オゼ。お前も、いったいどんな取引をしたんだ」

 オゼの体が固まった。アシェニスはそんなオゼを見るのは初めてだった。隣に立つオゼを見上げる。

「……俺の話はいい」

「お前も、覚悟してたんだろ。他人のことなんぞに興味を示すから突っ込まれるんだぜ。冷静に振る舞ってはいるが、お前も悪魔と取引をしたんだろ?」

 アシェニスは聞き捨てるわけにはいかなかった。悪魔と取引――なんと禍々しい響きであろうか。

「オゼ、悪魔と取引とはどういうことだ? お前は何を知っている?」

「黙ってろ」

「黙れない。お前は何を隠しているんだ。私には知る権利がある」

「黙ってろと言っている」

「お前を信用したいんだ。悪魔との取引とは、いったいどういう意味か、教え……」

「黙ってろと言っているんだ、アシェニス!」

 オゼが叫んだ。アシェニスの顎を掴んだ。それを見たバルクが、目を丸くした。

 アシェニスは顎を掴まれて、息がしにくくなった。爪先立ちになり、オゼを見据える。オゼの表情は兜で隠されていたが、その瞳には確かな憤怒の輝きが見て取れた。

「オゼ、何だ、この手は。……離せ」

 オゼはアシェニスを睨み付けていた。かつてない苛烈さだった。

「俺を信用したい、だと? アシェニス、他に誰を信用するというんだ、お前は」

「信用できる人間など、他にいる。……バルクや、ラミ」

「バルク? お前は阿呆か。こいつは悪魔と取引をした【咎人】だぞ」

 アシェニスは顔を顰めた。オゼの手を振り払おうとしたが、オゼの腕はびくともしなかった。

 顔が赤くなっていくのが分かる。アシェニスは爪先が地面から離れかけるのを感じた。まさか、オゼが、私を? 信じられない思いでオゼの表情を探った。朝日に照らされる兜は濃い陰影の中に沈み、アシェニスの知らないオゼの心の部分が表出したように思われた。

 突然、オゼの腕の圧力が消えた。アシェニスはくずおれて、喉を押さえた。熱を持った肉からは、オゼの手甲で擦り切れて、血が流れていた。

 見上げた。バルクが、オゼの手首を掴み、親友か何かのように優しく彼の肩を叩いた。

「アシェニスをいたぶってどうする? お前は、彼女が欲しかったのだろう?」

 アシェニスの視界はぼんやりとしていた。今のバルクの言葉が無性に気になったが、世界が暗転した。

 おかしいな、と思った次の瞬間、アシェニスの右のこめかみに鋭い痛みが走った。

 自分が倒れたのだと気付いたときには、彼女の意識は闇の中にあった。


   2


「そこの子供は、いったいどうした?」

 アシェニスの頭の怪我を診ながら、オゼが尋ねた。

 バルクはオゼの行動の基準が理解できなかった。アシェニスを殺そうとしたり、身を案じたり。全く合理性に欠ける。

「子供ってのは、ラミのことか?」

「そうだ」

 バルクはラミを一瞥した。ラミはバルクが地面に下ろしてからずっと、呆けたように立ち尽くしている。

「ちょっと刺激が強過ぎたのかな。……どうも、本当の俺ってのを、理解してなかったらしい」

「……本当の?」

「俺は信心深くない。そして全てを綺麗ごとで済ませようだなんて思わない現実主義者だったってことだ。……まあ、ラミに酷いことを言っちまった自覚はあるが」

 オゼは何の反応も示さなかった。それもそうだろう、訳が分からないに決まっている。

 バルクはオゼがアシェニスの手当てを終えるのを見た。アシェニスを仰向けに寝かせたオゼはゆっくりと立ち上がり、おもむろに兜を持ち上げ始めた。

「おい、その兜……」

「どうせ俺の取引について尋ねるのだろう。教えてやる。同じ【咎人】のよしみでな」

 認めた。バルクはぞっとした。つまりは、オゼが洪鈞の壁を崩壊させた取引を成立させたのだ。そんなことを平然と認める人間の心境は、想像に難くない。

 バルクは、オゼが冷静沈着な男で、完璧主義者であると見做していたから、まさか認めるとは思わなかった。しかし、アシェニスが気絶したからこそ、素直になったのかもしれない。あるいは、バルクが既にその事実に確信を持っていたので、観念したのか。

 乱暴な手段に訴えなければいいが。バルクは用心した。

 オゼが兜を外した。兜の下には黒い布を巻いていた。目と鼻だけが出るようになっている。唇にあるべき亀裂はほんの少ししか見えなかった。

「その布は……」

「病気だ。見るか?」

 オゼはにやりと笑い、布の端を引き裂いた。そこに現れたのは、顎の皮を冒す黒い斑点だった。皮膚病だろうか、とバルクが思った次の瞬間、黒い斑点が蠢いた。布から飛び出そうと、虫が数匹足を出した。

「虫を飼ってるのか? 兜の中で?」

「そういう治療法だ。虫を治療手段として用いる医術師を知っているか? 生まれつき俺は顔に病気を持っていた。皮膚が破れ、血が止まらなくなるという奇病だ。その症状を緩和するのに、この不気味な虫の垂らす唾液が有効だそうだ」

 オゼは言い、新たな黒い布を顔に巻きつけた。そして慣れた手つきで兜をかぶり、留め具に指を伸ばした。

 バルクは絶句していた。しばらくしてから、言葉を探した。

「同情するよ。その顔は……」

「同情はいらない。俺には斧さえあれば良かったからな。こういう病気を生まれ持った代わりなのか知らないが、俺以上の斧の使い手は、洪鈞の壁ほどの規模の要塞においても、いなかった。それで俺は満足だった」

 オゼは言い、自嘲気味に続けた。

「アシェニスを初めて見たときの俺の衝撃は、男のお前なら分かると思うが……、この女は素晴らしい。俺が利き腕を失ってでも手に入れたいと思った女だ。俺は洪鈞の壁で開催された武術大会で、アシェニスに自分を売り込もうと考えた。武術大会の後ろ盾として、ドーク商会も絡んでいたからな。アシェニスは必ず試合を見ている。俺はただ勝つだけでは不足だと考え、技巧を競う試合において、あえて重装備で挑んだ。普通は多少の怪我を覚悟して、軽装で挑むものだ。俺の思惑は当たり、アシェニスは俺に注目した」

 オゼは言う。こんな男でも、そのような欲望はあるのだ。バルクは意外な気持ちもしたが、全く不思議ではないことにも気付いていた。倒れたアシェニスを見る。確かに美貌の女であり、性格もさっぱりしていて気持ちがいい。惚れる男の気持ちも分かる。

「しかし、アシェニスの父親のガイガンという男が堅物でな。俺の面を見せろという。俺は事情を説明したが、奴はアシェニスと会話することさえ禁止した。病気がうつると言ってな。俺もアシェニス本人に拒まれるのならば、潔く退くつもりだった。しかし父親がその態度を見せたことで、自棄になって……。ちょっとした問題を起こした」

 オゼは似合わない笑い声をあげた。アシェニスがいるときは絶対に出さないような、己の人生を笑い飛ばした男の悲愴が滲み出ていた。

「ガイガンの護衛をしていた男を殺してしまった。ガイガンは、それはたいそう怯えたよ。何せ俺が殺した男は、ガイガン自慢の守備隊員で、洪鈞の壁随一の槍の使い手と評判だったからな。正直、評判だけの薄っぺらな戦士だったのだが、ガイガンは俺に全てを差し出すと言った。俺はアシェニスと話せるだけでよかったのに、アシェニスを嫁として迎えてくれとまで言ったんだ。……彼女本人の意思も聞かずにな」

 オゼは続ける。バルクが聞いているのかどうかさえ確認しない。同じ罪を犯した男に親近感を抱いているのか。それとも、これまでの孤独が、彼を蝕んでいたのか。

「俺は嫌になった。アシェニスがそれをどのように受け止めるのか、分からなかったが、逃げたかった。要塞を出て、別の街で暮らそうと思った。俺は罪のない人間を殺してしまった。安穏と元居た要塞で暮らせるとは思っていなかった。案の定、ガイガンの放った殺し屋が、俺を追い詰めた」

 オゼはそこで、バルクのほうを向き、親しげに言った。

「お前も気をつけたほうがいい。殺し屋という奴は、本当に狡猾で、油断ならない。俺は森に追い詰められた。実力では圧倒的に俺に分があったのに、戦いは俺の劣勢だった。もし、あの場で悪魔の大群に襲われなかったら、俺はあそこで死んでいただろう」

 そこからは、聞くまでもなかった。オゼは少女ラクシューアと出会い、取引を持ちかけられた。オゼは迷った挙句、捨てるつもりだった要塞の運命を破滅へと向かわせた。そしてアシェニスの心を自分に向けさせる願いを、ラクシューアに託した――。

「永遠に共にいられるように、という願いをした」

 オゼは言った。

「結ばれなくともいい、ただ一緒にいたかった。一つは、俺の穢れた面で彼女を汚したくなかったというのもあるが、罪の意識があった。商会から抜け出した彼女に、負い目があった。何があろうと彼女を守ろうと誓った」

 悲恋、か。バルクは、規模こそ違えど、何処にでも転がっている話だと思った。オゼのような男がそうした俗な感情に振り回されたのは、意外であると同時に納得できる。

 そして、オゼの話は、バルクの経験と似ていた。オゼはアシェニスを守ると誓い、要塞を差し出した。それが己の欲望と使命を達成するのに、都合の良い解釈だった。アシェニスにとってそれは悲劇だったはずだ。そしてバルクは、要塞を守る為に要塞を差し出した。結果、途方もない悲しみと空しさを生み出した。

「俺の行動は矛盾していた。俺がもし、罪を贖うというのなら、アシェニスをガイガンたちと共に恩沢の壁に送り出すべきだった。それができなかった。結局全て言い訳だった。俺は俺の役割と欲望の成就を結びつけて、時間稼ぎをしているに過ぎなかった」

「どうして俺に、そんなことを?」

「聞きたかったんじゃないのか」

 オゼが少し陽気に言った。とはいえ、オゼの陽気などたかが知れている。聞く人によっては、威圧されていると思ったかもしれない。

 バルクは陽気とはこういうもんだ、とばかりに、明るく答えた。

「お前が詮索してこなければ、俺は関知しなかったさ。哭臨の壁で、お前が俺を連れて行きたいと言ったとき、感じた。こいつ、俺を殺そうとしてるな、と」

「気付かれたか」

 オゼが平然と言った。バルクの背筋が再び冷たくなった。覚悟をしていても、いざオゼほどの男の殺気を浴びると、体が反応してしまうものだ。どれだけ場数を踏んでも、この寒気というものはどうにもならない。

 しかし、だからこそ、バルクの意識は明瞭になっていき、オゼの微かな動き、息遣い、視線の動きなどといったものを観察し続けることができた。集中力がなければ、そして恐怖を克服しなければできない芸当だった。

 オゼが、僅かに腰に吊るしている斧を意識しているのが分かる。殺気はバルクの勘違いではなく、オゼが無駄のない動きをしているがゆえ、行動の予測が容易だった。

 バルクは、オゼがあと三回呼吸したら、襲い掛かってくると感じた。これは勘でしかない。しかし、観察に基づく、バルクなりに根拠のある勘だった。

「しかし、お前でも、俺と一戦交えるなんてことはしないだろう」

 オゼが、バルクを見据えている。いつの間にか両者の距離は、斧の攻撃を避けようがないまでに縮まっている。

 オゼが深く息を吐いた。一呼吸。

「どうして?」

 オゼが、囁くような声で言った。

 バルクはあえてのんびりとした口調で答えた。

「俺と悪魔の戦いを見ていただろ。お前は俺に恐怖したはずだ。悪魔のほうがよほどマシだとも思ったはずだ」

 オゼは首を横に振り、吸ったばかりの空気を吐き出した。二呼吸。

「悪魔に対する戦い方と、人間に対する戦い方は、全く違う」

 バルクはオゼの胸の動きに注目していた。同時に、彼の吐き出す息の量にも気を配っていた。必ず、オゼは一気に息を吐いた後、素早く二度に分けて息を吸う。その二度というのは、斧に手を伸ばす勢いと、それを引き抜く勢いを得る為に行う。そして息を吐き出しながら、その死の一撃を叩きつけてくるはず。

「どう違うのかな」

 バルクは言い、オゼが息を吐き切るのを見た。次の瞬間オゼの手は斧の柄に伸びていた。全く同時に、バルクはアシェニスの寄越した衣服の中に潜んでいた短剣を引き出していた。

 両者の優位劣位を決定したのは、心構えの違い、これだけだった。バルクはオゼの動きを予期していたが、オゼはバルクの動きを予測できなかったと見える。斧を引き出す瞬間、呼吸が乱れた。その分、動きが遅れ、バルクに喉元を突き入れられる結果となった。

 兜は喉を保護していたが、短剣で強打されては、ただでは済まない。オゼは血の痰を吐き出し、尻餅をついた。少し遅れて、兜の重さに負けるように、背中をついた。

バルクはゆっくりとオゼに跨り、その短剣の刃を兜の間隙に差し入れた。

「少しでも動いたら、殺す」

 バルクは静かに告げた。取り落とした斧を拾い上げようとしていたオゼの腕が、ぴくりともしなくなった。起こしかけていた上半身の力も抜けた。

 しばらくオゼはバルクを睨み付けていたが、やがて笑い出した。

「参ったな。ここまでやるとは思っていなかった」

「俺も驚きだよ。アシェニスのくれた服の隠しに短剣が入っているなんて」

「俺が指示したんだ」

 オゼが愉快そうに言った。

「有事の際に、素早く対応できるようにな。寝巻きにも仕込んである。アシェニスは下着にも短剣を差し入れていて、全身武器だらけになっている」

「彼女を他の男に取られたくないから、そう指示したのか?」

「そう……、いや、違うな」

 オゼは汗をかいていた。息遣いも荒い。転倒したときに、どこか痛めたのかもしれない。

 それでも、オゼははっきりとした発音で言った。

「俺はアシェニスに強くなってもらいたかった。彼女を初めて見たとき、彼女は泣いていた。あまりに弱々しい女だと、俺は思った。誰かが守ってやらないと、とも。しかし同時に、強くなる余地があると思った。実際、元々強い部分はある。……俺がすぐに恩沢の壁に向かわず、旅を続けていたのも、彼女の知見を広めたかったからだ」

 バルクは一つの仮説を思いついた。しかし、それはあまりに馬鹿馬鹿しい発想だった。

「お前は、アシェニスに、恩沢の壁崩壊後も、生きていて欲しいと思ったのか?」

 オゼは無反応だった。兜の奥で、どんな表情をしているのか、このときほど気になったことはない。

「……俺たち【咎人】は恩沢の壁で死ぬことが運命付けられている。悪魔の女王との取引はそういう内容だ。しかし、アシェニスを道連れにはできない」

「それがお前の償いなのか。意図しないまま己の欲望を優先させてしまったことへの?」

「そうかもしれないな」

 オゼはふと笑った。

「お前は賢いな。どうしてそう、他人の話を次々と引き出せるのか、興味がある。同時に危険視せざるを得ない。これ以上俺の心の中を覗き込まれたら、俺は死ぬしかない」

 死ぬしかない。その言葉が、妙な現実味を帯びて迫ってきた。バルクは、瞬間、何かがおかしいと感じた。バルクの体から力が抜けていくのが感じられた。

「おい――」

「元々、俺は長く生きられる身じゃない。恩沢の壁に辿り着くまで生きていられるかも怪しかった。洪鈞の壁の医術師が死んでからというもの、俺の顔面に巣食う虫たちが勝手な振る舞いを続けている。俺がお前を共に連れて行きたかったのはな、実を言うと、俺を殺して欲しかったのさ。お前なら、俺を返り討ちにできるだろうと思ってな……」

 バルクはオゼの体から飛び退いた。まるでバルクの体が最後の栓だったかのように、オゼの顔面から黒い液体が噴き出してきた。それが変色した血液だということに気付くのが遅れた。

「オゼ、その血は――」

「虫どもの唾液の効果が切れたらしい。右眼からの出血が止まらない。だが、安心しろ。まだ少し話せる。……奇妙に思うかもしれないが、苦痛は少ない。虫どもが俺の頭の中まで食い荒らしたらしいな」

 冗談を言ったオゼは、軽く咳き込んだ。兜の中で、顔に巻きつけている布が剥がれつつあるのが見えた。

「オゼ、俺にできることは」

「お前が俺を助けて、何の得がある? それよりも、遺言といこう。俺の死体は森の中に埋めてくれ。くれぐれもアシェニスに見られないように。もしお前が悪魔と友達になっているというのなら、綺麗に食べさせてもいい。要は、アシェニスにこの顔を見られたくない。大して親しくもないお前に頼むのは、いささか図々しいと思わないこともないが、同じ罪過を背負った仲だ。それに、お前は俺が認めた唯一の戦士。安心してアシェニスを任せられる」

 激しく咳き込んだオゼは、慌てて兜を外した。兜が地面に落ちると同時に、胃の内容物がぶちまけられる。オゼは首を横に振った。

「さすがに、反吐まみれで死ぬのは気が進まないからな……、で、どうなんだ、やってくれるのか」

 バルクはオゼが長くないことを悟った。彼の全身が震えている。こんなところでまた一つ、死を見なければならないのか。

「死体の件は、構わない。しかし、アシェニスを任せるとは、どういうことだ」

 オゼは地面に肘をつき、喘ぎ喘ぎ言った。

「……お前は何をしようとしている? 俺には分かる。お前は本気で悪魔をどうにかしようとしている。大袈裟な話で、滑稽に聞こえるが……。人類を救えるとしたら、お前以外にいない。お前以外に託せそうな奴はいないのさ……」

 バルクはオゼが瞼を閉じるのを見た。黒い布は血塗れで、絶えず雫が地面を濡らしている。

 バルクは、とんだ買い被りだと思った。何せたった今、神と悪魔、両方に喧嘩を売ったところだ。それも全人類を巻き込んだ、迷惑極まりない行為だった。神々は当面、悪魔を倒すという共通の目的の下、人間に協力するだろう。しかし、戦いが終わればどのように扱われるか分からない。バルクはその壮大な賭けに、不安と期待を感じていた。他の人間ならば、期待などなく、不安だけを感じることだろう。

「オゼ、アシェニスはお前の死を嘆くだろう」

 バルクは、もはや意識があるのかどうか分からないオゼに、そう呼びかけた。

「オゼを殺したのはバルクだ、とアシェニスは考えるだろう。そんな俺に、彼女が従うだろうか。恩沢の壁までの道程を、彼女が受け入れるだろうか。……お前の言う通り、お前は数少ない【咎人】仲間だ。だから、その願いを聞き届けてやってもいい。ただし、それはアシェニス次第だ。俺はお前ほど、アシェニスに好かれているわけではないからな」

 バルクは短剣を拾い上げた。オゼに近付き、その喉に手をやる。脈が極端に弱い。それでも、血は勢い良く流れ続けている。ここまで血を出せば、病気は関係なく、もう助からないだろう。

 バルクは短剣の刃を、オゼの胸に突き入れた。

「一つ、確かなのは」

 バルクは自嘲気味に言った。

「お前はラクシューアの力なぞなくとも、アシェニスに好かれていたよ。俺も、お前とアシェニスほどの信頼を、ラミと築けたらな」

 万斛の後悔が、バルクの胸と短剣を捻らせた。オゼは声もなく絶命した。


   3


 夢を見ていた。顔のない男が、アシェニスを助けてくれる夢だ。

 この夢を見るのは何度目のことだろうか――アシェニスは夢の中で思う。

 この夢はあまりにも奇妙だったので、他の誰かに漏らしたことはない。アシェニスは茫漠とした曖昧な悪魔に追われていて、曖昧な輪郭の地形を、走っているのか歩いているのか曖昧なまま、逃亡を続けていた。

 この夢で確かだったのは、アシェニスは敵に向かっているのではなく、逃げているのだということ。逃げている方向は、太陽の位置からして南だということ。そしてもう一つ。夢の最後には、必ず誰かが助けてくれるということ。

 顔のないその男は、オゼに似ていた。しかし、最近出会ったバルクにも似ていた。要はたくましい男なのだ。それくらいしか情報がない。

 アシェニスは、しかし、今回見る夢がこれまでとは少し違っていることに気付いた。アシェニスを助けてくれた男の顔が見えないのはいつものことだが、どうやら首から上が、切り落とされているようだったのだ。

 首なし男はアシェニスに笑いかけた。顔がないのに笑ったというのもおかしな話だが、とにかく笑ったように感じられた。斧を使って悪魔を振り払ったその男は、霧のように不確かな悪魔に立ち向かい、姿を消してしまった。

 いつもだったらここで夢が覚めるはずだった。しかし、何も起きない。アシェニスは辺りを見回した。

「ここから、どうする」

 声がした。アシェニスは振り返った。そこに立っていたのは、またもや曖昧として実体が掴めない男だった。首なし男とは、また別の人物のようではあった。

「誰?」

「逃げるのか、男を追うのか。選べ」

 アシェニスは困惑した。夢だと分かっているのに目覚められないのが不思議だった。いつも、悪魔から逃れられると、これが夢であることを思い出すのであった。

「選ぶって……、どういうことだ」

「お前を救ってくれた男を追うのか、それとも、男の善意に応える形で、逃亡を続けるのか、ということだ。言い換えれば、お前は男が何を望んでいるのか推測しなければならない。自分を追ってくれ、そして礼をしてくれ、という男の下心を察するのか、それとも、お前を純粋に助けたいと思い、無事に生き延びて欲しいと願っていると解釈するのか。これはお前の都合にも関わる。それゆえに、その解釈も危険なものとなる」

 よく、意味が分からなかった。アシェニスは首を傾げた。

「選ばなかったら、どうなる?」

「死ぬ」

「夢の中で死んでも、目覚めるだけだろう?」

「そうだ」

 アシェニスは腑に落ちなかった。そして、何となく、男の消えた霧へと歩みだした。

「男を追うことを選んだのだな」

「今思えば、どうして逃げ回っていたのか、分からないな。あんな実体のない悪魔など、全く恐ろしくない」

「……そうか」

 最後の声が印象的だった。アシェニスの選択にほっとしたような、それでいて厳しさを滲ませるような、複雑な声音だった。アシェニスはふと立ち止まった。

 気付けば夢から覚めていた。そこは清流の近く、川辺で、アシェニスの馬が凝りもせずに水を飲み続けている。一瞬、バルクが生きていたのは夢だったのではないかと勘繰った。

 しかし、アシェニスの馬の近くの岩場で、ラミが腰掛けていた。足の先を清流に委ねている。その流れに体が持っていかれそうになるが、ラミは器用に川の水に浸す足の体積を調整しているようだった。

「ラミ」

 アシェニスが呼びかけると、緑髪の少年は首を傾けた。そしてアシェニスを見る。その瞳はこれまでになく虚ろだった。

「ラミ。どうした?」

 アシェニスは、ラミの顔を見て不安になったが、精一杯笑いかけた。ラミは反応せず、川の流れに目を戻した。

 アシェニスが周囲に目をやると、オゼの愛馬が近くの木に繋がれていたが、肝心のオゼとバルクの姿がなかった。

「オゼは何処だ? あいつが馬を繋ぐなんて、珍しいな」

 オゼは馬を信用していて、何かに繋ぐということがなかった。実際、オゼの愛馬は、見知らぬ人間におとなしく連れて行かれるほどおとなしくなかったし、オゼという主を裏切るほどぼんくらではなかった。

 アシェニスはその事実を声に出してから、嫌な気配を感じた。理屈ではない、ラミの虚無的な態度に感化されたわけでもない、いつもと違うという違和が、夢の異同と重なって、何かおかしなことが起こっているという予感に繋がったのだ。

「ラミ、私を無視しないでくれ。オゼとバルクは何処だ?」

 アシェニスがラミの肩を掴み、軽く揺さぶると、最初はされるがままだったラミが、次第に自分を取り戻していった。そして瞳に光を取り戻した。

「ああ……、アシェニスさん。お久しぶりですね」

「数日前に会ったが」

 アシェニスはラミがまともに話せることに安堵した。まだ少し元気がないが、事情を聞く分には充分だろう。

「お前の大好きなバルクと、オゼは何処に行った? 見当たらないのだが」

「バルク様ですか?」

 アシェニスはここで強烈な違和感に襲われたが、何が原因かは分からなかった。それに、今はどうでも良かった。嫌な予感が彼女を突き動かしていた。

 ラミはのんびりと周囲を見回した。

「見当たりませんね。どうしたんでしょう……」

 駄目だ。アシェニスは瞬時に悟り、川に落ちないように気をつけて、と言い残し、川辺から離れた。オゼの愛馬と目が合った。馬は、ある方向を見やった。アシェニスはその馬が人間並みに賢いことを知っていたから、その視線の方向に躊躇なく走り出した。

 森だった。黒い森が広がっていた。まるで平野の一地点に、木々の遵守すべき境界線が設けられているかのように、森は突然始まっていた。アシェニスはその境目に蠢く影を発見した。

「おーい!」

 日差しの方向の関係で、人影が誰なのか、よく見えなかった。森の影に隠れている。その人物は振り返った。

 それはバルクだった。

 首から下に、夥しい血をかぶっている。アシェニスの嫌な予感が、急速に輪郭を伴い始めた。

「……バルク?」

「アシェニスか。こっちに来るな。作業中だ」

 バルクは疲れた声を発した。彼が持っているのは、オゼが使っていた斧だった。刃が土にまみれている。硬い土壌を砕き続けた結果か、刃がところどころ欠けていた。

「おい。……どうしてお前が、オゼの斧を持っている」

「別に盗んだわけじゃない。すぐに返すさ」

 バルクは淡々と言った。そして穴を掘り始める。彼の足元には、得体の知れない黒い袋が置いてあった。

 その大きさに不吉な予感を覚えたアシェニスは、絶句した。しばらくその場に立ち尽くす。

 そして思い出した。最後に見たオゼの表情……、兜の中でよく見えなかったが、憤怒を湛えていたように思う。そしてあの万力のような腕の力は、アシェニスの首の骨が折れても構わない加減だった。

 アシェニスには意味が分からなかった。あの後、どうなったのか聞かなければならないと感じた。

「バルク……、教えてくれ」

 アシェニスはその場に膝をついた。黒い袋から血が流れ出していた。端から、人間の腕らしきものが垣間見られた。何かを認める前に、何かを理解する前に、アシェニスの頬には冷たい液体が伝っていた。

 バルクが作業を中断し、振り返った。アシェニスは涙を拭い、バルクを見据えた。

「何を教えて欲しいんだ?」

「オゼは……、死んだのか?」

「見るか?」

 バルクは袋を蹴飛ばした。ごろん、と飛び出したのは人間の上半身だった。その死体には首から上がなく、胸に大きな傷があいていた。

「うっ……」

 アシェニスは震えた。それがオゼであるとは思わなかった。いつもの彼は逞しく、いつもアシェニスを守ってくれていた。そこにあるのは青褪め、やせ細った肉体であり、全く特徴が合致しなかった。

「それは……」

「オゼだ。……お前を殺そうとして、俺に返り討ちにあった。危なかったな」

 バルクは無表情に言うと、服の隠しに手を差し入れた。アシェニスは、服に仕込んであった短剣を使ったのだと悟った。しかし、あんな玩具のような短剣で、オゼの戦斧に対抗し、勝ったというのか。

「オゼの最期は……」

「何を知りたいのかよく分からんが、こいつはお前を狙っていたんだぜ。二人きりになるのを待って、いつ襲おうか機会を窺っていた。お前を殺したくてうずうずしていたらしいな」

 アシェニスは耳を疑った。

「何を言っている? オゼが、私を殺したがっていただと? オゼは私を守ってくれていたんだ」

「全て教えるべきか、迷ったんだが」

 バルクは首の後ろを掻き、顔を顰めた。土にまみれた手を、軽く払う。

「お前に覚悟があるのなら、言ってやる。そして覚悟を示す為に、一緒に墓穴を掘れ。一人でやるには、幾分多過ぎる作業量だからな」

 アシェニスは立ち上がれなかった。いつまでも地面に膝をつき、全ての現実を受け入れたくない思いに駆られていた。

 オゼが死んだ?

 本当のオゼは、何処にいる?

 そこに、本当にいるのか?

 バルクがため息をつき、作業を再開した。アシェニスはそれを呆然と見つめていた。

 空高く昇った太陽の光が、アシェニスとバルク、そしてその黒い袋から飛び出した死体を焦がした。黒い森からは悪魔たちの眼光がいやに目立っていた。それはもしかすると、アシェニスの幻覚だったかもしれない。その眼光の一つが、オゼであって欲しいという、荒唐無稽な願望が現れた結果なのかもしれない。

 バルクが作業を終えた。斧を穴に投げ入れると、黒い袋から死体を引っ張り出した。下半身が現れたが、裸だったので、オゼかどうかは分からなかった。

 涙が止まった。何故泣いていたのか、アシェニスは自分で分からなくなった。突然、足に力が戻った。

 アシェニスは立ち上がり、走り出した。バルクがいよいよ死体を投げ入れようとしている。

「待て! 待ってくれ!」

 アシェニスはバルクに飛びついた。バルクが勢い余って、穴の中に落ちた。それほど深いわけではなかったが、それでも、バルクの体はすっぽりと埋もれてしまった。

「お前……! 俺を殺す気か」

 大袈裟ではなく、バルクは言った。アシェニスは首を横に振り、死体近くにしゃがみ込んだ。どうかしていた。これが本当にオゼかどうか、分からないじゃないか。顔もない、服も脱がされている、どうしてこれがオゼだと判断できるのか。

「この男はオゼじゃない、オゼではないのだ。オゼはきっと、私を驚かせようと……」

 言ってから、それがいかに説得力に欠けた仮説であるかを、身を持って知った。またもや始末の悪い液体が、双眸から流れ出してきたのである。

「このっ……! 気紛れな、私の目がっ……!」

 アシェニスは立ち上がった。涙を必死に拭う。バルクが穴から這い出してきて、気遣わしげな視線を向けてくる。

「そんな目をしないでくれ!」

 アシェニスは叫んだ。自身の体を抱え込むように、体を折り曲げた。胸の前で手を組む。

「まるで、これが、本当に……」

 それ以上は続かなかった。慟哭が何処までも高く続く空に響き渡った。

 まともに喋られるようになるまで、優に十分はかかった。その間、バルクは何も言わずに待ってくれていた。

 アシェニスはバルクを睨み付けた。

「頼むから、嘘だけはつかないでくれ。私は、オゼという男の最期を知りたい。いや、全てを知りたいんだ。お前の知っていることを、どうか……」

 バルクは、静かに頷いた。

「嘘はつかない。誓うよ」


   4


 嘘はつかないという嘘をついたバルクは、足元のオゼの死体を持ち上げた。アシェニスもそれを手伝った。泣き腫らした彼女の瞳の赤は、いっそうその色彩を鮮やかにしているように思われ、バルクは感心した。彼女はこの状況にあっても、力強さを失わない。

 オゼの死体を穴に投げ入れ、土を足で入れ始める。アシェニスもそれを手伝った。

 首のない死体は、あっという間に見えなくなった。深く掘り過ぎたらしい。アシェニスが目を覚ますのが、予定よりも遅かった、というのが原因だった。バルクとしては、アシェニスが目覚めるのを彼女の傍で待っているということができなかった。心を静めるのに、重労働への従事は最適だった。

 全てを埋め終えたとき、アシェニスが尋ねてきた。作業中、何度か涙を拭ったせいか、頬に土埃が付着していた。

「オゼの首から上は、何処に?」

 バルクは慎重に答えた。

「兜と一緒に、森に捨ててきた」

「……どうして?」

 バルクは深呼吸した。アシェニスがまた泣き出さないか、心配だった。

「病気だったんだ。オゼは、奇病に感染していてな。まあ、念の為に、な」

 これは嘘ではなかった。他人に感染するかどうかは、結局本人も言及しなかったが、首だけを別の場所に捨てる理由など、他に思い浮かばなかった。

 アシェニスは頷いた。

「そうか。お前は、オゼが私を殺したがっていると言ったな。オゼ本人が言ったのか?」

 バルクは頷いた。用意しておいた嘘を並べる。

「そうだ。オゼはお前を恨んでいた。昔、お前の親父さんのガイガンに、借金したらしいんだが、それで奴は奴隷同然の生活を余儀なくされていると思い込んだ。自分の実力ならばもっと良い生活ができると思い、ガイガンを逆恨みし、娘であるお前をも、復讐の材料として捉えた」

 アシェニスは半信半疑の表情をした。

「嘘だろう? オゼは、私を殺そうと思えば、いつだってできた」

「そうだ。しかし、アシェニス、お前が似非囚魔師なんぞを組織してしまい、下手に注目を浴びてしまったから、機会を失ったのだと話していた。そして、他の囚魔師が全滅したつい先日、この機会を逃すわけにはいかないと考えた」

「だが……」

 アシェニスの表情は優れなかった。バルクは続ける。

「お前をできる限り苦痛に満ちた死に導きたかったのだろう。まあ、オゼだって人間だ。合理性だけで生きているわけじゃない。そのときの感情で、お前を殺すことを躊躇していた、というのが、最も理解しやすい説明だろうな」

「……嘘をつかないでくれ」

 アシェニスは言った。バルクは内心慌てていたが、ゆっくりとアシェニスの表情を窺った。

「嘘じゃない。これが嘘となると、オゼが俺に嘘をついたことになる」

「嘘は止めてくれ。……分かった、オゼがさっき私を殺そうとしたのは、その嘘を成立させる為だったんだな?」

 鋭い。単なる泣いてばかりの小娘ではなかった。バルクは、オゼの期待の正体を見たような気がした。

 バルクも後になって気付いたのだ。オゼがアシェニスの意識を飛ばすほど強く首を絞めたのも、バルクに嘘をつかせる為だった。アシェニスがオゼと訣別し、バルクと共に恩沢の壁に向かうように。オゼは、恐らく、アシェニス以上に、バルクが生きていてくれて喜んだだろう――自分の代わりにアシェニスを託せる人間が現れたのだから。

「……こっちとしても、全て本当のことを話したほうが、楽だったんだよな」

 バルクは、アシェニスがこの事実をどのように受け止めるのか分からなかった。オゼに失望するか、その厚い信頼のまま彼の死を嘆くか、そして恩沢の壁に、バルクと共に向かおうとするか、あるいは、全く建設的な方針に興味を示さなくなるか。

 しかし、オゼは信じるべきだった。オゼの意志がアシェニスに届くことを。アシェニスの下す決断が、他の誰でもない、彼女自身の為のものであることを。

 バルクは強く感じた。目の前に立つ赤色の瞳の女は、確かにこれからの世を生き抜く力を持っている。それがオゼとの信頼を見せ付けられたバルクの感想だった。

 ラクシューアの助力がなくとも、オゼとアシェニスは良い関係を築けたのではないか。バルクは口中に苦いものを感じた。しかし、その苦さは不快ではなかった。

アシェニスにとってのオゼの死が、ちょうどバルクが今感じている苦味と同じような感慨を、彼女にもたらしてくれれば。オゼ、お前は満足なのだろう。それで罪が贖えたと思えるのだろう……。

「話すよ、全部。オゼの罪も……、ついでに、俺の罪も話すことになるのかな」

 アシェニスェは悪魔との取引について、何を思うだろうか。洪鈞の壁を破滅に導いたオゼの過ちを、どのように受け止めるだろうか。

 今のバルクにできるのは、オゼから伝え聞いた話を、忠実に繰り返すことだけだった。


 誰もが、悪魔を憎んでいる。

 それは人間が神々にそのように『設計』されたからだと、ラクシューアは言っていた。

 悪魔の形相を醜いと思うこの気持ちも、創られたものなのだろうか。

 では、何かを美しいと思う心も?

 目の前で気丈に話を聞き続ける、この美しき赤髪の乙女を、素直に美しいと認識できるのは、神々の功労だと。……本当にそうなのか?

 神々の意志に逆らう決意をしたアシェニスは、本来、醜悪な心を持っているはず。しかし、バルクにはそれが美しいと感じる。バルクの持つ眼は歪んでいるのか……、いや、そんなはずはない。

 神々の手から、人間は歩みだしている。だからこそ己の欲望と神々の意志を同じ天秤にかけることができる。

「私は」

 アシェニスはオゼの墓の前で、ゆっくりと言った。そこが墓であると思う人間は、他にいないだろう。目印になるものを立てなかったのだ。

「バルク、あなたの話を信じることにする。そして、オゼを憎く思う。私の故郷を奪ったのだからな……、これはどうしようもない」

「ああ」

 バルクは頷いた。アシェニスはもう泣かなかった。もう彼女は、何かを解釈する必要はない。ただ、自分の道を模索するだけ。

「しかし、私は、オゼを信頼していた。ラクシューアの魔力が、私をオゼに魅力を感じるように仕向けたのだと、あなたは言うが、私はそうは思わない。ラクシューアがいなくとも、私はオゼと信頼し合っていた……。それだけは、確信できるんだ。他の何が分からなくとも、それだけははっきりと、言える」

「……ああ」

 ラミが近くまで来ていた。話を聞いていたのかもしれない。バルクたちから一定の距離を保っているが、バルクが声をかけても不自然ではない距離だった。

「ラミ」

「バルク様、アシェニスさんを連れて行かれるのですか?」

 アシェニスが不思議そうな顔をした。しかし、何も言わなかった。

 バルクは、ラミとの関係も、信頼で修復できないかと考えた。オゼは罪人であり、それでも、アシェニスの信頼を維持している。それはその人間がどのような過去を持ち、どのような負い目があったのかなど関係のない、魂の共鳴とでも言える付き合いがあったからだろう。バルクは、自分を道具だと認めるラミとこそ、そのような信頼を築くべきだと感じた。

「そうだ、アシェニスを恩沢の壁に連れて行く。そこで、悪魔と戦う為の地盤を築く」

 バルクは答えた。ラミが普通に話せていることが驚きだった。衝撃から覚めたら、案外普通に振る舞えるのか。事態は、それほど深刻ではなかったということか。

「ですが、もし、聖像が力を失ったら……」

「どちらにせよ、戦わなければならない。俺たちは、もう戻れない」

 バルクは、ラミが神々に逆らいたくないことを知っていた。巻き込んだのはバルク自身だ。それでもあえて、俺たち、と言った。ラミは首を横に振った。

「……僕は、バルク様の道具です。バルク様が戦うときは、僕もそれに従います。ですけど、僕の力は神には通じませんよ?」

「俺だって、神と戦おうだなんて考えてないさ」

 バルクは言い、アシェニスが怪訝そうにしているのに頷いてみせる。

「……ただ、神にも背負ってもらいたかっただけだ。悪魔と死闘を繰り広げるべきは神々だ。俺たちに剣を持たせて、自分たちだけふんぞりかえっているのは、見ていていらつくだろ?」

 そのとき、森がざわついた。アシェニスが体を強張らせた。バルクは、ついに始まったのか、とラミを見た。ラミは震えていた。ラクシューアが湖底にある地下への入り口をこじ開け、中に侵入する。そうなれば神々は悪魔と戦争に入る。ラクシューアは、今日中に戦争の準備を万端整え、侵攻すると宣言していた。それが始まったのか。

 しばらくして、アシェニスが呟いた。

「静かだ」

「……ああ。静かだ」

 バルクは歩き出した。ラミの傍に寄り、手を差し出す。ラミはじっとそれを見つめるばかりだった。

「あんなに、俺と手を繋ぎたがっていたのに」

「命令してください。僕は、道具ですから」

「無理するなよ」

 ラミは首を振った。

「これが自然な形なんです。僕は、人間の助力の為だけに創られた存在なんですから」

「そうかもしれない。それに誇りを持つのは結構なことだが」

 バルクはラミの手を強引に取った。

「オゼとアシェニスが羨ましいと思うのは、俺だけか? お前は俺の道具だ、しかし、もしそうなら、どうだっていうんだ? 道具と人間がよろしくやってたら不自然なのか?」

「僕は――」

「幻想なんかじゃない。俺とお前が手を繋ぐのは、幻想なんかじゃない」

 やっと言えた。オゼたちと会わなかったら、果たして言えたかどうか。バルクはラミを引っ張った。

「あの、バル……」

「バルク様、は止めろ。そんな身分じゃねえ。俺は【咎人】だぞ」

 バルクは振り返った。ラミは唇を噛み締めていた。涙を耐えているのだろうか。しかし、流れない。ラミは立派に振る舞おうとしていた。バルクの道具であることを誇りに思いつつも、彼の良き友人として生きていくことを決意しているかのように、何度も頷いた。

「僕は……、まだ夢を見ておてもいいのですか、バルクさん」

「いい加減目覚めろよ、バカ。俺と手を繋いでいるお前は夢幻なのか?」

 ラミの後ろで、アシェニスが笑っているのが見える。オゼの遺志は受け取った。アシェニスは守る。そしてラミも。それが悪魔を呼び寄せた【咎人】のせめてもの贖罪であったし、バルクの選んだ道だった。

 何もかもが不安だらけだった。バルクはそれでも確信していた。

 この生き方に間違いはない。

 多くの罪を背負った、多くの人を死なせた、誰も守れなかった。

 それでも、間違ってはいない。

 言い訳ではない。

 しかし、言い訳と取られることを恐怖するわけでもない。

 どれだけの非難を浴びようとも、バルクは神々との訣別、悪魔との取引を恥じなかった。

 生きる。

 それだけの目的の為に進むことを、恐れない。


   5


 バルクはそれが自分の思い過ごしであることを祈った。しかし、どうやら苦難はすぐそこまで迫っているらしい。

 バルクが寝台から上半身を起こし、億劫そうに立ち上がって外套を纏うと、少し離れた位置で本を読んでいたアシェニスが、安楽椅子を軋ませて振り返った。

「どうかしたか?」

 バルクは首を横に振り、部屋の扉に手をかけた。

「何でもない。すぐに戻る」

 哭臨の壁の南に位置する、幽谷の壁。その中にある粗末な宿に、バルクたちは立ち寄っていた。悪魔の攻勢とは無縁の地だったが、これからは襲撃から逃れられないだろう。

 要塞の末端部にある宿からは、要塞の外の様子を見ることができた。それがこの宿の売りらしいのだが、単に住居区画から排除されて要塞の基部に宿を建てざるを得ない状況に追い込まれただけだ。

 ごつごつした石畳の地面に、オゼの愛馬のプルが不平を漏らしているところに、ちょうど出くわした。バルクは厩もない路上に繋がれている駿馬の首を撫でて、宿から少し下ったところにある広場に向かった。

 外は薄暗い。もうすぐ日が沈む。おぼろげな視界の中に、白いドレスを着た少女が、噴水近くの長椅子に腰掛けているのを見た。

「牧歌的なのよね」

 少女の近くに行くと、彼女は物憂げに述べた。

 バルクは首を傾げた。

「どういう意味かな、お嬢さん」

「噴水なんて作る余裕があったら、投石器の一つでも設置しないとね。ここは石の街なのだから」

 同感だった。他にも、詩人や歌い手、役者などといった何の役にも立たない職種の人間が、この要塞には多かった。誰もがこの要塞は安全だと考えている。数体の悪魔を倒すだけで、この要塞の兵士は英雄扱いされるのではないか。バルクは住民の様子を見る限り、そんな印象を持った。

 バルクは少女の隣に腰掛けた。

「家に帰らなくてもいいのかな、お嬢さん」

「あら、帰ってもいいのかしら」

 バルクは少女を睨み付けた。白いドレスから突き出たその細い手足も、雪のように白かった。かと言って不健康そうには見えない。冷たい血液が彼女の肉体を駆け巡り、激しく生存を希求しているのが感じられた。

「帰ってもいいさ。人には誰でも、帰るべき場所がある」

「あなたはどうなのかしら、バルク=ジェイマ」

「……俺にもあるはずだ。これから見つけるつもりだ」

 バルクは噴水の向こう側、水の膜を通して見える子供たちの集団を見つめていた。歪な形をした小さな球を蹴り合っている。何処に転がるのか予測できないので、子供たちが甲高い声を上げながら笑っている。

「……何が面白いのかしらね」

「分からないのか? 予想外のところに転がるのが、興味深いのさ。必死に次は何処に転がるのか予想するが、大抵は外れる。見事当たったときは、まさに英雄気分さ」

「……あなたの心境も、似たようなものなんじゃない? 剣の精は何処?」

 バルクは嘆息した。

「お前も、単身要塞に乗り込んでくるとはな。お前が商隊にくっついてやって来たときは驚いたぞ。宿の部屋で情けない声を出しちまった。死にに来たかと思った」

「すぐに迎えに来てくれれば良かったのに。結構、あなたを探し出すのに苦労したのよ」

「女は焦らせば焦らすほど、楽しんでくれるものなんだろ。人間世界を見学する時間を与えてやったんだ」

「忘れたの? 私が聖像の周辺に要塞を築き上げたのよ。原初の時代だけどね。改めて見て回る必要はないわ」

「そうだったっけ……」

 バルクは言い、ラクシューアが寂しそうにしているのを見て取った。

「……自分で作り上げたものを壊す気分はどうだい、ラクシューア」

「その名は捨てたの。今は名前なんて持たないわ」

「不便だな。何て呼べばいいんだ?」

 少女は苦笑した。

「私を呼ぶ者は、あなたたち以外にいないわ。あなたたちが不便に思おうと、私たちは敵同士なのだし、一向に構わないわ。……そうね、さっきの質問に答えるなら、私は何かを壊すことにいささかの苦痛も感じない。もう、私のものにならないと分かったものを、必死に保全しても、意味はないでしょ?」

「そこが人間と悪魔の――神々の、と言ったほうがいいか――最大の違いかな。愛着はないのか、ええ?」

「余計なお世話よ。過去にしがみ付いているだけでしょ、人間は」

 バルクは、ラクシューアとの会話が楽しいことに気付いた。ラクシューアとて、それほど人間に憎悪を抱いているように見えない。彼女はひたすらに神々を憎んでいる。人間に裏切られたことを恨んでいる。それでも、彼女はどこかさっぱりとした印象を人に与える。バルクはこの少女を斬るべきか迷っていた。

 悪魔を倒すには、この少女を斬らなければならない……。

「一つ、確認をしておきたいんだ。悪魔は【正統】から【異端】へと変貌した。【異端】はお前が完全に掌握できる。それゆえに、その生産さえもお前が制御しているのだろうが、本当に、お前が死んでも生産が続けられることはないのか?」

「私が死ねば悪魔は増えない。そのように導いたわ」

 ラクシューアはにべもなく言った。

「そうじゃないと、私の死後、地上は悪魔で埋め尽くされてしまうじゃない。まあ、悪魔の増殖を盾に私への攻撃を躊躇させることはできるけれど、全ての神々が賢慮を美徳としているわけではないからね。……でもこれは要らぬ心配だわ。私は絶対に死なないもの」

「どうして?」

「もし、私が死ぬような神ならば、神王たちは数千年も前に私を処刑したでしょうね。私は死なない神なの。取り柄らしい取り柄はそれくらい」

「死なない……?」

「ええ。神々の中で最も死ににくい、と言い換えてもいいわ。私は誰にも触れられないの。神々が、あの円卓の七人の老人たちが、私を指で弾いているのを見せたでしょう? 彼らでさえも、私に直に触れることはできなかった。触ろうとすると、私の体は勝手にそれを避けてしまうの。いかなる攻撃も、私は避ける。神々の中でもちょっと変わった体質なのだけれど」

「……なんだ、それは。しかし、怪我だらけだったじゃないか」

「自分で自分を罰したからね。……つまり、私が死ぬときは、自分で自分を殺すときだけ。あなたと剣の精がどれだけ頑張っても、私に傷一つつけることができないわ」

 バルクは空を仰いだ。呆れてしまう話だった。

「早く教えてくれれば良かったのに。そうすれば、俺の選択も違ったかもしれない」

「どう違うの?」

「神々にではなく、お前に味方したかもしれん」

「冗談でしょ?」

「半分ね。絶対に勝てない相手と戦うのは、空しいじゃないか」

「あら」

 ラクシューアは意地悪く笑った。

「そういう戦いしか、してこなかったんじゃないの? 哭臨の壁の英雄さん」


 バルクは宿に戻るなり、アシェニスを指差した。

「悪魔たちが来るぞ。戦いの準備だ」

 アシェニスはきょとんとしていた。ラミが寝床から這い出てきた。

「バルクさん、本当ですか? ついに動いたのですか」

「ああ。宣戦布告を頂戴してきた。数はざっと二千ってところらしい。この要塞で、既に【咎人】が出ているとの示唆も受けた」

「示唆って……」

 アシェニスは憮然としている。

「まさか、ラクシューアと話してきたのか?」

「ああ」

「私も混ぜろと言っただろう!」

 アシェニスは激怒した。

「旅の道中、何度も二人だけで話をして。悪魔の総大将と人間の英雄が、親しげに四方山話に花を咲かせているんじゃない!」

 アシェニスが、オゼに関する話をラクシューアから引き出したい気持ちは分かるが。いや、分かるからこそ、二人は会ってはならないという予感があった。そもそも、ラクシューアがオゼを覚えているかどうか、怪しいものだ。

「とにかく、今はこの要塞を守る。ここの守備隊は、まだ悪魔の来襲に気付いていないようだが……」

 外は既に闇に包まれていた。バルクはラミとアシェニスを伴って、宿を出た。耄碌しつつある宿屋の主人に、さっさと逃げたほうがいいと伝えるのを忘れなかった。

 宿を出て、申し訳程度に盛り上がっている防壁によじ登ると、要塞の外の様子を見られる。闇の中で、ぽっかりと白い影のようなものが見えた気がした。

 少女は平然と大門を通り抜けて、平原の彼方にて控える悪魔の軍団と合流しようとしていた。ふと立ち止まり、振り返りざま笑顔を向けてきたような気がする。

「私は永遠に戦い続ける覚悟があるわよ。あなたは?」

「俺もだ。お前が俺に不死の力を与えてくれたなら、俺も永遠に悪魔の敵で在り続ける」

 会話はなかった。しかし、戦い続ける者としての交流が、確かにあった。

 バルクは馬の鞍に吊り下げている袋から、調達したばかりの小剣を引き出した。

「ラミ、俺はお前を道具として扱うことを恐れない。しかし、それでお前が何かを失ったつもりでいることは許さない」

 ラミは頷いた。

「お前は俺が守る。……その言葉が持っている本当の意味は」

「分かっています。……行きましょう、バルクさん」

 バルクとラミは手を繋いだ。次の瞬間、少年は剣へと変貌し、バルクにずしりとした重みを伝えてきた。

 要塞の一端を切り飛ばし、道を作った。住民が堅固だと信じ込んでいる要塞にはあっさりと穴があき、そこからバルクは外に出た。

 戦いが始まる前、必ず、バルクはラミと手を繋ぐ。戦いが終わったとき、まだ手が繋がっていることを信じて、戦い続ける。

 踏みしめた地面には、背の短い草が茂っており、これから戦火によってどれほど焼け死ぬのか楽しみだった。

 人間は闘争の生き物である。

 悪魔を駆逐する為に生まれたのが人間なのだから、当然である。

 バルクは、しかし、この戦いを好む心を、神々に翻弄されている証とは取らなかった。

 バルクは走り始めた。背後からは、アシェニスが何か叫んでいるのが聞こえる。恐らく彼女はこれから、幽谷の壁の守備隊に緊急事態を知らせに走るだろう。バルクを追うなんて野暮なことはしない。

 と思っていたら、アシェニスがオゼの愛馬に跨って追随してきた。

「一人だけ戦って英雄気取りは許さんぞ!」

 風に靡く赤髪、戦いに恐怖と嫌悪を示しながらも、やはりどこかで楽しみにしている表情。つくづく魅力的な女だった。バルクはそれを再確認し、にやりと笑った。

「お前なら、神々との共同戦線を張れるかもな。俺は嫌われているから駄目だが、お前は何の罪もかぶっていない」

「いまさら私を置いていくつもりか? 私はお前についていく。それがオゼの教えてくれた道だ」

「世界各地で神々が人間の戦力を支援し始めてる、とかいう話を、ついさっきラクシューアから聞いたんだがな」

 バルクは前方に、悪魔ではない、それよりも更に巨大な影を見たような気がした。もしかすると単なる小山かもしれない、しかしバルクにはその正体が分かっていた。

「大変だな、ラクシューア。すぐそこに神の尖兵が潜んでいたわけだ」

 閃光が戦場に走った。一瞬浮かび上がった平原の闇の奥には、ずらりと並んだ悪魔の軍団、その中央で、何処から持ってきたのか豪華絢爛たる椅子に腰掛けるラクシューアがいた。そして、その悪魔の軍団の後背からは、白い髭を地面まで垂らした巨人が迫っていた。それは悪魔を踏み潰してしまえるほどの大巨人であり、双眸には知性のきらめきが認められる。

「神、我が主」

 バルクは呟いた。

「会ってみたら、案外、強そうじゃないか」

 バルクは雄叫びを上げた。ラミの剣を振り回し、悪魔たちを威嚇する。その神気の波に、悪魔たちは慄いた。椅子を支えていた悪魔が逃げ出し、ラクシューアが椅子から転げ落ちた。しかし、彼女は地面に溶けるかのように、そのまま姿を消してしまった。

 バルクは悪魔を一体斬った。進む。アシェニスが驚いている。悪魔たちはバルクを無視して、要塞へと進撃を開始していた。

「相手をしてくれないそうだぞ」

「それならそれでいい。正面から斬るのももちろん楽しいが、背中から突き殺すのも、なかなか趣があるものだ」

 要塞のあちこちから、悲鳴にも似た警告の声が発せられた。壁という壁に、次々と松明が灯された。敵にここを攻めてくださいと教えているわけか。バルクは鼻で笑った。

 貧弱な弓矢の雨を見ながら、バルクは、要塞の壁が削られていくのを見た。バルクの開けた穴から、悪魔たちが侵入している。そこでは混乱が大きくなっているようだ。

 バルクは苦笑した。

《あの穴が原因で要塞が落ちてしまったら、バルクさんの責任ですね》

「ちょうどいい。あれくらいの穴が」

 バルクはアシェニスと頷き合うと、悪魔の軍団の中央部に固まっている悪魔の群れを目指した。ラクシューアの代わりに指揮を任せられた悪魔がいるかもしれない。

「責任ってものが必要なんだ。俺が途中で逃げ出さないように。あれくらいの穴が、ちょうどいい」

 しかし、そんなものはもう必要なかったかもしれない。どのような形であれ、バルクは既に無数の人間の命を背負っていた。哭臨の壁の崩落、グリアや、オゼの死。それらがバルクを駆り立てる。

 悪魔を倒せと。神に屈するなと。

 ラクシューアも同じようにもがいている気がした。似ているのか、俺たちは。

 しかし、あの女神とバルクとでは、決定的な違いがある。

 バルクは振るう。まだぎくしゃくした、しかし何よりも守り通したいと思える、その剣を。

 闇を切り裂く光芒、それが闇だけではない、己の運命をも切り開くと信じて。

 

                                     〈了〉




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