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咎人の砦  作者: 軌条
3/4

傾くラクシューア

   1


 悪魔の声を聞いてみよう。バルクはラミが姿を変えた剣を振り回し、そう決心した。

 ラミが何者なのか、謎は残っている。悪魔の総大将たるあの少女についても、悪魔の妙な動向についても、知りたいことが山積している。

 誰も教えてはくれない、ならば悪魔に聞くしかないではないか。そして、悪魔の中でまともに話ができそうなのは、あの少女――赤い瞳の少女しかいなかった。

「栄えよ」

 少女の声が蘇る。バルクは剣を振った。乳白色の膜が、空気中を漂い、無数の空気の泡となって弾ける。それは悪魔たちにとって脅威となるようだった。悪魔たちが慌てて退散していく様子が面白い。

「栄えよ、か。人間たちには、滅せよ、かな?」

 聖像が光を強めていた。神の奇跡だ、と騒いでいる人々の声を聞き、もう大丈夫だろうと判断して、ラミと抱擁していた少女を聖像の傍に行かせた。

「お前ら、もう争う必要はないだろう。聖像はお前ら全員を守ってくれる。あとは、俺がなんとかするから。一日かそこらでは終わらないかもしれないがな」

 その場にいた全員が、バルクの狂気じみた言葉に目を丸くした。この悪魔の大群を掃討するというのか……、たった一人で?

 しかし、いったいいつ紛れ込んでいたのか、グリアが聖像の陰から現れた。

「手伝おうか、バルク。一人じゃきついだろ。切り込み隊は威勢の良いのが残ってるよ」

 バルクは首を横に振った。

「俺は一人じゃない。ラミが力を貸してくれる。……これで駄目だったら、俺は半人前以下だったってことだ」

「ラミ、ね」

 グリアは呆れたように言った。彼女の全身には傷が無数に走っていたが、義眼だけは聖像の光に負けない輝きを放っていた。黒髪が風に靡き、彼女の顔の傷を隠した。一瞬だけ、グリアは正真正銘美しい女の顔を取り戻した。これも聖像の加護か。

「ラミがどうして剣に変じるのか、意味が分からないけど。応援してるよ。悪魔を倒せるのなら、なんでもいいや」

 バルクは頷いた。そして、聖像に縋る人々を見やった。百人もいない。これが哭臨の壁の生き残り。バルクが十年以上戦ってきて守り続けた結果。

《むなしいの、バルクさん。悲しんでいるのですか?》

 ラミの声が聞こえてきた。バルクは氷のような鋭さと濃緑の温かみを併せ持った剣を見下ろした。

「ラミ。お前には分からないだろう。俺は……、この日を予感していたんだ」

《予感?》

「そうだ。十年前に紫色の湖を見たとき、あれが悪魔の根源だということが分かった。悪魔は永遠に作り出されるってことが理解できた。人類は滅びるしかないって、本気で思った。俺は、本気でこの要塞を守ろうと思ったことはなかったんだ」

 バルクはラミにだけ聞こえるような、かすれた声を発した。グリアや他の人間たちは、バルクが剣に語りかけ、何らかの儀式を行っていると思ったようだ。

《バルクさんは立派に戦いました。この要塞の誰よりも》

「自己満足に浸りたくはないんだ。俺は死ぬのが怖い。だからこそ……、いつか死ぬ日を渇望していた。俺は望まない形で、ふとした瞬間に死にたかった。生への執着、それが俺を苦しめる前に、全てを終わらせたかった」

 バルクは目の前の悪魔たちを見つめた。彼らは行儀が良いとさえ言えるほど、聖像から一定の距離を保って並び立っていた。

「だが、俺は恐怖してしまった。俺も、この要塞の連中と同じように、現実から目を逸らしていたかったんだ。それは許されない。ラミ、お前のことは正直言ってよく分からん。人間じゃなくて道具だと言い放ったお前のことを、理解し切れていない。だが、お前がこの戦いの為に哭臨の壁に参戦したのなら、俺はお前を尊敬する。俺はお前のその勇気に応えなければならない。俺の義務だとかお前の権利だとか、そんな小難しいことは言うつもりもない。ただ、俺はお前の力になりたいんだ。この腐った世界で、たった一人輝いて見えたお前は、生きるべきだ」

 バルクは言葉を切った。照れ隠しというわけではなかったのだが、改めて言うのには、意外と勇気が必要だった。しかし、バルクの意志に揺らぎはない。

「ラミ、お前は俺が守る」

 ラミが、剣の姿のまま、微笑んだのが分かった。

《バルクさん、僕はあなたの剣で良かった。僕は、あなたの剣で在り続ける》

「俺はお前の主人で在り続けよう。お前という剣を、失いはしない」

 剣を振った。悪魔たちが乳白色の膜に気を取られている間に、バルクは開戦した。跳躍し、内壁の二階の吹き抜け部分で、逃げ遅れた人間の肉を舐めていた悪魔の胴体を両断する。緑色の臓器が飛び散り、人間の頭と思われる残骸が飛び出してきた。

「はしたない真似をするなよ。お前らの相手は、生きている人間だろうが」

 バルクが悪魔を斬る瞬間、ラミが嫌悪の感情を抱くのが感じられた。しかしラミは、それを己の宿命として受け止めている。戦いが終わったときならともかく、今は下手に心配して、悪魔たちに隙を見せたくはなかった。

 ただ、最初だけは確かめておかなければならないと感じて、尋ねた。

「お前は人間か? 剣か?」

《剣です。僕は、剣です》

「そう、お前は、今は剣だ。しかし感情も意識もある、特別な剣だ。お前は普通の剣と同等、いや、それ以上の剣になることができるか?」

《呑み込んでみせます。僕は、バルクさんの足手まといになりたくありません》

「そうじゃないんだ。お前は自分の意志で、全てをやり遂げなければならない。俺に使われているから悪魔を倒すのではなく、お前が悪魔を倒したいから、俺がお前を振るう。分かるか?」

《はい。……それが理想的な形なんですね?》

「互いに互いの力を引き出す。それが重要なんだ。俺たちは一人だけでは生きていけないのだから。理想かどうかなんて、分からないけどな」

 バルクの周囲で、破魔の力が発散した。その圧力だけで悪魔の多くが吹っ飛ばされた。凄まじい力だった。聖像の力と呼応しているのか、ラミの力が増幅しているのが感じられる。初めてラミの剣を手にしたのは二日前だったが、そのときの数倍の力だ。

「俺たちは特別じゃない。俺は臆病な戦士に過ぎないし、お前はたまたま剣に変身する宿命を背負った、平凡なガキだ。それを忘れるな……。俺たちは特別じゃない」

 要塞を埋め尽くす悪魔たちは、バルクの剣の神気に恐れ慄き、遠巻きにした。聖像の威光も強まり、退散を始める悪魔も見られ始めた。しかし、悪魔の数は数万、下手をすれば数十万はいるのではないかという状況で、それで少しでも戦いが楽になるということはありえなかった。

 近くにいた悪魔を斬る。他の悪魔たちは反撃をすることさえ思いつかないらしく、あっけなく逃げていく。バルクは、あまりに手応えがないので、ラミに調子を落とすように言った。

《でも、力が溢れ出てくるんです》

「無限に力が湧き出てくるのなら、こっちだって歓迎する。余計な戦術を組み立てずに済むんだからな。しかし、そんなことはないんだろ? もっと視点を高く持とう。俺の技術で、お前の出力不足は補うから」

《……分かりました。張り切っちゃったんですよね。怖いというのも、あるんですけど》

 悪魔の海にぽっかりと空いた空間に、バルクは立った。ラミの長剣の光が弱くなり、それに伴い聖像の聖域も狭まった。人々が恐怖のうめき声を漏らした。

「心配するな、俺たちが守る」

 バルクは言った。聖像の足に凭れたグリアが、腕を振り上げた。

「あんたは私たちの希望だよ! 止まってる暇はないよ!」

 希望。何という重さの言葉なのだろう。しかし、一人で背負うわけではない。バルクは走った。悪魔の海を切り裂く一陣の光は、すぐに、バルクが走り去った後に埋め尽くされてしまう。しかし、バルクはあの悪魔の総大将たる少女の姿を探していた。要塞の外にいたはずだが、今は何処に?

 血気盛んな巨大な悪魔が、ときどき襲い掛かってきた。大きな体だと、神気の効きも弱くなるのだろうか。それで剣の神気に近付けるのか。それは分からなかったが、ラミの剣の敵ではなかった。バルクは急所を精確に貫き、消耗を最小限にしながら、敵を粉砕した。それでも、猛烈な勢いで怪物の体は灰と化し、ラミの剣の威力は悪魔たちを怯えさせるほどだった。それはそれで小気味良かったが。

「もっと弱くていい。お前はもっと気楽に行け」

《分かりました。僕はバルクさんを信じます》

 バルクは、ラミが自分を信じるしかない状況だということを知っていた。だから、ラミがどれだけバルクを信じる、と言っても、鵜呑みにはしなかった。

 というのも、ラミはここに来たときから、バルクしか頼れる戦士がいないことを知っていた。バルクがどれだけ不甲斐ない男だったとしても、ラミは信頼の強度を弱めはしなかっただろう。ラミにとって、自分を使ってくれる人間が全てなのだから。

 バルクはその絶対の信頼に甘えたくなかった。そしてこの勝負に勝ちたかった。その為には、ラミにもっと力を抜いてもらわなくては。

「生硬さが目立つ少壮には経験と落ち着きが何より必要……、ってとこかな」

 内壁に張り付く悪魔たちを薙ぎ払い、憎悪の眼差しを一身に浴びた。内壁の門は頑丈な鉄製にも関わらず、悪魔たちの牙や爪が当たって半壊している。バルクは今自分が全く脅威を感じず、悪魔の群れの中に立っているのが不思議に思えた。神にも似た力を得たのではないかという錯覚がある。全てラミの力だというのに。

「ラミ……、お前は本当に、何処からやって来て、何を背負って来たんだ。俺でなくとも良かったんじゃないか……」

 剣が緑の光輝を放ち、バルクを慌てさせた。

「どうした」

《あそこです、バルクさん。中壁の、休憩所近く!》

 吹き抜けの渡り廊下を見上げたバルクは、黒い悪魔の群れに混じって、白いドレスを来た人影が、ゆっくりと視界から消えるのを見た。バルクは一瞬それが何なのか分からなかったが、あの悪魔の少女であると気付いた。

「総大将がこんな近くに来てくれていたとはな」

 バルクは階段を埋め尽くす怪物たちを切り伏せて、階段を駆け上がっていった。悪魔たちは剣の神気から逃れようと、我先にと階段から転げ落ちていった。

「ところで、お前、どこに目がついているんだ?」

《目なんかついてませんよ! 今はあの女の子です……!》

 バルクは、戦場で聞いたラミの叫びを思い出した。

「お前、あの少女のことを知っているのか?」

《ええ。森の中で会いました》

「……そうか」

 バルクは言葉を失った。

 森の中で。バルクもまた、あの少女とは初めて会った気がしなかった。

 中壁を横断する回廊を駆け抜けた。広場から追い出された比較的力の弱い悪魔たちがたむろっていたが、それを吹き飛ばした。

 少女が部屋の扉に手をかけて待っていた。胸元のざっくり開いたドレスを着ているが、親の衣装を拝借している子供のようにしか見えなかった。大きさが合っていない。

 黒髪が印象的な少女だった。しかし、半壊した壁から差し込んでくる光を浴びると、赤くも白くも見えた。肌は病的なまでに白く、瞳は赤い。

 人間にしか見えないが、悪魔たちが少女を襲わない点を見ると、彼女がただならぬ存在であることが分かる。

 少女はにこりと微笑むと、怯える巨人の悪魔を一体捕まえて、その肩に乗った。途端、その悪魔は自信満ち溢れる表情になった。

 バルクは距離を保ったまま、問いかけた。

「お前は何者だ。悪魔の総大将ってところか?」

 少女は答えなかった。バルクを見てはいない。ラミを――長剣だけを見据えている。

「ラミ、お前と話したがっているようだぞ」

 そう話しかけた瞬間、ラミは少年の姿に戻っていた。バルクと手を繋いだ状態で現れたラミは、彼には似合わない締まった顔をしていた。

「また会いましたね。女王様」

「……あなたは、剣の精、とでも呼べばいいかしら」

 少女は言った。平坦な口調だったが、それほど違和感はなかった。人間らしい最低限の抑揚というものを、言葉の中に織り込んでいる。ますます彼女が悪魔の女王とは思えなくなった。普通の少女にしか見えない。

 ラミは頷いた。

「どうとでも呼んでください。僕の名前はラミですけど」

「そう。随分と優秀な戦士を捕まえたじゃない。あなたなしで、悪魔を百体近く倒してくれたわよ。私の『乗り物』もね」

 乗り物、というのが、あの太鼓腹の馬の悪魔だということは分かっていた。悪魔の女王はひどく寒そうにして、巨人の毛深い体に寄り添った。

「乗り物兼寒さを凌ぐ家でもあったわ。剣の精を使いこなせる人間なんて、そう簡単には見つからないと思っていたけれど、まさか哭臨の壁に――そういう名前だったわよね――いたなんてね」

 バルクは彼女の声を吟味していた。聞いたことがある。十年前の記憶を探った。この声は――俺と悪魔の取引をした、あの声ではないか?

 ラミが前に進み出た。バルクとは手を離さない。

「僕たちの強さを見たでしょう? あなただって倒せる力だ。この軍勢を森に帰してください。そうすれば、追いません」

「やがて戦う運命にあるのに、戦いを先送りにして。逃げたいのはあなたじゃないの?」

 悪魔の女王は言い、薄く笑みを浮かべた。ラミは憤激しているようだったが、何も言わなかった。少女を睨み付けている。

 バルクは会話に入れないものか、試してみた。

「悪魔の女王、あんたは何者だ。悪魔の母親ってところか?」

 そこで少女は嫌悪感を露にした。

「母親? 冗談でしょう? 私が悪魔のお腹の中にいたのに、どうして私が母親なの? バカなの、あなた?」

 まさかそんなことを言われるとは思っていなかったバルクは、何も言えなくなった。そして、そのバカという言葉に、懐かしい響きがあった。バルクはもう確信していた。

ラミが続けて尋ねる。

「このまま全ての要塞を潰すつもりですか。僕とバルクさんが、そんなことはさせません。今の領分だけで満足できないのですか?」

「公正さを説こうというのなら」

 少女はラミを軽蔑しきった目をした。

「地上のみならず、地下の覇権も手放したらどう? 神々の使者さん」

 バルクはラミと視線を絡ませた。次の瞬間、ラミは剣に変じていた。

「戦わなければならない、それは分かっていたはず。私が悪魔を使役するのは、別に人間たちに恨みがあるからではない、邪魔なだけ」

「邪魔だと?」

「聖像が全て倒壊すれば、神々は地上に干渉する力を失う。地上は私のものになるの」

 少し聞いただけでは、際限のない物欲に突き動かされた俗物の言葉に思える。しかし、バルクはそうやって決め付けなかった。地下の覇権という言葉も引っ掛かった。それは何かの隠喩か?

「お前が悪魔の全てを支配しているんだな、俺は今世界の敵と対峙しているわけだな?」

「それはどうかしらね。人間が世界の中心というのは偏見よ。数だけなら、悪魔のほうが多そうだし。つまり、世界の敵なのはあなたたち人間よ」

「お前は悪魔の一人なのか。人間にしか見えない」

「人間という存在が『私たち悪魔』とどのように関わっているのか、あなたは知っているはずだけど?」

「お前は正真正銘の悪魔なんだな?」

 少女は笑む。確かに、人間では到底持ち得ない妖しい魅力が溢れ出ていた。しかし、少女が持っている人間らしさには、人間ではないと一言では片付けられない何かがあった。

「ラミ、こいつは本当に悪魔なのか? 倒すべきなのか?」

《この子を倒せば、悪魔は新たに生まれないって聞いてます。つまり、悪魔は減る一方です》

 やはり、この少女が悪魔の母親なのではないか。バルクは思ったが、それ以上考える暇がなかった。少女がしがみつく巨人が、その拳を異様な短刀の形に模して、突き入れてきたのだ。バルクは素早くかわし、その拳に剣を叩きつけた。

 これまでは簡単に切断できた。しかし、その悪魔の骨に弾かれた刃は、緑色の光を明滅させていた。まるでラミが喘いでいるようだった。

「どうした、ラミ」

《女王の力で、悪魔が強くなっています。本気を出さないと》

 バルクは少女を睨み付けた。そして気付いた。この少女、ラミと抱き合って震えていたあの無垢そうな少女と似ている。偶然だろうが、顔が瓜二つなのだ。それなのにこれまで気付かなかったのは、両者の浮かべる表情があまりにも違ったからだろう。

 一方は悪魔に恐怖し、一方は悪魔を見下す。一方は泣き叫び、一方は余裕の笑みを湛える。たったそれだけで、人は別人に見える。悪魔と人間の違いなど、その程度のものかもしれない。バルクはふとそう思った。


   2


 バルクがその湖を見たとき、森の探索隊は既に壊滅していた。バルクが主導して組織した探索隊は、若い戦士だけで構成されていた。十年前の哭臨の壁には、血気盛んな若者で溢れていた。バルクもそんな若者の内の一人だった。

 仲間の亡骸と悪魔の死体に挟まれて、バルクは凄まじい悪臭を放つ湖の前に立った。その湖は赤紫と青紫の汚物で溢れ返るぞっとする光景をバルクに提供していたが、ときどき見られる水面の光の反射には言葉では表現できない狂った美しさが見られ、バルクは自分が異常なのではないかと心配した。

「ようこそ、悪魔の本拠へ」

 声がした。女の声だった。バルクは思わず周囲を見回し、木々の間に潜む悪魔の邪悪な影を捜し求めたが、何も不審なものは見つからなかった。そして、そもそも人語を話す悪魔などいるはずもないということに気付いた。

「誰だ?」

「ここの住人よ。人間ではないのだけれど」

 声はバルクを笑っていた。バルクの剣の持つ手が震えているのを、嘲笑っているのか。このときのバルクは剣を使っているのではなく、剣に縋っていた。

「何処にいる? 姿を見せろ!」

「それはできないわ。まだその時期じゃないもの」

 バルクは困惑し、落ち着きなく周囲を見回していたが、何かが見つかるはずもなかった。そして必然、視線は霧の漂う視界がおぼつかない湖上に定まる。何かの陰が、湖の水面に浮かんだように見えた。それは大抵の場合、流木であったり湖に住まうらしい得体の知れない生物だったりした。

「お前は何者だ……」

「悪魔よ。私は悪魔」

「悪魔……、だと……」

 バルクは逃げるべきだと判断した。しかし振り返ると、先ほどまではいなかった悪魔の群れが、整列してバルクを睨み付けていた。何故襲ってこないのか不思議なくらい、近くに立っていた。悪魔たちの息遣いが聞こえてくる。

「うお……、こいつら……」

「私が合図すれば、その子たちは一斉にあなたに襲い掛かって、ぺろりと食べちゃうでしょうね。骨まで残さない、と約束するわ。悪魔の餌としては、最高の幸福でしょ?」

「俺は……、餌じゃない……!」

 バルクは言ったが、死を覚悟して呼吸さえままならなかった。剣を持つ手は震えるどころか痙攣している。俺は臆病者か、まともに悪魔に立ち向かうだけの勇気もないのか、と絶望した。

「でも、助かる方法もある。私がこれを持ちかけるのは、極めて稀なんだけれどね」

 バルクは声の主が、天空にいることを知った。声がそこから聞こえてくるのだ。見上げてみれば、緑の天蓋が広がるばかりで、空が見えなかった。森は深く、悪魔たちはあまりに近い。いつまでも顎を持ち上げて、悪魔たちに無防備を晒すのは気が進まなかった。

「助かる方法、だと?」

「ええ。取引をしない?」

「取引……」

 バルクはゆっくりと反芻した。少し考えただけでも、悪魔との交渉が最終的にどのような方向に向かうのか、明らかであった。

 悪魔はおそらく、バルクに人類を裏切れと要求してくるだろう。どれだけ迂遠な言い回しを多用しようと、悪魔が人間に厚意を図るなんてことはありえない。

 しかし、この命、少しでも長引かせようというのならば、話だけでも聞かなければならなかった。ここで頑愚にも耳だけでも貸さなければ、早死にする。

「取引とは、何だ?」

「賢い男は嫌いじゃないわよ、戦士さん」

 親しげに呼びかけられ、バルクは困惑した。悪魔に囲まれていながら、要塞で色目を使ってくるような軽い女と話している感覚があった。

「取引というのは、簡単なものよ。あなたが差し出すのは要塞。都市一つ。あなたが今住まう場所のこと」

「哭臨の壁のことか?」

「そういう名前なのね。そう、哭臨の壁を、いずれ私が頂くわ。それを代償として、あなたの命を一つ救い、ついでにあなたの願いを一つ叶えてあげる」

 声の主は、そこで笑い声を漏らした。

「悪い条件じゃないでしょ? あなたの都市をもらうのは何年か先の話だし、あなたはその間に他の都市に逃げればいい。あなたは何も失わず、むしろ悪魔の助力を得られる。どう?」

 考えるまでもなかった。バルクは利己主義者だったが、都市一つの盛衰を決定するような選択で、自分を優先するほど邪悪ではなかった。

 バルクは即答した。

「悪魔との取引は規模が大きくて、矮小な人間の身としては、いささか手に余るな。答えは『いいえ、丁重にお断りさせていただきます』だ」

 意外だったのか、天空からの声は弾んだ。

「あなた、バカなの? 時間稼ぎにぴったりでしょうが。考えるふりをして、適当にやり過ごせば、もっと長生きできたのに」

「それが狙いか? つくづく悪趣味な奴だな。それとも、おぞましい悪魔と一緒に暮らしてたから、根性が捻じ曲がったのか」

「私も悪魔よ」

「そうか。しかし俺の言葉が分かるんだよな。最低でも、人間と同程度の知性はあるってわけだ。だったら分かるだろ? 俺も時間稼ぎをしようと思っていたさ。しかしその取引とやらは検討の価値さえない。そんな狂った申し出に、吟味する真似さえできないね。俺は人間なんだ」

「剛直……、極めて剛直だわ。言っとくけど、褒め言葉よ」

 女の声は弾み、その気勢がみるみる高まっていった。

「面白い。これは、本当に取引の価値があるかも」

 声が近付いてきた。バルクは天蓋を見上げ、そして悪魔、湖と、視線を移していった。自分は死ぬだろう、しかしただでは死なない。この声の主を殺し、一矢報いてやる。声の主は、少なくとも悪魔の小軍団を従えるだけの力を持っているようである。

「一度、よく考えてみるといいわ。私の力を持ってすれば、人間のちっぽけな願いなんて、あっという間に実現できる。金持ちになりたい、王様になりたい、あの娘を自分のものにしたい、強くなりたい……。私は多くの人間と取引してきたわ。そしてその数だけ都市を潰してきた。彼らの願いの代償としてね」

 少女の声は次第に大きく、強くなっていく。バルクは唇を噛んだ。

「彼らは、人間からしてみれば裏切り者よ。大罪を背負いし【咎人】とでも言えるかしら。でも彼らは、世界で最も幸福な人間として、恩沢の壁とかいう世界最大の都市で安穏と暮らしている。誰もが彼ら【咎人】を単なる成功者だと信じている。巨万の富を手に入れ、一国の趨勢を指一本で動かす権力を手中に収め、愛する者を思うがままにし、世界最強の戦士として崇拝される。そうした成功が悪魔と繋がっているなんて、誰も思わない。だけど彼ら【咎人】は知っているのよ。いずれ恩沢の壁の誰かが、悪魔と取引をし、この都市を滅ぼすだろうということを。彼らだけが、世界の破滅を知っているの。でも、どうせいずれ人は死ぬのだから、【咎人】であることは、むしろ正しいのよ。人間は誰かに迷惑をかけなければ生きていけない、それは他人の喜びを奪い、自分の喜びとするということよ。そういったことを、普通の人間は日常的に行っているわよね。【咎人】も普通の人間も何も変わらない、ただ私に選ばれたかどうか、それだけの違いなのよ」

 長い少女の言葉は、バルクを揺さぶった。既に前例がいくつもあるのか。そして壁の崩壊は、悪魔に人間が戦力的に劣ったということを単に示すのではなく、その魂さえも悪魔に屈したということを意味したのか。

 バルクはうめき声を漏らしていた。悪魔のみならず、人間までもが、おぞましい存在に思えたのだ。

「……あなたみたいな人は稀よ。だから、こんなことを話すの。あなた一人がここで命を落としても、いずれ哭臨の壁は崩壊するでしょう。あなたが生き延びるか、他の誰かが願いを満たすのか、その違いはあれど、あなたの故郷は消えるのよ。それは必然。人間が悪魔に勝つことはありえないわ」

 バルクはゆっくりと首を振った。愛玩する動物に甘えるような女の声に、はっきりと拒絶した。

「俺は……、やはり、壁を守る……」

「不可能なのよ。あなた一人が頑張ったところで、あなたはここから生きて戻れないし、それができたとしても、悪魔の攻勢を防げはしない」

 バルクは黙った。彼はここで初めて、どうして壁を守るのか、どうして人間は悪魔と争うのか、どうして人間は同族を見捨て、自らの利益を追求するのか、といった根源的な問題を直視し、黙考していた。

 その答えは全く出てこない。どのように思考すれば行き着けるのか、といったことも見当がつかない。バルクはもがいた。自らの思索の海で溺れ、誰かに救いを求めた。

 認めたくなかったが、この声の主だけが、バルクの疑問に答えてくれる唯一の相談相手だった。バルクは何度も戸惑い、躊躇い、声を絞り出した。

「教えてくれ、俺はどうすればいい?」

「私との取引を受け入れなさい」

「……俺は……」

「あなたの選択は、本当のところ、意味がないの。いずれ他の誰かが、あなたと同じ取引をするのだから」

 人はいずれ自らの欲望にまみれて堕ちて行く。多くの人間は悪魔を憎み、その実、災厄の根源は人間自身にある。

「……俺の願いは決まった」

 バルクが言うと、声は嬉しさを爆発させた。

「よくぞ言ってくれたわ! その言葉を待っていたの! あなたは賢い。辛抱強く話した甲斐があったわ!」

 バルクは、しかし、冷たい眼差しで悪魔たちを見返していた。彼らは、バルクを生きて帰すと知り、落胆しているようだった。彼らの主は歓喜しているのに、それに同調することはない。自分の欲望に忠実なわけだ。人間とどんな違いがあるというのか。

「さあ、願いを言いなさい。私は必ずそれを実現してみせるわ」

 バルクは天を仰いだ。神に祈るときと全く同じ姿勢になったことに気付きつつも、それもまた良い、と吹っ切れた。

「俺は知りたい。どうすれば悪魔を駆逐できるのか。どうすればお前たちを殲滅できるのか。俺は知りたい。……教えてくれ、悪魔の女王」

 森のざわめきが消えた。耳鳴りがするような無比なる静寂が、バルクを包み込んだ。

「……いいわ。教えてあげる。それがあなたの願いなのね?」

 声は徐々に遠く、小さくなっていく。バルクは思わず周囲を見回した。悪魔たちがじりじりと後退していく。まるで見えない壁に押されているかのように、その動きは整然としていた。

「答えは『ない』よ。悪魔を滅する方法なんてない。私たちは永遠に殖え続ける。あなたたちに勝利があるとするなら、それは永遠に戦い続ける未来があるだけでしょうね。どう、参考になった?」

 バルクは消え行く声に向かって笑みを漏らした。

「……ああ。参考になったよ。いつの日か、てめえの面を拝んで、その腐り切った夢想を打ち砕く日が楽しみになった。……お前は笑うかもしれないな。こんなことに願いを使うだなんて、よ」

 バルクは湖に立つ人影を目視した。その影はバルクを見ているように思われた。もしかするとバルクの気のせいかもしれなかったが。

 バルクはその影を指差した。

「だが、悪魔に頼ればお前らの眷属に成り下がる。俺は俺を縛ることで、お前らとの戦いを宿命付けるとしよう。……自分で自分の宿命を決められるなんて、面白いじゃないか」

「確かに、面白いかもね」

 声が空に吸い込まれ、消えた。バルクは湖の水面を凝視した。全ての脅威が去った今、悪魔たちが湖底で泣き叫ぶ声が聞こえてきたような気がした。

 永遠に殖え続ける、か。無限に殖え続ける、ではなく。

 この湖が連中の故郷なのかもしれない。いつか人間が、この森を切り倒し、湖を土で埋め尽くす日が来るのだろうか。

 あの女が俺を忘れても。俺はあの女の余裕ぶった面を砕き、張り倒し、悪魔たちを殺戮して回ってやる。

 誰も人間の欲望を止められず、悪魔に頼る日が来るというのならば。

 俺が悪魔を倒し、全て守ってやる。

 人間が己の欲望が持つ危殆に気付かぬまま、全てを終わらせてやる。

 これは誓いである。

 俺が悪魔とかわした本当の取引は、いつか訪れる戦いに向けてのものだ。

 逃げるな、という、未来の俺への伝言でもある。

 バルクは足元に落ちていた自らの剣を拾い上げ、思い切り振りかぶった。

 投げる。

 弧状の軌跡を描いた大剣は、霧の彼方に消えた。


   3


 考えてみれば、俺は俺一人だけの命と要塞の運命を同価値だと見做したわけだ。

 バルクは思い、それに後悔することはない、と呟いた。何故なら、要塞を守れるのは自分をおいて他にいない、と思えたからだ。

 巨人の悪魔が胸を貫かれ、紫色の血流が回廊の壁という壁を染めた。

 少女は巨人の肩から滑り落ち、驚いたように目を見開いている。

「哭臨の壁……、そう、思い出したわ……! あなた、あのときの狂った戦士……」

「狂ってない人間なんているのか? 知らなかったな。……人間なら誰でも、お前ら悪魔に狂った怒りを抱いているもんだ!」

 剣風がラミの神気と混じり合って、凄まじい青い炎を現出する。巨人の体を呑み込んだそれは、全く勢いを失わず、少女を包み込んだ。轟音は中壁の回廊揺るがし、周囲で様子を見ていた悪魔たちが声もなく消えていった。

《す、すごい……! すごいですよ、バルクさん! これは僕だけの力じゃない!》

「当たり前だろ、ラミ。俺は十年前の過ちを払拭する為に戦い続けてきた。その過ちというのも、俺が選び取った、覚悟した上での過ちだったわけだが……。俺は逃げるわけにはいかない。この悪魔の女王を前にして、強く思う。俺は、戦い続ける。必要とあれば、永遠に……」

 爆風が一帯に砂埃を巻き上げていた。その奥から、依然として白いドレスを悠然と着こなした少女が姿を現した。黒かった髪が、金色に光り輝いている。

 少女は何の表情も湛えていなかった。したがって、バルクを見る目は冷たく、全ての憎悪をその瞳に凝集しているように思われた。

「……言ったはずよ。悪魔は永遠に殖え続ける。それはつまり、私が絶対に死ぬことはないということ。私を誰だと思ってるの?」

「悪魔の総大将だろ」

 バルクは言いつつも、少女に傷一つついていないことに驚いていた。刃を直接叩き込んでも効果があるかどうか。

「私はこの世界の王よ。少なくとも、そのように神々に言われた。……まあ、詳しいことを話しても、信用なんかしないでしょうね。だから、これ以上は言わないわ」

 神々、ときたか。バルクは剣を構えた。周囲の悪魔はその神気にあてられて消滅するか退散したので、その回廊に他の悪魔はいなかった。

「それにしても、どうして聖像から離れてしまったのかしら? 聖像にしがみつく彼らが心配じゃないの?」

「お前を倒せば全て終わる。あいつらを守るには、お前を追い詰めるしかない」

「何も分かっていないようね。……彼らは、もうすぐ死ぬわ」

 少女が手をかざした。すると、回廊の壁が砕けた。内壁をも粉砕した少女の不可視の力は、聖像が安置される聖域への視界を確保した。広場にひしめく悪魔たちが一斉に少女を崇める。何か神聖なものを見るときのように、頭を垂れて身動き一つしなくなるのだ。

「栄えよ、私の下僕たち。吼えよ、歓喜を表せ! 聖像をまた一つ破却する。我々の勝利は近付き、人間はその過ちに気付かぬまま不幸の死を遂げる。食らうがいい、その腐った肉を! 貴様の体は毒に蝕まれようと、私の愛が全てを溶かす。行け!」

 聖像は、むしろその光を強めていた。聖像に縋る人々は不安な様子は変わらなかったがいくらか落ち着いていた。しかし、一体の悪魔が聖像に近付き、為す術もなく浄化されていくのを見て、恐怖を喚起されたようだった。

 一体の悪魔が灰となったのを見て、どういうわけか、他の悪魔たちも聖像の聖域に自ら身を差し出した。そして何の余韻も残さず、あっけなく消滅していく。

 時を経るごとに、自殺する悪魔の数が増えて、みるみる悪魔たちの海が波を引き起こし、自殺者の葬列が延々と続いているように見えた。

バルクには、悪魔の軍勢が自棄を起こしたように思えた。

「どうしたんだ、手こずっているじゃないか」

「手こずっているように見える? 予定通りよ」

 少女は白い歯を剥き出した。悪魔という名前にはそぐわない、小さな形の良い歯が並んでいた。

「むしろ、予定よりも順調だわ」

 バルクは、不安を隠せなかった。剣を持ち上げ、少女の不意を突いて斬りかかった。

「乱暴な人」

 少女はふわりと跳んで避けると、にやりと笑った。

「私に構っている場合? あなたが守りたがっているあの人たち、死ぬわよ」

 バルクは広場を見下ろした。悪魔たちは灰となり、灰は風に流れ、全てを浄化している。聖像の光を衰えることなく、人間たちを守り続けている。グリアが剣をだらりと下げて、悪魔たちの死を見つめている。その眼差しには、不安以外の何も認められなかった。他の切り込み隊の面々も同様だった。

 ラミと抱き合っていたあの少女は、聖像の最も近い位置に招かれ、聖像の足に触れていた。光があまりに強く、何が起きているのか把握できていないようだった。

「何をしようとしている……、お前!」

「教えたら、面白くないでしょ?」

 バルクは少女を睨み付けた。ラミが言う。

《バルクさん、早く決着をつけないと!》

「分かってる。だが……」

 何かが引っ掛かっていた。聖像の力は無限なのか、有限なのか? あの強い光は、最期の瞬間に訪れる、崩落の兆しなのではないか。バルクは階段を駆け下りていた。

《バルクさん?》

「あの女はそう簡単には倒せない。今は、あいつらを守る……!」

 バルクは地上に降り、悪魔の群れに剣を突き入れた。緑の光が悪魔を吹き飛ばし、道を作った。

「無駄なことよ、聖像は倒れると決まっているの! あなたが取引をしたときからね!」

 バルクは悪魔を斬って斬って斬りまくった。血だの肉だのを気にする状況ではなかった。バルクの周囲は悪魔で溢れ、もはや他に何も見当たらないというほど、バルクの視界には紫と黒の禍々しい物体で満たされた。

 無駄だと? 無駄なわけがあるか。ラミという無比なる剣を、仲間を手に入れて、なおも敵わないということがあるだろうか?

「バルク!」

「バルク様ぁ!」

 唐突に、悲鳴が聞こえてきた。バルクは荒い息遣いそのままに、聖像を見やった。そして愕然とした。聖像の光が忽然と消滅してしまった。悪魔たちが悲鳴にも似た叫びを上げて、聖像へと殺到していく。

「やめろ! 何やってんだ、聖像! 女神ラクシューア、あんたは俺たちを見捨てるのか、おい!」

 バルクは悪魔たちを薙ぎ払いながら聖像に近付いた。何がどうなって聖像は力を失ったのか、全く分からなかった。

「まだ分からないのかしら?」

 少女の声が、バルクの耳に届く。

「あなたが悪魔と取引をしたから、聖像は力を弱めたのよ。神々は愛想を尽かしたのだわ、悪魔の力を借りたあなたという人間に。あなたの願いがあまりにも突飛なものだったから、聖像の衰弱に十年もかかってしまったけれど、やっとこのときが来た。でも、気にすることはないわ。他の人間が願いをしていたら、もっと早く、このときが訪れていたでしょうね。バルク、あなたは、立派に哭臨の壁を守ったのよ」

 そんな言葉を貰う為にあのとき誓いを立てたのではない。バルクは剣を振り続けた。今、何処に自分がいるのか、全く分からなかった。

悪魔の海が途切れ、突然、聖像の足が見えた。悪魔の血で紫色に染まっている。その前でグリアが、たった一人、立ち尽くしていた。

「グリア……!」

 バルクは駆け寄った。グリアは俯いていた。黒髪を垂らし、揺れている。剣を支えになんとか立っているという状況だった。

 倒れかけたグリアを支えたバルクは、彼女の体温が異常に高いことに驚いた。

「おい、グリア……、グリア!」

 お前だけは生き残ってくれ。バルクはそう願っていた。ラミも叫んでいた。他の人たちはどうなったのか。

「ちょっと、来るのが遅かったようだね……」

 グリアは顎を持ち上げ、にやりと笑った。右の顔面を爪で引き裂かれ、義眼のない深闇の眼窩が穿たれていた。

「グリア……」

「くれてやったのさ。どうせ、右半分はぐちゃぐちゃだった。それにしても、心配だよ。あんたがこの先、生き残れるのか……」

「グリア。もういい、喋るな。お前……」

 グリアは笑む。まるで死ぬ瞬間は笑って逝こうと決めていたかのように、その笑みは悲愴に満ちながらも頑固だった。

「どいつもこいつも戦おうとしない。まったく、とんだ部下を持っちまったね、バルク。まあ、絶望する気持ちは分からないでもないけどさ」

 バルクは周囲を見回した。赤い血が、聖像を取り囲むように広がっている。悪魔たちはバルクを警戒して距離を保っているが、聖像の光は既にほとんどなかった。これだけ近付いても、やっと目視できるほどだった。

「グリア、死ぬな。お前はこんなに簡単に死ぬ女だったか?」

 バルクはグリアを支える手に生暖かい血が流れるのを感じていた。どうやら腹にも傷を負っているようだ。出血が酷い。

 グリアは笑みを絶やさなかった。

「私はいつか、悪魔に殺されるって知ってたさ。……ねえ、聞いてくれるか、バルク」

「……ああ」

 バルクは頷いた。聖像が傾き、ちょうどグリアの顔に陽光が差し掛かった。女神像は堕ちようとしている。しかし、彼女の足元にも女神に負けない美貌を誇る女がいた。バルクは本気でそう感じた。

 グリアは瞼を閉じた。小さく震えている。

「私はさ、聖像に見放されるってことが分かっていたんだ。だから、聖像ってやつが嫌いだった。聖像の守備隊なんかに就いて、毎日接していると、日増しに聖像の『目つき』が悪くなっていくのが分かるんだよ。いずれ、この日がやってくると……、聖像に呪詛の言葉を吐きたくなる日が来ると、思ってたよ」

「……そうか」

 それはバルクの責任なのだ。罪過だ。許されざる行為。贖罪はありえない。

 その罪を背負うと決めたバルクでも、グリアに真実を話せなかった。

 グリアはバルクの手を握った。まるで生娘のように、おそるおそる、バルクが拒絶しないか確かめながら。

「私は、怖かったんだ。あんたが恐怖を打ち払ってくれると信じていたから、私はあんたの隣で戦うと決めたんだよ。あんたなら、私の恐怖を笑い飛ばしてくれると……」

「俺も同じだ。お前がいなくなれば、俺は悪魔に恐怖するだろう。俺は……」

「……似た者同士ってことかい。ふふ、だったら……、さっさと……、あんたに……」

 グリアがうな垂れた。口の端から血が流れ、それが最後の彼女の命を象徴しているように思われた。グリアの体から、みるみる生気が失われていった。

《バルクさん……》

 バルクは涙を流さない自分を鬼だと思った。悲しみはあったが、不思議と体を支配するほどではなかった。バルクは、まだ自分にできることがある、と前向きになれた。

 グリアの亡骸を地面に下ろした。聖像を見上げる。女神ラクシューアを象った像は、赤い瞳を蒼穹に向けて、天を威嚇しているように見えた。体が傾き、手に持っている小剣が、要塞の外壁の尖塔に食い込みつつある。

「人間を見捨てた神か……。ならばそれに縋ることは、もうできないのか」

《バルクさん、他の人たちは……》

 ラミの声が響く。バルクは、グリアが死んだのに他の人間が生きているはずがない、と思った。しかし聖像の周りに蔓延る悪魔を蹴散らしながら、他に誰かいないか探し求めた。

 きっとラミはあの少女を求めているのだろう。あの少女だけは生きていて欲しかったのだろう。しかし望みはなかった。やがて、バルクはラミの剣の輝きが褪せていることに気付いた。

「ラミ、大丈夫か?」

《……ええ、すみません。バルクさん、もう、僕は……》

 悪魔たちはもはや聖像に興味を示していなかった。聖像は傾き、倒れ、灰燼と帰す、それが分かったからだ。悪魔の女王が、広場に現れた。彼女を肩に乗せる巨人は誇らしげで、他の悪魔よりも巨大だった。

 少女は白いドレスの裾を持ち上げて、挨拶した。

「ご苦労様、最後の足掻きを楽しく見させてもらったわ。どう、全てを失った気分は?」

「余裕ぶっていられるのも、今のうちだぜ、女王様」

 バルクは振り返り、ラミの剣を振りかざした。

「言っとくが、俺は普通の男じゃない。十年前から全てを失うことを覚悟していた。無論、俺はそれを避けようと剣を振るってきた。だが、目の前の敵を放っといて、自らの悲しみに埋もれるような、そんな軟弱な生き方はしたくない」

「薄情ね……、剣の精、そんな男に使われる気分はどう?」

 ラミが剣から少年の姿に戻った。ラミは全身紫の血に塗れていた。無数の悪魔を斬り続けた少年の体は、汚物に埋もれ、それゆえに白い肌が際立っていた。

「僕はバルクさんに使われる為に、地上に来たのです。……信じるだけです」

 少女は笑った。これまでにない、甲高く、下卑た笑い声だった。

「献身! まさにそうね、剣の精! 神々の意向にそっくりそのまま沿ったその生き様! 神々は人間の創造に失敗したと思っていたけれど、あなたはしっかりしてる。ちゃんと反省し、失敗を生かしているようね、感心したわよ!」

 バルクはラミの青褪めた顔を見つめていた。ふらふらと揺れている。貧血を起こした人間の挙動に似ていた。

「おい、ラミ。どうした――」

 ラミが卒倒した。バルクは咄嗟にラミの体を支えた。悪魔たちが飛び跳ねて喜びを表現する。少女の目は冷徹だった。ラミを抱きかかえたバルクを見据え、勝利の確信にも顔を綻ばせることはない。

「悪魔を斬れば斬るほど、剣の精は消耗する。聖像の加護がなければ、所詮その程度よ。それでも、私を倒すつもりかしら、バルク」

「俺の名を、その穢れた口で吐くんじゃない!」

 バルクは叫んだ。少女は肩を竦めた。

 バルクはラミを揺さぶった。ラミはうっすらと瞼を開けて、何か言った。ほとんど聞き取れなかったが、謝罪の言葉を口にしたのだろう。

 気付かなかった。ラミの剣が永遠に切れ味を維持するとは思っていなかったが、まさかここまで疲弊していたとは。聖像に駆け寄るとき、連続して敵を斬り過ぎたのか。

「バルク、ここで第二の取引よ」

 少女はにやりとして言った。バルクは少女を睨んだが、何も言えなかった。

「あなたには驚かされたわ。実を言うとね、私との取引で最強の戦士になりたいと希望した人間は、過去に何人もいたわ。彼らは、その超人的な強さを、悪魔討伐に役立てようとした。立派な心がけね。だけれど、あなたほどには健闘しなかった。あなたは取引で何も得なかったというのに、誰よりも強く私に抵抗し続けた。賞賛に値するわ――だからこそ、もう一度取引したいの」

「取引……。馬鹿げている。俺に何を差し出せと言うんだ」

「あなたの願いに、私はちゃんと答えていなかったのよ。悪魔を撲滅する方法とは何か教えろという、胸糞悪いお願いのことね。実は、一つだけ方法があるの。それを教えるわ」

「なに……?」

「この取引は、十年前、ちゃんと答えなかったお詫びみたいなものね」

 ラミが呻いた。

「駄目です、バルクさん。女王はあなたを弄びたいだけなんです……」

 バルクは少女から目を離さず、ラミの胸を軽く叩いた。

「心配するな。俺は悪魔に屈しない」

「取引に応じれば、あなたを助けてあげる。あなたが差し出すのは、そう、剣の精だけでいいわ。その子を差し出せば助けてあげる」

「……ふざけるなっ!」

 バルクは叫んだ。じりじりと悪魔たちが近付いてくる。少女は冷たい眼差しのまま、バルクを見下ろしていた。

「全て、私の掌中にあるというのに。あなたは私を拒むというの? それがどんな結果をもたらすのか、分からないの?」

「分からないね。十年前のあの日、俺は死を覚悟した。だが、俺は今ここにいる。何が起こるのかなんて分からない」

「私が合図すれば、あなたは次の瞬間死ぬのよ。剣の精と共に」

「それはどうかな。俺が何秒持ち堪えられるか、賭けてみるか?」

「……面白くない」

 少女は手を振り上げた。悪魔たちが駆け出した。バルクはラミを抱えた。彼の体全てを包み込み、余計な恐怖を与えぬまま死なせるように。

 バルクは抵抗しなかった。全方向から襲い来る死の気配は、バルクの意志を堅固なものにした。

「面白くない」

 少女の声が、バルクの意識をぷつりと途切れさせた。


   4


 闇の中を歩いていた。

 闇以外に何も見えず、何も触れず、足は地面を蹴っているのか空気をただ掻き回しているのか判別できなかった。

 ラミは声を聞いた。神の声である。

「悪魔を放逐せよ。それがお前の使命だ」

 分かっています、とラミは答えた。しかし、ラミの声は闇に拡散し、主に聞こえたかどうか分からなかった。ラミ自身にさえ、その声は不明瞭で聞き取りづらかった。

 ラミは歩き続ける。いや、走っているのかもしれない。あるいは、止まっているのかも。とにかくラミはその場に存在し続け、何かを求めていた。あるいは、待っていた。

 一筋の光が足元に差し込んだとき、ラミは体が浮上するのを感じた。そして、自分が人間の姿をしていないことに、初めて気付いた。

「ああ……、僕は、剣になったのか。盾でもなく、鎧でもなく、兜でもない。僕は剣になったんだ」

 悪魔を倒す、剣に。悪魔に怯えるばかりの防具ではなく、武器に。人の血ではなく悪魔の血に染まる宿命を背負った、戦士の腕に。

 歌が聞こえた。凱歌だった。未来の勝利を祝って、神々が祝宴を開いているのだ。

 ラミはその円に加えてもらいたかった。ラミは目覚めた。湖上に浮かんだ彼は悪魔に囲まれていた。

 少女が、悪魔の死骸で作った船に乗って、澄まして立っていた。

「ごきげんよう、剣の精さん。いったい何処からやって来たというのかしら。私がせっかく地下への入り口を塞いでおいたのに」

 ラミは湖の上に立った。ちょうどそこだけ、足場になる岩が突き出ていた。ラミは神より与えられた服を誇らしげに着て、胸を張った。

「僕はこの世界を救います。あなたを倒す戦士を見つけてみせます」

 少女は笑った。湖のおどろおどろしさには似つかわしくない、清純な乙女の笑みだった。

「ここで死ぬのに? 冗談でしょ?」

 そこからどうやって逃げたのか分からない。もしかすると、少女は見逃してくれたのかもしれない。あるいはバルクとの結びつきが彼の運命を強引に引き寄せたのかもしれない。ラミは森を抜けて、バルクに助けられた。

 結局のところ、ラミは生まれつき強い使命を与えられ、それが本能と化していた。神々はラミに戦士の武器以上の役割を期待していなかった。ただ道具たれ。神気を溜め込み悪魔を駆逐する道具に。それがラミには分かっていた。だから、最強の戦士を探すのはもちろんだが、必要とあればラミを道具として扱ってくれる人間が望ましかった。

「大丈夫か、ラミ」

 だから、バルクの冷たい眼差しに惹かれたのだし、ラミを突き放す態度にも好感を持った。

「何処か怪我をしていないか?」

 何かが狂っている、神々は言った。人間は失敗だった、と言った。失敗を埋め直すには強力な武器が必要だ、とも言った。それは正しい、とラミは妄信した。

 それなのに。

「目を開けてくれ、ラミ。俺にはお前しかいない」

 ラミの胸の中で、何か得体の知れない感情が表出し、彼の意識を奪いつつあった。これは何だ? このくすぐったいような、痒いような、それでいて心地良い感覚は……。

「お前は、たった一つの希望なんだ、ラミ!」

 瞼を開けた。無精ひげを生やしたバルクが、ラミの肩を揺さぶっていた。

「バルクさん……」

「ラミ」

 バルクは膝をついて、横たわっているラミの肩に触れていた。ラミはバルクが全裸であることに驚いたが、自分もそうだった。

「……あの、服は……?」

「どうやら、全部取り上げられちまったらしい。あの女王に」

 バルクは少し離れて、胡坐をかいた。ラミが上半身を起こして周囲を見回すと、そこは牢屋だった。水草のような形をした紫色の草を無数に編んで作った牢獄で、食料とおぼしき水色の物体が、やはり草を編んだ作った容器に入れられている。天井は吹き抜けになっており、頑張れば出られそうだったが、時折空をかすめるのは有翼の悪魔たちだ。丸腰のまま外に出れば食い殺されそうだった。

 バルクは観念したかのように、気楽な態度を取っている。それがラミには信じられなかった。

「バルクさん、これからどうするんですか」

「どうもしないさ」

 バルクはラミを一瞥し、そっけなく言った。さっきまで熱心に呼びかけてくれていたのに。照れているのだろうか。

「でも、このままじゃあ……」

「俺たちは一度死んだんだ。悪魔の群れの中で意識を失ったのだからな。死んで当然。それがどっこい、生きてる。生かされてるんだ。このままあっさり殺されるなんてことはない」

 それは分かりますけど。ラミは答え、立ち上がった。

 草の牢獄は頑丈だった。手で触れてみると、鉄のようにしっかりしている。軽く殴ると手が痛くなった。撓りというものが全くない。どうやって作っているのか不思議だった。

 扉らしき仕切りがあり、それを押してもびくともしなかった。引いてみようと爪を立ててみたが、ラミの爪がミシミシと嫌な音を立てただけだ。

 その後も悪戦苦闘したが、全くの無意味だった。バルクが呆れたように言う。

「やめておけって。無意味だ。悪魔たちが迎えに来るのを待とう」

「バルクさんは」

 ラミはバルクに背を向けたまま言った。

「悔しくないんですか。皆……、皆、死んでしまったのですよ?」

 バルクは何も答えなかった。ラミが涙を溜めながら振り返ると、バルクは腕を組んで天を仰いでいた。

 沈黙が辺りを支配した。悪魔の巣に連れ込まれた二人の上から、黒い霧が降りてきて、その正気を奪わんとしているかのような、激烈な悪臭が漂ってきた。どういうわけか、それはすぐに霧散し、比較的清浄な空気が戻ってきた。女王の計らいだろうか。

「……すみません」

 しばらくして、ラミは言った。バルクは視線を下げた。

「どうして、謝る」

「悔しくないわけがないですよね。バルクさんが生まれ育った都市なのだから」

「……いや、悔しくないな」

「え?」

 バルクは、一言一句を確かめるように、ゆっくりと言った。

「俺たちは悪魔に屈した。何故屈したか、それは、聖像が倒れたからだ。悪魔どもは聖像が崩壊する時期を狙って襲ってきた。それはつまり、聖像には敵わない、ということを認めたも同然だ。人間は、己の欲望さえ制御できれば、悪魔を倒せる。それが分かった。だから、悔しくも何ともない」

 ラミはバルクの論理が理解できなかった。

「でも、故郷を奪われてしまったんですよ?」

「覚悟していたことだ。俺が十年前、悪魔と取引を交わしたときから」

「……悪魔と、取引……?」

 そう言えば、女王とのやり取りで、そのようなことを言っていた。ラミは悪魔の血をかぶり過ぎ、意識が朦朧としていたので、そのときは何も思わなかったが。

「悪魔と取引、ですか。それが原因で、哭臨の壁の聖像が……?」

 バルクは嘆息した。地面に手をつき、上半身を逸らす。全ての悲しみを吐き出すかのように、続けてため息をついた。

「そうだ。俺が原因なんだ。俺がこの世に存在しなければ、今でもあの要塞は健在だったかもしれない」

 ラミは、悪魔が人間と取引を交わすことを知っていた。神々がそれを嘆いていたからだ。しかし、まさかバルクが、ラミの選んだ戦士が、取引を交わした【咎人】であるとは、思わなかった。

「軽蔑したか、ラミ。まあ、言い訳するつもりはない。俺は俺の命欲しさに要塞を一つ差し出したんだ。何千人という人間を死に追いやった。俺の罪には違いない」

 ラミは、しかし、バルクを軽蔑なんてできなかった。確かに衝撃はあった。聞きたくなかったという気持ちもないわけではない。しかし、バルクは最後まで戦い抜いた。要塞の誰よりも勇敢であり続けた。要塞を差し出したどころではない。悪魔たちから守り通そうと努力していた。剣となって共に駆け回ったあのときの感覚、バルクは確かに要塞の崩落を避けたかったし、全ての人間の死に対して怒りと悲しみを感じていた。

「……聞かせてください、その取引というのを」

 バルクは目を丸くしたが、特に戸惑うこともなく、ぽつぽつと語り始めた。

 草の牢獄の中は、声が反響した。それが虚ろに響くことも、あるいは妙に騒々しく感じることもあった。バルクの口調は淡々としていたが、その声の響き方の違いが、彼の内心の変化を端的に表しているようで、ラミの胸は強く締め付けられた。

「僕はバルクさんを選んで良かったと思います」

「……どうして」

「バルクさんは戦うことを選んだんです。恩沢の壁に逃げる人とは違う」

「自己満足に過ぎないかもしれない。結局、それも逃避だったのかもしれない」

「それでも、僕は、バルクさんが好きです」

「……言葉を選べよ。全裸同士で交わす言葉じゃねえぞ。冗談じゃない」

 そのとき、牢獄が揺れた。ラミは転がり、そのままバルクに支えられた。

 これまでびくともしなかった扉が開き、悪魔が顔を出した。青白い女の顔をした悪魔だったが、胴体は白蛇で、木の棒を無理矢理胴体に突っ込まれたような貧弱な四肢をしていた。

 扉を開いたその悪魔は、くるりと背を向けて去って行った。バルクは立ち上がった。

「どうやらお呼びらしい。行くぞ」

「……はい」

 ラミは、バルクの言葉を忘れていなかった。問いかける。

「バルクさん」

「ん?」

「僕を守ってくれますか?」

 バルクは意表を突かれた顔をしたが、すぐに頷いた。

「いまさら、だな。俺がお前を守るよ。何もかも失った身だが、そんな俺で良ければ」

「僕は道具です……、本当なら守ってもらう価値なんてありません」

「……どうした?」

「僕は、バルクさんの役に立つ為に地上に来たんです」

 ゆっくりと時が流れていく。二人は牢獄を出た。悪魔たちが整列し、一つの道を作っている。色彩豊かな瞳と形態に富んだ四肢が出迎えてくれる。

「地上、ね。よく分からないが」

 バルクは歩みだした。ラミも続く。両脇にずらりと並んだ悪魔たちが威嚇してくる。不審な動きをしたら喰っていい、とでも命令されているのか、悪魔たちの目はやけに真剣だった。

「お前の言う神は、たぶん、俺を扱き使いたかったんだろう。悪魔と取引しておきながら、悪魔の力に頼らず、むしろ対立し、聖像に縋った俺を、見極めたかった。俺とお前が出会ったのは必然だったんだ」

「そう考えると」

 ラミは言った。

「僕がバルクさんを信じるのに、理由なんか要りませんね」

 二人は延々と続く悪魔たちの道を歩き続けた。身に纏うものは何もない、頼りになるのは互いだけ、悪魔たちが踏みしめるのは腐った土壌であり、吐き出すのは瘴気であった。バルクとラミは自然と手を取り合い、ゆっくりと進んでいた。辺りは薄暗く、遠くを見通すことなどできないが、その先にあの少女がいると確信していた。

 これから自分がどうなるのか、そんなことは分からなかった。しかしラミは後悔しなかった。バルクという最高の使い手を得て、思う存分戦った。その事実だけで満足だった。

「肝心の武器を取り上げなかったのは」

 少女の声だった。バルクとラミは同時に立ち止まった。

「敬意を表してのことよ。戦士バルク。剣の精もようこそ」

 一瞬、あまりに強い光が前方から襲ってきた。ラミは瞼を閉じたが、眼球が灼きつくようだった。

 なんとか回復し、再び瞼を開けると、巨大な祭壇がそこにはあった。黒い木材で組んだらしい足場に、石の柱を乗せている。その柱は大樹のように、先端にいけばいくほど細く、分岐していって、それぞれの先端には卵のようなものがついていた。

 そして柱の側には椅子が七脚置いてあり、その内の一つに、例の少女が腰掛けていた。

 祭壇の周囲には悪魔がずらりと並んでおり、ラミたちを威嚇していた。バルクは全く臆することなく、前に進み出た。

「服を返してくれないか。どうも寒い」

 少女は肘掛けに肘を乗せて、頬杖をついた。

「駄目よ。この場で服を着ていいのは私だけ。私だけが特別なんだもの」

 少女は白いドレスを着ていた。髪の毛は金色に染まったままだった。頬紅をつけているかのように頬が紅潮していたが、それは彼女が興奮しているせいだった。少女はラミをじろりとねめつけて、笑みを零していた。

「綺麗な体。……ねえ、私の召使いにならない? 私も、悪魔たちを綺麗にしようと努力しているのだけれど、どうしても変な形にしかならないの。勘違いして欲しくないのだけれど、私だって、人間と同じ美意識を持っているのよ。こんな悪魔たちの姿が好きなわけじゃないわ。でも、どうしようもないのよ……」

 何を話している? ラミは思ったが、バルクも同様のようだった。

「そんなことはいい。何か話があるんだろ? だから生かしておいた」

 少女は頬杖を解き、床を蹴った。すると祭壇の下から机がせり出してきて、少女はそこに腕を乗せた。

「そうね。もう、単刀直入に言ったほうがいいみたい。……祭壇の下に談話室を作っておいたわ。こっちにおいで」

 少女はまた床を蹴った。すると、ラミの足元がぽっかりと穴を開けた。

「う……」

 声を出す暇もなかった。穴から飛び出してきたのは緑に変色した悪魔の腕だった。ラミを地面に引きずり込む。隣を見ればバルクも同じ目に遭っていた。

「落ちちゃって、怪我でもされたら悪いじゃない。ねえ?」

 少女が笑っている。ラミは黒土の中に沈みながら、少女のその顔を忘れなかった。美人ではある、しかし特徴のない顔だった。人間のどんな女性にも似ていると言えるような、そんな不思議な顔。

 ラミは知っていた。神々も似たような顔をしていることを。ラミを創り、そして地上に送り込んだ主たちの顔が思い浮かぶ。

 やっぱり、そうなんだ。ラミは思い、そして地面に埋もれた。


   5


 談話室、と悪魔の女王は言ったか。しかし、そこには照明もなければ椅子もなかった。バルクたちはただ土の中で蠢いていた。虫けらの気分ってやつか、とバルクは思い、一人苦笑した。冗談にもならない。

 近くにラミがいることは分かっていた。しかし、見えない。真の闇だ。自分が本当に瞼を開けているのかどうか自信がなくなってしまうような闇の深さだ。

「聞こえる、バルク? 私の声が」

 少女の声がした。気安い、と思ったが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。彼女の声に悪意が込められていないからか。それとも悪魔の魅力に導かれつつあるのか。

「聞こえる」

「そう。良かった。適性のない人間もいるのよ。地面に引きずり込まれたという事実だけで窒息してしまうような人もいるし、闇の中でもがき過ぎて、何も聞こえなくなってしまう人もね」

「褒められてるのかな。それにしては全く嬉しくない」

 少女は笑った。

「十年前も、あなたは私を見ないまま会話したわね。あのときと同じように行きましょう。取引の際の慣習なのよ」

 悪魔の慣習などに付き合う義理などないが。バルクにはどうしようもなかった。闇の中でもがいても、意味などない。ただ少女の流儀に従うしかない。

「分かった。是非もない。ここは悪魔の国だからな」

 バルクは不思議な気分だった。闇の中で、何も見えない。ただ会話を可能にしているのは近くから聞こえてくる少女の声である。彼女が自分を見捨てて、地上に戻ってしまえば、永遠にこの闇から逃れられないのではないか。そんな恐怖がふと脳裏をよぎったが、無視した。そんな恐怖とは、長く付き合ってきたはずだ。

「さて、哭臨の壁で話したわよね。悪魔を撲滅するのに、方法があると」

「教えてくれるのか?」

 少女の声が若干低くなった。それは感情を押し殺す為の準備のように思えた。

「あなたには奇妙に思われるかもしれないけれど、悪魔を撲滅する方法と、私の大願を達成する方法は、全くの同一なのよ。同じ手段で違う結果をもたらす、という意味ね」

「大願だと」

「私の願いは神々を撲滅し、世界を掌握することよ。神々は現在二千ほどいるけれど、どうにも手が届かないの」

 バルクにとって、神々についてそんな生々しい話をする者は初めてだったので、この声の主はやはり悪魔以外の何者でもないのだと再確認できた。少女の声は特に残忍な調子を押し出すわけでもなく、淡々と続ける。

「そうね、さっさと言ってしまおうかしら。私の正体と、歴史と、方針というものを。そうすれば、あなたも私が言いたいことを理解できるはずだわ」

 バルクの目の前に、唐突に、一人の少女が浮かび上がった。バルクは困惑したのだが、彼女は全裸だった。しかし、人形のようだった。目は虚ろで、頭髪はなく、四肢は干からびているのか、皹が入っている。

「それは数千年前の私」

 少女の声が述べる。気付けば、バルクの隣に美しい金髪を生やした少女が降り立ち、その罅割れた少女を見据えていた。

「名前もあったわ。ラクシューアという……、今では人間を守護する聖像の名に用いられている、憎き名前がね」

 バルクは混乱した。聖像の象徴として選ばれた女神ラクシューアが、この少女だと? よりにもよって悪魔の頭領が、人間を守護する象徴に? そんな話があっていいのか。

「冗談は止せ」

「冗談じゃないわ。まあ、信じなくてもいいけれど……。話を進めましょう」

 罅割れた少女が消えた。次の瞬間、七人の老人が円卓を囲む風景が現れた。円卓の上には一人の少女が横たわっていたが、その大きさが変わっていた。老人たちの掌程度の大きさしかない。人形だろうか。

 いや、それにしては、あまりに生々しい。少女のいたるところに傷があり、瘡蓋や傷の痕が目を引いた。老人たちは時折少女に手を伸ばし、指で弾いたり、その頭を押し潰そうと力を込めたりした。少女は呻き声を漏らし、老人たちに罵詈雑言を浴びせかけた。ただし、その声音はあまりに弱々しかった。

「あれは……?」

「私よ。もちろんあの女の子ね。老人たちは、神々の頂点。常盤の闇黒にして無尽の豊饒、神王たちよ。連中を倒すのが、私の野望」

 野望、か。少女を弄ぶ老人たちの表情からは、全く感情が見出せなかった。

「随分大きいんだな」

「彼らは小さいほうよ。戦闘を司る神々はあの十倍はある巨人ばかり」

 ぞっとしたバルクは、悪魔たちがいかに可愛い存在か理解した。神々は悪魔たちを平然と踏み潰し、その勝利を確かなものとするだろう。

「神々は、私を地上に派遣したわ。私にある使命を持たせたのね。その使命とは、人間の監視」

「監視……」

「私が聖像に選ばれたのも、その使命ゆえ。私は人間を率いて、地上の発展に力を尽くしたのよ」

 人間を率いた……。それが女神ラクシューアの話だとすれば、全く不思議ではないのだが、ここにいる少女は悪魔の大将である。すぐには信用できなかった。

 バルクは老人たちの風景が消えたのを確認して、隣に立つ少女に尋ねた。

「いくつか疑問がある。神々は、現在地下に住まっているんだな?」

「そうよ。ここと同じような、闇の中でまどろんでいるの。争いを忘れる為に」

「争い?」

「かつて神々の間で、戦争があったの。戦争の傷跡は、単なる同属の死だけにはとどまらなかった。地上は荒廃し、毒が蔓延し、神々は地下に潜ったわ。そして、人間たちに地上の復興を託したのよ。言うなれば、人間は神々の過ちを尻拭いさせる為に作り出されたのね」

「……本当か、それは?」

 伝承によれば、神々は世界を愛で満たし、その具現の成果を観察する為に、人間を作り出したというが。そんな動機があったというのか。

 少女は頷いた。

「本当よ。私はその監督をした。そして、失敗したの。……そもそも私が地上に送り出されたのは、私が地下の世界で罪を犯したからなんだけれど。聞きたい?」

「……聞かせてくれるのなら」

 少女は笑った。

「控えめね、あなた。嫌いじゃないわよ」

 バルクたちの目の前に、大きな剣を掲げた少女が浮かび上がった。やはり頭髪はなく、全裸で、目は虚ろである。赤い血で汚れた壁に向かって剣を振り下ろすが、彼女を戒めるのは首と四肢に括りつけられた鎖であり、床にびっしりと敷き詰められた釘であった。

「これは……」

「その剣は、罪を犯した神を斬るもの。私は地下の世界で死刑の執行を司っていたの。私の罪とは、罪なき神を斬首し、殺してしまった罪。判定を下したのは別の神なのに、冤罪と分かるや、私だけを処罰したの。まあ、簡単に説明すると、そういうこと」

 少女の声の奥に、遥かな時を経てもなお懊悩する女神の訴えが隠されているようで、バルクは声を失った。自分の価値観が、ゆっくりと崩壊するのが感じられた。

「あなたたちは神々を超然とした存在だと考えているようね。確かに、感情豊かなあなたたちにとっては、そう感じられるかもしれない。だけど、実際には、彼らはあまりに汚らしい、利己的で打算的な、俗物ばかり。バルク、もしあなたのような人が神々の中にいたら、私はここまで神々を憎みはしなかったでしょうね」

 剣を掲げた少女が消えた。バルクは尋ねた。

「お前も、神の一員だったのか? それにしては、体が小さいようだが」

「貶められたのよ。神格を落とされ、人間と同じような容姿を与えられた」

「元々は大きかったのか」

「まあね。少女の姿でもなかったし。髪の毛だって、これは偽物なの」

 素直に答える少女を見て、バルクは、これがあの憎き悪魔の首領かと信じられない思いだった。バルクは多くの人間の死を見てきた。今でも胸に疼く。その根源たる少女を見て、どうして憎しみが湧き上がってこないのか。

 バルクはその戸惑いを隠す為に、質問を繰り出した。

「……で、悪魔とは、何だ。人間を率いるべきお前がどうして悪魔を使役しているんだ」

 少女は指を鳴らした。次の瞬間、悪魔と悪魔が戦う情景が浮かび上がり、雄叫びのような悲鳴のようなおぞましい声が聞こえてきた。闇の中はその声で満たされ、バルクは耳を押さえた。しかし、その声が薄れることはなかった。

「そもそも、悪魔は、神々が創り出したものよ。別に驚きはしないわよね。万物は神々が創り出したのだから、悪魔も例外ではない。だけど、創られた目的というと……。悪魔は神々の戦争で使われたものなの」

「戦争、か」

 神の戦争なるものがどのようなものなのか、分かりはしない。バルクはその点にはあまり興味がなかった。

「悪魔が創り出されたとき、それは画期的な兵器だともてはやされたわ。というのも、一つの原基たる液体を仕込めば、そこから自動的に悪魔は生成されて、兵力を増大できたの。放っておいても増えて、敵陣に突っ込んでくれる。悪魔たちは主の意向に絶対服従し、死の恐怖とは無縁だった。だから、場合によっては、神以上の戦果をあげられたわ」

 悪魔同士が戦っている、その情景が変化した。悪魔たちを従え、悠然と行進する神々の姿が浮かび上がった。背後にある山々の大きさと比較すると、その時代の悪魔も凄まじく巨大であった。

「だけれど、悪魔は自然を破壊した。他の生物を殺し回った。地上に多くの傷跡を残したわ。悪魔を使役したのは神なのに、全ての災禍は悪魔にあると決め付けられた。戦争が終結したとき、神々は、悪魔を廃棄しようとしたわ。だけど、できなかった」

「自然に増殖するのだから、それもそうだろうな」

「原基が世界各地に点在し、しかもその居場所がはっきりしなかったの。どんなに退治しても湧き上がり、やがて【異端】が現れた。神の命令に従わない悪魔のことよ。悪魔の生存本能が、自分たちに向けられた神々の敵意を感じ取ったのかもしれない。【異端】はやがて【正統】を凌駕し、神々は悪魔を完全な敵としてしまった。手に負えなくなった神々は地下へと逃れた」

 映像が途切れ、悪魔たちで蔓延する地上の様子が描かれた。現在の様子と大差はない。ただ、聖像が見当たらないだけで。

「人間たちが地上に送り出されたのはその後。つまり、人間は悪魔の駆逐をもその本能に組み込まれていたわ。それを可能にするのは自律と発展だとされた。つまり、人間は神にも等しい英知を得られるよう、設計されたわ。それだけではまた暴走する可能性があるというので、私を派遣し、そして神々の意思を伝達する聖像が建てられた。聖像は神々の力が常に送り込まれ、悪魔を追い払う人間の憩いの場として機能すると同時に、人間が神の支配を受けて行動するように仕向けられた装置なの」

 バルクは奇妙な感慨を受けていた。設計だの、機能だの、支配だの。まるで人間が生き物ではないような言い方ではないか。

 しかし、神々にとっては、人間とはそのような存在なのかもしれない。この少女の言い分が全て正しいのだとすれば、神にとっての人間とは、人間にとっての歯車だとか車輪だとか、日々の生活を便利にする為に利用するものに違いない。

 人間が歯車を備えた水車に挟まれて死ぬことがあるのと同じように、神々も人間や悪魔の反逆によって死ぬことがあるのだろうか。バルクは、ふと思った。

「私は人間を率いて、悪魔と戦った。けれど、神々でさえ手を焼いた悪魔を、そう簡単に倒せるはずがない。私は早々に諦めたわ。人間を聖像付近で繁栄させ、その文明を発展させることに尽力した。言っておくけど、私が人間を発展させたのよ。それだけははっきりさせておかなければならないわ。今、私は人間と対立しているけれど、まるで神々が悪魔を生み出し、結局対立しているのと似ているわね」

 バルクは頷いた。そして少女の口調から、彼女の話がいよいよ核心に触れるということが予期された。少女は昔を懐かしむ顔をした。

 映像が切り替わった。柱に括り付けられ、四肢から血を流す少女が映った。

 バルクは口を押さえた。腹から臓腑が引きずり出されている。顔からは血の気が失せて、明らかに死んでいる。

「言っておくけど、私じゃないわよ」

 少女が言った。不思議と穏やかな口調だった。

「人間が私を邪神だと言って迫害したのは、そう、九百年くらい前かしらね。聖像から神の意思が伝わってくるのだから、私が神のはずはない。そんな論理だったように記憶しているわ。わざわざ神々が、私の姿で聖像を創ってくれたのに、効果がなかったのよね。今でも不思議だわ。聖像と私の姿が一致している限り、誰も私が神であることに疑いを差し挟まないと思ったのに」

 バルクは何となく理解していた。きっと、その人間たちは権力が欲しかったのだろう。哭臨の壁でも、度々そういった争いが頻発していた。少女に率いられることに不満を持つ人間がいたとしても、不思議ではない。

「私は迫害されたけれど、私を支持する人間も、次々と殺されていったわ。聖像周辺しか都市を建てられないという極めて限定的な社会空間だということも手伝って、私の崇拝者はあっという間に絶滅してしまった。そして私は人間たちを率いることができなくなってしまった。……神々にも見放されたわ、代理を送るとも通告された」

 映像が荒野に切り替わった。ぼろを纏って空を仰ぐ少女が映し出される。空は凄絶なほど美しい夕焼けだった。

「だけれど、代理の末路は、それはそれは酷いものだった。人間は次々と神々を殺したわ。代理で生き残ったのは、ほんの数人だけ。そこで神々は理解したわ。人間も悪魔と変わりない、危険極まりない存在だと。神々は人間を信用しなくなり、聖像を通しての交流も激減した」

 聖像を前に、人々が平伏している。聖像の表情は怒っているように見えたが、その光はあまりに弱々しく、悪魔たちが人間の背後から忍び寄っている。

 これとよく似た状況を、バルクは哭臨の壁で目撃していた。

「私は、人間が絶滅すればいいと思ったわ。だけど、それだけでは不足だとも思ったわ。どうにかして、神々に復讐できないものか……。人間という率いるべきものを失ったとき、私は初めて神々が憎いと思った。それまでは、罪を償うことばかりを考えていた。だけど、独りになって、自分の正直な気持ちに気付いたの。もしかすると、聖像からの神々の力が弱まったからこそ、自我が生まれたのかもしれなかったけれど。神々を打倒したい、その為には、自分だけの力だけでは不足だと考えた」

「そして悪魔を利用した」

 少女は頷いた。

「そう。悪魔の寿命は短く、数年で老衰して死んでしまうのだけれど、私は【異端】を手懐ける方法を発見した。原基の湖の底にある【大樹】の卵が孵って悪魔は生まれるのだけれど、生まれたばかりの悪魔は、初めて見た動くものに従う習性があるのよ」

「まるで家鴨だな」

 バルクはその話を呆れて聞いた。悪魔どもがそんな習性を持っているとは。

 少女も苦笑した。

「もちろん、それ以外にも悪魔を使役する方法があるのだけれど、とにかくも、それが出発点だったわ。私は悪魔を手懐け、軍団を組織した。そして聖像に挑んだ。……全敗だったわ」

 少女はため息をついた。

「実を言うと、神々はその気になれば聖像なんていくらでも創れるの。だから、地上が悪魔だけで支配されることはないでしょうね。人間が絶滅しても聖像が建つ限り、神の支配は終わらない」

 映像が消えた。久々の闇に、バルクは不安になった。思わず隣の少女を見る。

 少女も消えていた。

「長い前置きになってしまったわね。私とバルクの取引の話をしましょう」

「……どういうことだ?」

「私は見つけたのよ。神を打倒する方法を。すなわち、地下への入り口を見つけること」

「地下への入り口……」

 少女の声は弾んでいた。

「私は神々に戦争を仕掛けたいの。人間や、あるいは悪魔と戦っていても、神々はちっとも傷つかないわ。神々と直接戦いたい。その為に、地下への入り口を見つけることは必要不可欠。それが私の充実した生涯を送る為の唯一の道よ」

 少女は言う。止まらない。バルクが口を挟む暇さえない。

「剣の精が現れたとき、私は小躍りして喜んだわ。だって、ついに地下への入り口が開いたのだもの。剣の精は地下からやってきた。入り口を知っているに決まっているわ。昔、私は神々を恐れていたから、私が浮上してきた地下への入り口を塞いでしまったけれど、今ではそれを後悔していたの。その後悔の晴れる日が、とうとうやって来た」

「そういう……、ことだったのか」

 ラミを差し出せと少女は言った。ラミが知っている地下への入り口が、少女にとっては何よりも得たい情報であり、神々への復讐という目的を果たす為の唯一の道だった。

 バルクは疑問を持った。

「どうして俺にそんなことを話す? ラミだけ残して、俺はさっさと殺せばいいじゃないか。俺には何もできない」

 少女が失笑した。

「あなた、生き残りたくはないの?」

「いまさら、俺が何を言ったところで、処遇が変わるわけでもないだろう」

 少女の姿が正面に浮かび上がった。今度は過去の風景ではなかった。少女は確かにそこに存在し、バルクを見据えていた。

「剣の精は絶対に口を割らないでしょう。地下の入り口を教えるなんて、神々への反逆行為だからね。でも、バルク、あなたならどう?」

 少女の声はバルクの胸に突き刺さった。

「俺にラミを騙せと?」

 ありえない、とバルクは首を横に振った。しかし、神々と悪魔を戦わせるというその展開自体には、そそられるものがあった。

「私があなたを生かしておいたのは、それをやらせる為。ラミから情報を引き出し、私に献上しなさい。これは私の為にも、あなたの為にもなるわ」

 バルクは闇の中を漂う少女の姿を追った。少女……、いや悪魔の女王ラクシューアは、本当に神々を倒せると思っているのだろうか。聖像の光にも太刀打ちできない貧弱な悪魔どもを使って、それで神々を超越できると?

 死にたがっているとしか思えなかった。何千年も生きてきた彼女は、今語ったこと以上の苦悩と苦痛を味わってきたことだろう。その全てと訣別したいのではないか。バルクは少女の表情からその真意を汲み取ろうとしたが、全くの無意味だった。少女の姿は消えて、辺りは闇に包まれた。

「取引よ。私はあなたに期待しているわ」

 バルクの目の前に、唐突に、ラミが現れた。目を泣き腫らしている。バルクの姿に気付くと、わっと駆け出してきた。

「バルクさん! 何処にいたんですか、こんなに近くにいたのに! 僕の声は聞こえていたでしょう?」

 バルクはラミを受け止めながら、絶句していた。ラミに神々の住処を教えろと要求するのは不可能のように思えた。もしかすると、尋ねればあっさり教えてくれるかもしれない。しかしバルク自身が、ラミの失望した顔を見たくなかった。築いた信頼が崩れるのを恐れた。

 バルクはラミの髪を凝視した。指で掻き回してみる。緑の豊かな頭髪は大自然を想起させ、バルクを穏やかな気持ちにさせた。こんなにも美しい髪を、神々はいとも容易く創り出せる。

「ラクシューア、お前はラミが何者なのか、教えてはくれなかった」

 ラミが顔を持ち上げて、首を傾げた。

 バルクはラミに笑いかけた。

「だが、神々が悪魔を討伐する為に派遣した武器だということは、既にラミが教えてくれていた。それが俺には奇妙に思えた。武器にどうしてこんな人間の姿を取らせる。道具は道具らしく黙らせておいたらどうだ、と。だからそれが何かの間違いだと思っていた。しかし、俺は理解したよ」

「バルクさん……?」

 バルクは闇の虚空に目を向けた。そこに少女の白いドレスが浮かんでいると確信し、吼えた。

「所詮俺たち人間に味方なぞいねえ! 神も悪魔も、ラクシューア、お前でさえも、命を弄ぶ敵だ! 俺はそれが憎い! 復讐だと? 勝手にやってろ! 俺たち人間を襲っていい理由になるわけがない! 神様相手に戦争をやりたければ、さっさと泥の中に沈むがいい!」

 ラクシューアの嘲笑が空間に響き渡った。ラミが怯えて、バルクにしがみ付いてきた。バルクはそんなラミを引き剥がした。

「お前は憎くないのか?」

 ラミはきょとんとした。

「何ですって?」

「お前を地上に派遣し、悪魔を駆逐させようとしている神々を、憎いとは思わないのか? 何故自分たちで解決しようとしない。人間を創り出し、お前を創り出し、代わりに血を流させようとしている神々は卑怯者だ。戦争に引き摺りだしたいとは思わないか?」

 ラミは事態を察したようだった。バルクがラクシューアの言葉に踊らされていると感じたようだった。

「バルクさん、あの女の子の言葉に惑わされては駄目です! あれは悪魔の女王なんですよ、分かってますか?」

「分かってる。かつての神だったということも知っている」

 バルクはラミを見据えた。

「お前は俺を信じると言ってくれた。違うか?」

 ラミの顔が引き攣った。すぐに視線を逸らす。

「ずるいですよ。僕はバルクさんを裏切りたくない。けれど、神々の期待にも……」

「俺を信じろ。悪魔を倒し、お前を神々の懐に帰してやる。どっちにしろ、神々に参戦してもらえなければ、悪魔を倒せはしない。お前は永遠に戦場を彷徨うだけだ」

「おかしいですよ、バルクさん! 悪魔は何か企んでいます! それが分からないんですか?」

 バルクはラミを見据えて、固まった。ラミの怯えた表情が、徐々に変わっていく。バルクの真っ直ぐな瞳に、何かを見出そうと喘いでいる。

「俺も悪魔と戦い続ける。俺がお前を守る。神々なんてあてにならない連中より、俺を信じてみないか?」

 バルクはラミが首を横に振っても、辛抱強く説得を続けた。しかし、ラミがその居場所を吐くことはとうとうなかった。

 どれだけの時間が経ったのか、バルクはラミとの信頼が砕けていくのが感じられた。

 ラミの肩から手を離し、バルクは天を仰いだ。

「ラクシューア、聞いていただろ? 俺にはどうも無理らしい。これ以上は聞けない」

「まだ、本気を出してないんじゃない?」

 バルクは眉を顰めた。

「何?」

「時間ならいくらでもあげる。剣の精は所詮、道具なのよ」

 ラクシューアの気配が消えた。バルクは困惑し、ラミを振り返った。

 ラミの顔色はすこぶる悪かった。何かに怯えているようだった。

 バルクは卒然と悟った。そしてその考えにぞっとした。

 バルクは闇の中を歩いた。ラミにゆっくりと近付く。ラミは俯き、動かない。

 彼が何に恐怖しているのか、バルクには分かった。それだけに躊躇があった。

 しかし、バルクは神々に憎しみを抱いていた。ラクシューアの言葉に嘘はないと確信していた。

 それはあの少女の悲愴を見たからだった。長い戦いに疲れた独りの神の決意を見たからだった。

 神々に、悪魔は早々に反逆している。ならば、人間も。

 人間を倒すべく、新たな戦士が、地上に派遣されるかもしれない。

 もしかすると、神々はそうやって戦乱を繰り返してきたのかもしれない。悪魔以前にも神々に反逆した生物がいたかもしれない。

 永遠の闘争。

 バルクは神々の無表情を思い出した。円卓を囲む老人たち。彼らの願いは何だろうか。地上への帰還だろうか、世界の安寧だろうか、それとも。

 ラクシューアを卓上で弄んでいたときのように、生命を愚弄し、支配者たることを実感していたいのだろうか。

 何も分からない。

 分からないこそ、バルクには解釈できた。

 神々は敵である。

 人間は神々に見捨てられる運命にある。

 先に人間が神を見捨てて、何が悪いというのか?

「ラミ、地下への入り口を教えるんだ。神の寝床に案内しろ」

「嫌です」

 ラミは言った。涙を溜めた彼には、堅固なる決意があった。

 バルクは口の中の頬肉を噛んだ。血が流れ出すのを感じる。そんな苦痛とは比べるべくもない、胸の痛みがあった。

「教えるんだ。これは命令だ。お前は、俺の道具なのだから」

 バルクは言い、ラミの顎を掴んだ。

「俺を信じろ、とはもう言わない。教えるんだ。お前はお前の意思とは関係なく、俺に教えるんだ。それがお前の役目だ」

 ラミの瞳に、巨大な闇が広がっていった。それはこの空間の虚無たる闇と同化し、ラミの瞳は何も映さなくなった。

「バルク様……」

 バルクはラミの中で何かが変わるのを感じた。ラミは涙を流した。それはバルクに縋り付いて流した涙とは全くの別物であった。

「……教えろ」

 ラミはゆっくりと頷いた。バルクの隣にラクシューアが降り立った。その瞳は興奮で、更に鮮やかな赤に染まっていた。

「祝福すべきかもね」

 ラクシューアは言った。

「剣の精は、バルクにやっと認められたのよ。道具として使われることを、今、この瞬間、受け入れたのだから」

 バルクはラミがぼそぼそと何かを言うのを聞いていた。ラクシューアは笑い声を上げながら消えて、空間にはバルクとラミだけが残されていた。

「いつか、言ってくれるだろうと思っていました」

 ラミは言った。笑顔はなく、ただそこに立っているという風情だった。

「僕は道具です。バルク様なら、いつかそう割り切ってくれると信じていました」

「……その呼び方は止せ」

「僕は幻想を抱いていたんです。……一個の人格を与えられたと錯覚して、僕は、バルク様に何度も問いかけたんです」

「……ラミ」

「僕を守ってください……、僕もあなたを守ります……、いつかバルクさんが、それを本当の意味で拒絶するときが来ると……、分かっていました」

「ラミ、お前は俺が……」

「幻想だったんです! それで、良かったんです!」

 闇が、まるで一つの紐から出来上がっていたかのように、するすると解けていった。辺りは森の中だった。祭壇はなく、ラクシューアの姿もない。悪魔たちの気配も、皆目存在しなかった。

 ラミはじっとバルクを見つめていた。バルクは何も言えなかった。




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