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咎人の砦  作者: 軌条
2/4

ラミは願う

   1


 バルクは自分の住処というものを持っていた。悪魔を一体倒すごとに給金が貰える現行の制度では、バルクが都市きっての富豪となったのも自然の流れである。

 薄暗い部屋だった。昼間でもほとんど光が入ってこない。バルクは安楽椅子に座り込み一日の成果を反芻した。

 ラミを救出したときに三体。オゼと共闘したときに一体。たったの四体だ。最近悪魔の元気がなくなってきている。かつては徒党を組んで襲撃してきたのに、最近は人間の肉に味をしめた低俗な連中しか目にしない。オゼの悪魔は少し貫禄があったが、ラミのときの悪魔は、完全に飢えていた。

 何かが起ころうとしている。アシェニスは大攻勢が始まる、と警告していた。もしかすると本当にそれがやってくるかもしれない。

 階下で、アシェニスが懲りずに演説をしているのが聞こえる。悪魔が来る、今のうちに退避し、恩沢の壁の保護にあずかろう。私は悪魔の大軍団を見た。大地を埋め尽くす無敵の軍団だ。あれに対抗できる要塞は、恩沢の壁以外にない。今すぐ逃げ出すことが、戦いの始まりなのだ。

 バルクは失笑した。あれでついていく者がいるとすれば、それは最近哭臨の壁に移住してきた連中だろう。この都市の人間は、死者を忘れない。かつての親友を、家族を、恋人をここに残して、自分たちだけ移動してしまうなんて、そんなことはありえない。それにここの人間は楽天家が多いのだ。

 アシェニスの声を遮断する為に、扉の隙間に衣服の塊を投げた。あの女はドーク商会の次期会長だと言っていた。しかしそれで心を動かす人間は少なかった。ドーク商会の本拠たる洪鈞の壁は崩落したのだ。今更その組織の名を聞いて、感心する者はいない。

「バルクさん」

 声がした。近い。バルクは椅子から立ち上がった。ラミか?

「ラミなら入ってくるな。それ以外の人間なら、入ってよし」

 扉が開いた。姿を見せたのはラミだった。緑色の髪が綺麗に整っている。要塞の誰かに世話をしてもらったのだろう。垢を落とした彼は、なかなか見れた顔をしていた。服も新調し、小奇麗な格好をしている。

「入ってくるなと言ったろ」

「入ってません」

 ラミは足元を指差した。確かに少年は扉を開けただけで、部屋の仕切りには踏み込んでいなかった。

 バルクは苛立ちながらも、ラミに悪意がないことを悟っていた。

「……何の用だ。言っとくが、また守ってくれだの手を握ってくれだのぬかした日には、さしもの温厚な俺も……」

「もうすぐですよ」

 弾むような、それでいて悲しむような、不思議な声音だった。バルクは思わずラミの表情を窺おうとしたが、部屋の外も薄暗かった。もうすぐ日が暮れる。

「もうすぐ……、って何だ?」

「アシェニスさんが教えてくれました。僕が言っても誰も信じてくれなかったでしょうけど、悪魔の大攻勢がもう始まっているんです。その影響が、もうすぐこの都市にも来るはずです」

 バルクはラミを睨み付けた。もっとも、部屋の中は廊下と比べて更に薄暗かったので、ラミがバルクの目つきの悪さに気付くことはないだろう。

「大攻勢、か。魅力的な響きだな」

「怖くはないのですか?」

「悪魔をより多く討伐できる、良い機会だ。腰が引けるわけがない」

 バルクは言ったが、もちろん恐怖心はあった。悪魔を無我夢中で切り伏せられるのは、悪魔が恐ろしいからだ。要は恐怖心を闘争心に転換できるかどうか。戦士の素質を決定付ける最も重要な点は、そこにある。

 ラミは素直に感心する素振りを見せた。

「さすがですね。それくらいでないと、悪魔と戦えないんでしょうね。僕なんかじゃあ、足が震えちゃって、逃げ出すこともままなりません」

 バルクはそう話すラミを観察していた。どうしてこのガキは悪魔の大攻勢を知っているのか。アシェニスは故郷を奪われたらしいが、ラミも一緒だろうか。

 どうも違う……。バルクはラミを信用し切れなかった。アシェニスが疑うのも無理はない。まさかラミが悪魔の仲間だとは思わないが、得体の知れない存在であることは認める。

「なあ、ラミ。……お前は何処から来たんだ?」

「森の奥からです」

「森の奥には、何があるんだ? 都市があるとでも?」

 ラミは黙り込んだ。そのまま何処かに消えそうな気がして、バルクは付け加えた。

「森の奥には湖がある……。それは、俺も知っている」

「知っているんですか」

 ラミが反応した。森の奥に紫色の湖があることは、バルクはごく限られた人間にしか話していなかった。ラミもそれを知っている。それは何故か。

「お前は湖より、更に奥から来たということか?」

 ラミは何も言わなかった。どこか寂しそうだ。何も喋れないのを残念がるような、そんな雰囲気がある。

「ラミ、お前は何者なんだ?」

 時がゆっくりと過ぎていく。外の太陽が地平線に沈み、薄暗い部屋が一瞬夕日で明るくなった後、闇に包まれた。バルクは部屋から出ようと足を踏み出した。しかしラミは背を向けて歩き出していた。追いかける気になれず、バルクは扉の前で立ち尽くした。

「悪魔どもが仕掛けてきたとき、お前が何者なのか、分かるのかな……」

 明らかにラミは悪魔の攻勢を気にしている。同じくらいバルクの動向を気にしている。俺が悪魔を粉砕するところを見たいのか。あるいは……。

 まさかな、と呟き、バルクは扉を閉めた。


   2


 アシェニスは身支度を整えた。自分の馬を失ってしまった。哭臨の壁で調達しようと考えたのだが、誰も馬を売ってくれなかった。馬を逃げる為には使わせない、と言われているようで、気が滅入った。

 鏡の前でアシェニスは髪を束ねた。口に挟んだ髪留めを素早く後ろ髪に食い込ませ、軽く首を振ってほどけないか確かめた。馬の尻尾のような髪型になったが、それほど悪いとは思わなかった。鏡の前で回転し、その見栄えを確かめた。

「アシェニス」

 オゼが部屋の前で待っていた。甲冑を外して軽装になっているが、兜は着けたままだった。

「オゼ、いつからそこに」

 アシェニスは慌てて鏡を隠した。別に恥ずかしいことをしていたわけではないが、無防備なところを見せてしまったという感覚があった。

「たった今、来たのだが。……馬を入手した。大門の前に用意してある」

「そうか」

 アシェニスは頷いた。この都市は見限った。他にも救うべき都市はある。ここに滞在した三日間というもの、全く手応えがなかった。早々に旅立つべきだ。

 ここに来るまでには魔境を横切らなければならなかったが、次の都市は平坦な草原を行けばいい。オゼと二人だけの旅路でも、危険は少ないだろう。悪魔たちは森の中に潜むものだ。

「我々と共に来たいという者は?」

「いない。そんな物好きは、前の都市の連中だけだ」

 物好き、という言葉に衝撃を覚えた。そんな風に感じていたのか。

 アシェニスの曇った表情に気付いたのか、オゼが付け加える。

「囚魔師は一般にそう思われている。悪魔たちに聖砂が有効かどうか、それさえも議論が分かれるところだからな。だが、何もせずに討論場で死を待つ連中よりも、俺たちは人間らしく生きている」

 それは慰めだろうか。人間らしく生きることが素晴らしいとは限らない。人間は人間という囲いの中から脱却すべきなのかもしれない。人間らしく生きることが正しいのであれば、今頃悪魔との戦争に勝利しているのではないだろうか? 万能の神々が人間を作ったとしたなら、必然、そういう結論になる。

 アシェニスは俯いた。

「オゼ、私は父と祖父を裏切り、出奔した。……その決断は正しかったのだろうか?」

「正しいかどうかは、お前が決めることじゃない」

「誰が決める?」

「さて、誰だろうな。俺では、不足か?」

 親愛の情がゆっくりと広がっていく。アシェニスはオゼに抱きつきたい衝動と戦わなければならなかった。しかし、アシェニスにも年頃の女の感性というものが、標準程度には備わっている。その行為がどのような意味を持ち得るのか、分からないわけではない。

「……ありがとう、オゼ。私はお前となら、何処まででも行ける気がする」

「そういうのは止せ。言葉に出すものではない」

 オゼはそう言いつつも、アシェニスの眼差しを受け止めていた。やがてオゼが背を向けたとき、アシェニスは少し物足りない気もした。しかし、彼との関係はこれが丁度いい。元々アシェニスがオゼの腕前に惚れ込んで雇ったのが最初だ。友人であるとか、相棒であるとか、まして恋人だなんて言葉が似合う二人じゃない。

 アシェニスはオゼに続いて歩き出した。中壁の回廊を行き、階段を下った。広場まであと少し、というところで、唐突に、けたたましい鐘の音が鳴った。

 それは音と言うより、地震に近かった。要塞のいたるところの鐘が鳴り、石材で出来た階段ごと激しく揺れていた。

「何だ?」

 オゼが体勢を低くして、顎を持ち上げた。

「悪魔か?」

 アシェニスは口走っていた。

「大攻勢か?」

 近くにいた武器管理係らしき男が、剣の詰まった箱を取り落とした。階段の下へ滑っていく安物の刀剣を眺めたアシェニスは、オゼに怒鳴りつけていた。

「何をぼやぼやしているんだ、行くぞ!」

 アシェニスは中壁の物見台に足を向けていた。

「今が最後の機会かもしれないぞ、出立の」

 オゼは冷静だった。早くも混乱しつつある階下の広場の様相を見て、平然と言ってのけた。

「悪魔の数がそれほどでもなければ、踏みとどまって戦うべきだ!」

「確認している間に、退路を塞がれてしまうかもしれない。お前も見ただろう、洪鈞の壁に襲来した悪魔は、完全にこちらを包囲していた。何処から湧いて出てきたのか知らないが、連中は兵法の基本ってやつも知らない。もし俺たちの相手が人間なら、わざと退路を用意し、俺たちを誘導しようとするだろう。そこがむしろ綻びにもなるわけだが、悪魔はそんなことはしない。どれだけ損害が出ようと構わない、ただ人間を滅ぼせればいいと考えている。分かるか、アシェニス、俺たちにできるのは、逃げることだけだ」

「そうかもしれない、しかし……」

 アシェニスの足は石のように固まった。依然鐘の音は要塞を揺らしている。周囲では人々が激しく行き交っている。戦士たちの怒号が聞こえてきた。それに混じり、おぞましい悪魔の叫びが聞こえてきたような気がした。

 オゼが苛立たしげに足踏みした。甲冑を着ていないことを後悔しているようだった。

「まずいな、もう交戦が始まっているのか。今が朝で良かった、状況が確認しやすい」

 オゼはアシェニスの腕を掴んだ。オゼに捕まってしまっては、もう彼に従うしかない。力で敵わないことを知っていたので、素直に彼に引き摺られた。

 広場では全ての商人が出店を畳んで思い思いの武装をしていた。調理器具の短刀や鉄蓋を抱えている者もいれば、戦士顔負けの重々しい槍の穂先を研いでいる者もいる。

 オゼの馬の隣には、貧弱な体格の馬が不安そうに足を踏み鳴らしていた。

「行くのか? しかし、門は開かないぞ」

「裏口があるはずだ」

 オゼは馬に跨った。アシェニスはそれに続こうとしたが、周囲の人々の視線が気になった。自分たちだけで逃げるのか、そう非難されているようで、気に入らなかった。

「気にするな」

 オゼが、アシェニスの気持ちを見透かしたように言った。

 そうだ。気にする必要はない。故郷を守りたい気持ちは分かる。しかし、彼らは目先のことしか考えていない。視点が低い。視界が暗い。視野が狭いのだ。アシェニスは馬に跨った。鞍が薄っぺらく、鐙もなかった。これでは馬上で思う存分暴れるというわけにもいかない。

「逃げることだけを考えろ。お前は知っているはずだ。あの攻勢が始まれば、もはやこんな石を積んだだけの壁は崩壊する」

 アシェニスは聖像を眺めた。威光が鈍っているように感じられるのは、悪魔の放つ邪気にあてられているのか。

「聖像を見捨てて逃げることが、人類の勝利に繋がるのか……」

 人間は聖像の建立方法を知らない。聖像跡を調べても、その破片を採取しても、その不思議な力を得ることはできない。失えば、永久に神々の加護を得られない。こうやって居場所をなくしていけば、ますます人間は悪魔に屈することとなるのではないか。

 オゼは馬を走らせた。広場を縦断したので、多くの人間が驚きと共に飛び退く。アシェニスもオゼに続いた。石畳に蹄の音を響かせていると、要塞のあちこちから歓声が湧いた。

「どうしたんだ?」

 アシェニスは周囲の人間を見回した。オゼは冷静に答える。

「一時的に押し返したんだろう。戦力を一箇所に集中させ過ぎていると……、つまり兵力の配分が上手くいっていないと、よく起こることだ。突出した部隊はすぐに潰れる」

 しかし、歓声はなかなか止まなかった。広場にいる人間はアシェニスたちと同じように状況が掴めていないが、階段のあちこちから飛び跳ねて喜びを表現する子供たちが見える。

 突然、アシェニスは閃いた。

「バルクだ!」

 アシェニスは馬から飛び降りた。一番近いところにあった内壁への階段に足をかける。

「アシェニス! 戻って来い!」

「バルクが悪魔を寄せ付けないんだ! だからこその歓声……、押し返せる!」

 アシェニスは中壁、そして外壁へと渡っていった。仕方なくオゼもついてくる。身軽な装備のオゼは、アシェニスも驚くような速度で追いついてきた。

「死にたいのか、アシェニス。たった一人の人間が悪魔の軍団に対抗できるとでも……」

 尖塔に入り、素早く駆け上がった。踊り場から見える景色は圧巻だった。悪魔たちの群れが哭臨の壁に殺到している。夥しい数の悪魔が、無秩序に入り乱れている。

 オゼが息を呑んだ。アシェニスも口を押さえて、悪魔の群れの中で孤立する一つの部隊を見た。

 それはバルク率いる切り込み部隊だった。バルクとグリアを中心に、二十数名の部隊が孤軍奮闘している。

 悪魔の多くは壁の攻略に集中していた。そんな悪魔の背中から剣を叩きつける。あるいは頭を木槌で粉砕する。あるいは斧で両断する。

 悪魔たちはバルクから逃げ惑っていた。まさか悪魔の中でバルクの噂が広まっているとは思えないが、そういう状況に見えた。バルクから距離を取ろうと悪魔たちが混乱するので、グリアや他の戦士たちも戦いやすい状況に持ち込めているようだった。

 要塞の大門が開き、本隊が出撃した。要塞に閉じこもるのが定石だろうに、わざわざ打って出る。この要塞の連中の性格が色濃く出ていた。

数百人の戦士が一塊になって、悪魔の群れを崩しにかかる。悪魔は陣形を組んでいなかったので、互いの動きを邪魔して、まともな抵抗をしなかった。それでも本隊の戦士は端から徐々に数を減らしていく。

 大門が完全に閉まる前に、悪魔たちが取り付いた。バカらしい、とオゼが呟いた。

「門なんか開くからだ。要塞の意味がない」

 しかし、門に取り付いた悪魔を叩き斬ったのは、全身を紫色の血液に染めたバルクであった。その大剣自体、常人では持つことさえ難しい代物だったが、それを空中で自在に変化させて悪魔の急所に打ち込む。しかも休むということを知らなかった。アシェニスとオゼは唖然としてその戦いぶりを見つめていた。

 思わずオゼが呟いた。

「俺と互角程度と思って感心していたが……。とんでもない。奴は化物だ」

 オゼにそこまで言わせる戦士は他にいないだろう。アシェニスは生唾を飲み込んだ。


 戦いは半日で終結した。要塞中の応援を受けたバルクは無敵の強さを誇った。胸壁から要塞の中に飛び込み、小休止を挟みながら、延々と悪魔と戦い続けた。射手台に立つ人間はバルクがあまりにも戦場を気ままに駆け回るので、やりにくそうだった。

 悪魔たちは要塞落としが上手いとはとても言えなかった。目の前の敵に拘泥し、あっさり撹乱される。壁を壊そうと体当たりする者はいても、組織的な動きで壁をよじ登ろうとする者はいなかった。いたとしても、バルクに粉砕されただろうが。

 途中からオゼも参戦した。二十体倒したところで引き揚げてきたが、その顔は残虐な喜びに満ち溢れていた。

「オゼ、この攻勢は……」

「先遣隊ってところだろう。アシェニス、脱出の用意を」

 アシェニスは頷いた。この攻勢を凌いでも、更に大きな波がやってくる。それは分かりきっていた。洪鈞の壁を襲った波は、もっと巨大だった。それにもっと組織立っていた。まるで一体の悪魔が全ての悪魔の思考を支配しているかのように、合理的な攻めを繰り返していた。それが今回はなかった。

 アシェニスはなんとなく察していた。囚魔師がばら撒いた聖砂が悪魔の集団をかき乱したのだ。それで軍団の末尾についてきていたような半端な悪魔が時期を誤って襲ってきた。

 要塞は歓喜の渦に包まれていた。その中心にいるべきバルクは、聖像にもたれかかって静かな空間を求めているように見えた。

 アシェニスとオゼが馬上で挨拶すると、バルクは弱々しい笑みを見せた。

「練習にしちゃあ、良い動きをしていただろ?」

 アシェニスは驚いた。

「気付いていたのか? 本当の戦いはまだ始まっていないと」

「やはりそうか」

 バルクは聖像に触れて、その乳白色の加護の光を体内に溜め込み、首をぐらぐら揺らした。疲れを抜き取る為の体操、といったところか。肩凝りには効果がありそうだが。

「歯ごたえがなかった。まるで油断してくれ、と言わんばかりに。あんなに簡単に刃が通っていたら、誰だって英雄になれる」

 それは言い過ぎではないか。アシェニスは思ったが、オゼが反論する気配はなかった。

「次は、南の幽谷の壁あたりにでも立ち寄るのか?」

「そういうことになるな。そこの人間は、ここほど頑固者ばかりでなければいいのだが」

 バルクは笑った。やはり生気の欠けた、疲れ切った笑みだった。

 そこでアシェニスは直感した。バルクがいかに優れた戦士であろうと、次にやってくる大攻勢は凌げない。一緒に来ないか、という言葉が喉まで出掛かった。もしも悪魔と人間の最終決戦なるものが訪れたとするなら、バルクのような戦士はあまりに惜しい。こんなところで死なせるべきではない。

 バルクに匹敵する戦士は、世界中から掻き集めれば、何人もいるだろう。そういう人間だけで組織された精鋭部隊を設立し、悪魔と対抗させる。それは胸の躍る展開だった。アシェニスは口を開きかけた。

「一緒に来ないか」

 そう言ったのはオゼだった。アシェニスは驚き、隣で見事な馬術を披露するオゼを見つめた。

「オゼ?」

「アシェニス、こんな男は他にいない。連れて行くべきだ。恩沢の壁の人間も歓迎するだろう」

「それは……」

 アシェニスはバルクを見つめた。彼はいつの間にか立ち上がり、聖像に手をつき、荒く息を吐いていた。

「俺はここを守る義務がある」

「義務だと?」

「そういう契約なのさ。賭けとも言えるが……」

「誰との賭けだ」

「決まってるだろ。悪魔とのさ」

 アシェニスは何かの冗談だと思ったが、オゼはそう考えていなかった。

「お前、悪魔と何の取引をした?」

 オゼの言葉が空虚に響いた。周囲の人間は勝利の余韻に浸って、酒を飲んでつぶれている。誰もオゼとバルクの剣呑な雰囲気に気付いていなかった。

 アシェニスは慌てた。

「オゼ、何を言っている。取引とは……」

「黙ってろ」

 オゼに制され、アシェニスは口を噤んだ。オゼの剣幕は尋常ではなかった。バルクは、らしくもない笑みを延々と浮かべている。

「あんたも、何か知ってるみたいだな」

「質問は俺がしている。バルク、お前は湖に行ったのか。……何を願った」

 湖? アシェニスは二人が何を話しているのか分からなかった。願いとは、何だ。

 バルクは軟弱な表情を浮かべた。安い笑みを顔に張り付かせ、手を叩いた。

「取引を知ってるのか。それは面白い。……ふん、知識ってやつだよ」

「知識? 何を知った」

「俺たちの運命だよ」

「……悪魔の言葉を鵜呑みにしたのか?」

「偏見はいけないな。真実だ。俺が手に入れたのは」

 バルクは腰を下ろした。よく見れば頬が赤い。酔っているらしい。アシェニスは納得した。

「オゼ、酔っ払いの言葉だ。お前こそ、あまり鵜呑みにするな」

「黙ってろ」

 オゼは繰り返しアシェニスに厳しい視線を送った。アシェニスは不服に思い、口を尖らせた。すぐにみっともないと気付いて止めたが、バルクの目に入った。

「おい、あんたの彼女が不満そうだぞ。ちゃんと構ってやれよ」

「うるさい」

「ちゃんと相手してやってるのか? 口づけするときくらい、兜を外しているんだろうな。それとも、その兜、口の部分が開くのか?」

 アシェニスは少し時間が経ってから、バルクの言葉の意味が分かり、腕を振り回した。

「ば、馬鹿者! 私とオゼはそんな関係ではない!」

「黙ってろ、と言ったはずだが」

 オゼはアシェニスの頭の上に手を乗せた。アシェニスは黙りこくった。オゼが怒っているのが感じられた。彼は滅多にアシェニスに触れようとしない。

「何を知った。バルク、貴様は何を知っている」

「何度も同じことを言わせるな。運命だ。俺たちが行き着く末の」

 オゼは苛立ち、それは彼の愛馬にも伝わっていた。しきりに尾を振っている馬の眼は、悪魔さながらに血走っていた。

「それは……、俺たちが悪魔と戦う理由だとでも?」

「……そうかもしれないな。知りたいか? 教えてやってもいいぜ、金貨百枚で」

 オゼはかぶりを振って、馬を歩かせ始めた。アシェニスは慌てて彼に続いた。

「どうしたんだ、オゼ。バルクと何を喋っていた?」

「聞いていたのだろう。自分で考えたらどうだ」

 突き放されたアシェニスは、何も言えなかった。バルクは悪魔と取引したと言っていた。しかし悪魔は人語を解さない。人間を見たら問答無用で襲ってくる。取引などできるはずがない。この部分だけでも不可解だった。

 オゼは大門に向かった。戦いで命を失った戦士を次々と搬送している為、大門は開いていた。オゼとアシェニスは沈痛な面持ちの一隊とすれ違った。要塞のいたるところで祝宴が開かれているというのに、こんな顔をしている人間もいる。アシェニスにはそれが奇妙なことに思えた。所詮、人の生き死にとはその程度のことなのだと、まざまざと見せられた思いで、気分が悪かった。

 哭臨の壁を出た。朝早く出発する予定だったのに、いまや夕刻である。翌日に出発するのが普通だが、もはや一刻の猶予もない。いつ本当の大攻勢が始まるのか分からないのだ。

 頭上から声が降ってきた。アシェニスは視線を持ち上げ、胸壁からグリアが手を振っているのを見つけた。グリアは煙草の煙を吐き出し、にやりと笑った。

「地獄には二人だけで向かうのかい。慎ましやかなことだね」

「今のうちに身支度を整えておいたほうがいい。こんなものじゃ済まない」

「覚悟はしてる」

 グリアは愉快そうに言うと、煙草の残骸を放り投げた。それはアシェニスの馬の近くに落ち、荒野の砂にしばらく炎がちらちらと揺れていた。

「まあ、覚悟が必要なほど、大事が起きるとも思わないけどね。旅の無事を祈ってるよ、別嬪さん」

「……あなたも」

 アシェニスは笑みを返した。オゼはアシェニスが立ち止まっている間も、馬を歩かせていた。アシェニスは彼に追いつく為に馬を走らせた。貧弱な馬だったが、荒野を走るのは気分が良いらしく、進んで速度を上げた。オゼの隣に並びかけると、オゼも馬を走らせた。

 こうして二人で往くのは、気分が良かった。一人だけでは不安だし、人数が多過ぎても落ち着かない。馬のたてがみを撫でて、アシェニスは微笑んだ。

「生きて戻ってきてくれて、嬉しい」

 アシェニスは言った。オゼは答えなかった。

「私はお前を雇った。しかし、契約関係以上に、頼りにしている。それは悪いことか? 私はお前のことなら何でも知りたい。お前が今、何を考えているのかも、興味がある」

 オゼは何も言わない。アシェニスはそんな彼の姿をいつまでも見つめていた。


   3


 ラミは武器庫から引き出してきた巨大な弩を抱えて、射手台に駆け上がった。ひどく重い弩だったが、武器庫の最奥に眠っていた特上品だ。どうして誰も使おうとしないのか、不思議なくらいだった。

 鉛の弾も服のいたるところに詰めてある。弾切れを心配することなく撃ちまくれる。どういうわけか、この弩専用の弾が用意されていて、いずれも手入れに抜かりはなかった。

 射手台には簡素な胸墻が積まれており、漏れた砂には聖砂の気配が見られた。倒壊した聖像から作る聖砂には、悪魔が嫌う臭いが含まれていることは確かだ。しかし、ほとんど破魔の力はない。ばら撒いて悪魔を遠ざけられるのは、一日か二日程度のことだろう。

 ラミは体勢を低くして、中壁の射手台から地上を見下ろした。そして愕然とした。悪魔の死体が累々と連なっており、沈み行く陽に妖しく照らされていた。それはバルクがラミを救ってくれたときに仕留めた悪魔の死体の状況に似ていた。臓器をばら撒き、血漿を垂らす。しかし今回はその規模が要塞を取り巻くほどであり、激臭凄まじかった。

「うっ……、戦場ってこんな感じなのか……」

 ラミは蹲り、弩を側に置いた。戦いが終わっている。一体くらい倒してみたかったけど。ラミは呟き、こんなことで大丈夫なのだろうかと不安になった。これから自分は無数の悪魔を倒さなければならないのに。無敵の剣となって悪魔たちにとっての恐怖の象徴とならなければならないのに。

「ラミ」

 後ろから声がかかった。見れば、射手台への縄梯子からバルクが顔を覗かせていた。

「バルクさん」

「死んだかと思ったぞ。何処にもいないんだからな、ったく……」

 バルクは射手台によじ登り、ここは臭いが酷いな、と呟いた。胸墻の上に座り、持参した酒を瓶ごと口に持っていった。

 バルクさんが自分を探してくれていたんだ。ラミは無性に嬉しくなったが、射手台は高い上に足場が少なかった。喜びの舞踏を披露するというわけにもいかない。

 バルクがふと弩に目を向けた。

「ラミ、その弩はどうした? まさか撃とうとしていたのか?」

「ええ」

 ラミは頷いた。そして要塞の周囲をぐるりと指差した。

「でも、悪魔は一体もいませんでした。ちょっと遅れてしまったみたいです」

 バルクは脱力したように笑った。

「お前に、その弦は引けないさ。重過ぎる。お前、本当にそんな巨大な弾を弾き出せると思っていたのか」

 ラミは首を傾げ、弩の弦に触れた。指先で弾こうとしても、全く動かない。少し驚いて、引き金にめいいっぱい力を込めたが、やはり動かなかった。

「うぐぐ……、ば、バルクさん」

「情けない声を出すなよ。貸してみろ」

 バルクはラミが両腕に乗せてやっと運んできた弩を片手で持ち上げると、膝の上に乗せた。弾を詰めて、機構の異常がないか確かめている。

「これを撃つのも久しぶりだが……」

 バルクは立ち上がり、ろくに狙いを定めずにそれを放った。直撃すれば人間どころか悪魔の頭部を粉砕するような巨大な鉛の弾は、風を切る爽やかな音を靡かせながら、地平線の森の奥へと吸い込まれていった。

 ラミは呆然としていた。

「まさか、森まで届くなんて……。凄いです!」

「そうでもない。軽く引いただけだ」

 バルクは弦を指で弾き、面白くなさそうにラミに手渡した。ラミは慌ててそれを足元に置かなければならなかった。重過ぎる。

 バルクは酒瓶を空にすると、無造作に地上に投げ捨てた。悪魔の死体を処理している人間がいるというのに。ラミは冷や汗が出た。

 バルクはそんなラミを観察していた。

「お前は子供だから、戦いに参加することはないだろうが。それでなくとも、向いてないな」

「……戦士にですか?」

 バルクは頷いた。ラミもそれは分かっていた。

「戦士に必要なのは横暴さだよ。必要とあれば同属さえも斬り殺す、それくらいの気概がないとな。もちろん、後悔するかしないかは別だ。問題は、そのとき横暴かつ冷酷になれるか、だ。お前は、横暴にも冷酷にもなれない」

 そうかもしれない。しかし、だからこそ、ラミはバルクを求めているのだ。

「バルクさん」

 ラミはごくりと唾を飲み込んだ。

「何だ」

「僕は……、死にたくありません」

 沈黙が一帯を支配した。それは空気より重く、足元から徐々に二人を締め上げていった。

「……いきなり何だ」

 バルクは驚きを内面に閉じ込め、そう言った。しかし、ラミには彼が無理しているのが分かった。

「僕を守ってください」

 またか、とは言わなかった。バルクはただ、ラミの瞳を――青い瞳を真っ直ぐ見つめていた。ラミの目にも、バルクの眼の中にラミの瞳の青が映りこんでいるのが見えた気がした。それは気のせいかもしれない、しかし、バルクがそれだけ熱心にラミを見つめているという確認にはなった。

「……お前は、死ぬという予感があるのか」

「ありません。バルクさんが守ってくれるのなら、僕は生き抜くでしょう」

「だろうな。俺が本気で誰かを守ろうと思ったら、そいつは誰よりも長生きする」

 バルクは無理に笑みを浮かべた。ラミもそれに微笑みを返した。孤高の戦士はすぐに笑みを消した。

「……お前は何度も守ってくれと言っていた。それは、大攻勢を見越してのことだったのか?」

「はい」

「お前は何者だ。……という質問をしても、答えてくれないのは分かっている。しかし他に質問が思いつかないんだ。どうも思考がぎこちない」

「僕は男じゃないんです」

 ラミは話していた。話すべきときが来たと思った。いや、最初から話すべきではあった。出会ったときからその機会はあった。しかし拒絶されてしまうのではないかと恐怖があった。今はそんな恐怖とは無縁だった。何故なら、自分とバルクは、似ていると知ったから。

「男じゃない? 女だったのか、お前」

 バルクはひたすら困惑している。確かにそう見えなくもないが、と呟く。

 ラミは首を横に振った。

「女でもないんです」

「……両性具有か?」

 バルクは打ちのめされたように言った。ラミは笑ってしまった。

「何ですか、両性具有って」

「男でもあり女でもある。……いや、お前は男でも女でもないと言ったな。どういう意味だ」

 バルクはラミを見つめている。それは敵を見る目に似ていた。悪魔を殺す瞬間に浮かべる憎悪の眼差し。ラミは少し悲しくなった。

 しかし。ラミはすぐに気付いた。バルクは恐怖しているのだと。悪魔に向けていたあの眼は、恐怖の眼差しに他ならなかったのだと。

 あの豪胆な戦士バルクが、自分に恐怖している。そう考えると、ラミはおかしくなったが、人間は自分が理解できないものに巨大な闇を想像してしまうものだ。理解できない部分におぞましい真実が隠されているのではないかと邪推し、その恐怖を肥大化させていく。

 そんな人間らしい部分が、バルクにもあったのか。

「どうした、ラミ。いったいどういうことなのか説明してくれないか」

「僕の言葉を信じてくれるのですか」

 ラミにとっては意外なことだった。男でも女でもない。勿体ぶった言い方をしてしまったが、そんな言葉も笑い飛ばされると思っていた。

「信じるかどうかは、お前の言葉を全て聞いてから決めるさ」

 バルクは少し余裕を取り戻して言った。どうして自分がそんなに真剣に構えていたのか理解できない、と言わんばかりに、笑みを湛える。

 やはり、似ている。ラミは思った。バルクと自分は似ている……。

「僕は人間じゃない。道具なんです。だから、男でも女でもない」

「道具?」

 バルクはじっとラミを見つめている。その言葉が嘘か真か、まるでラミを見つめていれば突き止められると確信しているかのように。

「道具って何だ。俺はどうしても、お前がまるで俺に使われたがっているように思える」

 ラミの中で衝撃が起こった。バルクは今、何と言った?

「おかしいことだとは思っている。お前を使う……、初めて手を握り合ったときにも感じた気配の正体はこれだった。お前を使って悪魔と戦う、そんな概念が俺の中で形成された。不可解なんだよ、お前は人間で、どうやってお前を使えば悪魔と戦えるのか分からない。そしてお前は自分を道具だと言う。偶然なのか、これは。俺はお前をどうすればいい?」

「僕を使ってください」

 ラミは決心がついた。既にバルクの中で受け入れる覚悟ができていた。

 不可解とバルクは言った。それは確かだ。不可解な関係になる。ラミは道具に過ぎない。それなのに意思を持つ。そのように作られた。

 しかし、その不可解を飲み込む力が、バルクにはある。そのように創造主は判断した。だから哭臨の壁に住まうちっぽけな戦士の元に、ちっぽけな少年を送り込んだ。

 二人の力が悪魔に浸食されつつある世界を救うと信じ、小さな願いが大きな希望になると信じ、ラミが道具という存在を超えて、人間と結束すると信じ。

 ラミの目から透明な液体が零れ出た。それを涙とは呼びたくなかった。涙は悲しいときに流すものだ。

 新しい自分に生まれ変わるんだ。ラミは思った。新しい世界を見る為に、新しい眼を手に入れるんだ。

 バルクは困っていた。涙を流すラミを、不思議に思っているようだった。

「お前が何を知っているのか、俺には分からんがな。……あんまり泣くと、俺が泣かしているように見えるだろうが。俺の趣味は子供苛めってことになってるんだから」

「そうなんですか?」

「ああ。子供って奴に、俺は弱くてな。……どうも、調子が狂う。どう扱っていいのか分からん。弱い自分を殺す為に、あえて厳しく接していたら、そういう異名が生まれてな」

「優しいゆえに、ですか」

「優しいというのとはちょっと違うな。ただ、戸惑っているだけだ」

「僕にとって、それは優しさですよ」

 ラミは微笑んだ。手を差し出す。これが第一歩なのだと。強く実感しながら。


   4


「敵襲! 悪魔だ! 悪魔がやってきたぁ!」

 その男の必死の雄叫びにも関わらず、要塞の多くの人間は油断し切っていた。それはバルクがなんとかしてくれるという甘えた気持ちや、たった二日前に悪魔の大攻勢を凌いだという驕りがあった所為だろう。バルクが完全武装し、脇にラミを従えて外壁の屯所に向かうと、戦士たちは気楽に談笑していた。酒を煽っている奴もいる。

「死にたい奴だらけだな」

 バルクは呟き、ラミをぎょっとさせた。

 グリアが胸壁に凭れて、外の様子を眺めていた。

「グリア、敵の様子は? 良い按配か?」

 グリアは振り返った。今日は黄金色の義眼を右の眼窩に嵌め込んでいた。不気味ではなく、むしろ神々しい輝きを放っている。

「お客さんは静かな闘志を燃やしているね。ああいう手合いは、一体だけでも厄介なのに、それが何百……、いや何千いるんだか」

 バルクとラミはグリアの隣に立った。そしてその異様な光景を見た。悪魔が、整然としている。

 それは考えられない事態だった。異形の怪物、悪魔たちが、列を為して、陣形を作り、要塞を包囲している。剣や槍など、何も持たない彼らだが、牙や爪など、それぞれが最も自信を持つ武器を、陽光に映えるように掲げているように見えた。示威行為か。

 指揮官とおぼしき悪魔は、太鼓腹が印象的な、馬の化物だった。人間のように二本足で立ち、腹が突き出ているが、馬の頭、四肢をしていた。赤い毛皮が毒々しく、何やら甲高い声で指示を下しているように見える。単に騒いでいるだけかもしれなかったが。

「信じられないな。軍隊じゃないか。人間の軍よりもよほど統率が取れている」

「あれが一斉に来たら」

 グリアは呟き、ははは、と笑った。グリアらしくない、とバルクは感じた。

「初めて悪魔と戦ったとき以来さ。手が震えてら。また、あんたに迷惑をかけるかもね」

 グリアが顔面を引き千切られ、瀕死の重傷を負ったときのことを思い出す。あのときはバルクが助けたが、今回そのような余裕があるかどうか。

「勝算はありますか」

 ラミが尋ねた。それはバルクではなく、グリアに向けられているようだった。

 グリアは首を横に振りこそしなかったが、頷きもしなかった。

「戦いの女神は臆病者には微笑んでくれない。やるしかないってことさ」

 バルクは頷いた。ラミも、その答えに満足したようだった。

「しかし、それにしても、どういう風の吹き回しだい。バルクとラミが仲良く一緒に屯所に来るなんてさ」

 グリアが呆れたように言った。バルクはラミを嫌っていた、グリアはそのように感じていたのだろう。

 確かに、バルクはラミを厄介だと思っていた。しかしそれは、何か感じるものがあったからこそ忌避していたのだ。本当にただの家出少年だと思っていたなら、簡単に扱えただろうに。子供それ自体が苦手だったとしても、もう少し毅然とした対応ができていたはずだ。

 ラミはバルクの鎧をコンコンと叩いた。バルクは頷く。

「少し待っていてくれ。お前は聖像に引っ付いてろ。俺は俺で、自分の限界が知りたい」

 その言葉に、屯所の人間が一斉に注目した。限界という言葉は、バルクの力が悪魔との交戦中に尽きることを暗に示している。今までバルクの限界は、その力が常に悪魔を上回っていた為に、杳として知れなかったのだから。

「死ぬ気だね?」

 グリアが尋ねた。まさか、とバルクは笑った。

「ラミを迎えに、戻ってくる。絶対に死なない。聖像を守れるかどうかは分からないが」

 ラミが頷き、あっさりと屯所を出て行った。その足取りは重かったが、決然とした意志が垣間見られた。バルクは満足した。

「縄を投げてくれ」

 屯所から要塞の外へは、縄を伝って出られる。多くの戦士が、バルクの言葉に仰天している。単身飛び込むというのか、集中的に攻撃を浴びるぞ、と。

「限界を知るには良い舞台だ。俺が出たらちゃんと格子を下ろすんだぞ、分かってるんだろうな」

 若い戦士たちが何度も頷いた。言われなくてもそうする、という顔をした。臆病とはちょっと違う。狂人を前に気圧されているという雰囲気だった。

「付き合おうか?」

 グリアがその得物を、二枚刃が特徴的な剣を腰に吊るした。バルクは笑った。

「死のうとしているのはお前じゃないのか」

「あんたも」

「俺は死なない。まあ、見てろよ。あの憎らしい陣形を崩してきてやる」

「バカだ! あんたはバカだ! たった一人で突っ込んでどうなる?」

 グリアは喚いた。同室の人間ばかりでなく、部屋の外を歩いていた連中も、驚いて顔を覗かせた。グリアの取り乱した姿を初めて見たのだろう。

 一方、バルクは、懐かしいなと感じていた。これで泣き出したら完璧なのだが。

「どうかしたか、グリア。俺はいつだって悪魔の大軍団と一人で戦ってきたじゃないか。バルクの背中には戦いの女神が乗っかって動こうとしない、いくらでも守ってくれる。そう言ったのはお前だろ。俺は死なない」

「今回は違う……、私には分かる」

 グリアは少し落ち着いたが、それでも動揺は消えなかった。女傑たるグリアしか知らない年少どもは、夢幻の類かと目を擦っている。

「バルク、あんたが生きて帰ってきたら、私が殴り飛ばしてやる。生き残ってそれで満足か、一生そうやって他人を心配させていればいいんだ、ってね」

 グリアの目に光るものが見えた。義眼はさすがに変わりなかったが、陽光に照らされて濡れているように見えなくもない。なかなか素晴らしい義眼を持ってきたじゃないか。バルクは大剣の入った筒を叩き割り、中から得物を取り出した。聖像の加護をこれでもかとばかり受けた、破魔の剣。

「ラミを頼む」

 バルクは胸壁から垂れた縄に掴まり、一気に滑り落ちた。悪魔たちの視線が、不気味なくらい一斉に、バルクに集まる。

 無事着地したバルクを見て、要塞中の物見台から驚愕の声が上がった。そして歓声と応援の声が湧き上がり、要塞は不穏な空気から脱却した。射手台から一斉に弓矢が飛ばされる。それらは悪魔たちに届く前に地上に落ちた。

「どいつもこいつも死に向かってやがる」

 バルクは悪魔たちが動き出したのを見て、そう呟いた。


 最初に激突したのは、腕が四本ある巨人の悪魔だった。

 バルクは身を屈め、大剣の力を乗せて薙いだ。悪魔の足がぱっくりと割れて、血が噴き出した。しかし悪魔は怯まず、腕を交差させて圧し掛かってきた。

 なるほど、命を捨てる覚悟がある。相当強大な悪魔が支配しているようだ。バルクは思い、狙うなら急所以外ありえない、と決めた。

 地面すれすれの高さを保ちながら、バルクは上半身を捻り、体勢を変えた。その奇怪な動きは悪魔にとっても予想外だったようだ。空いている腕が追撃してくることはなかった。

 バルクは突進し、剣を前に突き出した。悪魔は腕を交差させ、胸の辺りを防御したが、全くの無意味だった。腕ごと胸を貫いた大剣を捻る。悪魔の肉が灰と化して、空気中に霧散した。大剣の聖像の神気が、悪魔を容赦なく灼き殺した。

「まずは一体」

 バルクは剣を引き抜いた。既にバルクは様々な形をした悪魔たちに囲まれていた。人型が最も多く、次いで四本足の獣が多い。あとは獣なのか人間なのか、あるいは植物なのか動物なのか、鳥なのか虫なのか、よく分からない異相の連中ばかりで、いちいち観察していられなかった。

 この無秩序の姿をした連中が、何か強力な規則によって縛られ、動いている。バルクの相手をするのはせいぜい二十体程度の悪魔で、あとは要塞攻略の為に行進を始めていた。

 悪魔の行進! なんというおぞましさだろうか。吐き気がしてくる。バルクは、それを眺めている暇さえない今の状況に感謝した。要塞連中の陽気な声が途絶えた。悪魔たちに萎縮したのだろう。バルクがまだ一体しか倒していないことを非難する声が聞こえてきた。

「そうやって他人の所為にしていればいい。……お前たちは赤子も同然、自力で立ち上がることもできない」

 バルクは叫んだ。それに呼応して、悪魔たちが一斉に飛び掛かってきた。

 右腕が鎌になっている小柄な悪魔の攻撃を避けた。体を回転させて勢いをつける。大剣の重量に引っ張られる形で跳躍した。狼の頭を突き破り、紫の血と脳漿を浴びて、バルクは笑った。お前、今、俺を殺せると思っただろう。しかし実際に死ぬのはお前だ。俺は死なない。だから死ぬのはお前だ。それが真実だ。

 バルクは着地すると同時に、大剣の勢いを殺した。そして振り返る。悪魔が二体、黒い息を吐きながら飛び掛かってくる。避けるまでもない。息を止め、大剣を上に突き上げた。悪魔の顎に突き刺さったそれは黒い毒液を浴びて、煙を立てた。神気に守られている武器はびくともしなかった。バルクは笑う。

 得物を掲げたバルクに、更に悪魔が襲い掛かる。バルクは大剣を捨てて、アシェニスから貰った短刀を取り出した。神気の気配が凄まじい。相当溜め込んでいる。

「お前らにはこれで充分だ」

 牛の頭をした巨人の突進をかわし、その背中に短刀を突き入れた。砂糖の中に熱湯を注ぎ込んだかのように、悪魔の肉体は一瞬で溶けて、ぽっかりと大きな穴が開いた。紫色の心臓が大量の血を噴き出しながら腐っていくのが見えた。

 悪魔の死体を蹴り飛ばし、空を飛んで嘴を蠢かしている鳥の悪魔に短刀を投げた。それは鳥の眉間に突き刺さり、得体の知れないぶよぶよした固形物をばら撒き、墜落させた。

 黒く染まった大剣を拾い上げ、バルクは走った。悪魔たちが、まるで斬られに来るかのように見える。急所を曝け出し、自らの命を差し出しに来るかのように感じる。全てが止まった。バルクは自由に世界を止められた。何処へ走れば、何処へ突き入れれば、何処へ振れば悪魔たちを倒せるのかが分かった。

 立ち止まる。大剣を振る。その度に羶血が迸り、バルクを悪魔の色に染めた。血を浴びれば浴びるほど、人間を超えられると感じた。超えなければならないとも感じた。超えなければ何も得られない。

 奇妙な雄叫びが上がった。バルクは視線をそちらに向けた。悪魔たちが要塞に総攻撃を仕掛けていた。有角の悪魔たちが先頭を行き、その角を門に突き入れた。要塞全体が揺れたように見え、兵士たちが岩や煮滾った鉛の液体や糞尿などを投げつけている。悪魔は全く怯まなかった。

 戦士たちの弓矢は効果があったが、それらは優先的に潰された。悪魔たちは互いの体を持ち上げ、それを要塞に向けて投げ出したのだ。

 あっという間に射手台の上に誰もいなくなった。悪魔たちの反撃を恐れて、射手たちが退却したのである。

 さすがに要塞の深奥に入れられる前に撃退し、侵入を許さなかったが、要塞は確実に破壊されていった。その機能は低下し、悪魔たちの勢いはあっという間に強くなった。

 バルクは大剣を振るい、悪魔の命を着実に奪っていったが、その様子を暢気に眺めていられる人間は一人もいなくなった。要塞の全方向から攻撃が仕掛けられ、環状の壁の何処かがいつ破壊されてもおかしくなかった。

「ホー! ホー!」

 要塞から離れた場所で、例の太鼓腹の悪魔が自らの尻尾を旗代わりに、熱心に振っていた。あれが大将ならば、叩いておいて損はないかもしれない。バルクは走った。

 悪魔たちが壁となって大将を守る。わざわざその為の兵員を配置していた。だからこそ叩く価値がある。

 バルクは大剣を振り回した。その迫力に、悪魔たちは怯んだ。悪魔たちにも、俺は評判らしいな。悪魔が怯むなどと。バルクは笑った。笑ってばかりの戦場だったが、決して余裕があるわけではなかった。早くも腕が上がらなくなっている。

 それでも、バルクは全力を出し続けた。骨を砕き、そして引き抜くのが苦痛になってきた。大剣の切れ味も鈍っている。聖像の加護が切れつつあるのだ。いつもならば退却し、小休止を挟むところだったが、要塞はいまや混沌としている。バルクが中に入れば、悪魔たちが便乗して侵入を試みるだろう。

 予備の小剣を引き抜いた。しかしそれは一体を倒したところで根元から折れた。大将に迫るどころではなかった。バルクは悪魔に囲まれた。

 もはや単なる鉄の塊と化した大剣を構え、バルクは唸った。これが限界のはずがない。こんなにあっさりと、限界が訪れるはずがない。

「バルク!」

 声がした。グリアの声。要塞を振り返った。屯所のある胸壁には無数の悪魔が取り付いていたが、一瞬、グリアの剣がきらめくのが見え、悪魔たちの群れを地面に落とした。僅かな間隙が生まれ、そこから一振りの剣が飛んできた。それは正確に、バルクの正面に立っていた悪魔の頭に突き刺さった。

「武器の心配ならいらない! いくらでも補給してやるよ!」

 バルクは大剣を捨てた。悪魔たちがそれを目で追っている内に、バルクは新たな大剣を悪魔の頭から引き抜いていた。

「死ぬなよ、グリア……!」

 バルクは呟いた。次に屯所の胸壁を一瞥したとき、悪魔の群れに埋もれて何処にグリアがいるのか分からなかった。


 バルクは走り続けた。大将の取り巻きは着実に数を減らしていったが、きりがなかった。森の中から悪魔たちが現れ、兵力を増やしていくのだ。バルクの中で嫌な予感が広がっていったが、あえて直視しないようにした。

「ホー! ホー!」

 大将が喚く。すると悪魔の軍団が要塞を破壊する手を早める。その相関は明らかのように思えた。バルクは追い縋る悪魔を切り伏せながら、どうやって大将に近付くか考えていた。

 いくらバルクといえども、バルクを待ち受けている悪魔数十体の中に飛び込んでは、無傷でいられない。切り崩せるところから攻め、数を減らし、潰す。そうやって立ち回ってきた。磐石の守りを固めている相手に、たった一人で挑むのは無謀だった。

 せめて陽動役がいれば。その願いが聞き届けられたのか、とびきり命知らずで勇壮なバルクの部下たちが、グリアに指揮されて飛び出してきた。グリアも、あの悪魔の大将を潰すべきと判断したのかもしれない。

 そして勝負に出るのなら、この辺が潮時だった。外壁が持ち堪えられない。外壁が崩れれば、守りの態勢は軟弱となり、あっという間に聖像まで到達されてしまう。人間は皆殺しだ。

「グリアー!」

 バルクは叫んだ。グリアは頷いた。黄金の瞳が悪魔たちを浄化していくように、彼女の前の悪魔が次々と倒れていく。その様子を見て、俺以上ではないか、とバルクは思ったが、自分が彼女以上の速度で敵を倒していることに気付き、周りも俺をあんな風に見ているのか、と悟った。確かに英雄扱いされても仕方ないな。バルクは苦笑した。

 グリアの一団は、矢の形の陣形を取り、悪魔の軍団を切り裂いた。その集団は大将に一直線に向かっており、悪魔たちは黒い壁となってそれを阻止しようとした。

 駄目かと思った。バルクは新たな血を浴びながら、それをハラハラして見ていた。しかしグリアの特殊な剣がきらめくとき、悪魔は肉を空中に四散し、怨めしげに倒れていく。グリアの勢いに合わせて若い戦士たちが悪魔たちを押し返していた。俺がいなくともちゃんとやるじゃないか、とバルクは嬉しく思った。

 ならば、隊を率いる必要などなかったではないか。これまでも、一人で戦っていたほうが気楽だったのに。

 巨人の悪魔が突進してくる。バルクは回転し、鈍くなりつつある大剣を振り切った。悪魔の胴体が両断されて、ゆっくりと倒れていった。刃が血に濡れて、直感ではあったが、もうこの剣では一体も斬れないと悟った。潔く剣を捨てる。

 もう五十体近く斬っていた。体力に問題はない。多少疲れているし、聖像の加護を失って悪魔の血に拒否反応が出ているが、それは取るに足らない。問題は得物……。得物さえ無制限に手に入れば、悪魔など全く恐ろしくないのに。

 丸腰になったバルクに、悪魔が襲い掛かる。雄叫びを上げたバルクは走った。肩当てを外して投げつける。要塞に向かって走るバルクを、抵抗を続けている兵士たちが指差して見つめる。そんな油断ばかりしている連中は、次の瞬間悪魔に頭から食いつかれていた。

「武器を投げろ! 武器をくれ!」

 しかし誰も投げ与えてはくれなかった。バルクの背に、獣の爪が襲い掛かった。鎧が易易と破られて、バルクは倒れた。すぐに立ち上がろうとしたが、その上に誰かの足が乗っかる。

 要塞から悲鳴が起こった。それがバルクの窮状を見てのことだったのかは分からない。その悲鳴は途絶え、おそらく悪魔に喉を食い破られたのであろう悲惨な音を漏らしたからだ。

 バルクの上に圧し掛かった悪魔は、すぐにはとどめを差さなかった。それが失敗だった。悪魔の腹に突き刺さった小剣は、グリアの予備の得物だった。

「お前に助けられたのは初めてかもしれん……、いや、さっきもか」

 バルクは立ち上がった。そして悪魔の首を切断し、存分に血を浴びた。

 遠く、グリアが悪魔と戦っている。大将は目の前だ。しかし、その馬の悪魔は場所を変えようと走り出していた。腹を抱えてよたよたと進んでいる。

 絶好の機会ってやつか。バルクは笑った。

 走る。途中の悪魔たちは一切気にしなかった。爪や牙、毒液が襲い掛かり、少なからず生傷が全身に出来たが、もうこの小剣を使おうとは思わなかった。あの大将を討つ為だけに使う。

 大将がこちらに気付いた。

「ホー! ホホホー!」

 悪魔たちがたちまち壁を作った。バルクは笑う。笑い続ける。悪魔たちはそんなバルクを、首を傾げて見つめた。

「てめえは自分が死ぬとは少しも思っていない! しかし、真実は違う! お前は死に、俺は生きる! 人間が勝つ! 悪魔が負ける!」

 呪文のように唱えた。切り込み隊が壁の脇腹を突いた。大将が判断を誤り、切り込み隊に充てていた戦力を、バルクへの壁に使ってしまったのだ。

 悪魔の壁が崩れた。

「てめえの腹には何が詰まってるのか、さっきから興味津々なんだよ!」

 跳んだ。

 小剣の刃は紫色に染まっていたが、脂に滑ることはなかった。大将が腕を突き出し、その赤い鬣を振った。いやいやをしているように見える。

 笑みが消えた。何処の世界も、大将って奴は変わってる。バルクは小剣を振った。周りからは、手軽に振ったように見えただろうが、正確に悪魔の急所を狙っていた。

 胸を貫く。そこで不可解なことが起こった。馬の腹がぱっくりと割れたのだ。

 切り込み隊が歓声を上げた。大将たる馬の悪魔が、胸を押さえて倒れこんだ。その途端、悪魔全軍団が動きを止めた。要塞の外壁をあと少しで崩そうかと迫っていた悪魔も、手を休めて馬の大将の方向を見やった。

 バルクはあっさり絶命したその馬の悪魔を凝視していた。太鼓腹の中に、何かがいる。腹が独りでに生まれて、何かが這い出てこようとしている。

「何をしている、殺せ、その腹の中に何かがいる!」

 誰かが喚いた。グリアか、あるいは他の切り込み隊の誰かか。バルクは慌てて小剣を胸から引き抜き、振り上げた。

 天空にそそり立った小剣の刃は、そこで、何の前触れもなく折れた。誰もが目を疑った。

「何をしている、バルク!」

「……ちっ!」

 折れた剣の切っ先を拾い上げた。慌てていた所為か、掌を切ってしまった。その破片を悪魔の腹に叩きつけようとし、そこで――腹の中身を見た。

 膝を抱えて赤子のように眠るのは、黒い髪をした少女だった。人間だった。瞼を閉じてすやすやと寝入っている。不思議なことに、腹の中は黒い液で満たされているのに、彼女自身は色白の美しい肌を保っていた。

「人間の……、子供……?」

 一瞬、ほんの一瞬だが、怯んだ。次の瞬間には、バルクの心は鬼となっていた。得体が知れない。少女の姿をしてはいるが、悪魔に違いない。問答無用で殺す。殺さなければならない。バルクは腕を振り下ろした。

 馬の腹が蠢いた。まるで少女を守るかのようにくねらせると、バルクの必殺の一撃をかわした。そればかりか、力を失ったはずの馬の悪魔の足が、バルクの腹に蹴りを食らわしてきた。ほとんど威力がなかったが、それは蹴りには違いなかった。

「ぼやぼやしてっ……!」

 切り込み隊の一人が到着し、自慢の斧を振りかざした。しかしその斧の攻撃も、馬の死体が動いてかわしてしまった。少女は無傷だった。

「な、何だ……?」

 全ての悪魔が、その馬の死体を、謎の少女を見つめていた。要塞の攻略など忘れてしまったかのように、戦場は静まり返り、要塞の人間たちも困惑しきっている。

 そこに、一人の少年の声が響き渡った。信じられないような力強さで、ラミの叫びが遠く離れたバルクの耳に届いた。

「その女の子を早く殺して! そいつが悪魔たちの『母親』なんだ!」

 異常な熱気が、バルクの腹の底から湧き上がってきた。少女がぱちりと瞼を押し上げた。その瞳は赤一色だった。黒目も何もない、ひたすらに赤い悪魔の眼だった。赤い涙を流し徐々に人間の眼に近付けていく。それでも、少女が普通の人間ではないことは確かだった。

「貸せ!」

 切り込み隊の男から斧を奪い取った。そしてそのまま叩きつける。悪魔の死体がかわそうとしたが、今度は馬の尻尾を踏みつけていた。思う通りの動きができなかった死体は、元いた位置に戻り、バルクの斬撃をまともに受け止めた。

 少女の顔を潰したはずの斧は、しかし、粉々に砕けていた。鉄片の雨を浴びた少女は、不機嫌そうに上半身を持ち上げた。当然、裸だったが、その場にいた男たちはそんなことを気にしていなかった。少女の口蓋が露になり、その言葉を聞いた瞬間、この少女は人間ではないと直感した。

「栄えよ」

 悪魔たちが歓声を上げた。それは異様な声だった。人間の歓声を真似たような、それでいて悪魔独特のおぞましい咆哮が混じった、この世のものとは思えない叫びだった。

「バルクさん!」

 ラミの声が、何かの魔法のように、バルクの耳に届いた。

「やっぱり戻ってきて! その女の子は、危険過ぎる! 僕を守って!」

 斧の残骸を捨てたバルクは、その言葉に従うべきだと知っていた。しかし、足が動かなかった。

 バルクは恐怖していた。

 悪魔たちは、少女のことを忘れたかのように、要塞に殺到した。馬の大将を守っていた悪魔たちも、駆け出していく。切り込み隊、そしてグリアとバルクは、置いていかれてしまった。要塞から、人間の悲鳴が聞こえてくる。

 それだけではなかった。地響きが、この戦場が出所ではないと分かる、凄まじい地響きがここまで届いてきていた。バルクは荒く息を吐いた。森の方角を見る。木々が揺れている。風は吹いているか? 吹いてはいるが、しかし、木々が揺れているのは……。

 本当の大波はこれからやってくる。バルクは逃げ出したかった。確実に死ぬと分かっているなら、もはや戦い続ける意味がない。しかもこの悪魔の総大将らしき少女は、全く攻撃を寄せ付けなかった。勝ち目はあるのか?

「バルク!」

 グリアが叫んだ。バルクは振り返った。

「要塞が危ない。本格的に、ね」

 バルクは要塞を見た。外壁が崩されようとしている。門が破られ、もう何体かの悪魔が侵入しつつある。中壁の門も閉まっているだろうが、外壁の門ほどは堅固ではない。

「聖像を守らないと悪魔は倒せない! どうする、この女の子を仕留めるかい?」

 しかし、グリアはそれは不可能だと目で訴えていた。斧が砕かれ、少女は平然としている。何をどうすれば倒せるか分からないし、反撃が恐ろしかった。

 バルクは選択を迫られていた。しかしそれは一択であった。要塞に戻り、聖像を守る。それが本当に正しいのかどうか、確かめる時間が欲しかった。たったそれだけの思考だった。

「……行くぞ」

 少女を背に、切り込み隊の面々は悪魔の後背を突いた。バルクは部下から長剣を借り、その感触を確かめていた。掌の傷が剣の柄にしみる。その痛みが、バルクをむしろ元気付けた。

 俺はまだ生きている。ならば、まだ希望を失うのは早いのではないか?

 そのとき、要塞からため息が漏れた。要塞の窓という窓から、絶望を溜め込んだ悲壮なうめき声が漏れた。まるで哭臨の壁それ自体が、人間の不甲斐なさに嘆息したようだった。

 地響きが大きくなった。切り込み隊の誰かが泣き叫んだ。命知らずで知られた切り込み隊の若き戦士が、あまりの光景に子供のように泣き出したのだ。

 それは軍隊ではなかった。雑然としている。しかしどんな軍隊よりも強大であった。森を薙ぎ倒し、要塞に迫るその軍団は、もはや黒い海にしか見えなかった。何千、何万という悪魔が森から出現し、涎を垂らしながら要塞に迫る。全ての人間は、これまでの戦いなど茶番に過ぎなかったことを悟った。悪魔の海が、巨大な津波を引き起こしながら、要塞を呑み込もうとしている。

 誰かが言った。全てが終わった、と。


   5


 ラミは要塞を駆け、聖像の元へと走った。バルクは聖像に引っ付いていろ、と言った。ならば聖像の足元にいなければ、合流できない。ラミは聖像の周りに集まる人々を掻き分けたが、ほとんど先に進めなかった。

 多くの人間は、あの悪魔の大津波を見た瞬間、己の死を悟った。そして最後くらいは神と共に死ぬと決めたようで、聖像の元に集まっていた。

 酷い混雑だった。聖像を管理していた神官が、人々に踏み潰されて窒息死しているのを一瞥したラミは、ぞっとして無理に分け入ろうとはしなかった。振り返り、内壁の鉄門を眺める。あれが破られれば、聖像を守り通すことはできないだろう。それなのに、門を守っている人間があまりに少なかった。

 絶望してしまったのだ。ラミも震えが止まらなかった。あの悪魔の海は、想像以上の勢いを持っていた。数分でもこの要塞が耐えられたら、それは奇跡だと思った。物量が違う。あんなものを、人間が止められるとは思わなかった。たとえ百年かけて作った砦でも、あれには対抗できないだろう。

 轟音が、上方から響き渡った。人々が騒ぐのを止めて、一斉に見上げた。ラミは悟った。門が破れるには、どんなに数を集めても、多少時間がかかる。それ以前に、あまりに悪魔の数が多いので、壁をよじ登ってしまったのだ。彼らにそのつもりはなくとも、彼ら自身の体が、巨大な階段を形成したというところか。

 悪魔が降ってきた。それも一体や二体ではない。数百体の悪魔が一度に降りかかり、その勢いは留まるところを知らなかった。

 誰もが聖像の周りに集まった。戦士であるとか商人であるとか、男であるとか女であるとか、そんなことは全く関係なかった。誰もが生に執着し、一秒でも長く他の者より長生きしようと、一歩でも聖像に近付こうと躍起になった。

 ラミは人の波に揉まれ、窒息しそうになった。人間の目には聖像しか映っていなかった。諸悪の根源たる悪魔を見つめる者はいなかった。ただただ縋り、慈悲を乞うばかりであった。

 聖像の光が弱まった。人間に活力を与える聖像だが、一度に多くの人間が触れた所為で供給不足に陥っているのだろう。神々しき女神像が色褪せて、人々は本当の敵は悪魔ではなく聖像に縋る他の人間とばかりに、諍いを始めた。少しでも聖像に触れる人間を減らしその恩恵を深く賜ろうというつもりらしい。

 ラミは泣き出したかった。あまりに醜い争いが起ころうとしている。聖像を倒すのは悪魔ではない、人間たち自身だ。気付けば悪魔たちは聖像を遠巻きにしている。神気を浴びれば灰となってしまうのだから、怯むのは当然だ。それに人間たちは気付かない。

「皆さん、冷静になって! 悪魔たちは聖像にそう簡単には触れられない! 戦うんですよ、勝てない戦じゃないんです!」

 ラミは叫んだ。しかし、それはラミ自身も聞き取れなかった。哭臨の壁の住人は、聖像に縋る人間が減れば自分だけは助かるという幻想に取り付かれたようだった。

 戦士の誰かが、男の首を切り飛ばした。それが端緒だった。

 目を覆いたくなるような殺し合いが始まった。結束すべき人間たちが、最後の最後で、しかも聖像の前で最大の不徳を行う。悪夢だった。悪魔たちは喜んでいるのか、耳障りな鳴き声を上げた。

 集団の外側にいた比較的冷静な人たちは、かつての仲間たちの変貌に驚いていた。近くにいた人たちに縋り、現実から目を逸らそうとしている。ラミは名前も知らない少女に抱きつかれ、その震えを感じた。

 誰もが何かに縋らないと立っていられなかった。ラミもその少女に縋った。悪魔たちは愉快そうな鳴き声と共に、人間の殺し合いを眺めている。あまり聖像から離れてしまった人間は、当然のように食い殺された。ラミは人間の争いに巻き込まれず、悪魔たちにも手を出されない、ぎりぎりのところに立っていた。それは聖像を安置している空間と門前の広場の、ちょうど境目だった。

「怖い……」

 少女が呟いた。その目は虚空を泳いでいる。何も見たくない、とその完全に麻痺した顔の表情で訴えていた。

「目を閉じて。もう何も見なくていいんだよ」

 ラミは言った。それは自分に向けての言葉でもあった。しかし、ラミ自身はその忠告を受け入れるつもりはなかった。

「でも、目を閉じたら、何も見えないよ」

「どっちでも怖いだろ? 大人たちは殺しあってる。悪魔たちは牙を剥いてる。じゃあ、何も見ることはないよ。僕たちは、何も見なくていいんだ」

 ラミは少女がおそるおそる瞼を閉じるのを見た。ラミは瞬きさえしなかった。周囲の状況を確かめる。

「怖い……、怖いよ……」

「大丈夫だから。僕たちはまだ生きてる。バルクさんがきっと助けてくれるよ」

「バルク様が……?」

「うん。バルクさんは、無敵だから」

 悪魔たちが一斉に吼えた。もしかすると、それはラミの言葉に笑ったのかもしれない。

 無敵なんだ。ラミは唇を噛んだ。あの人は絶対に死なない。どんな状況に陥っても、死なない。守ってくれる。そう約束してくれたんだ。

 聖像の方角で、歓声が上がった。振り返る。死体の山の上で、一部の人間たちが笑っていた。聖像の光が正常な水準にまで復活したのだ。戦士たちが聖像に触れて、その仄かに輝く乳白色の光を浴びている。歓喜の雄叫びを上げ、光を口で呑み込む素振りまで見せている。異様な陽気だった。まるで、これで自分は助かった、と言わんばかりに、弾けた笑顔が邪悪に染まる。

 それまで遠巻きにしていた人々が、おそるおそる近付くと、容赦なく切り殺された。あるいは突き飛ばされ、悪魔の餌になった。少女が瞼を開けようとしているのを見て取り、ラミは少女に覆い被さった。きつく抱きしめる。

「何も見なくていいんだ、何も……」

「何が起こっているの? 皆、喜んでる……」

「狂ったんだ」

 ラミは呟いた。得意げに武器を振り回す大人たちは、聖像の傘下に入れない人々を威嚇していた。聖像を渇望する力なき人々の眼も、憎悪に染まっていた。もし武器があれば。そう彼らは訴えていた。

 ラミは囁く。

「皆、狂っていたんだ」


   6


 木の皮で作った貧弱な樽を強めに抱きしめれば簡単に潰れてしまうのと同じように、哭臨の壁はあっけなく崩落した。

 バルクは焦っていた。悪魔たちの波に流されて要塞に入り、ラミの姿を探した。しかしそこに広がるのは聖像に群がる人々であり、どういうわけか知らないが殺し合いを繰り返す男たちの姿だった。

 悪魔たちは聖像を目指していながら、なかなか踏み込もうとしなかった。バルクは要塞の尖塔によじ登った。そこは悪魔たちが無関心な場所で、意外な静けさを保っていた。生き残ろうと思えば、ここに逃げ込むだけで良かった。しかし実際にそんなことをした人間は一人もいない。誰もが安全な場所は聖像の足元だと考えていたのだ。

 悪魔たちは統率を失ったが、誰もが聖像のみに興味を示していた。したがって、逃げようと思えばできるのだ。それができない人間は、生への執着に振り回されている。常日頃から死の恐怖と向き合わないから冷静な判断ができないのだ。バルクは嘲笑した。

 と同時に後悔していた。ラミに聖像のところで待っていろと命令してしまった。悪魔の群れの中に飛び込まなければ、救出できない。

 ぼやぼやしている暇はないはずだった。しかしなかなか足は動かなかった。悪魔に殺されている、ということはないように思える。聖像に群がっていれば、悪魔たちに手出しはできないはずだ。人間に殺される、ということは? もしそうなっていたら、もはや手遅れだ。急ぐ理由にはならない。

 一旦生き残れば、事態は停滞するはず。バルクはそう考え、逸る気持ちを抑え、なおも流れ続ける悪魔の群れを眺めた。

 要塞に満杯になった悪魔たちは、聖像にそれ以上近付こうとしなかった。彼らの中で明確な基準があるらしく、一歩でも余分に踏み込むことがない。

 それは幸運だったのか、それとも生き残った連中からすればむしろ不幸なのか。恐怖が長引くことは人生最大の不幸である。いっそのことさっさと死んだほうが幸せかもしれない。

 だが、そんなことを誰かに言い聞かせようとは思わなかった。さっさと死ね、だなんて言えない。自分が死を理屈も何もなく拒絶するからだ。頭ではなく体が死を恐れる。それは普通の恐怖とはまた違った、抗いようのない概念だった。

 バルクは尖塔を移動して、聖像の足元を眺め回した。ラミらしき緑色の髪が見えない。見えるのは、聖像の周りで暴れまわる連中に、呆然と立ち尽くす者、それから極限状態ゆえに愛の炎が燃え上がった恋人同士、そんなものだった。

 ラミは死んだのか、という諦念が支配しかけたとき、見た。黒髪の少女に隠れて見えなかったが、ちらりと緑髪の少年が見えたのだ。桃色のドレスを着た少女と抱き合っている。

「ちゃっかりしやがって。純朴そうな顔をしてる割に、野獣だな」

 バルクは安堵のあまり軽口を叩きながら、跳躍した。悪魔の群れに、恐れることなく、聖像を目指した。

 目敏い誰かが叫んだ。

「バルクだ! バルクが帰ってきた!」

 歓声は湧かなかった。それどころか絶望のため息が聞こえてきそうだった。きっと連中は、バルクが聖像を独り占めにすると考えているのだろう。バルクに敵う人間はいない。だからこその絶望。

 腐ってるな。バルクは思った。狂っている、とも。

 広場に着地し、悪魔の背中に乗った。悪魔たちは一拍遅れて、猛然と襲い掛かってきたが、聖像の聖域に素早く潜り込んだ。悪魔は嘘のようにおとなしくなり、バルクに興味を示さなくなった。

 聖像の周りで陣を張る男どもが険しい眼差しを送っている。男たちにとって悪魔は敵ではなく背景に成り下がったらしい。彼らの敵は人間、それだけだった。

 相手をする価値もない、とバルクは呟き、ラミに向き直った。ラミは震える少女を抱き締めていた。

「よお、やるな、ラミ。恋人か。お似合いだよ」

「そ……、そんなんじゃ……」

 ラミは泣き出した。嬉しくて泣いているのだろうが、今の言葉で泣いてもらっては、まるでバルクにからかわれたのがきっかけのようではないか。

少女が驚いて、目を見開き、バルクの存在に気付いた。

「あ……、バルク様……!」

「ラミを今後ともよろしく。さあ、挨拶は済んだぞ、こっちに来い」

 ラミは頷いた。そして、少女からそっと離れると、手を差し出した。

 バルクはその手を取った。ラミの姿は消えていた。

 代わりに、バルクの手には長大な大剣が握られていた。

 悪魔たちの中でざわめきが広がっていった。人間のような反応をしてくれる。バルクは笑った。

「あ……、あの子は何処に……」

 少女が驚いている。驚きのあまり、恐怖を一時的に忘れてしまっているようだった。

「この剣が、あのガキさ。俺もついこの間、驚いたんだが」

 バルクは軽く振った。神気の輝きが、乳白色の膜を張って、悪魔たちを慄かせた。

「俺はラミを使う。俺の力だけでは、悪魔を倒せないと知ったからな。喜んで、半人前になろう」

 聖像の輝きが増した。悪魔たちが慌てて後退する。バルクはラミの鼓動を、その緑色の刃に感じていた。

「さあ、始めようか。言っとくが、俺たちに弱点はないぞ」



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