哭臨にバルク在り
1
ラミは愕然とした。僕は泣いているのか? 頬を濡らす水は、しかし、天よりもたらされたものだった。彼の背筋を終始冷たくしていたものは、恐怖ばかりでもなかったということか。
森を抜けた。久々に見た外の光は、少年の心を安らげるだけの力を有していなかった。森の中よりマシだが、雨空では陽気な気分になれない。木々を薙ぎ倒して迫り来る怪物、悪魔の群れが、ラミの背中を度々突っついていては、晴れていようがいまいが関係なかったかもしれないが。
悪魔どもは楽しんでいた。森の中に迷い込んだ少年を、いかにして追い詰め、絶望の内に殺してやろうか。ラミはそれを敏感に感じ取っていたから、悪魔の残虐さに憎しみを抱えつつも、思いがけず与えられた猶予をいかにして使うか、そればかり考えていた。
遠目に巨壁が見えた。環状に連なった三重の壁。灰色の土壁に丈夫な木材を組み合わせた、簡素ながらも頑丈な造りの要塞都市。尖塔や物見台が壁から突き出て、一定の景観の強弱が与えられていたが、中央部分にそそり立つ偉大なる聖像の威容に比べれば、何もかもが雑多なものに思えてくる。
その像はよく磨き立てられた青銅で出来ており、黄金色に輝いていた。神の姿態を象った霊気溢れる代物であり、ラミの目を奪った。彼はしばしの間、自分が怪物に追われていることを忘れかけた。
坂道に差し掛かった。丘の入り口。黄色く濁った色をした丸い岩につまずき、ラミは転びかけた。濡れた道は不安定で、なんとか手をついてそのまま走った。ラミの尻に悪魔の爪がかする。痺れるような感触があり、自分が負傷したことを悟った。
振り返る。悪魔は三体いた。森の中で昼寝をしていた彼らを起こしてしまったのは、完全にラミの不注意だが、まさか尻尾の長さが胴体の三倍近くもあるなんて、普通は思わないだろう。
怪物の四肢は、ラミのそれの二倍近い長さがあり、それはそのまま、彼らが本気で走ったときの速度がこんなものではないことを示している。
「来るなぁー!」
ラミは叫んだ。丘を登りきり、立ち止まって振り返ると、三体の悪魔と対峙した。
悪魔はそれぞれ、狼の胴体に人間の首を乗せていた。おぞましいことに、その人間の頭部は全く同じ顔をしていた。大きさに差異はあれど、浮かべる表情から黒子の数まで、全く同じだった。
「悪魔……、怪物……、幻妖……、どんな言葉でも、君たちを表現するには不足ですよね。どうしてそんなにおぞましい姿を選んだんです?」
ラミは問いかけた。怪物たちは、鼻をくんくん動かし、紫色の舌をだらりと垂らした。緑色の唾液が、濡れた地面を焦がした。彼らに噛み付かれたら最後、全身を灼き尽くされてしまう。ぞっとしたラミは、結局、後退した。もう逃げられないなら戦うしかない。そう覚悟したので立ち止まったのだが、悪魔どもに傷一つでもつけられたら奇跡だ。
悪魔たちはその餓えた瞳を向けてくる。たぶん彼らの中で、ラミの肉体をいかに三等分するか、それが最大の問題であり、喜ばしい悩みでもあるのだろう。その思考を少しでも遅らせる為に、ラミは話しかけた。
「でも、僕なんかを食べても、お腹を壊すと思いますよ。僕の服は普通の麻じゃなくて、虫除けに薬草を織り込んであるらしいんです。ほら、腰の帯革だって、こんなに色褪せちゃってるし、安物ですね! 僕の髪を見てくださいよ。汚い緑色でしょ? 食べて美味しいと思いますか?」
しかし、悪魔たちは鼻を蠢かせ、舌で自分の顎を舐めてはその味の粗末さに怒りを蓄積していくようだった。じりじりと近付いてくる。
ラミは震えだした。雨が少年の体温を奪っている、それは事実だが、いざ己の死を目前にすると、無条件で体が拒否反応を示すのだ。震えてしまったら、余計体が動かないというのに。この震えは、死を少しでも安らかなるものに変える効果があるのだろうか? でなければ、この震えは全くの無駄だ。無駄な機能だ。ラミは声に出そうとしたが、詰まった。軽く咳き込み、そして叫んだ。
「こっちに来るなぁ、この化物ぉー!」
悪魔の一体が、他の二体に先んじて、その巨大な狼の爪を振りかざした。巨体が跳躍し、空中で小さくなり、そして一気に広がる。必殺の一撃が、ラミ少年の全身を打ち砕くはずだった。
「お前は、悪魔に話が通じると思っているのか?」
冷めた声がした。ラミははっとした。次の瞬間、ラミは生暖かい紫色の血を浴びていた。雨の勢いが強まりだし、ラミの頭髪にかかった夥しい量の血を、早速洗い流し始めた。
ラミの命を奪うはずだった悪魔は、いまや胴体を両断されて、すぐ脇に倒れこんでいた。錆びた銅のような気色の悪い緑色の臓器が見える。怪物がろくに咀嚼せずに取り込んだと見える、野禽の死骸が腹の中から顔を出していた。凄まじい異臭がラミを襲い、鼻を押さえた。
「下がってろ」
肩をぐい、と掴まれ、後ろに引き倒された。ラミは尻餅をつき、そしてやっと悪魔ではない、人間の男が剣を掲げていることに気付いた。
その男は巨大だった。その一語に尽きる。悪魔の巨大な肉体に負けず劣らず、凄まじい筋肉の分厚さを、鎧を通してでも伝えてくる。片手で持ちあげている剣の刃は冗談みたいな長さを誇り、その先端には僅かに乳白色の光が認められる。ラミはぽかんと口を開けた。
「悪魔に話が通じる――はん、考えたこともなかったな」
男はにやにやしながら言った。その態度からは、余裕以外の何物も見ることができなかった。黒い髪が雨に濡れ、雫を垂らしている。浅黒い肌から漏れた白い歯はあまりにも清冽で力強く、荒漠たる世界で一抹の救いを見た思いだった。
一方の悪魔が怒りの咆哮を上げた。他方、仲間の死骸を一瞥し、その臭いに食欲を駆り立てられている悪魔もいる。男はそれを見て、せせら笑った。
「だから、お前らは俺に負けるんだよ。食欲を支配し、俺を殺す為だけに牙を剥き出せないのか? 言っとくが、人間は随分昔から、そうやって戦ってきたんだぜ」
大剣が信じられない速度で閃いた。剣が軌跡の頂点に留まるとき、時間が止まったように感じられ、ラミは感嘆の呻き声を漏らした。仲間の肉が気になっていた悪魔の首が、すぱりと切断され、ラミの拳ほどもある太い血管から血が噴き出した。血が噴き出す角度を予測していたのか、男は素早く体を捻り、返り血を回避した。
残った一体は、弱気になった。闘争心を早々に挫かれ、二歩、三歩と後ろに退いていた。男は大剣の切っ先を天空に向けて持ち、僅かに付着した血を洗い流しているようだった。怪物の血は、さらさらとしていて、全くべとつかなかった。雨で容易く薄れていく。
「俺の遊び相手になってくれるかどうか、早く決めてくれないか。こっちも暇じゃないんだ。無謀なやんちゃ坊主に説教を垂れてやらないといけないんでな」
やんちゃ坊主って、僕のことか? ラミは思い、途端にこの男からも逃げ出したくなった。
悪魔は男に威圧されて、退散していった。苦し紛れに糞をし、それを後ろ足で蹴飛ばしてきたが、男は平然と避けた。ラミは糞を投げつけられたことに衝撃を覚えていたが、男は慣れていたのかもしれない、悪魔の死体にも、全く嫌悪感を示さなかった。
「さて、だ」
男は大剣を軽く布で拭うと、腰の巨大な筒に入れ、紐を動かして背負った。ラミに向き直り、掌を広げる。
叩かれる。ラミは察し、頭をかばった。うずくまったラミは、大男から繰り出される一撃に怯えたが、いつまで経ってもそれは訪れなかった。
おそるおそる顔を持ち上げると、男は手を差し出していた。
「何をしているんだ。立てよ。説教は帰還してからだ。……怖かったろう、二度とこんな真似はするな」
ラミは、反射的に頷いていた。男の手を借りて、立ち上がった。
男の手に触れた瞬間、何か言葉では説明できないような心地良さが漂った。安堵感、信頼感、希望、友愛、様々な感情と感覚が入り混じったそれは、ラミをしばらく驚かせ、男の顔をじっと見つめることに繋がった。
「……俺の顔に何かついているか。ていうか、離せよ、手を。いつまで握っているんだ」
ラミは慌てて男から手を離し、息を止めていた自分に気付いた。慌てて呼吸を再開し、咳き込んだ。
顔を真っ赤にしたラミを、男は目を丸くして見つめていた。
「おいおい、まさか俺に惚れたんじゃないだろうな。お前、男だよな? 大丈夫か?」
「だ、大丈夫です。惚れたわけじゃないですから、安心してください。でも、あの、なんと言っていいのか――」
男は手を振った。
「礼ならいい。まだ早い。無事帰ってから言え。そしてお前の親から金品を頂いてやる。誰がタダで働くかよ。ほら、早く行くぞ」
ラミはその言葉に自分が落胆するかと思ったが、案外そうはならなかった。むしろ、男が照れ隠しでそんなことを言っているのだと勝手に思い込み、ますますこの男を気に入っていた。
「あの、名前は何というのですか? あ、僕はラミと言って――」
「名前?」
男は丘を下り始めた。周囲を警戒する素振りを見せているが、何処か無防備だ。
「俺の名前か……。バルクだ。バルク=ジェイマ。バルクと呼んでくれて構わない」
言わなくても分かっているだろうが、とバルクは言葉を継ぎ足した。
「そこのでっかい壁の守護を任されている。いわゆる哭臨の壁の守護をな」
哭臨の壁。それがあの要塞都市の異名。ラミは初めて聞く名前に、心を躍らせた。女神ラクシューアを象った聖像が、赤い瞳を蒼穹に照らしている。いつの間にか雨が上がっていた。にわかに陽光が差してくる。
「あの」
ラミは、前を行くバルクに声をかけた。
バルクは振り返り、面倒そうに唇を尖らせた。
「何だ」
「あの……、手を、もう一度握ってもらってもいいですか?」
バルクは足を止め、険しい顔つきになった。しかし、発した言葉は慈愛に満ちたものだった。
「もう怖がらなくていい。悪魔は倒したし、もうここいらは安全地帯だ。さっきの悪魔は例外で、お前を追っているのに夢中になって、森から知らず知らず出て来てしまっただけなんだ。だからもう、怯える必要はないんだよ」
「そうじゃないんです」
ラミは勇気を振り絞って言った。たった今得たものを、簡単に手放してしまってはいけない。そんな思いが強かった。
「バルクさんの手を握っていたいんです。……駄目ですか」
「駄目だよ、バカ。気色悪いな」
バルクの返事はにべもなかった。背を向けてしまう。丘を下り、だるそうに喋る。
「お前が絶世の美少女だったら応じてるところだが、あいにくお前は十二歳くらいのガキンチョ、男だ。あと三年も経てば女の尻を追い掛け回す無様な野郎に成り下がるわけだし。それともお前、そっちの気があるのか? もっと幼い頃から、変態の相手をさせられていたとか……」
バルクの声が陰を帯びた。バルクのほうが言いにくそうにしているように見えた。ラミは思わず首を捻った。
「変態の相手……? 言ってる意味が、よく分かりませんけど」
バルクは拍子抜けしたように手を振った。
「何だ、違うのか。だったら、俺が気を遣う要素はまるっきりなし。心置きなく、お前はバカだ、と言えるわけだな。野郎と手を繋いで、何が楽しいんだよ」
「僕はあなたに守ってもらいたいんです!」
バルクについていくので、ラミは精一杯だった。バルクは大股で、ラミの歩調など全く気にしてくれなかった。
「守ってやったじゃないか。ったく、わざわざ屯所からすっ飛んできたんだぞ、森の中に逃げ回る子供が見えるって、物見台から報告を受けてな」
「そうだったんですか?」
ラミはまた驚いた。あの鬱蒼とした森の中を見ることができるなんて。物見に立っていた人間は、よほど視力と注意力に優れていたのだろう。
「そうだよ、わざわざ来てやったんだ。普通、子供一人の為に外に飛び出すバカはいねえぞ」
「バルクさんはバカなんですか? ……あ、いえ、悪口ではなくて」
「俺以外が飛び出したら、バカだろうな。俺が飛び出したなら、妥当な判断と言える。俺以外の戦士が悪魔と対等に渡り合えるなんて、そんな幻想は抱いてないよ」
バルクは背中の剣を意識しているようだった。剣さえあれば、何も怖くはない。自信に満ち溢れた背中でそれを語っているように見えて、ラミは微笑んだ。
なんだ、やっぱり僕にぴったりの人じゃないか。
バルクとラミは人類の命を守護せし、灰色の壁の都市に向かった。胸壁から、バルクの帰還を手を振って迎えてくれる人がいる。大門が静かに開き始めた。途端、壁のそこら中から緊張感が漂ってきたが、ラミは気にしなかった。
ラミは何の疑問もなく、このバルクこそが最強の戦士であると確信していた。悪魔を駆逐し、自分たちを守ってくれる唯一無二の存在であると、理屈抜きで信じることができた。
ラミは仄かに残るバルクの手の感触を、右の拳を固めることで味わい、何度も頷いていた。それは生存への希望であり、今後人類が必要とする、脅威に対抗する手段、それに違いなかった。
2
湯が沸騰した。それを見届け、鉄缶を鉄鋏を使って持ち上げた。器用に向きを変え、カップに注ぎこむ。瓶の中の香料を順に入れていき、香りが正しく変化していくのを確かめながら声をかけた。
「甘いのは好きか?」
ラミと名乗った少年は首を横に振った。廃材を利用した椅子に不満のようで、しきりに腰の位置を直している。
「甘いのは、虫歯になりますから」
「そうか」
子供らしくない、とバルクは内心苦笑しながら、瓶の蓋を閉めた。足で暖炉の鉄蓋を閉めて、ラミに歩み寄った。
少年は不安げにバルクを見上げた。カップを差し出し、バルクは彼の隣に腰掛けた。
「それを飲んだら、話してもらうからな。家出をする気持ちも、分からないでもないが」
「家出じゃありません」
バルクは即答したラミを睨みつけ、少年はそれを避けて俯いた。子供相手に何をムキになっているのか。バルクは嘆息し、カップの中の苦い嗜好飲料を口の中に流し込んだ。頭が冴えていくのが分かる。一口飲めば、三日三晩戦い続けることができると評判の強壮剤だが、それはいささか誇張した効用だった。とは言え、眠気を振り払うのに適しているのは確かだ。
バルクはラミを見つめた。緑のぼさぼさの髪に、革の硬そうなチュニック、女が着るような薄い下衣に草を編んで作ったブーツを履いている。腰帯がなかなか立派な作りで、育ちは悪くなさそうだった。
「なあ、何処から来たのかくらいは、教えてくれてもいいんじゃないか」
最初は高圧的だったバルクも、ほとほと困り果てていた。ラミは何も語らなかった。饒舌に語るときもあるのだが、それは決まって、どうでもいい話題のときで、自分のことに関して徹底的にまで寡黙だった。
「どうして教えてくれない? ほら、俺は命の恩人だろ。こんなことは言いたいくないが、俺はお前の命を支配したわけだ。つまり、あれだ、お前の人生をいくらでも知る権利がある」
「どういう理屈ですか、それは」
ラミは笑みを交えて言った。どうやら冗談を言っていると思ったらしい。
バルクは少し苛立ち、声を荒げた。ほとんど演技の怒りだったが、本当に怒りをぶつけている部分もある。
「いいかげんにしろ! お前、俺がいつまでもかまってくれると思わないことだな。俺はな、忙しいんだ。この街を守るのは俺の役目だ、物騒な街だが、守るべき連中がいる。お前だけじゃないんだ、分かってるのか?」
平然とラミは頷いた。
「分かっています。……ですけど、バルクさんは僕を守ってくれるんですよね?」
これだ。ときどき挟んでくる、『僕を守ってください』という言葉。意味が分からなかった。バルクはこれを言われる度、妙な気分になった。胸がざわめき、不穏な影を予感する。悪魔と戦うときの気分と似ているかもしれない。悪魔と戦う気持ちが、渇望として確かに存在する一方、人間として持ち得て当然の、悪魔を嫌悪し敬遠する感情が、バルクを不安にさせた。
何度も考えた。この得体の知れない少年と自分は、会ったことがあったか? しかし、こんな緑色の髪をした人間を見たことがなかった。考えるまでもなく初見の相手だった。それでも考えてしまう。言うまでもなく不毛な思考だった。結論としては、少年は自分と誰かと勘違いしている、ということだった。
「俺の名前はバルクだ」
「はい。存じてます」
「誰かと勘違いしていないか? 俺がお前を守るのか?」
「はい。バルクさんしか、信じられません」
いったいいつからこんなに信頼されているんだ。バルクは困惑し、カップの黒褐色の液体を飲み干した。少年は口をつけようともしない。バルクの横顔を熱心に見つめていた。
やはり、こいつは変な趣味があるんじゃないか……。バルクがそう考えてしまうほど、ラミの眼差しは危うげだった。
途端、この厄介な少年を誰かに押し付けたくなった。最初は親に引き渡し、礼金をふんだくろうと思ったが、親元に帰りたくないと見える。何も語ろうとしない。家出を認めようともしない。
「分かった、こんちくしょう、お前なんかと過ごしていても損ばかりだ」
バルクは立ち上がり、少年に背を向けた。
追いかけてくるかと思ったが、ラミはバルクが用意した椅子に腰掛け、じっとバルクの後姿を目で追っていた。立ち上がろうともしない。
それで俺を引き止められると思っているのか。バルクは部屋の扉を開けた。この要塞の最も平穏な場所、中壁の休憩室を出たバルクは、外壁の屯所に戻る為に渡し廊下に向かって歩き出した。
聖像を中心に形成された三重の壁は、それぞれ役目が違う。外壁は悪魔の攻勢を防ぐ為のもの、中壁は内壁と外壁を繋ぐ補給線、内壁は聖像の守護と兵站の整備が目的となっている。
バルクは外壁の守備兵力の一人だった。それも最前線――必要とあれば外壁から飛び出し、悪魔の群れの中に切り込む命知らず。十年以上戦って生き残っているのはバルクだけだった。ほとんどの人間は一年足らずで死ぬ。あるいは、他の部隊への転属を希望する。圧倒的な不人気職、おかげで名を馳せたいのであれば、バルクの隣で得物を振るっていればいい、という話が出るほどだった。不人気職だからこそ、それを志願する人間が出れば要塞の中で評判になるのであった。
バルクが屯所に入ると、煉瓦を積み上げて作った胸壁の前に腰掛ける女が目に見えた。椅子の背もたれに腕を乗せて、煙草を吹かしている。股を大きく広げて恥ずかしげもなくしているような女は、グリア以外にいない。
「グリア、今日はお前の当番だったか?」
バルクが声をかけると、グリアは振り返り、にやりと笑った。彼女の顔の輪郭は不恰好だった。頬骨が削られ、青い痣が出来ている。片眉の毛がごっそり抜け落ち、火傷のような痕が見える。しかも右目は義眼であり、黒目のない白い球が妖しい輝きを放っていた。
毎回会う度にぎょっとする。何せ義眼を毎日変えていて、より不気味な眼を彼女は嗜好する。会う人間のぎょっとする表情を見るのが、彼女の数少ない楽しみの内の一つだった。
「バルク、見てたよ。随分気に入られたじゃない。名前、なんてえの?」
「あのガキのことか? ラミだってよ。しけた名前だ」
「女みたいな名前だね」
グリアは言い、椅子から立ち上がった。本来、その椅子はバルクのものだった。この屯所の主たるバルクは、あらゆるものを優先的に使用する権利を持つ。それ以前に、椅子を持ち込んだのがバルクというのもあるが。
「どうぞ、お座りになって、ご主人様」
「……気色悪いことを言うな」
バルクは椅子の向きを直して、腰掛けた。テーブルの上に広げてあった書物を閉じて、脇にやる。
「気色悪いなんて、ご挨拶だね、バルク。私みたいな女の子に言われたら嬉しいでしょうが? 奴隷なんて持てる身分じゃないんだからね」
バルクは鼻で笑った。
「女の子なんて何処にいるんだ。俺と同い年のくせに」
グリアもまた歴戦の戦士であった。ここに所属してまだ二年だが、内壁の聖像守備部隊に長く所属し、その辣腕を振るった。実戦の少ない部隊だったが、その訓練の苛烈さは要塞随一であり、グリアは小規模の武術大会ながら、四連覇の偉業を成し遂げた凄腕であった。
そんな凄腕が女の子のはずがない。大抵の男を拳で捻じ伏せる怪力のくせに。
グリアは近くに置いてあった桶をひっくり返し、それに座った。
「その、ラミって子の親は見つかったのかい?」
バルクはかぶりを振った。
「いや。あの野郎、家出したことも認めやしない。あんまり強情だったんで、休憩室に置いてきた」
「また出ちゃうんじゃないの? 壁の外に」
バルクは笑った。それならそれでいい、と呟く。
「死ぬ思いをしたのに、もう一度出るってんなら、自殺願望があるってことだろう。それなら死なせてやろう。物資に余裕が出る」
グリアは笑いこそしなかったが、途端に興味を失ったようだった。
「それもそうだね。まあ、あの子、あんたになついたようだから、そう簡単に何処かに行かないでしょ」
バルクはグリアから目を逸らし、外の様子を眺めた。ここから荒野がしばらく続き、地平線近くから森が広がっている。見晴らしはいいが、見ていて飽きない景色ではない。ほんの数時間監視しているだけで、疲れる。物見台に立つ人間は偉いと思う。悪魔と戦って生死を懸けた毎日を送るほうが、よほど楽である。すぐにグリアに視線を戻した。
「あいつ、俺になついたと思うか?」
グリアは首肯した。何処から持ってきたのか知らないが、金属製の小球を弄んでいる。指の間に挟み、器用に掌の上を這わせている。
「完璧にね。命の恩人に惚れ込むのは珍しいことじゃないさ。でも、私の勘だと、あの子、この街の人間じゃないね」
バルクはグリアを見据えた。テーブルに肘を乗せて、身を乗り出す。
「どうしてそう思う?」
「理由は二つ」
グリアは腕組みをした。ガタガタと桶を鳴らして、上半身を揺らした。豊かな茶髪が胸元でそよぎ、陽気な印象を見る者に与える。しかしこの女は、口調や服装とは裏腹に、渇き切った心の持ち主だった。バルクはそれを熟知し、それゆえに、戦士としての彼女を信頼していた。現状、背中を預けられる戦士はグリアしかいない。
「緑色の髪の人間なんて、この街にはいないさ。あんなはっきりした色、一度見たら忘れるはずがない」
「だな。で、もう一つの理由は?」
「バルク、あんたになついたこと。この街の子供なら、間違ってもあんたになつかないさ、皆、死にたくはないからね」
「言ってくれるな。お前こそ、グリアに惚れた男の寿命は半分になる、とまで言われているじゃないか」
グリアは甲高い声で笑った。その後、腹の底から響き渡る低い声を発した。だからこの女は恐ろしく、同時にどうしようもなく魅力的なのだ。
「だからお互いこんな場所で駄弁を弄しているんじゃないのかい? 同類よ、私たちは」
バルクは頷いた。グリアが来てから、悪魔との戦いで危ないと思うことは激減した。これまでは他のどの戦士も信用できなかった。グリアは、自分ほどではないが、悪魔と充分戦える腕を持っていた。
「ラミがこの街の人間じゃないのなら、森の向こうからやって来たということか?」
「そうなるだろうね。森の向こうは悪魔の巣窟という噂だけど、もしかしたらもう一つ二つ聖像が聳え立っているのかもしれない」
聖像は都市の基盤であり、聖像あるところに必ず人間が住んでいる。逆に、聖像がないところに人間は生存できない。悪魔に駆逐されるからだ。
聖像だけが悪魔に対抗する力を人間に与え、人間だけが悪魔から聖像を守れる。いつの時代に、誰が聖像を建造したのか、明らかではないが、人間は聖像だけを頼りに悪魔と戦い続けている。
森の奥深くに、バルクは分け入ったことがある。まだ若かった。同じ年頃の戦士を引き連れ、冒険の興奮に注意力が散漫になっていた。悪魔に包囲され、味方を盾にして命からがら逃げる際に、紫色に濁った湖を見た。あれが森の最奥であると勝手に決め付けていたが、ラミは湖の向こうの異国からやって来たのか。
バルクに訪れた感情は、よく生きて来られた、という素直な感心であった。
「そう言えば、ラミは聖像を遠くから見て、しきりに感心していたな。故郷の聖像と比較して、面白く感じたのかもしれない」
「へえ? 是非感想を聞かせてもらいたいね。あの悪趣味な像が、他のものと比べてどれくらい下らないのかってことを」
バルクは口を噤んだ。グリアは聖像にあまり良い感情を持っていなかった。その点も、彼女が聖像の守護から外壁の切り込み部隊に転属した理由に関わるのかもしれない。バルクはと言えば、聖像に畏敬の念を抱いていた。したがって、グリアに返す言葉を考えるのも疎ましかった。
バルクが外の景色に視線を移したちょうどそのとき、西の森から野禽が数百羽、蒼穹に吸い込まれていった。遅れてけたたましい羽音が屯所まで届き、バルクは立ち上がった。
「どうかした、バルク?」
「囚魔師だ」
バルクは呟いた。その眼は木々の隙間、僅かな空気の流れの変化をも見逃さないように油断なく見開かれていた。
「連中は災厄を運ぶ」
3
木の葉が一枚、鼻の頭に張り付いた。アシェニスはそれを振り払う為に、手綱から手を離さなければならなかった。それがいけなかった。
横から飛び出してきた奇形の悪魔が、馬の腹に食らいついた。瞬間、かわすことができずに体勢を崩したアシェニスは落馬した。勢いから考えれば穏やかな着地だったが、さすがに意識を失いかけ、腰に縛り付けていた短槍を引き抜くことができなかった。
「アシェニス!」
馬首を巡らせ、引き返そうとしているオゼが見える。全身を黒甲冑で武装したさしもの斧戦士も、悪魔の群れを前にしては為す術がなかった。
アシェニスが顔を持ち上げたとき、目に入ったのは、片目から紫色の体液を垂れ流す巨人の姿だった。右腕が蛇、左腕が樹木の槍になっている、集団の首領格である。アシェニスが先刻、いち早く狙いをつけて槍を投げつけたのだが、傷はあまりにも浅かった。体力を消耗させることさえできていない。
「このっ……!」
腰の槍を引き抜き、上半身を起こしざま穂先を叩きつけた。怪物の肩に突き刺さったが、ほとんど効果がなかった。怪物の右腕、すなわち毒々しい色彩の蛇が、アシェニスの左腕に絡みついた。信じられない力で締め上げてくる。全身の力を奪われてしまうような、容赦のない締め付けだった。
「く……、この、化物……!」
槍から手を離した。立ち上がって振り払おうとしたが、怪物の左腕が、その硬い樹木のような武器を振るってきた。脇腹をはたかれ、膝が崩れた。
アシェニスは歯を食い縛った。眼前に悪魔の顔面が突き出され、彼女の表情を窺うように首を傾げた。報復――片目を奪ったことへの仕返しだろうか。アシェニスがより苦しむであろう処刑の仕方を模索しているとでも?
「悪魔、か……」
アシェニスは微笑み、胸元のとっておきを引き抜いた。銀製の短剣。聖像前の祭壇に二ヶ月間安置していた、破邪なる武器。
「悪魔にとって、人間は天敵以外の何者でもないということを、教えてやろう……!」
悪魔の鼻に短剣を突き刺した。それは槍とは違い、嘘のようにすんなり通った。絶叫を上げた巨人は、顔を押さえてもんどりうった。その見事な転倒を見たアシェニスは、残虐な笑みを浮かべて、立ち上がった。
「アシェニス、行くぞ」
悪魔の返り血をこれでもかと浴びたオゼが、騎手に負けず劣らず完全武装した馬に跨って現れた。貧弱な樹木ならばその斧で幹ごと切り倒す豪胆な戦士が、アシェニスに手を差し伸べた。
アシェニスはその鮮紅の長髪を乱しながらも、素直に頷いた。オゼの手を取り、彼の馬に跨る。オゼの背中にしがみついた。彼の前に座って支えられるほど、やわな戦地を潜り抜けてきてはいない。
巨人の悪魔は、穿たれた鼻から、徐々にその傷痍を拡大させ、いまや頭部のほとんどが灰と化していた。大将の死に、多くの悪魔が混乱している。一体の強大なる悪魔に従って生きてきた雑魚どもは、もはやアシェニスや他の囚魔師になど関心を持てないようだった。
オゼが馬を駆った。悪魔たちの脇をすり抜け、先に行った囚魔師たちに合流する。オゼの馬は重い馬具を大量に身につけているのに、凄まじい健脚を誇った。同僚たちにすぐさま追いつく。
「無事でしたか、アシェニス様」
「短剣をお使いに?」
声をかけられ、アシェニスは淡々と応じた。ほっとしたような一団の空気に、危ういものを感じ、アシェニスはオゼと目を合わせると、宣言した。
「本当の脅威はこれよりやってくる。一人だけでいい、哭臨の壁に到達し、この窮状を伝えなければならない。皆、気を引き締めろ」
おお、という返事が返ってきたが、いずれの声も緊張感に欠けていた。更に口を開こうとしたとき、オゼの制止がかかった。
「アシェニス、皆安堵しているのだ。今は浸らせてやれ。……お前は気付いていないのかもしれないが、皆お前を頼りにしている。俺もな。だから、もう少し超然としていろ。些事にいちいち口を挟むな」
オゼの言葉に、アシェニスは不服だった。頼りにしている、だと? 囚魔師の中で最年少の自分が? 唯一の女性である自分に、超然としていろだって?
何度も言われてきたことだった。それでも違和感は拭えなかった。名家の娘の気紛れ出奔と見做されなかったことは幸運だが、それにしても皆期待し過ぎる。いざというときにモノを言うのは血筋ではなく、個人個人の勇気と知恵、それに運だ。今だって、アシェニスは死に掛けた。悪魔が容赦なければ、アシェニスの腕は千切れ、頭からかぶりつかれて絶命していただろう。それが皆には分からないのか?
しかし、オゼは、全てを分かった上でアシェニスにその役回りを要求しているように思える。だからこそ、彼に尋ねてみたい。このままでいいのか。これで本当に、囚魔師としての役割を全うできるのか。
前方を走る囚魔師の男が、声を張り上げた。
「見えました、哭臨の壁です! 噂どおりの巨大さですよ、頑丈そうだ!」
歓声が上がった。しかしアシェニスの位置からは何も見えなかった。オゼの背中が彼女の視界の大部分を奪っていた。森を抜ければ目視できるのだろうが、まだ森の深い場所を走っている。
「見えるか、オゼ?」
オゼはかぶりを振った。
「何も。同志の見間違いでなければいいのだが」
そのとき、断末魔が聞こえてきた。それは人間のものだった。アシェニスは馬上で立ち上がろうとして、オゼに押さえ込まれた。
「お前は出るな!」
「しかし! 何が起こった!」
「……悪魔だ」
前方で巨大な喚声が上がった。それは悪魔の声だった。オゼが馬の速度を緩める。そうしなければならなかった。前方から灰色の巨人が、木々を薙ぎ倒しながら現れる。肩の筋肉が異様に盛り上がっており、もし肌がつるりとしていなければ、翼に見えるところだった。
囚魔師の一人が、手持ちの聖砂をばらまきながら卒倒する。怪物が何気ない動作で殴りつけたのだった。落馬し、馬は潰れ、鮮血が飛び散った。悲鳴が起こった。若者を中心に構成された囚魔師とはいえ、その悲鳴はあまりに情けなかった。
「さっきの怪物の、兄弟かな」
オゼはそんなどうしようもない軽口を叩き、仕舞いかけていた大斧を引き抜いた。紫の血に濡れて、生々しい肉片を先端にぶら下げている。
アシェニスが短剣を抜こうとすると、オゼに止められた。背中越しで、どうして行動を読まれるのか、アシェニスには不可解だった。
「私も戦う」
「駄目だ。一人でもいいから哭臨の壁に到達する、そう言ったのはお前自身だぞ?」
アシェニスはかっとした。
「到達するのは私でなくともいい!」
「いいや、お前が最適なんだ。近い内に悪魔の大攻勢が始まる、そんな百年に一度の大異変を信憑性を持って信じてもらうには、伝言役にお前が最適なんだ。……証書を持っているのだろう?」
アシェニスは胸元の隠しを押さえた。革鎧の下に忍ばせたそれは、今は亡き祖父の直筆の書だった。
「……持っている。しかし、これを持ちさえすれば、誰にだって使者となることは可能なわけだ」
「ドーク商会の一人娘が、こんないかつい甲冑を着るものか? 野太い声で?」
オゼは笑った。アシェニスは言い返そうとして、惑った。兜の中から覗かせたオゼの瞳が、彼の振る舞いほどの余裕を持ち合わせていなかったのに気付いたのだ。
彼も怖いのか。目の前の悪魔がこれまでの連中とは別格ということは、いやでも分かる。バカでも分かる。誰かの犠牲なくして、目的を達成できない。オゼはそう判断し、こうしてアシェニスに馬の手綱を握らせようとしているのか。
「……オゼ、必ず生き延びると約束してくれ」
「努力はする」
「努力だけじゃ、不足だ。必ず生き延びると……」
「未来は誰にも分からない」
「オゼ!」
オゼは肩を竦めた。巨大な怪物に、次々と囚魔師が薙ぎ倒されていくのを他人事のように見つめながら、彼は笑った。甲冑の中でそれは反響し、硬質ながらも温かみのある響きをアシェニスに届けた。
「俺がこんなところで死ぬと思うか? 見くびってくれたもんだな。俺は洪鈞の壁、最強の戦士だぞ」
「でなければ、誰がお前を囚魔師に誘うものか。半端な戦士など、要らない」
アシェニスは微笑んだ。彼の笑みに対する返事のようなものだった。しかし、オゼはすっと笑みを引っこめると、斧を構えた。他の全ての囚魔師たちが、惨殺されるか森の奥へ逃げ込んでしまった。その場にはアシェニスとオゼ、それから彼の愛馬しか残っていなかった。
「プルを預ける。俺が十年近く世話してきた相棒だ、傷つけたら容赦しない」
「そのときは、私を殴るのか?」
アシェニスは手綱を握った。オゼの愛馬は、主人の異変に気付いたのか、その巨躯に似合わないか細い嘶きを漏らした。
オゼは馬から降り、その重い甲冑で地面が揺れるのを満足げに確かめていた。地面を踏みしめ、そして意を決したように歩き始める。ふと振り返り、
「そのときは、お前を撫でてやるよ。お前は撫でられるのが嫌いだからな――」
アシェニスは涙を流していた。しかし行動に躊躇はなかった。
オゼの愛馬プルに命令を下す。乱暴な手綱捌きにも関わらず、馬は穏やかな助走を経て次第に勢いを強めた。怪物の脇を通り過ぎる無謀な突破作戦。巨人の悪魔は腕を大きく広げ、関節をぼきぼき鳴らしながら拳を作った。あれに殴られれば即死だろう。巨大な岩に押し潰されるも同然だ。
アシェニスは恐怖を覚えつつも、プルを減速させなかった。怪物からしてみれば、彼女が自らの命と肉を捧げてきたように見えるだろう。しかし彼女は信じていた。
オゼはいつだってアシェニスを守ってくれる。
悪魔の伸ばした腕に、オゼの斧が食い込んだ。巨人が絶叫し、オゼに拳を叩きつけようと腕を振り上げたが、その腕にもオゼの攻撃が見舞った。斧を渾身の力で振り下ろし、更にそれを素早く引き抜いての追撃だった。人間業とは思えない、見事な手腕に、悪魔は呆然とした。目の前にいるのは一人の男に過ぎないのに、同時に二人の戦士を相手にしているように感じられるはずだ。
アシェニスは怪物の動揺に乗じ、無事脇を通り過ぎた。プルが小さく嘶き、主人の無事を神に祈ったかのようだ。アシェニスは振り返った。灰色の巨人を相手に、オゼが上手く立ち回っているのが見える。もしかすると、単身あの化物を倒してしまうかもしれない。それが都合の良い幻想だと分かっていても、期待せずにはいられなかった。
すぐに森の出口が見えた。オゼの荷から聖砂の詰まった袋を取り出し、それをばら撒いた。驚いた野禽が一斉に飛び立つ。悪魔の嫌う臭いが込められた砂は、数ヶ月間、近辺への侵入を抑止するはずだ。囚魔師とは悪魔を魔境に封じ込める者たち。これが本来の役目だった。人間と悪魔の境界を明確にし、彼らの住処そのものを囚獄とする。
アシェニスは涙を拭った。これまで流れるままにしていた。頬を濡らしていたそれは、敏感に風の流れを彼女に伝えてきた。馬を駆り、巨大な要塞に逃げ込もうとしている人間には、涙はお似合いなのかもしれなかったが、オゼや他の囚魔師の命を背負ったこの体で、少しでも弱い部分を見せるのは、罪悪のように感じられた。強い自分でいろ。アシェニスは呟き、駆けた。
森を抜けた。途端、風の流れが変わり、アシェニスの赤髪を巻き上げた。一瞬視界が遮られたアシェニスは、慌てて首を振った。さっき悪魔に追い詰められたとき、髪留めを落としてしまったらしい。アシェニスは振り返った。
そこに怪物やオゼの姿は認められなかった。森は途方もない大きさの闇を抱えている。森の入り口の木々は陽気な緑をしているのに、少し奥に入っただけで、黒い葉や毒々しい草ばかりが見られる。アシェニスは振り返ったことを後悔した。今、できることをやれ。哭臨の壁に到達するのだ。
アシェニスが驚いたことに、壁の大門が開き始めた。アシェニスが他の要塞都市からやって来たことを知らず、この都市の住人だと勘違いしたのだろうか。しかし、好都合。壁の外側で声を張り上げて事情を説明するより、中に入り、拘束されながらでも落ち着いて話すほうが、よほど早く済みそうだった。早く済めば、オゼたちを救援する人員を派遣してくれるかもしれない。
ふと、視線を持ち上げた。胸壁の縁に手をかけて、こちらを見下ろす男が見えた。黒髪に浅黒い肌、瞳が茶色で、少し厳めしいが、どこにでもいそうな顔をしている。そんな男が、アシェニスを値踏みするような目で見ていた。その隣には女が立っている。
「酷い顔だ。仲間とはぐれたのか?」
声をかけられた。相当な距離があるはずなのに、その声は聞き取りやすかった。きっと天性の通りやすい声の持ち主なのだろう。
アシェニスは顎を持ち上げ、返した。
「いる。仲間たちが、まだ森の中に」
「じゃあ、引き返して、助けに行け」
男は口元を歪めながら、平然と言い放った。アシェニスは馬の速度を緩め、大門前で止まった。呆然と男を見つめる。
「……え?」
「助けて欲しいのなら、金貨三枚で手を打つが。どうせそんな金は持ってないだろ? だったら自分で助けに行けよ」
男の隣に立っていた女が、男に何か言うのが聞こえたが、その内容までは聞き取れなかった。アシェニスは微かに湧いた怒りに驚きつつも、返事をした。
「それはできない。私には伝えなければならないことがある」
「そうか。見殺しにして後悔するのは、お前だぜ」
男が引っ込んだ。女も、手を振って胸壁の奥に消えてしまった。アシェニスは焦った。
「早合点するな! 金貨ならある、お金で解決できるのなら、いくらでも支払う、だから、オゼを――」
涙が湧き出てきた。拭おうとしても、馬が殺気立って手綱から手を離せなかった。しばらくすると、涙の発作は肥大化し、ついにはしゃくりあげてしまった。すぐに涙が涸れ、視界が復活すると、先ほどまで遥か上方にいた男が、アシェニスの隣に立っていた。
「……あ……」
「金貨三枚というのは、一人当たりの相場だからな。人数分きっちり払ってもらうぞ」
男は巨大な剣筒を背負い、暢気に歩き出した。その足取りは優雅とさえ言えたが、どこか楽しんでいるようにも見えた。悪魔たちの住処に出発するというのに、その落ち着きぶりは異常と言えた。
「ちょっと待て、たった一人で……?」
「お前も来るか? まあ、足手まといは御免だが」
男は丘陵を登り、深呼吸すると、唐突に走り出した。丘の向こう側に消え、すぐに姿が見えなくなる。アシェニスは唖然としつつも、馬が勝手に歩き出して大門を潜り抜けた。
幾重もの門を抜けて、石畳のよく整理された広場に到達した。そこには様々な人間が市場を開いており、まるで幾つもの要塞に守られた商業都市だった。長閑な雰囲気さえ感じられる。
広場の奥には堅牢な門があったが、それは開いていた。奥に見えるのは黄金の聖像の足であり、簡素な柵が立てられているだけで、誰でも中に入れそうだった。
「驚いただろ?」
広場に隣接する壁には階段が無秩序に設置されており、その中の一つを使って、女が降りてきた。顔面の半分が悪魔に食い千切られたのだとすぐに分かる、凄惨な顔をした女だったが、不思議と醜いとは思わなかった。流れる黒髪が美しいとさえ感じた。
「私は……」
「囚魔師の臭いがぷんぷんする。私はあまり好きじゃないけど、まあ、命張って戦っていることに変わりはない。歓迎するよ。どこの都市から来たんだい?」
アシェニスは、目の前の女以外、誰も自分に興味を示さないことに困惑した。普通、旅人が来訪したら大騒ぎするのではないだろうか。
女はアシェニスの疑問を察したのか、市場の気ままな喧騒ぶりを眺め回すと、ああ、と言って額を叩いた。
「悪いね、あんたみたいな別嬪は、無視されるのに慣れてないみたいだけど、ここの野郎どもは変態揃いでね。私みたいなキズモノが好みなのさ」
女は革鎧をバン、と叩いて右眼の義眼を指差した。白い眼球は不気味以外の何物でもなく、アシェニスを怯えさせた。
「……悪趣味だな」
「そう? 素直な感想が聞けて嬉しいよ。そう思ってもらう為にわざわざ選んで使っているのだしね」
「……それより、私の話を聞いてもらいたい。重大な報せを持って来たのだ」
女は苦笑した。
「随分なものを背負っているみたいだけど、こんな立ち話は野暮ったらないね。お互いの名前さえ知らないんだし」
「私はアシェニス=ドークだ。あなたは?」
「グリア。姓は捨てた。言いにくいって不評だったからね」
グリアは小さく笑い、アシェニスを驚かせた。そうやって平然と血筋のしがらみを捨てられるのは、羨ましかった。アシェニスは血筋を捨てようと決心している今でさえ、その血統の権威に縋ろうとしているのに。
「それじゃ、私たちの屯所に行こうか。運が良ければ、バルクの戦いが見れるし」
バルクというのが、さっきの飄々とした戦士の名前か。アシェニスは悟り、そして慌てて言った。
「待ってくれ。私の話はここでしたい。できる限り多くの人間に伝えたいのだ」
「だったら、大声で叫べばいいじゃないか」
グリアは呆れたように言った。
「一応言っとくけど、ここには大声で叫んじゃいけないなんて法律はないよ。あんたの故郷ではどうなのか知らないけど。まさか都市を離れてまで、故郷の法律に縛られているわけじゃないよね?」
グリアはつまらなそうに言い、アシェニスを行動に移らせた。広場には大勢の人間が商いをしていた。一様にアシェニスのことなど気にも留めていない。なかなか大きな都市だ――アシェニスは感心する気持ちを抱きつつも、大音声を発した。
「聞け、哭臨の壁の住人たちよ! 私は洪鈞の壁の囚魔師アシェニスリス=ドークである!」
広場の賑やかさが途絶えた。異国の人間に向けられた眼差しは、けして親しみばかりが込められていたわけではなかった。
「私は各地を放浪し、多くの都市に警鐘を鳴らして回っている! 私が伝えたいのは、近日中、この哭臨の壁にも悪魔の大攻勢が開始されるであろうということだ!」
グリアが面白そうに頬を緩めた。通りに突っ立っている子供に、木箱をせっせと運ぶ商人がぶつかった。子供を咎めようとした彼は、ふと、アシェニスが立っている広場の入り口を注視した。
「大攻勢、そう言ってもぴんとこないだろう。具体的な事例を挙げよう――洪鈞の壁は陥落し、聖像は破壊された」
一帯の空気が一挙に張り詰めた。洪鈞の壁と言われる要塞都市は、ここ哭臨の壁の三倍以上の規模を誇る。アシェニスには、誰もが不安に顔を歪めるのが見て取れた。
「西の華燭の壁も、更に西の監寐の壁も、南の鎮魔の壁も、全て崩落した。聖像は滅し、そこに住まう人間のほとんどが悪魔に食い殺された。それもたかだか二日の攻勢で、だ」
驚きが伝染していき、広場にいる全ての人間がアシェニスに注目していた。沈黙が痛々しいほどである。しかしアシェニスは臆さなかった。
「私はこの目で見てきた! 悪魔は数え切れない魔の海と化してこの都市を包囲するだろう! 早急に対策を打たなければならない! でなければこの都市は滅びる! 聖像は倒され、そして――」
そこでアシェニスは気付いた。一帯に漂う沈黙が、けして悪魔たちに対する恐怖が原因であるとは限らないことに。子供たちや、女の中には怯えている人間がいる。しかし大人の男たち、特に武装した人間などは、アシェニスに怒りのこもった眼差しを送っている。
「私は――」
「はい、はい」
グリアがアシェニスの腕を掴んだ。アシェニスはグリアに困惑の眼差しを向けた。
「やっぱり、屯所で一度話を聞いてからのほうが良かったみたいだね。こっちに来な」
グリアに引っ張られ、階段を上がっていく。何かに繋がれることもなく放置されたオゼの愛馬は、寂しげに嘶きアシェニスの後姿を見送った。
屯所とやらに引き込まれたアシェニスは、雑多なもので埋め尽くされたその部屋に辟易したが、グリアに促されるまま一等上等な椅子に腰掛けた。大き過ぎて、小柄なアシェニスには合わなかった。
「やれやれ、そんなことを言いに来たとは思わなかった」
グリアが呆れたように言い、机に肘をついた。頬杖をつき、唇を尖らせる。
「まったく、アシェニス、だっけ? もう少し考えたほうがいい。哭臨の壁の人間は、聖像が倒されるだの、悪魔に恐怖するだの、そういった概念とか可能性自体を嫌悪している。ここは、あくまで戦士たちの要塞であり、戦って力が及ばなかったのなら、それならそれで仕方ない。と、こういう風に考える街なのさ。だから、あんたの言ったことは、むしろ戦士連中の闘争心を駆り立てる結果にはなれど、要塞を捨てて逃げ出そうとする人間を増やすことにはならないだろうね」
アシェニスは衝撃を覚えた。
「あえて死のうとする人間の街なのか?」
「そうじゃない。生への渇望は誰よりも大きいさ。だからこそ戦う。ここで逃げても、いずれ追い詰められる。一つでも多くの聖像を守る為に、死力を尽くして戦うことこそが、正しい道だと多くの人間が信じているのさ」
「あなたも?」
アシェニスは尋ねた。不意を突かれた顔をしたグリアは、頬を掻いて苦笑した。
「私は生き延びるだろうね。まあ、それは私個人の話であって、要塞全体の主義とはまた違った内容だ。しかし、考えてもごらんよ。悪魔どもは盲目的なまでの貪欲さで、人間の都市を襲い続けている。森の中には食料が腐るほど落ちているんだから、彼らは飢えているわけではない。そうだろ?」
悪魔を彼らと呼ぶ女を、アシェニスは疑わしい目で見た。グリアはそういう視線に慣れているのか、あろうことか微笑みを返してきた。そんなことをしてきたのは、これまでオゼ以外にいなかった。アシェニスが睨めば、大抵の人間は不安そうにするか睨み返してきたものである。
「それは、そうかもしれない。しかし、それがどうかしたか?」
「人間も、そうした貪欲さが必要だということだよ。悪魔は人間の心の臓を欲しているわけだろ。しかし、私たち人間は、悪魔の四肢を捥ぎ、無力化できればそれで良いと思っている。あるいは、悪魔たちの手が届かない場所に、一時的にせよ退避できれば安心してしまう。この差が、私には危険なものに思えて仕方ないのさ」
アシェニスは沈思した。グリアの言う通りかもしれない。しかし、最初から負けると分かっている戦に望むのは、命の浪費ではないか。
アシェニスは思い出す。これまでの滅亡した都市でも、最後まで聖像を守ろうとした戦士たちがいた。オゼも、実はその中の一人だった。ドーク家の人間はかなり早い段階で他の都市に退避したが、彼らの用心棒として雇われていたオゼは、その月の給金を突き返し、人生の最後を全うしようとしたのだった。もし、グリアが泣きながら彼に嘆願しなければ、彼は今頃洪鈞の壁の聖像と共に、悪魔の屍の中に埋もれていただろう。
「……あなたの理屈は分かった。しかし、私にも信念がある。まさかこの都市の人間全員が、そのような不可解な感情に支配されているわけでもないだろうに」
「不可解な感情?」
グリアは首を傾げた。アシェニスは淡々と述べた。
「自分の命を捧げて、人類抵抗の楔と為す? それがどれだけ矛盾した行動か、分かるだろう? 結局人間は、自分が全てだ。自分が生き残れれば、それで一定の幸福を享受したと感じるものだ」
「随分冷めた見方だね」
グリアは本音らしき言葉を漏らし、机を指で叩き始めた。ほんの少し、苛立っているようだった。
「人間と悪魔は違う。悪魔は本能で人間を撲滅せんとしているように感じられる。でも、人間は、本能では、悪魔から逃げたい。少しでも長生きしたいと思っている。悪魔を倒さなければいずれ自分たちが死ぬのに、逃げたがる。本能に従った末の想定と結果が、乖離してる。つまり、私たちは本能に抗ってでも戦わなくちゃいけない。そうしなければ、私たちの本能が望んでる『生存』には行き着けない……。と、少し熱っぽく語り過ぎたかな。私らしくもない」
グリアは立ち上がって、窓に近付き、胸壁に凭れ掛かった。外の景色を眺めているというより、アシェニスから視線を逸らしたかったようだった。
アシェニスのほうはと言えば、グリアが風貌以上に知性溢れる女性であると分かった上に、自分の話をまともに聞いてくれる優しさを感じ取ったので、もう少し話をしてみたいと考えていた。
「グリア、もう、その話はいい。だから、全く別の話をしてもいいか?」
グリアは振り返らずに頷いた。
「話すのはあんたの自由。応じるかどうかは私の自由」
「良かった。さっきの、男のことだが」
「バルクのこと?」
グリアが振り返った。アシェニスは、グリアが少し顔を輝かせたことに驚いていた。恋人関係なのかと疑ったが、どうもそぐわない気がした。単なる同僚、という感じがした。
「そう、バルク。彼は何者なんだ? たった一人で行ってしまったが」
「この都市の誉れ高き切り込み隊長さんだよ。私は彼の部下で、彼についていくので精一杯。色んな意味ではみ出している男さ」
はみ出している……? アシェニスにはその意味がよく分からなかった。グリアの隣に立って、胸壁から見える外の景色を眺めた。
荒野が広がっている。そして地平線近くの森には、黒々とした邪悪な気配が認められる。あの中にオゼとバルクがいる。
アシェニスは、しかし、バルクはともかくとして、オゼの生存を諦めていた。最後に出会ったあの悪魔はあまりにも巨大で、屈強そうだった。オゼの得物の巨大な戦斧であっても、何百回打ち込めば倒せるのか、見当もつかなかった。
逃げられるだろうか? しかしオゼの装備は、あまりにも重く、徒歩では逃げ切れるわけがなかった。怪物を引き付けるのに、あの甲冑は多少役に立つかもしれないが、彼の生存に役立つかと言われれば、微妙な話だ。
アシェニスの沈んだ表情を見て同情したのか、グリアが話し出してくれた。
「バルクがこの都市にいてくれて、本当に良かったと思っている。数十体の悪魔なら一人で蹴散らしてくれるし、金を持ってる奴からは巻き上げるけど、そうじゃない奴には気前良く無料で助けてくれる。私もあいつに助けられた……、あいつは覚えていないかもしれないけど、十年近く前に、ね」
じんわりと、グリアからバルクへの信頼の厚さが伝わってきた。アシェニスはふっ、と息を漏らし、胸壁から離れた。椅子の近くに置いてあった手荷物を拾い、肩にかけると、屯所を出ようとした。
「何処に行くんだい?」
「この要塞都市の、実質的な支配者は誰だ?」
「市長のこと?」
グリアの返答に、アシェニスは、頷いた。
「じゃあ、その人だ。私は一人でも多くの人間を避難させる。他の避難者は大陸最大の都市、恩沢の壁に集結しているから、そこにこの街の人間を導いてやりたい」
「恩沢の壁、ね」
グリアは面白そうに笑ったが、頬が引き攣っていた。
「まアシェニスいぜい地獄の水先案内人にならないよう、気をつけることだね」
アシェニスはにやりと笑い、部屋を出た。
4
面白い。何度もそう叫んだ。バルクは大剣を振るい、怪物の悶絶の雄叫びを聞きながらも、隣に立つ男を盗み見た。
名前を聞けばオゼ、とだけ答え、なかなかやるなと言えばお前もな、と返ってくる。贅肉を削ぎ落としたさっぱりとした性格が垣間見えるようで、バルクはオゼに対する興味を強めていった。
「そろそろ終わらせるぞ」
「分かった」
バルクは跳躍した。灰色の巨人は口を半開きにして、バルクの超人的な跳躍を見送ったが、地上で凄まじい突進を繰り出したオゼへの注意力が散漫になった。
巨人が気付いたときには、全体重を乗せたオゼの斬撃が膝に集中し、腱が切れる音が聞こえた。粘り強く巨人の体重を支え続けてきたそれの切断は、バルクに勝利の確信を抱かせた。
空中で向きを変え、大剣の切っ先の位置を微調整する。天を仰いで苦痛に嘆く怪物の喉元を狙った。硬質化した怪物の肌を、バルクの大剣は易々と突き破り、紫色の血を噴き立たせた。
「やったか……?」
「……離れろ!」
オゼが叫んだ。バルクは素直に従った。大剣を引き抜く前に、体勢を崩して、巨人の小山のような肉体から滑り落ちる。怪物が最後の抵抗とばかりに、肉体を震わせ、バルクにのしかかってきた。バルクは横に転がり回避した。もし対応が遅れていたら押し潰されていたところだった。
バルクとオゼは、少し離れた位置から怪物のもがき苦しむ様子を見ていた。血液をばら撒き、肉が剥がれ落ち、異臭が辺りを支配した。鼻を押さえたバルクに対し、オゼは平然と怪物の最期を見届けていた。既に斧を仕舞いこんでいる。
やがて怪物が動かなくなると、オゼはバルクのほうを向いた。表情は読み取れないが、兜の隙間から彼の眼を確認することはできる。物問いたげな視線だった。バルクは頷いた。
「名前を聞いてなかったんだが、赤髪の大層な美人からの依頼でね。金貨三枚と引き換えに救出しに来た」
「……アシェニスの奴……」
オゼは低い声で唸ったが、気分を害しているようではなかった。ゆっくりと歩き出す。甲冑の金属がぶつかり合う音が耳障りだが、今は気にならなかった。バルクは剣を回収すると、彼の隣についた。
「あの女は、お前の愛人か? 結構な女をモノにしたな」
バルクは冷やかすように言った。オゼは平然と言い放った。
「アシェニスは俺の女だ。手を出すな」
バルクは笑った。手を出すものか、俺の恋人は悪魔以外にありえないからな、と軽口を叩き、哭臨の壁への道筋を示した。
「それにしても、お前、相当な腕前だな。何処から来た?」
「洪鈞の壁だ。西にある」
それならば聞いたことがあった。大陸においても有数の大都市で、何千という兵力を抱え込んでいる要塞。哭臨の壁の二倍の大きさ、三倍の人口を誇ると聞いたことがある。交流には森の端を横断する必要があるが、それほど縁遠い存在ではなかった。
「物好きだな。栄えた都市から、衰退しつつある都市に移ってくるなんて。哭臨の壁は激戦区でな、毎日のように悪魔が出没するんだ。今日は比較的穏やかな日だったんだが、さっきの戦闘で多少は満足できたよ」
オゼがちらりと一瞥を寄越す。バルクは気付かないふりをして、話を続けた。
「毎日のように戦闘があるってことは、毎日のように死者が出るってことだ。毎日壁の中で葬列が出来る。辛気臭いったらないな。俺は十年以上最前線で戦っているが、怪我らしい怪我をしたことがない。それだからこそ、余計に腹立たしくなる」
「自慢か?」
オゼが言った。けしてバルクの言葉を疎んじている声ではなかった。むしろバルクに興味を抱いているようだった。勘違いでなければ、バルクはもっと話して良いはずだった。
しかし、バルクもまたオゼに興味を抱いていた。自分のことだけ話して何も得られないというのは、損のような気がしていた。
「オゼ、と言ったな。どうして囚魔師なんかに? こんなもの、正直言って、逃げ足の速い奴がやる仕事だ」
「アシェニスがやると言った」
オゼの返事は揺らぎのないものだった。まるでアシェニスという女が世界の真理を司っているとでも言わんばかりに、声を弾ませることも低めることもなく、言い切った。
「アシェニスは何者だ? どこぞの金持ちの娘か? 金貨を払うと言っていたが」
「ドーク商会の次期会長だ。今は、その地位を投げ打とうとしているが」
ドーク商会……。バルクは少なからず驚いていた。大陸中にその支店があると言われる大商人の組織ではないか。その次期会長だと?
「商才よりも泣き落としの才能に恵まれているようだったが」
「アシェニスは昔から泣いてばかりだった。本人が一番それを疎んじていた。泣いてはいても、前を見続けることは止めない女だった」
「そこに惚れたのか」
「向こうが惚れた」
「兜の中身は相当な色男なんだな」
「そうでもない」
「でなければ、あんな美人で、大富豪の女が靡くものか」
バルクは笑って言った。オゼはかぶりを振った。
「俺は兜を外したことがない。生まれてから、ずっと」
バルクは何も言えなかった。何かの比喩だろうか。それとも、真実? オゼの歩調はやや早く、バルクはゆっくりと歩けなかった。
森を抜けた。巨壁が聳え立ち、さしものオゼも歩調を緩めてそれを見上げた。
「立派なものだろう」
「要塞はともかく、聖像はな」
黄金色に輝く聖像は、近くで見ると青い。それなのに、壁の向こう側からは、まるで聖像の加護から外れた人間を奮い立たせるような美しい色彩を放つ。話によれば、見る角度によって七色に変じるという。バルクは正面からしか見たことがなかったので、黄金色に輝くところしか知らなかった。
「俺は要塞のほうを言ったんだがな」
バルクは苦笑混じりに、大門に手を振った。胸壁から顔を出したのはグリアであり、手を振り返してくる。
「お前の女か?」
「違う。近いかもしれないが」
グリアに認められたのは後にも先にもバルクだけだろう。そういう意味では、グリアの恋人に最も近いのはバルクだった。しかし、バルクにその気はなかった。愛だの恋だの、全く興味がなかった。
「俺は悪魔と心中するって決めているのさ。人間はその為に生まれてくるのだからな」
「悪魔と戦う為に、人間は生まれてくる?」
「そうだ。俺に言わせればな」
バルクは大門が開くのを見ていた。門を制御している連中は、今日だけでも三回も門を開いている。忙しい日だとぼやいているだろう。
「そんな極論は初めて聞いた」
「だろうな。俺も初めて誰かに言ったよ」
「どうして俺に?」
オゼは甲冑の奥で、バルクを観察していた。門が開き、その中に吸い込まれていっても、バルクから視線を外さなかった。
「俺とあんたは似ているのさ。あんたはアシェニスとかいう女の為に戦っていると嘯いているが、本当は違うんだろう? 悪魔連中と戦争がしたいんだ。そういう眼をしている」
「根拠があやふやだな。何とも返事できない」
オゼは壁の分厚さを確かめながら門を潜った。木材が腐りかけているところを発見し、指で撫でて不審そうにしていた。それでも、バルクから目を離さない。
バルクはそんな彼を睨み返し、他の都市でもさぞかし浮いていただろう、と予測した。悪魔を倒す戦士は尊敬こそされ、人間として扱ってもらえない。まるで悪魔を倒すのは悪魔だけだと決め付けられているかのように、恐怖される。
それはあながち間違った考えではない。バルクはそう感じていた。悪魔と戦っている最中、自分が本当に人間なのか、自信がなくなることがあった。悪魔の群れの中で孤立し、味方の兵士が次々と倒れる中で、自分だけは立ち続ける。剣を振るい、紫の血を浴びて、それが心地良く感じられる。舌で舐めれば苦い味が口内に広がり、良い気付け薬になったものだ。
広場に入った。オゼが愛馬を発見し軽く首を振った。すれ違う人間がいちいち道を開けてくれる。おかげで聖像まで、一度も立ち止まらずに向かうことができた。人で混雑している中を立ち止まらずに進めるのは、この都市で唯一バルクだけだろう。
「聖像に向かうのか」
「補給がしたい。どうも、剣が鈍っていてね」
「アシェニスは何処にいる?」
「運が良ければ聖像近くにいるんじゃないか。まあ、おそらく、グリアと一緒に屯所にいるのだろうが」
「屯所の場所は?」
オゼは屯所の場所を聞くと、さっさと階段を昇って外壁の端にある屯所に向かってしまった。他を寄せ付けない雰囲気の男で、しかも厳めしい甲冑を着込んでいるので、広場の人間が道を開けていた。やはり似ている、と呟いたバルクは、聖像が建っている聖域に足を踏み入れた。
聖像は簡素な木の柵で隔離されているが、誰でも中に入ってその神気を宿すことができる。悪魔を倒すには聖像から神気を受け取り、得物に乗せて叩き込まなければならない。したがって、有事には戦士に優先的に聖像の神気が与えられる。戦士がこうして聖像の近くをたむろすれば、聖像を管理する神官たちは進んで柵の一部を撤去し、中に招き入れてくれる。
バルクは聖像の足元に立ち、その衣服の裾に触れた。青銅製らしく、絹の柔らかな感触など期待できないが、それでも聖像を包み込む神気がバルクに活力を与えてくれる。
悪魔を倒すには、この聖像の神気が欠かせない。バルクほどの戦士であっても、聖像の加護がなければ一体の悪魔も倒すことができない。人間は一度に『補充』できる神気の量が限られており、悪魔の大きさにもよるが、二十体程度悪魔と交戦すれば、力は尽きる。バルクが無双であっても数百体の悪魔の群れが相手では、勝ち目は全くない、と言える。
バルクは聖像に触れている間、瞼を閉じていた。体中に活力が、背の大剣にも力が与えられるのを感じる。
神気を内に溜め込んだバルクは、ふと、隣で聖像に触れている少年を発見した。ラミがバルクと同じような格好で聖像に触れていた。
「ラミ……」
「あ、バルクさん」
ラミの更に隣には、先ほど門の前で会ったアシェニスが立っていた。全く同じように、聖像に触れている。赤い髪が腰まで垂れて、少し毒々しいと思えたが、グリアと同じでそれだからこそ得られる美というものが彼女にはあった。
「それに、アシェニス。哭臨の聖像の味はいかがかな?」
アシェニスはバルクの言葉を無視した。バルクのどうでもいい軽口だと思ったのだろう。
「オゼの姿を、さっき確認した。報酬の件だが、金貨の持ち合わせは、あいにく今はない。だがこの短剣は金貨三枚分の価値が充分にあるはずだ」
アシェニスが胸元の隠しから短剣を引き抜いた。口笛を吹いたバルクはそれを受け取り、鞘から抜き放った。濡れたような銀の刃に、見事な金細工。相当高価な代物だった。しかも聖像の神気が宿っている。
「なかなか、だ。分かった。これでいいだろう。で、ここの聖像はどうだ?」
「なかなか、だ。洪鈞の壁にあった聖像には劣るが、今はもうないものと比較しても、不毛だからな。素直に素晴らしいと言っておく」
洪鈞の壁が崩壊した、という事実を初めて聞いたバルクは、少し驚いたが、表情には出さなかった。
「で、こんなところで何をしている?」
ラミとアシェニスが一緒にいるというのは、なかなか奇妙な話だった。今日来たばかりの新参同士が早々に知り合いになっている。
ラミがにこりと笑って手を差し出してきた。
「握手を、お願いします」
またこれか。手をやたらと握りたがる。
「俺なんかより、アシェニスと握手してろよ。俺の手よりも柔らかくて、良い匂いがするだろうよ」
「もう握ってもらいました」
ラミが笑顔で言う。やたらと上機嫌だった。バルクは首を傾げた。
「その、手を握るというのは、何の意味があるんだ? 儀式か?」
「確かめるのに、一番の方法なんです」
「確かめる? ……ああ、もういい。握ればいいんだろう? 少しだけだからな」
バルクはラミの手を握った。すると妙な気分になった。彼を助けたときも手を握ったが、あのときも妙な感覚があった。もう手を離したくないというか、何か得体の知れない力が二人の手を吸い付かせているような。その感覚が何とも気持ち悪く、いや、感覚自体はむしろ心地良いのだが、心地良いと感じている自分が気色悪く、あまり長い間ラミと握手していたくなかった。
ラミが期待するような眼差しで、バルクを見上げている。何なんだ、こいつは。
バルクは手を離した。掌に汗をかいている。バルクは腕をさすった。鳥肌が立っていた。
「握ったぞ、これで満足か?」
「はい。……バルクさん」
「何だよ」
「僕を守ってください。僕もバルクさんを守りますから」
バルクは困惑した。視線を泳がせて、アシェニスと目を合わせた。アシェニスは肩を竦めた。
「意味が分からない。……もういいから、さっさと何処かへ行けよ。なんかもう、お前に付き合うと疲れるんだよ」
「僕を守ってください」
「守るって、お前、守られる必要が全くねえじゃねえか。悪魔に襲われているのならともかく」
ラミは口を噤んだ。寂しそうな表情をしていた。バルクはしばらく耐えたが、やがて頭を掻き毟った。
「ちくしょうっ! そんな目をするなよ、この阿呆! お前が悪魔に襲われてるときは、必ず守ってやるよ。それでいいか?」
ラミは小さく頷き、再び聖像に触れた。もうバルクに構うことはなくなった。
聖像付近から離れ、バルクはため息をついた。アシェニスもそれに続いた。
アシェニスは赤い髪を腰まで垂らし、豪奢でありながら機能的にも優れた銀の鎧を着込んでいた。ブーツは毛皮だったが内側に金属を張っているらしい。黒い肌着が全身を覆っているにも関わらず、何とも言えない若々しい色気を放散していた。
「あんたもラミに何か言われなかったか?」
「手を握れと迫ってきたな。守ってくれとは言われなかったが」
アシェニスはバルクと話したがっているらしく、その場から去ろうとはしなかった。バルクはそれを見て取り、ラミよりもまともな話し相手だと判断して、それに応じた。
「俺に何か用か?」
「あの少年は……、異様だぞ」
「知ってるよ。普通のガキが、悪魔の森から這い出てくるか」
結局ラミの話題か、とバルクは残念だった。
アシェニスはバルクのうんざりした顔を見て取り、口調を速めた。
「バルク、あなたは何も感じなかったのか? あの少年の手を握った瞬間、何とも言えない不快感があった。吐き気さえした。あなたは平然と応じていたが、私は――」
「可愛い悲鳴をあげたとか?」
冗談のつもりだったが、図星だったようだ。アシェニスは頬を赤くし、咳払いした。
「……もっと言えば、私は今日、多くの仲間を失った。考えないようにしていたのだが、今夜あたり実感が湧くだろう。少年の手を握った瞬間、その悲しみを直接的に思い出されたような感覚があった。……分かりにくい説明だとは思うが」
「いや、分かる。お前は封じ込めていた悲しみを暴露されたってわけだな。自分の気持ちに正直になった、とも言える」
「そうかもしれない」
アシェニスは聖像に触れるラミを一瞥し、唇を噛んだ。その眼には明らかに恐怖の色が窺える。
「あの少年は何者だ? 今日ここに来たばかりだという話だが」
「俺が助けたんだ。悪魔に殺されそうになっていた。間抜けなことに、悪魔に話しかけて命を助けてもらおうとしていた。僕は不味いですよー、みたいなことを言って」
バルクは笑ったが、アシェニスの表情はすぐれなかった。
「悪魔に話しかける、だと? それではいかにも……」
アシェニスの考えが読めたバルクは嘆息した。
「おいおい、ラミはどこからどう見ても人間だろう。多少ずれている点があることは認めるが、人が必死こいて救出したガキの喉を掻っ切って、悪魔かどうか確かめるなんてぬかしたら……」
アシェニスは慌てて否定した。
「私とて、そんなことは考えていない。ただ、普通ではない、と思うだけで」
会話が途切れた。バルクはアシェニスという女が気に入らなかった。立ち居振る舞いに気取ったものが見られる。それは彼女が高飛車であるとか神経質であるとか、そういうことを意味するわけではなく、彼女が何かに責任を感じているからこそ見られる態度なのだということが、バルクにはよく分かった。それでも気に入らず、今後話す機会はないだろう、という予感があった。
「オゼが屯所にいるはずだ。行ってやったほうがいい」
「そうか」
アシェニスは頷き、何を思ったか、頭を垂れた。
「礼を言う。オゼを救ってくれて、私はあなたに何かをしてあげたいが、その短剣が現状の精一杯で――」
バルクは面倒になって手を振った。
「何も言うなよ、報酬は貰ったんだ。その上に礼の言葉なんか受け取れば、またあんたを助けなくちゃならなくなる。少なくとも、あんたはそれを期待するだろう。……そういう関係が、なんというか、重荷になるんだよな」
バルクはそれでも頭を下げ続けるアシェニスに苦笑し、ふと、聖像にもたれるラミを見た。ラミはバルクに顔を向けていた。目が合う。
「バルクさんは優しいですね……」
実際にそんなことは言われなかったが、ラミの目はそのような趣旨のことを端的に表現していた。
「優しいわけじゃねえ……。同情しているだけだ。俺たちの運命ってやつに」
バルクは思わず本音を漏らし、その場を後にした。




