一章(5) 彼の答え
(俺……死ぬのか?)
そう思った彩人は目をつぶった。恐怖から目を逸らしたくて。
もう助かりようがない。
だが、いつになっても炎の熱は感じられなかった。
(あれ? 少しも熱くねえ……。むしろ普通に寒いままじゃねえか……。さっきの雪の中を歩いてる時と変わらない。ははっ、もう死後の世界だったりしてな……。それか死体になって俺自身が冷たくなったか……)
「防いだだとっ?!」
声が聞こえた。
彩人のものではない。
(何だ?)
驚いた声を上げたのは、炎を手で操る芸当を見せ付けた化け物のような男だった。
彩人はそっと目を開ける。開けることができた。それはつまり。
「生きてる……。俺……生きてるのか?」
(なんで?)
その答えは目の前の光景を見ればわかった。
炎は彩人を襲ってきていた。確かに。
だが。
「どうなっているんだ……」
炎は何か見えなの壁のようなものでせき止められているように見える。
そして。
その炎が阻まれている―――見えない壁の前に一人。
「……」
そこに立っているのは男ではない、ましてや彩人のはずもない。この場にいたもう一人の人物。
「さっきの……さっきの子なのか……」
そう、そこに立っていたのは銀の少女。
長い銀色の髪を揺らしている。
少女は見えない壁に手を当てている、否、かざしているとも言える体勢だった。
「あんなに弱っていたのに……」
彩人の言ったとおり少女は衰弱していた。目を覚ましてもずっとおぼろげな目をしていて意識がはっきりしていなかったというのに。
「ふんっ、まだ動けたとはな……。それは予想の範囲外だ。さすがはB等級だな。よくもその状態でも俺のD等級の攻撃を防ぐことができる。万全の状態だったら俺は返り討ちにあって、瞬殺されていただろうな」
(なんだ? 等級?)
男の言葉には、その世界に生きる者にしか理解することができない言葉が含まれているようであった。
「ねぇ……?」
少女の声だった。小さく、とても弱々しい消え入りそうな声で少女は言った。
彩人は耳を立ててどうにかその声を聞き取る。
「な、なんだ?」
少女の口から出た一言は端的だった。けれどもそれは彩人の胸を強く締め付けた。
その言葉は。
「逃げて……」
(そんな……)
彩人は信じられなかった。確かに彩人にはこの状況をどうすることもできない。しかし、少女の先ほどの容体、消えそうな声、それらが少女だって深刻な状況だということを彩人にわからせる。
助ける側と助けられる側がいつの間にか入れ替わっていた。
それは一瞬で。
「君は……君はどうするつもりなんだ!」
一瞬で助けられる側に移ってしまった彩人はとても無力だった。ただその異常な光景を見ていることしかできない。
「わからない……私は……いつまでもこうしていられる……わけじゃ……ない。だから早く。早くしないと……この壁が……もう……」
壁、という言葉に疑問を感じた彩人は目を凝らして見えない壁を見た。いや、完全に見えないわけではなかった。かすかにその場で炎よる光がぼやけて見える。
(溶けている? あれは氷なのか?)
透明な壁は水滴のようなものがたくさん付いていて、それがたらたらと垂れていく。まさしく氷の造形物。だがそれはしだいに氷壁が徐々に薄くなっていく表れだった。
「鬱陶しいぞぉ!」
男が叫ぶと彼の怒りに焚きつけられてかのように火力を増す。
それにしたがい壁が融ける速さは早まる。
「彩人! 早く逃げて!」
少女が彩人に告げる。かなり焦っている調子だ。
(……砕ける!)
彩人は直感で悟り少女に飛び掛かる。
壁が砕かれるのはそれの数秒後だった。炎が壁を突き抜ける。
(避けられるか?!)
壁を突き破った炎は次々と雪を食らい尽くしていく。そして彩人と少女がさっきまで居たところは雪もなにもなくなる。
彩人は少女の体は一緒に道の脇にある。
「だ、大丈夫か……」
彩人は少女に覆いかぶさるような体勢で尋ねる。
「うぅ……」
「よかった……生きてる……」
さっきの炎によって懐中電灯はお陀仏になってしまった。そのためさっきより暗くはなったが残り火が代わりに照らしている。
二人は何とか炎から逃れることができた。
だがそれで終わりではない。
「せっかくの逃げる機会だったのにな、小僧。それを自分で無駄にしてしまうとは。もうお前が灰になるまでの時間は少ない。だから少し与太話でも混ぜて生きる時間を延ばしてやろう。小僧、お前はさっき俺のことを『化け物』と呼んだな?」
「……それがどうした」
「それも同じだ」
男は少女を指差す。
「この子も同じ……」
「そうだ。同じだ。この世界の異常。『異常』を。見ただろう? それがさっき氷の壁を作って俺の炎を防いだのを。だからそれもお前の言う『化け物』だ。まあ正確には『化け物』ではなく『改変者』なのだがな。それを踏まえた上でお前はそれをどう思う?」
「……どう……思うだと?」
「危険だとは思わないか?」
根本的なことは男と少女は変わらない。どちらも同じ。普通ではない。異常だ。
「でも……」
彩人は唾を一飲み。
「この子は……違う」
「なぜ?」
「それは……」
彩人は返す言葉に困ってしまう。
「違わなくはない。同じ存在だよ、それは」
「……」
「所詮俺たちの生きる世界はお前達、一般人とは違う。じゃあそれはその中に入るか? 入らないだろう。常識、法則、そんなものから外れたそれも俺たちの世界にしか入ることしかできない。お前はそれをどうするつもりだ? お前達の世界で生きていくことなどできはしない」
「俺は……」
「情けをくれてやる。もう一度だけお前に選択肢をやろう、最後のだ。お前の命を守るか、それを守るか、お前はどちらを選ぶ?」
「俺は……」
彩人に与えられた最後のチャンス。男は少女を素直に渡せば命をとるまでのことはしない。少女を引き渡したら、醜く情けない姿を晒しながら逃げることになる。男の目的はわからずとも、そうすれば一人の少女を自分の身代わりにしたことだ。
だがこの機会を逃せばこの場で死ぬ。
(俺はやっぱり死にたくない)
真っ白な人生を送ってきたにも関わらず、これからもそのような空虚な日々を続けたいと思っているのだ。生きたいと思っているのだ。理由もなく。何も得ることはできないわかっていながら。
死にたくない。
生きたい。
だが。
これは彩人自身も本当にわからないことだった。誰かが彼に囁いているようだった。そして彩人自身もその囁きの選択は正しいと思えてしまう。
この選択で、もし違うほうを選んでいればこれからもずっと変わらない日々を送っていたのかもしれないのに。だがこの時の彼には初めから選択肢などなかったのかもしれない。『前』の彼でなくとも、八年前の『あの時』から答えはもう決まっていたのだとしたら。
「俺はやっぱりこの子を守る」
それが彩人の出した答えだ。この答えが彼に『変化』をもたらす。
(俺はこの子を守らなければならない。そんな気がする。そんな気がするんだ!)
彩人はこの少女にはなぜか懐かしさを感じていた。だがそのようなことはあるはずが無いと改める。
「そうか……」
言葉とともに炎が出現。
「残念だ。お前達の世界とこうも触れ合ってしまったのでな。だいぶ回り道をしてしまったようだ。さっきのお前が言った言葉を忘れるな。それがどういう答えかちゃん理解したつもりで答えたはずだからな。もう容赦はしない」
男は無防備な二人に近づいていく。
「早く逃げるぞ」
彩人が少女の手を引っ張って立ち上がらせるために、手をつかんだその時。
(なんだこれ?!)
頭か体か、何かがダイレクトに流れ込むような異様な感覚が彩人を包んだ。
「次は先程みたいにうまくいかないぞ? もうそれは力を使えないだろうからな。これで本当に最後……」
男は異変に気付く。表情が真剣な顔つきになる。
警戒しろ。
彼の直感がそう告げた。
「なんなのかわからんが……さっさと片付けた方がよさそうだ」
男の手に炎が灯る。今度の炎は今までの物とは形状が異なる。ただ手から燃え広がっている炎は徐々に細長くなっていく。最終的には矢のような形になる。今、炎を普通に放ったら少女までも巻き込んでしまうと思い、彩人だけを仕留めるにはこの形状が最も有効的だと判断した。
「はっ!」
男は炎の矢を彩人目掛けて解き放つ。炎の矢は一直線に彩人へ向かう。
対する彩人。
少女の手を掴んでから微動だにしていなかった。体が固まっている。
そんな彩人に向かう矢は止まらない。
矢が彩人に突き刺さりそうになる瞬間。
視界が真っ白になった。
「うっ……ぐあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
突如、彩人の咆哮とともに白い閃光が迸る。
男が炎を放った時に橙色の光が夜の闇を満たしたように、今度は白い光が闇を満たす。
「次は何だ!」
男は白い光の眩しさに怯む。
やがて光は消滅していく。
「何をした!」
そして男が目を開けた時には再び辺りは闇になっていた。さっきまでは残り火が暗闇を照らしていたはずだった。光が放たれた後炎もろとも消滅し、黒き闇に戻っている。
視界ももちろん真っ暗だ。
男が再び炎を出現させることでまた明かりを取り戻す。
「はあ……。はあ……」
彩人は息を切らしていた。
(俺、今、なにを?)
片手で頭を抑え、焦点も合わないまま地面を見ていた。
彩人と少女はまだ同じ場所にいる。無傷だ。
消えたのは彩人ではなく、炎の矢の方だった。
「これは……」
辺りは一変していた。
さっきまで焼かれて何もなかったはずの場所の地面が一面凍っていた。そこだけではない。彩人と少女を中心に辺り一体が凍りついていた。木々までも。
「小僧、何をした!」
男は彩人に尋ねるが、当の本人である彩人にも状況は掴めていない。
「いやこの異常は標的のもので間違いない。まだそれに余力が残っていたというのか? いや、だがもう限界だったはずだ」
男は彩人の方を睨む。
「まさか……この小僧がやったというのか?」
そんなことはあるはずがない、と首を振る。
「いや確かにこの氷はあれの力だ……。やはりまだこれほどの力を残していたということか……。侮れんな。B等級はだてじゃない、ということか」
この時、男は気付いていなかった。
凍っているのは地面や木々だけではないことを。
「これは……体が動かないだと!」
炎を灯している右手から離れた部位は凍っていて身動きがとれなかった。
(どうしたんだ? もしかして動けないのか?)
その男の様子を見た彩人は、これは二度とないチャンスだと思った。
二人と男の距離はまだ五メートルはある。
(今のうちに逃げるしかない!)
彩人は少女を再び抱える。
(あれは……)
二人がいる所に生えている木の脇に、コンビニで買った商品が入った袋が落ちていた。
(そうか! あれを使えば)
彩人はそれも拾い上げて走り出した。
「くそっ! おい、待ちやがれ! 小僧! こうなったら標的に多少の火傷ができても仕方がないな。まとめてだ! まとめて焼いてやる」
男は悪あがきで最初に使った火炎攻撃を今度は二人に向ける。
「そんな……!」
彩人は首だけ回し後方から迫る炎を見る。足は常に動かし続ける。
(このままだと食らっちまう!)
少女を背負っていて、ただでさえ両手が塞がっているから、避ける余裕もない。
しかし炎は見えない壁に防がれる。
彩人は少女の方に目を移す。
「ありがとよ。助かった」
と、囁く。
少女はずっとぐったりしたままで反応はない。男の言うとおり、もう残りの力も少ないようだった。
「甘いなあ! この距離でも俺の炎は届くぞ!」
留めだ、と言わんばかりの大声で男は叫んで今までで一番大きい炎を出現させる。
(このくらいか……)
彩人は立ち止まり少女を下ろす。
「ああ、そうだな」
そう。この距離なら。
彩人の目的は男と一定の距離をとることだった。
「この距離なら俺たちには被害はないよなっ!」
レジ袋に手を突っ込んで中身の一つを掴み取る。これは少女のように氷壁を作って防御のできない、ただの高校生でも可能な悪あがき。掴み取ったそれを思いっきり男の方に向かって投げつけた。それは闇の中へ姿を消す。
男は一回り大きい炎を放射する。
「消えろおおおおおおおお!」
「消えるのはお前のほうだ!」
二人の叫びが交錯した直後――――――――爆発が起きた。
静けさの満ちた夜に爆音が響き渡り、爆風が雪を舞い散らす。
「うっ……」
彩人はすぐに少女の体を腕の中に収める。
必死で爆風から少女を庇う。
爆風に耐え切れなくなった体が後方へと吹き飛ばされるが、今度は少女を手放すまいとしっかり抱えたままだ。そのまま雪の上にうつ伏せに倒れ、爆風が治まるまで少女を庇い続ける。
やがて爆風は止む。
雪の夜は静けさを取り戻した。
彩人は想像以上の結果になり完全にびびっていた。
(予想以上だ……)
彼は自分では気付いてはいなかったが冷や汗がだらだらと出ていた。心臓をバクバクさせながら爆発のあった方を見る。
「……やったか?」
作戦が成功しても油断せず、彩人は警戒を解かない。爆発の起こった方向をしばらく見続けていた。
「……」
男が追ってくる様子はない。
「ふぅ」
彩人は全身の力を抜いた。
「はは、はは……」
彩人は起こったことをただ笑うことしか出来なかった。
「これにこんなにも威力があるなんてな……」
レジ袋から男に向かって投げたものと同じ商品を手に取る。
彼の手にあるのはそう――――――ガスボンベ。
それが男に向かって彩人が投げたものだった。
辺りが暗かったおかげで、男はそれを確認することができなかったのが幸いして、そうとも知らず男はそれに向かって炎を放った。
結果、火がガスボンベに引火。
そして、ガス爆発。
藍に買ってこいと頼まれたものが彩人の命を守るための強力な武器となったことは事実だ。
「……俺はとんでもないことをしってしまったたんじゃないか?」
とにかく必死だったので自分の行為がどれほど危険だったのかをあとあとになってわかった。
これは『絶対にまねしてはいけません』の項目に完璧に当てはまってしまうが、まあ結果オーライ。
彩人はそうまとめた。命がある。少女を守りきった。それでいいじゃないか、と。
ようやく気を落ち着かせることができるようになってきた。
「一体なんだったんだ……」
彩人に起こった出来事。それはたかだか数分の出来事だった。だがそれはあまりにも衝撃的あった。銀髪の少女との遭遇。その直後、自分は何者かに突然襲われ、少女を渡せと責められた。さらにはその男は手から火を生み出すなどという人間離れしたことをやってのける。その火は何度とも彩人を狙って襲い掛かってきた。
(俺、生きている、よな……)
彩人は今でもこの出来事を信じられなかった。
だが、これでもう安心。
脅威は去った、はずだった。
「よくも……よくもやってくれたなああああああああ!」
怒り狂った叫び声さえ無ければ。