一章(4) この世界の異常との遭遇
「はあ……はあ………」
白い息が出ては消える。
新代荘での他三名の会話を聞くことができなかった彩人は、この極寒の中でのお使いに伴う苦労が必要なかったことなど知る由もない。そんな彼は雑木林に入っていた。
(さすがに女の子を背負って走るのは疲れる……俺も幸祐や若葉みたいに部活動に一生懸命勤しんでいればそんなにつかれないのかなぁ)
初めの勢いは何処へ。今は走りから早歩きに変わっていた。
彩人は中学時代から帰宅部の道を貫き通しているので、運動をあまりせず、体力も筋力も幸祐には遠く及ばないし、女子である若葉にまでも負けることだろう。
(バイトできたらいいんだがな……)
彩人たちが通っている帆布高校―――新代荘から徒歩で通える距離(所要時間三十分)にあり、公立高校なので、経費がいろいろと浮くということで通うことになった―――は原則、学生のアルバイト行為を禁止している。だが彩人は一年生の時に一度秘密裏にアルバイトをしていたことがある。その時には学校側には知られることなく続けていたのだが、藍の目からは逃れることはできなかった。彩人は藍からこっ酷くお説教を受けてしまった。それからは彩人だけでなく、若葉と幸祐もそのようなことは口に出さないようにしている。
(いくら貧乏だからってな……でも新代荘の、いや俺たちの現状を踏まえたら言えないのは理解している。理解しているつもりだ……。なのに……なのにだ! あの化粧品やらは何だ! ずるい……というかひどい! 俺たちには大した娯楽は与えられないのに! 帰ったらまたとことん愚痴を言ってやる)
それにこのお使いの報酬もない。ただ苦しむだけの罰ゲームみたいなものだ。
走るペースがやや落ちてきているが、雑木林の中間辺りまでやって来た。
(まだ半分ぐらいか……。もっとささっと行けるかと思ったのに……)
後ろの少女はまだ起きる様子はない。
(本当に大丈夫なんだろうか?)
と、その時。
「ん……」
耳のすぐ近くで声がした。
そんな近距離で声を出すことができるのは彩人に背負われている少女だけだ。
「起きたのか!」
彩人は目に留まった横に倒れた丸太に少女を座らせてあげる。そして大丈夫か、と声をかけコーンスープの缶を開けてそっと彼女の前に差し出す。
「飲みなよ。暖まるから」
少女はおぼろげな目をしながら缶に両手をのばしてゆっくり掴み、口にそっと運ぶ。すすっと音を立て、少しだけ飲む。
「もういいのか?」
一度缶に口を付けて話したきり動きが止まってしまった。眠いのだろうか。視線は下を向いたままでぼうっとしている。
彩人が彼女の目の前で手を振ると、ようやく顔を上げた。
「だれ?」
少女は口を開いた。
「俺? 俺の名前は彩人だ。フルネームだと『白上彩人』って言うんだけど」
「あ……、や、と」
「ああ、そうだが」
「あ、や……と」
少女はぼうっとしたまま『あやと』という言葉を何度も復唱し続け、だんだんとはっきりとした発音になってくる。
(一体、俺の名前を何回呼ぶのだろうか……)
彼女がその名をはっきりと言えるまで、彩人は彼女を見つめ続ける。
「あやと」
彼女はようやくちゃんと言い終えることができた。そして自分の呟き続けている言葉に突然はっとしたように顔をあげた。
「本当に……あやと……なの?」
彩人が聞いていた呟きはいつしか確認に変わっていた。
(どういうことだ? これじゃまるでこの子は俺を知っているような)
「ああ、確かに俺は彩人だが……もしかして前にも会ったこと――――――」
彼の言葉は途中で遮られた。それは不意に彼の視界の端に今まで無かったものが映ったからであった。彩人の右方数メートル先、ゆらっとした不気味な光が―――
ふいに彩人の目線はそちらへ。
その方向を見た途端、目が大きく見開かれる。
光が眼前に迫っていた。そして迫りきった末に衝撃を生む。
「ぐあっ!」
気付いた時には体は吹き飛ばされ、雪の上に突っ伏していた。空気は氷点下にまで冷やされているというのに彩人は背中に熱を感じた。
(なんだ……。なにが……どうなったんだ……)
思考を張り巡らそうとしても突然のことに頭が追いつかない。
(くそ……寒さのせいで頭がおかしくでもなったのか? そうだ。さっきの、あの子はどこへ行った?)
雪が積もり氷上のように冷たい地面を這いつくばったまま顔を上げる。
暗闇の中の転がっている懐中電灯が少女を照らしていた。彼女は彩人の前方にうずくまる様にして雪の覆った地面の上に寝そべっている。
(なんだったんださっきのは……とにかくあの子を起こしに行かないと)
起き上がって慌てて駆け寄ろうとする。
だが、それを妨げる一声。
「ちょっと待ってもらおうか」
(え?)
彩人は足を止めた。
(誰だ……?)
背後からずぶとい男の声。
彩人はその声に反応して瞬時に後ろを振り向いた。そうして彼はようやく気が付く。
「なんだよ、これ……」
彼の振り返った側は明るくなっていた。
ここは民家も近くにない雑木林の真ん中だ。もちろん電灯も立っていない。だから彩人は懐中電灯を使っていた。だがそれとは別に明かりがある。その光は懐中電灯よりも広範囲を照らしていた。橙色の光がゆらゆらと。
炎がその場を照らしていた。
その明るくなった方向から雪を踏みつける音がする。誰かが彩人たちに向かって近づいてきていることは明らかだった。
だがまだ男の姿は見えない。
懐中電灯は少し離れたところに転がっているため、自分の手元にはなく相手を照らすこともできない。
「だ、誰だ……」
彩人は恐る恐る闇の中に尋ねる。しかし答えは返ってこない。
「誰だって聞いてるんだ!」
彼の声は震えを押さえようとも押さえられなかった。
二回目の質問でようやく答えが返ってくる。
「ふん。そうか。見えていないなら好都合。一般人に危害を加えるつもりはない。言う事を聞けばな」
足音が止まった。炎が彩人の前に確かにいる何者かの姿が浮かびあがる。しかし照らされているのは腰あたりまでで、顔はまだ闇の中で確認できない。
炎。
(そうだ。不審者ってそういえば放火魔とかなんとか。まさかこいつが学校で言っていた……。本当に現れるなんて……)
彩人は放火魔もことを思い出したが、男の目的は放火ではなかった。彼の目的は他にある。
「それを置いてここから立ち去れ」
(それ?)
男は『それ』と言った。だが彩人には男の言った『それ』が何を指しているのかわからなかった。
彩人が理解できないという様子を見かねた男がもう一言添える。
「おまえの向こう側に転がっている『それ』だ、『それ』」
後ろを振り返ってもそこにあるのは、彩人の所持品かお使いで買ってきた商品が散乱しているだけ。元々雑木林に何があるわけでもなく、それら以外に男の指す『それ』など見当たらない。
(まさか……)
だがそれら以外にある。いや、いる。
そこには少女が一人。
(まさか……この子のことだっていうのか?)
だがそれ以外に考えられない。
(なんだ? 少女誘拐? 放火魔?)
「それ……、それ?」
彩人はさっき男の言った言葉をもう一度思い出していた。
(あの娘のことを『それ』と呼んだ……? それに『転がっている』だって?)
声の主はまるでこの少女を人ではなく物のように扱っているようだった。この男の目的は彩人にはさっぱりわからんくとも、絶対に渡してはいけないとうことだけはわかる。
(ひどい……。とにかく何だか危険だ。どうにかして早くこの子を連れて逃げよう……。一気に連れて逃げれば何とかなるか)
彩人はゆっくりと気付かれないように足を反対方向に回したのだが……。
「おい!」
男の声が背後から呼び止めることによって、彩人の動きを静止させる。
「聞こえなかったか? 小僧。もう一度言う」
(あっちからは俺の姿が見えているのか……)
彩人は凍ったように動けない。
「その少女を置いて行け」
先ほどよりも強く、相手を従わせるように、彩人に命令した。
(置いていく。この子を……)
彩人は少女に目を移す。
そして手がガタガタと震えていることに気がつく。
(なに? 俺は一体どういう状況に巻き込まれているんだ?)
頭の中で警告音が鳴り響く。どうしたらよいかわからず次の行動へと移れない。
「遅い、さっさとどけ。でないと消すぞ」
彩人の行動が遅いことに苛立ちを覚えた男はさらに脅しを掛ける。
(消す……だって? 殺す……ってことか? あいつは凶器でも持っているのか?)
もし凶器、たとえばナイフを振りかざされたとして彩人は身を守るものはない。
(傘……)
彩人の足元には傘が一本落ちていた。行きは差していたが、帰りは少女を抱えるため使っていなかった物だ。
(こんなので抵抗できるのか?)
「そうだな。仕方ない、とりあえず見せておこうか」
男の言葉とともに直後、暗闇の中に突如新たな明かりが浮かぶ。
それは橙色にゆらゆらと。
(あれは俺が吹き飛ばされた時に見た……)
男の顔が浮かび上がった。けれどその男はサングラスをしていて顔を隠している。まるで正体を明かさないようにするために。
しかし問題はそこではない。
彩人の目はいっぱいに見開かれていた。
(あいつ……どうやって火をつけやがった……。いやそうじゃない。どうなってやがる……あれは――――――!)
彩人の目線はその男の左手に向いていた。
その左手は異様だった。異常、だった。
「化け……物…………」
彩人は気付いていなかったが、それを見た率直な感想が口からこぼれていた。
「ああ……」
男の方も自身の左手に目を向ける。
「ははは。そうだな」
男は自分の手に火が灯っているというのに何の変哲もないような目で見ている。
「お前達から見れば化け物かもな。どうだ? おもしろいだろ?」
彩人は言葉を返すことができない。
(何なんだ……あれは? 絶対におかしいだろ!)
「ビビッちまったか? それはすまなかったな。さっきのはコイツをおまえの足元に放ったんだ。雪が融けるのは……まあ当たり前か。次はおまえの本体を狙う。だからただでは済まないぞ。もしかしたら灰なら残るかもしれないな。一般人に知られたからには抹殺する。口封じってやつだな」
ははは、と含み笑いをしながら一方的に語りかける。その時でも男の左手は異様さを保ったままだ。
男の左手―――彩人が化け物と称したその左手から火が上がっていた。闇の中で不気味に煌く。いびつな光景。にわかに信じがたい。火が上がっている、もしくは燃えているといった表現のほうがぴったり合うかもしれない。だが手が焼けているわけではない。男は火の暑さもどちらにしてもこの事態が異常なことには変わりはない。
(逃げなくちゃ……そうだ早く逃げないと……。 俺は何をこんなところで立ちすくんでいるんだ!)
とにかく逃げること、それが最優先事項。
(早く逃げないと殺される!)
彩人は慌てて帰る方向―――皆の待つ新代荘―――へ走り出そうとするのが、すぐに止まってしまう。
踏み出した右足だけが前に出ている。
(!)
彩人の前には少女が横たわっている。
(くそ……)
彩人はこの状況をとても恐れていた。夢ではないかとも思っている。早く逃げなければ確実にただでは済まない。声の主は少女を置いていけば危害は加えないと言った。少女をまたいででも逃げる事に専念すれば命は助かる。
(死にたくない……)
帰ったら待ってくれている人がいる。彼らはお腹を空かせて待っている。彼らは今自分がこんな状況に置かれているなんて微塵も考えちゃいないだろう。自分は平和な日常が、ただ何事もなく過ごせればそれだけでよかった。だからこんな状況は不幸以外の何物でもない。明日は月曜日だ。明日から新しい一週間が始まる。普通に学校にだって行く。だから自分が死ぬなんて考えられない。ただ日々を送っていた自分が。
彩人の頭の中でそのようなことがぐるぐると回る。
死にたくない、それは紛れもなく本心だ。
色々な事がぐるぐると。
(それでも)
これから出す決断は彩人にとってよいものになるかどうかわからない。
それでも。
(置いていけるわけがないじゃないか……)
この状況で女の子を一人置いて逃げるなどということは、彩人にはできなかった。
だが、しかし。
(だけど……だからって俺に何ができるって言うんだ)
相手は化け物だ。手から火を出すなどただの人間ではない。
(奴には俺が見えている。いや、あの懐中電灯さえ消せれば……奴からは見えなくなるかもしれない。あれさえ消せたら逃げられるかもしれない)
もちろん少女を連れて。
「ま……待ってくれ……いや、ください……。わかった。俺は今すぐここを立ち去る。だから命だけは助けてください」
必死に救いを求めながら、彩人は男の出方に気を配りながらゆっくりと歩き出す。
「そうだな、まあ大目に見てやろう」
男からの返事に彩人は一先ず安心する。
(よし、このまま懐中電灯を拾い上げてあの子を……)
懐中電灯を拾い上げようと手を伸ばした時、熱風が横を遮った。
「熱っ……」
とっさに庇った腕をどけると空けた空間があった。
もちろんさっきまではこんな風になっていなかったはずだ。
そこには木々が何本も立っていて――――――
今やそこからは煙が立ち上り、積もっていた雪は忽然と姿を消し、残ったのは黒く焦げ炭と化した木々、残り火がところどころにあり、その光景を見えるように照らす。
「あ……あ…ああ……あ………ああ………」
「嘘を付くとは悪い奴だ。俺を見くびりすぎだ。全く、お前の行動などお見通しだよ。所詮、ガキの考えることだ。まあおもしろいから見逃してみただけだけどな」
再び男の手に炎が灯る。
「これでお前の置かれている状況ははっきりとしたか?お前にはもう助かる余地はない」
彩人はもう絶体絶命だった。唯一の逃げる手段―――命の助かる手段は自分の手でつぶしてしまった。
「火葬って、この国もやっていただろう? ちょうどいいな」
彩人はどんどんパニック状態になっていく。
「骨は残る程度の火力にしといてやるさ。あ、でも痕跡は残したらまずいか」
男の言葉は彩人の耳に入っていなかった。それどころではなかった。今の彩人にはもう何を言っても聞こえない。
「跡形もなく消す。それと後ろのそれはたぶん大丈夫だ。お前だけを消す。それは大事な回収物だからな。それまで消し飛ばしたら、俺が今こうして何のために働いているのかわからなくなる」
彩人はもう終わりだと思った。
(俺って何してたっけ? 俺は藍さんにお使いを頼まれ、コンビニ行って、それで帰ってきてるとこだった……よな? どこからおかしくなったんだろう……。 この子と会ってからか? 俺はただこの子を助けようとしただけだ。そしたらいきなり化け物みたいなのが現れて……それで……)
「悪いな、小僧」
口先だけの男の言葉に同情の念。そして男は最後の言葉を彩人に告げる。
「灰になれ」
男は彩人に向かって火を宿した手を振りかざした。
膝は制御できなくなった機械のようにガタガタと震え、避けようとする事すらできなかった。膝をついてただ炎が迫り来る方を向いているだけだった。
橙色の光が彩人の視界を埋め尽くす。白い雪と黒い闇を染めるように。そして夜の銀世界は橙色へと塗り替えられていく。