一章(3) 暖房の効いた部屋で
カチッ……。
カチッ……。
カチッ……。
カチッ……。
ゴーン!
「遅い!」
九時を知らせる。
机に顎をついた若葉が気力を無くしながらも声を張り上げる。
藍、幸祐、若葉の三人は丸机を囲って座っていた。
「まあ仕方ないんじゃない? この時間だとあそこのスーパーは閉まっているだろうし」
あのスーパーとは新代荘から最も近くにあり、藍が常連さんとなっているスーパーマーケット『イトヤスシ』の事である。
「あのスーパーの名前って変だよな」
と、幸祐が藍だけに語りかける。
「あれって、ほら、古語でしょ? 訳すと『とても安い』だよね。まあ古語は変って言えば変だけど」
「そうねー」
藍も幸祐だけに向けて返事を返す。
「あえて、ああしたってことも……」
「かもねー」
藍は爪切りに集中しているためそっけない返事しかしない。
「ねえ?」
と、若葉。まだ机に顎をついている。
「ん? どうした?」
幸祐が疑問で返す。
「何かさっきからさりげなくスルーされてる気がするんだけど………」
「ああ。ちなみに『いとやすし』は訳すと『たいそう簡単』『たいそう安らか』とかいう意味だぞ。値段が『安い』とかの意味はない。その辺に面白みがあると言ったのだが……。」
幸祐はそれ以上言うのは止めた。だからあえて藍だけに話していた。
「へえー…………。ま、まああたしも知っていたのよ。ちょっとボケただけ」
「若葉。あんたちゃんと勉強してる? 来週は学年末テストでしょ? ああ幸祐、ゴミ箱取ってー」
藍が爪を切り終えた。
「藍さん……ゴミ箱そっち側にあるから藍さんの方が近い」
「だって、お腹がすいて力が出なーい」
「全部藍さんののせいだけどね」
「ああ、ちなみにあそこのスーパーは『いとうやすし』さんが経営してる」
「そうなん……って、さっきから話をごちゃごちゃにし――――――」
「で、どうなの? 若葉?」
藍は幸祐の言葉から逃れるように再び若葉に話を振る。
「え?(チッ。うまく逃れたと思ったのに!)」
「前回の後期中間テストだっけ? テストの点数がひどかったわ、全く。せめて一桁はやめなさい」
「なぜそれを?!」
若葉の顎がとうとう机から離れた。
「あなたの部屋にある机の上から右から二つ目の本棚の美術の教科書の間の――――」
「もういい……わかった……」
「あらそう?」
彩人、幸祐、若葉はそれぞれ自分の部屋の鍵を持っているが、新代荘では藍がマスターキーを持っている。
「やっぱりプライバシーの問題とかがあると思うからさ。マスターキーの使用はやめようよ。ね? そうしない?」
「それはできないわよ。洗濯物取りに行かないといけないし」
新代荘の唯一の洗濯機は藍の部屋にある。高校生三人が学校へ行っている間に藍がそれぞれの部屋から洗濯物を回収してきて、まとめて洗うのである。
「むう………」
「洗濯しなくてもいいなら別にいいけど」
「わかった………。そうそう鍵といえばさ。キーホルダーなん――――――」
「で、勉強してるの?」
「くっ(またもかっ!)」
「話を逸らしたところでどうにもならないわよ……」
「部活頑張ってるよ」
若葉は水泳部に所属している。今は冬なので、部活動はほとんどランニングや筋トレなどの基礎体力作りが秋からずっと続いている。
「そんなことわかってるわよ。今はこの場にいな体たらく坊やとは違うから。勉強も大事にしなさいってこと。来年はあんた達も三年生になるんだから。大学行くってことなら無理してでもお金をだすわ。それくらいのことはしてあげる」
藍は一旦話を止め少し考える。
「いや、するわ……たぶん」
「た、『たぶん』が付くのね……。わかった。勉強、少しは頑張ります……」
「一生懸命がんばりなさい」
若葉は答えを返さない。
藍がギロリと目を若葉に向ける。
「わかりました……」
「わかればよろしい」
「……幸祐には何も言わないの?」
さっきから会話に入っていない幸祐はというと畳の上に寝転がっていた。
「呼んだ?」
幸祐がむくっと上半身を起こす。
「幸祐に言う必要があると思う?」
「……」
若葉は口を紡いでしまった。
「えーと何の話?」
幸祐は状況が掴めていない。
「あなたは心配無用ということよ」
「まあいいか。彩人は?」
「まだよ」
「そうか………」
「もう空腹の峠を越えちゃうー」
若葉がパタンと倒れる。
「そういえば勉強って言葉で思い出したけど……」
「あれ幸祐聞いてたの?」
若葉がさっきまでの幸祐に代わり寝転がって言う。
「いやそうじゃないけど。寝てはいないけど、ただ寝転がってぼんやりとはしてた。それで勉強って言葉が何回も聞こえたから」
「ふーん」
と、若葉。
「それより幸祐。何か言いかけようとしていたんじゃないの?」
「そうだった。学校で先生が言っていたんだけど、最近、不審者が出るって」
「ああ言ってた言ってた」
「若葉、気をつけなさいよ。女の子は特に危険だから」
「その事なんだけどそういう不審者じゃないらしい」
「どういう事?」
「ええと……なんか、俺もどこで聞いたかは忘れたけど……放火魔って言っていたような?」
「なんで疑問……こっちが訊いてるんだよー」
「いや確信無いからさ……あ、ああっ!」
幸祐が突然に大声を上げる。藍と若葉は手で耳を押さえる。
「急に一体なんなの?」
「炎で思い出した! なんでこんな単純なことを忘れてたんだ……。鍋を食べる以外の選択肢があったはずなのに。藍さん? 炊飯器。使えるよ、ね?」
「……過去のことよ」
「その開き直りは止めたら? 無駄だと思うよ、お母さん」
ここで三人は心の中で同じことを思っていた。しかし誰もそのことを口には出さなかった。あまりにもこの場にいない少年を不憫に思ったために。