一章(1) 新代荘
新代荘。
形は直方体。屋根はグリーン、外壁はベージュ色の塗装がされたコンクリート壁。というのはこの新代荘が建ってばかりの頃の事である。現在はそれから約二十年が経ってしまい、屋根も壁も色褪せている。住戸は全部で六つ。各住戸には八畳の部屋とトイレ、流し台、風呂が付いている。基本床はフローリングなのだが、中には畳の部屋もある。一階と二階に三部屋ずつ分かれており、それぞれの階の外に廊下がある。二階に上がるには、建物の横に設置された二階の廊下に繋がる階段を使えばよい。
周辺の土地利用は住宅がほとんどではあるが、他に荒地や田、畑、雑木林など。
交通の便があまりよろしくなくて、新築というわけでもないので、おすすめの物件とは言えないだろう。
だがここに住もうと思っても、それは不可能である。
ここは貸間としては使われていないのだ。
現在は家主を除いて三人の高校生が住んでいる。
ただし、居候。
彼らは六住戸ある中でそれぞれ一部屋ずつ使用している。
住居人の状況はこうだ。
この新代荘を道路に面している方から見て、一階の右端『〇〇一号室』は家主――新代 藍の部屋である。他住居人は、一階の中央『〇〇二号室』に新代 若葉、一階の左端『〇〇三』号室に常磐 幸祐、二階の右端『〇〇四号室』に白上 彩人、となっている。ちなみに階段は右側――『〇〇一号室』と『〇〇四号室』の付近にある。
午後八時。
新代荘の全員が『〇〇一号室』(新代藍の部屋)玄関に集合していた。
藍以外の三人とも玄関に立ち止まったままで部屋に上がらず靴をまだ履いている。
玄関はそれほど広くない。三人も居るとなると、とても窮屈だ。しかし、三人はそこから動かなかった。それにはちゃんとした理由がある。
新代荘では各住戸にキッチンはあるが、食事は藍の部屋で取ることが習慣になっている。調理は藍の担当。これはもう何年も続いていることだ。
朝食は毎日七時と決まっており、その時に藍がその日の夕食の時間帯を皆に知らせておくという仕組み。またメニューを知らせることもしばしば。
稀に若葉と幸祐(彩人は部活動に参加していないため除く)は高校の部活で帰りが遅くなることがあるので、そういう場合はあらかじめ朝の時点で伝えておく。
今日の朝、晩御飯は鍋をやろうと伝ええられていた。
そして予定通り彩人、若葉、幸祐の三人は藍の部屋を訪れた。
今日は鍋。
そう。鍋のはずだった……。
「ごめんね、鍋作れないわ」
この日はあらかじめ晩御飯が鍋であると伝えられていた。鍋は新代荘でちょっとリッチなメニューであり、三人は朝からずっと楽しみに夕食の時間が訪れるのを期待して待っていた。
だがこの一言が彼らの期待をぶち壊しにした。
期待をぶち壊しにした張本人―――新代藍。背丈は女性の中でも高い方だろう。すらっとした体型でスタイルも悪くない。光が当たると青黒く見えるさらさらとした黒髪を後ろで紐を使って結んでいる。すっぴん(今日は午前中に鍋の材料の買出しのために化粧をしたが、午後からは化粧を落としている)であるのにも関わらず男性が目を引くこともある。ぴちぴちの二十代はとうに終えたというのに、年齢に比べて若々しい。
また新代荘の家主であり、新代荘において子供三人の母親的な役割を担っている。
藍は両手を合わせてお腹を空かしている高校生たちに謝る。
他三名は唖然としていた。
「あのー、もう一回言ってほしいんだけど……?」
呆けたような口調をするのは白上彩人。髪の毛を染めているわけではない。が、生まれつきの茶色っぽい髪の色をしている。どこかしゃきっとしておらず、ふわふわというか、だらけているというかのような、そんな雰囲気を出している。一言で表せば、だらしない。
聞き間違えたかと藍に再確認する。
「だーかーらー、作れないの」
藍はもう一度、現在の状況を端的に告げる。
「ええっと……じゃあ鍋……というか晩御飯はどうなるのよ?」
藍を問い詰めるように言ったのは新代若葉。やや丸顔気味でいてほがらかさがあり、笑顔の可愛らしいショートヘアーの女の子。高校では水泳部に所属している。
「まあ無理ね」
バッサリと若葉の言葉を切り捨てる。
「無理って……じゃあ今日の晩御飯は何になるの?」
若葉は代わりとなる他のメニューを訊いてみる。
「だからー、無理なの」
藍の言葉が段々とあきれ口調になってきた。
「まさか……。何も作れないってこと?!」
「その通りよ」
藍は期待を裏切られたあげく、空腹の三人を前にしてさらりと告げる。
「そんなぁ……お母さーん」
若葉は希望の途切れと空腹でうなだれてしまった。
ここで未だに冷静に状況を見ていたもう一人の住人が中指で眼鏡を鼻の上に持ち上げて話し出す。
「他の物が作れないというか……カップ麺とか買い置きは?」
冷静な口調で話すのは常磐幸祐。彩人とは正反対で見た目からしてしっかりしていそうで、頭もよさげに見える。見た目だけでなく、彼はその見た目通りの人物だ。高校では陸上部に所属し、勉強の上に運動もできると、彩人とは正反対である。
幸祐はいたって動じていないようで、別の策を探すために尋ねる。
「おお、その手がある」
彩人は内心で、ここはしっかりしていてこういう時に頼りになる幸祐に任せるべきだと判断して、深く会話に割り込まないようにして言葉を繋げるだけだ。
「カップ麺は買い置きして……あるわね……」
そのような藍が希望の光に満ちた言葉を言った途端に、うなだれていた若葉がぱっと顔を上げる。
幸祐と彩人は胸を撫で下ろす。
「でも作れないわよ」
「「「は?」」」
三人は同時にポカンとした顔になった。
(なんでカップ麺が作れないんだ?)
冷静さを保っていた幸祐でさえ驚いているようだった。
「そ、そう! 材料はあるのよー」
右こぶしを左の手のひらに、ポン、とたたき藍が開き直った調子で言う。
「えっ! 材料あるの?」
予想外だ、といったように彩人が応答する。
彩人だけでなく他の二人ともてっきり材料を買い忘れていたから鍋は作れないのだろうと思っていたの だが、どうやらそれが原因ではないらしい。
「……え? ……というか藍さん?」
ここで幸祐が良い点を突く。
「なんで作れないんだ?」
幸祐が根本的な原因について尋ねる。
「それはですねー。ははは」
藍が笑って誤魔化そうとする。
「誤魔化さない」
幸祐はそれを許さない。
藍がむむっ、と眉間にしわを寄せる。
「それはそのー……」
言い出しにくそうにして顔を背けていたが、幸祐に詰め寄られてはどうしようもない。
「とうとう話す時が来てしまったのね……」
藍は真剣な趣を醸し出す。
「今まで隠し続けていた主人公の秘密をとうとう暴露するみたいな言い方はやめて」
そして藍は彼らに白状。
「お湯を沸かせないのだから当たり前だわね。おわかり?」
三人とも再びポカンとしていた。
幸祐が一度深呼吸をしてから続けた。
「えーと……、なぜ?」
「まあガスが止まっているのよ」
「まさかガス管が?」
「いえ、この冬の影響で凍ったとかではないわ。そうね……言い方が悪かったかしら。ガスがとまっている、ではなくて、ガスが止められた、ね」
「……止められた?」
「ガス代払ってなかったから止められちゃったの。ほらこの紙」
そう言ってズボンのポケットから取り出した紙を三人の前に掲示する。
そこにはガスの差し止めのことがしっかりと書かれていた。
つまり今日一日中ガスを使うことができない、ということを意味する。
「藍さんのせいか!」
「ごめんねっ」
ねっ、と藍は可愛らしく言ったつもりなのだろうが、他三名にとってそれはただの挑発みたいなような もので彼らの怒りを買うだけだった。
さしもの冷静沈着な幸祐も藍の態度に少し怒りを感じてきているようで、肩がプルプルと震えている。 幸祐の頭で、プツンと何かが切れる音がして、ただならぬ気配が体を包み込む。
(あ、切れるかも)
幸祐が怒りを他人に見せることはめったにあることではない。そんな幸祐は藍にはよく怒りを見せる。 今までに何度とか藍の挑発的な態度に踊らされてきている。幸祐が藍と言い争った場合幸祐には勝ち目はないだろう。幸祐は藍をそれだけ苦手としている。
しかし幸祐も軽く挑発に惑わされないように、こみ上げる怒りを無理やり押さえ込んだ。
(おお、押さえ込んだか)
彩人はそんな風に幸祐に感心していた。
幸祐がふぅー、と息を吐く。
あきれてしまったようで難しい顔になる。
とうとう黙りこくってしまった。
幸祐はこのまま藍と話を続けるといつかは絶対に取り乱してしまうと思って一時退却する。
選手後退、常磐幸祐に代わりまして白上彩人。
「で、どうなんの? これから。もしかして今日の夕食は断食?!」
彩人は幸祐の様子を見かねて代わりに言う。
このまま食わずじまいで今日を終えられない。
「責任はちゃんと取ってくれよー。なんとかして」
しかし返事は……。
「まあ彩人も大胆ね。責任なんて。そういうことを言う年ごろなのかしら」
藍は幸祐と話していた時と全く態度を変えず、反省の色が見えない。
彩人はこの手の挑発には引っかからずただ、この人は相変わらず面倒くさい人だ、と思ったのだが口には出さないようにしている。
「まあ……そう……ね。ふーむ」
藍は目を閉じて考えた。
「あっ……。あった」
「「「おお!」」」
彼らはどうせありはしないと既に試合放棄のように諦めていたのが、答えは彼らの考えとは反していたので歓声をあげる。
藍の返事を聞いて、唸っていた幸祐の肩がピクッと動き、若葉と彩人も目を見開いて藍を凝視した。
「しばし待たれよ」
藍はそう言って部屋の押入れの前へと向かう。
他三名は靴を脱ぎその後を追う。
辿り着いた先は押入れの前。
各部屋に一つずつある収納スペースだ。
そして襖を開けて押入れの中をガサガサと漁りだし、中の物を取り出していく。
押入れの中から色々な物が次々と湧いて出てくる。
わんさか、わんさか。
まるで温泉を掘り当てた時噴水みたいに出てくるお湯のようだ。
一体押入れにどれだけの物を詰め込んでいるんだ、という意見で三人は一致しているだろう。
若葉がその一つを取り上げる。
「何これ……美容薬品」
それを見た幸祐も一つを取り上げる。
「こっちはダイエット関連だ」
彼らが手に取った以外にも湧き出てきた物はダイエット器具や美容食品が多くを占めていた。
新事実だった。藍が三人に秘密にしていたことを暴露。
「藍さん。こんな物必要?」
彩人は美容薬品を持ちながら、押入れの下の段に上半身を突っ込み四つん這い状態の藍に尋ねた。
すると藍がニョキニョキと後ろに下がってきて、彩人の方を見る。
「どういうことかしら?」
「いや、藍さんって綺麗な方じゃないかと思うし……。」
藍は高校生の彼らの倍はすでにある年齢にして、見た目は二十代と判断してしまいそうな若さである。
「だからこういう物は使う必要がないかなーって……」
「うれしいこと言ってくれるじゃない。でもね、それを保つにはやはり頼らざるを得ないの。わかる? 最近はまたお肉が付いてきちゃったみたいだしねー」
お腹辺りのお肉を摘んで悲しげな顔をする。
「家でぐうたらしているからじゃ……」
「あ? なんか言った? 若葉」
「言ってない! 言ってない! ごめんなさい! 何も言ってません!」
もう何か失礼な発言をしたということを白状していることがまるわかりであった。
「……まあいいわ。で、さっき彩人、うれしいこと言ってくれなかった? 綺麗だって。でもね、それを 保つにはやはり頼らざるを得ないの。わかる? 最近はまたお肉が付いてきちゃったみたいだしねー」
「そうですか……」
「いいこと言ったお礼に美顔スマイルを差し上げよう」
そう言って藍は彩人に向かってはにかんでみせる。
(……)
彩人は目を逸らした。決して面と向かったために恥ずかしくなったわけではない。彼は呆れ顔だ。
「そこ。そっぽ向かない」
(何もうれしいことはありゃしない。お礼だったらもう、こうちょっといいもの欲しいよな。今欲しい物って言ったら特に……。)
「やっぱりお小遣いってもらえませんかねー」
彩人は手をこねこねしながら駄目もとで頼んでみる。
彼らはお小遣を貰っていない、いや貰えないという表現の方が正しいだろう。新代荘の家計は少しも裕福ではない。現にガスが止められてしまっている。しかしこれは悪魔でも藍のミスが原因である。そのことを考慮しなくとも新代荘では藍が一人で彩人、若葉、幸祐の三人分の食費、はたまた学費までも支払っていることから察しが付く。これらの莫大な費用は全て貯蓄をすり減らしながら賄ってきた。つまり数年前までは莫大な貯蓄があったことになる。現在の藍の仕事はパートタイムのアルバイトだ。それほど給料が高いわけでもなく、生活費として消えてゆく。
「彩人? この世には不可能なことだってあるのよ。そしてこれが当てはまってしまうの。だからいい加 減に諦めなさい。叶わぬ幻想は抱くものではないわ」
思っていた通りの返答だった。
「そうそうお小遣いちょうだーい」
お小遣いというワードに引かれて若葉が話に乗っかる。
「さっき言ったことを聞いてなかったの? そんな余裕はないわ」
「じゃあこれらはどういうことよ!」
ビシッ、と若葉が床一面に置かれた藍の私物を指差す。
「それは…………」
藍は一瞬戸惑い。
「生活費よ!」
「どこがよ! どう見たって嗜好品じゃない!」
「うっ……………」
藍が押され気味で一歩後ずさりする。このようなことは滅多にない。
「金が欲しかったら働きなさい」
「高校はバイト禁止なの!」
「つまり学校はバイトをしないで学業または部活動に熱心に勤めよと。どっかの誰かさんは勤めていないけど。すなわちあなた達には必要ないってことね」
「けちっ!」
藍は口笛を吹いている。
それに異議があった彩人だが。
「でも藍さん、お……うっ!」
「それ以上言わない」
(いやまだ何も言ってないだろ!)
藍は彩人が話し出した途端に手が既に動いていた。
彩人は口ごもる。言葉が詰まっているのは藍の右手が口をわしづかみに押さえているからだ。
「ふんっ。何を言ったって無駄よ」
(目つきが怖い!)
「わかった?」
藍はさっきの目つきと一変。笑顔だ。ただし、その笑みも恐ろしさがあった。
彩人は首を縦に振る。
「よろしい」
藍は手を放して彩人を解放する。
(口止めだ……)
彩人はこれ以上の発言は身の危険がありそうなので、黙りこくる。
藍は少しも意思を曲げなかった。
高校生には欲しいものだってたくさんあるだろう。学校の友達とどこかへ遊びに行きたいだろう。
しかし、実質、彼らはあまり文句を言える立場ではないのだ。彼らはあくまでも居候だから……。
「で、何か見つかった?」
何を言っても藍には利かないと分かっていた幸祐が話しを本題に戻す。
冷静さを取り戻したようだ。
「ああそうだったわね。一応見つかったことには見つかったわ」
藍は再び押入れに潜り、探し物を中から取り出してきた。
「これよ」
藍が両手で抱えだしてきたもの――――――カセットコンロだった。
そのカセットコンロはけっこう古いもので周りの塗装が剥げており、実際に使ったことがあったかどうかも定かであった。
「こういう物があったとは……。これでキッチンのガスコンロの代用ができるな」
幸祐も一安心といった感じだ。
「さあさっそく作ろう」
「ようやく飯かー」
「もうお腹ペコペコー」
そのまま彼らは部屋の中央に置かれた丸机に向かい腰を下ろす。
が。
「そういうわけにもいかないのよねー」
いい流れだったはずが、藍の言葉がせき止める。
「まだ何か?」
彼らはいい加減呆れていて、聞き返す言葉も適当になってきている。
その原因は藍自身にもあると言える。というか藍の言動にあると言ってもいい。
彼らの空腹は頂点に達しようとしていたため、頭には早く夕食にありつきたいという思考しかなかった。
「またもや同じ壁に阻まれた」
藍は困ったなー、と繭を顰めながら言った。
「まさか……」
最初に理解したのは幸祐だった。彩人と若葉は「何? どういうこと?」ときょろきょろ幸祐と藍に目を移していた。
「無いのか……」
幸祐の言葉で取り残されていた二人もようやく理解する。
「その通り………」
室内の空気が重くなっていく。
「『ガス』が」
「それはどういう……」
「だからガスボンベが無いってことだよ。ガスボンベが無ければカセットコンロが使えるわけが無いだろう?」
「そんな……………」
「マジかよ………」
若葉はテーブルにうつ伏せになり、彩人は椅子に大きくもたれかかる。
「もういやー、お腹すいたー」
子供が母親に駄々をこねる時のように若葉が手足をジタバタさせる、が、エネルギー不足の為にすぐ力尽きてしまう。
「あなた達! 諦めたくはないわよね?」
「どうせできないじゃない!」
「まあ、どうにかする」
「どうやって?」
「……何とか」
さしもの藍も責任を感じているらしかった。先ほどのふざけた態度を改めて、やや真剣みになっている。
「そうねー何とかなると言えばなんとかなる……かな。それには一人の尊い犠牲が必要なってしまうけど」
「どういうこと?」
「それは―――――――」
■□■□■
彩人は一度自分の部屋に戻り、ニット帽、マフラー、ジャケットのアイテムに、三枚着―――一番下はシャツ、中間はスウェット、一番外側には黒のダウンジャケット―――という完全装備身になり、右手に傘を持って藍の部屋に再び来ていた。
そして玄関で靴紐を縛りなおしている時に。
「頑張ってね。彩人………」
ハンカチで涙を拭う仕草をし、肩が震えている藍より(涙は流してはいない。そのかわりに笑いを堪えている)。
「いってらっしゃい」
かわいそうに、と若葉より。
「達者でな」
頑張ってこいよ、と幸祐より。
「……」
対する彩人は無言で立ち上がる。
「ああ、これお金ね」
さっきまで涙を拭う振りをしていた藍は手に持っていたものを彩人に差し出す。
そのまま、彩人は藍が手に持っていた物を手渡された。
彩人はドアノブに手を掛ける。
「くそぅ……なんで俺が……。じゃあ……行ってきます……」
その時の彩人の顔は実に悲しそうだった。
さあ扉の向こうは銀世界だ。