前編(1) 果たせなかった決意
ドンドン、とノックする音でドアが来客を知らせる。
新代荘『〇〇三号室』の住人―――常磐幸祐はノートの上で忙しく動かしていた手を一旦止め、ペンを置く。
時計を見ると午後九時。
新代荘の住人、計五人(つい先日に新しい住人を迎えた)で五日間カップ麺生活を始めてから四日目となる夕食を終えてから二時間ほどが経った時だった。
幸祐は玄関の方へ向かい、チェーンの鍵と回転式の鍵の両方を解除してドアを開ける。
「ごめん。勉強中だったよね?」
来客は両手を交差するように違う方の腕を掴み、身を小さくしながら白い息を吐く。
「若葉だったか。寒いだろ? まあ、とりあえず上がりなよ」
来客は新代荘『〇〇二号室』の住人である新代若葉。
艶やかな黒髪のショートヘア。丸顔気味で朗らかな印象を感じさせる幸祐と同い年の元気いっぱいの高校生である。
もう冬も終盤にかかる二月下旬、冬のラストスパートをするかのごとく先週から雪が降り出し、今週は一時止みかけていたが再び大雪を降らせようとしていた。そのため、ここのところ気温の低下が激しく外に長時間いようと思う者はそうはいまい。
若葉の部屋は幸祐の部屋の隣にあるとはいえ、一度でも外へ出れば体は冷えてしまうことやむを得ない。
だから幸祐は若葉をすぐにでも室内に入れさせてやる。
室内には電気ストーブが一台。これがこの部屋にある唯一の暖房器具である。エアコンなどといった先端のものは新代荘には無縁のもので、ストーブ一つで毎年冬を乗り越える。
「あー、さむいー」
若葉は幸祐の部屋へ入るやいなやストーブの前を陣取る。
彼女の後につづいて室内に戻った幸祐は椅子に座る。
「で、どうした?」
幸祐は他人の部屋で十分にくつろいでいる若葉に尋ねる。
新代荘では食事を大家である新代若葉の部屋『〇〇一号室』に住人が全員集まって一緒にとることになっている。夕食を終えた後、各自は自分の部屋へと戻り、もうそのまま就寝まで自分の部屋で時間を過ごすというのが一般的である。『〇〇一号室』には他の部屋にはないテレビがあるので、それを見るために夕食を終えた後もその場に留まり続けるということもある。
来週には高校の学年末の試験を控えているため、最近は後者が多い。
以上のことにより、夕食を終えてから他人の部屋を訪問するというのは珍しいことであった。
若葉はストーブと向かい合わせになるのをやめて、座りながら回れ右を行い、背をストーブに向ける。
「部活のことなんだけどさー」と話出す。
彼らの通っている帆布南高校では試験が近づくと一部を除いて部活の活動を一時休む。幸祐は陸上部、若葉は水泳部に所属しており、両方ともその例外に含まれる。
「靴がちょっと、もう変え時かなーって最近思ったりするの」
水泳部が実際に水泳をする期間は、春の終わりから秋の初めにかけてであり、今のような冬の季節では体作りとしてジョギングや筋トレなどを行っている。泳げないからといって冬の間に運動しないわけにもいかないからである。
「水泳部って大変だよな、ホント。泳ぐのが趣旨のはずなのに。こんな雪の降っている寒い中走ってんだから」
幸祐は指先でペンを器用に扱いクルクルと回しながら言う。
「それは幸祐の方も同じじゃん。陸上部は年中無休です、って感じじゃない? 雨にも負けず、風にも負けず」
「まあそれは仕方ないことさ。それより用件は靴、だっけ?」
「うん。走っていたら靴がけっこう痛んじゃって、それで幸祐に新しい靴を見てもらおうかと思って」
「それだったら明日見に行くか? 雪がまたけっこう積もっちゃったから明日は部活無しだろうし。それにちょっとした息抜きになるだろうから」
机の上に広げていた教科書やノートを閉じる。
「あたしの方も無いよ」
「じゃあ決まりだな。明日の放課後に昇降口前ということで」
「りょーかい」
「ってか、夕食の時に言ってくれればよかったんじゃないか? わざわざ外に出るとか」
幸祐はやれやれと思う。
言うのを忘れてたんだよー、とそれに若葉は言い返す。
「じゃあ、また明日ね。おやすみー」
ストーブに張り付いていた若葉は離れた。
「ん、おやすみ」
約束を交わして今日を終える。
■□■□■
翌日の放課後。
教室でいち早くホームルームを終えた幸祐は、昨日の若葉との約束どおり昇降口前で待機する。
今日も雪は降っている。昇降口からぞろぞろと出て行く生徒たちは、制服の上に何かしらの寒さ対策を施しており、朝に使ったときから乾ききっていない傘を各々傘たてから抜き取っていく。傘を差して昇降口から出て行った生徒は五メートルも離れたところで、もうしんしんと降る雪のシャワーの中へと姿が隠れてしまう。
それを見た幸祐は買い物に出かける天気ではないなあ、と嘆いていた。雪が降っては積もる外の景色を眺めていると、新しく新代荘に加わった住人を連想させる。
もう一週間が経ちそうな、今週の日曜日のことだ。
その日の夕食は鍋という、新代荘ではちょっとリッチな夕食を予定されていた(その分、それから平日の五日間で夕食はカップ麺で過ごせ、という宣告がなされた)のだった。
だがその日、新代荘の家主である新代藍が、ガス代の滞納によりガスを止められてしまっていたために、ガスコンロを使うためのガスボンベを極寒の夜に買い行かされる罰ゲーム的な展開に発展した。その罰ゲームを受けるのは公平にじゃんけんで決めることになり、同じく新代荘に住む『〇〇四号室』の住人―――白上彩人があっさりと負けてくくれたおかげで、幸祐は暖房の聞いた室内から出ないで済んだ。勝ち組の幸祐、若葉、藍はお腹を空かせながら彩人の帰りを待っていると、あろうことか彩人はどこから連れてきたのかもわからない少女を連れて帰宅したのだった。
彼女の名前はルネ。
今、幸祐が昇降口から眺めることができる白銀の世界のように、また彼女の髪も雪のような色をしていて、肌もとても白かった。
ルネが彩人に連れてこられた時、容体がひどかった。氷のように体は冷え切って、格好が寒さを防ぎきれるとは到底思えないようなもので、彩人が新代荘を出る前に来ていた上着を彼女に羽織らせていた。
彼女は新代荘に連れてこられた次の日には普通にもう体調も取り戻していた。
幸祐はそれを見て正直驚いた。
「これで五人目か……」
ルネは記憶喪失だった。自分の名前すらも思い出すことができないほどで、ルネという名前は彩人が知っていた? 付けた? そこのところは曖昧だ。だが彼女もそれを気に入っているようでそのままルネと名乗っている。
そんな記憶喪失のルネは記憶がないために行く当てもないので、新代荘で共に暮らすことになった。
彼女は幸祐たちとはちょっとばかし常識や知識にズレがあり、そこら辺のフォローは隣の部屋に住む彩人に任されている。
(ルネも色々と問題を抱えているよだが、彩人がうまくやっているようだな……彩人と似通った部分があったからだろうか?)
幸祐が昇降口から学校の中へと首を回すと、ごめーん、と言って手を振ってくる女子が一人目に映った。
「ホームルーム長引いちゃってさー」
若葉が手を合わせて誤るのを、幸祐はとくに気にしていないという素振りで、いいよいいよ、と言葉を返す。
「けっこう降っちゃてるよね……朝よりも強くなってない?」
「ああ、また積もりそうだな。どうする? 俺は別に構わないんだけど、若葉はどうしたい? 若葉が行く、って言うなら俺も付いて行くけど」
「うーん……」
「まあ来週はテストだから風邪を引いたら元も子もないからやめとくか?」
「でも幸祐の都合の無い日って今日ぐらいだよね?」
「ん……まあ……そうだが」
幸祐の所属している陸上部は休みが他の部活に対して極端に少ないので、なかなか都合を合わせることができない。
「なら、もう今日で用事は済ましちゃおう。勉強もそれなりにしないといけないから、用事が済んだらすぐに帰るという方針で」
「藍さんに言われてるからな」
「う……。いいよねー、幸祐は私とは出来が違うっていうか、幸祐が周りから飛び抜けているというか」
幸祐の学力は学年でも五本の指に入るほどだ。
「それを維持するために努力もちゃんとしてるんだぞ?」
「維持できているのがすごいんだよ……って立ち話してないで早く行こっ!」
若葉は先導して傘たてから瞬時に自分の傘を発見して抜き取る。幸祐も傘を手に取り、昇降口の外へと出て行く。
幸祐らが住んでいるのは色見という地域の中でも帆布という地区に当てはまる。さらに細かく言うと帆布の中でも南より。
彼らが通っている学校は帆布南高校。新代荘から最も近くにある(徒歩二十五分)進学校である。今から向かおうとしているのは様々な店が連なる帆布南の中心部といったところだろうか、そこに色々と店がある。学校から東に向かうとそこに着くことができる。逆に西に向かって進むと、住宅街があり、川が流れて端を渡り、さらに行くと新代荘に着くことができる。つまりは帰路であり、今から行こうとしているのは寄り道というより、学校よりさらに新代荘から離れてしまう。
雪を踏み鳴らしながら二人は横に並んで歩いていく。
「靴っていうとスニーカーでいいのか?」
傘を少し傾けて幸祐は若葉の方を見ると、彼女の方も同じように傘を傾けてやや見上げるような形になる。
「うん、そうだね。幸祐が持ってる本格的な陸上用の靴なんかじゃなくていいからとにかく運動に向いていて走りやすかったらなんでも、かな?」
「だとするとスポーツ専門店じゃなくても、テナントのあそこでいいか……」
目的の店が決まった。
幸祐が行こうとしているのは、一階は食品が中心で二回に様々なテナントを構えている大型スーパーマーケットである。そのテナントの一つにスポーツ用品を取り扱っているところがある。幸祐は自身の部活用のシューズはいつもスポーツ用品の店舗で買っているのだが、今回の場合はそこで十分だろう、と思った。
二人は目的地に到着すると自動ドアを通り店内へと入る。
店内は暖房が効いているので暖かい。外とは別空間のようだ。
エスカレーターを使って二階に上がり、黒と白のシンプルな看板を見つけ、開放的になっているテナントへと入っていく。
ここは一応色々なスポーツの商品を扱ってはいるが、やはり本格的な人のための用品を探すとなると品の少なさを感じざるを得ない。
靴の陳列された棚の前へと並ぶ。靴は運動をするのにかかせないものなので、品揃えはまだ揃っている方だった。
「いろいろあるねー」
陳列棚にはカラーのバリエーションが五色あるどれも明るい色のスニーカーが一番目立っている。その隣にはシンプルな白色も。
「どれがいいかな?」
若葉がおススメを尋ねる。
「そうだなー、若葉は見た目はあまり気にしなくてもいいよな? こういうカラフルなものとかには惹かれたりはしない?」
「うん。別にカラフルだとなんか……んー、ビシッとしないって言うか部活でカラフルな靴を履くのはあたしのイメージでは似合わないというかなんというか」
オシャレ目的とかではないので、若葉はカラー付きのものには興味がない、と言ったようであった。
「やっぱりどれが合うかが重要だもんな。靴連れとか起こすといけないからやっぱりそこは実際に履いてみて試すしかないなー。これなんかどうだろう?」
幸祐は棚から白色のスニーカーを取って若葉に渡す。
「わかった。履いてみる」
「どうだ?」
足は靴に入った。問題は足に合っているかどうかだ。
「いまいちわからない……」
「まあ確かにわかり辛いか。いくつか試してみて、これだ! と思う靴を選べばいいと思うよ、若葉」
幸祐が棚を見渡したところ、十種類は超えているようだ。
「高いところにあるやつは取ってやるから言ってくれ」
「うん。あたしはひたすら試しまくるから幸祐はその辺ふらーっとしていても大丈夫だよ。あたしが靴を履き替えているのを見ても幸祐、詰まんないでしょ?」
「そうか……じゃあなにかあったら呼んでくれよ」
「りょーかいりょーかい」
幸祐は若葉と一時別れ、テナントから出る。
(店の中を一周でもするか)
スポーツ用品のテナントの周囲はファッションのエリアで紳士服や婦人服、子供服が並んでいる。そこから離れると飲食店が連なっている一角があったり、小規模なゲームセンターがあったりと本当に色々。
幸祐は現在持ち合わせの金は無いのでちょっと立ち寄るといったようなことができない。理由は新代荘ではお小遣いがもらえないからである。
彼らはそれぞれがとある事情を抱えていて新代荘に住み着いているのでそこのところは彼らも我慢している。
ただ先日に藍の無駄遣い疑惑(物的証拠アリ)が起こったので彼らの小デモが勃発した。それを藍はそ知らぬ顔で受け流そうとしていたが。
さすがに一回までふらつくと遅くなってしまうので、下の階には下りない。
幸祐はエスカレーターを通り過ぎる。
そろそろ戻るか、と思い立ったその時。
ジリリリリリリリリリリリリリリィ!
「な、なんだ?!」
突然に店内の火災警報器が鳴り出した。
店内にはいくつも設置されているため、合唱をしているかのごとくあちこちから警報音が鳴り響く。警報音の合唱は聞いていて不愉快だ。そして不安を煽る。
(誤作動……なんてことはないよな。とりあえず若葉のところに!)
幸祐は足を急がせる。
ドカン、と爆発音のような音が幸祐の耳に入る。
その音に体がビクッ、と一瞬硬直してしまう。
(ガス管が爆発でもしたんだろうか?)
爆音は飲食店が連なる方から聞こえた。ガスが漏れていないとは否定することはできない。
幸祐は店内を右に曲がり左に曲がりとくねくね店内を駆け巡って若葉の元へと急ぐ。
煙は幸祐の足の速さを上回っていた。走っている間に天井には黒々とした煙が這い回っている。
「煙くなってきたな……」
裾で鼻と口を押さえる。
視界はどんどん霧がかかったようにもやもやとなっていく。
「おい! 若葉」
幸祐は名前を叫ぶ。これだけの騒ぎだ、もう非難しているという可能性も考えられた。しかし、万が一まだ若葉があの場にいるとしたら駆けつけずにはいられない。
「幸祐!」
煙ではっきりとは見えないが幸祐の名を呼ぶ人物は前方に確かにいる。
幸祐はそれがわかると陸上部で鍛えあげたその足を速める。
「今そっちに行くぞ!」
幸祐にとっては若葉との距離などほんの数秒で詰めることができる。なにせ走ることが専門の陸上部。だからすぐにでも若葉に手は届く。
届く。
幸祐の手ではなく炎が。
「若葉!」
幸祐の目の前が炎に包まれる。
危うく炎に突っ込んでしまいそうになり、急ブレーキをかける。
陳列棚に並べられた商品は炎でラッピングされたようになっている。若葉の立っていたであ
ろうその場所も。
「そん……な、若葉……」
彼の瞳に写るのはゆらゆらと揺れる炎だけ。彼女がいるはその向こうだ。
迷ってなんかいられるか。
そう幸祐は思うと炎の中へと突入する。
皮膚にジリジリと刺激が走る。やすりで体の表面をこすり付けられるような痛みが幸祐の体
を這う。
「ぐっ」
それでも幸祐は彼女の元へと駆けつけえなければならない。
未だ忘れぬかつてのあの決意を胸に。
橙色の塊の向こう側に若葉はいた。
彼女はぐったりとして床に寝そべり、周囲を炎に囲まれている。
「若葉!」
幸祐は彼女の体を起こして、名前を呼ぶが返事は返ってこない。
体中に汗を掻き、顔からは明らかな苦痛が窺える。先ほどの迫り来た炎によって火傷をおっ
ていると考えられた。
「おい! 起きろ!」
幸祐は諦めずに何度も呼ぶが結果は変わらない。彼女は完全に意識を失っていた。
(駄目だ。焦るな。落ち着け。冷静に行動しろ)
店内に満ちた熱気が彼の集中力と冷静さをかき乱す。
暖房が効いていた時の室温とは比べ物にならないほど今の店内は灼熱地獄と化してしまって
いる。
(早く非難を……)
さっきより視界が悪くなっている。煙の密度が濃さを増し続けている。それだけでない視界が悪くなっている要因は他にもある。
(目がぼやっとしてきてる……。まずい、この場から速く脱出しないと。このままだと、
俺もぶっ倒れてしまうわけにはいかない!)
バリン、とガラスの割れる音が炸裂する。下からは炎が上を目指して伸びていき、上からは煙が下に向かって舞い降りる。
「ごほっごほっ!」
幸祐の肺へ黒煙が流れ込もうとするのを、口を摘むいでせき止めようとするが、それも完全ではない。少なからずは吸い込んでしまう。
辺りは異臭が漂う。色々なものが焼け、そして溶けたりして発生したものだ。ここらは服やスポーツ用品の売り場。原料は石油やゴムのものが多い。
(早く若葉を連れて……)
意識がやや朦朧とする幸祐の耳にも確かにその尾路は届いた。
轟!
まさしく炎が獰猛な獣のように荒ぶれる音だ。
幸祐にはわかる。
それは確実にこちらへ迫ってきていると。
苦し表情から切羽詰った表情へと豹変し、若葉を抱えて一番近くにある高い陳列棚の後ろへと飛ぶ。
直後、幸祐の予感どおり炎が熱風を従えて激流のごとく押寄せた。陳列棚が壁となり炎を防ぐ役割をするが、棚に預けていた幸祐の背は熱をじかに感じ取る。
「いっ……」
若葉は幸祐の胸に抱え込んでいるので被害は無い。
一体なぜだ? と思って後ろに目をやると、その棚は一枚の板で両側を完全に仕切られておらず、吹き抜けとなった棚に商品が並べられているだけだった。そのため炎の側と幸祐たちの側とでは隙間が空いていて、そこから炎が漏れ出ていた。
「はあ……はあ……」
何度かの炎にさらされ幸祐は体力を根こそぎ持っていかれた。逃げることもこのままでは困難な状況だ。
消防隊の救助はまだやってこない。
焦りと共に彼は引っかかることがあった。
(どうなっているんだ?)
頭に疑問が浮かぶ。どう考えても、この状況に陥っていることの不可解さが気にかかる。
(どうして炎があんな勢いで襲ってくるんだ? ありえない。おかしい。それに、あの炎はまっすぐに俺と若葉に向かって一直線で迫ってきていた。まるで俺たちを狙って襲い掛かるような……)
「そこにいるのか? 小僧」
幸祐は思わず震え上がる。
ここまで救助をするために駆けつけてくれた消防士と判断するのが当然だろうが、違うと判断する。
聞こえた声は人を助けるために動いている人の声ではない。全くの逆。恨みや怒り。そんなものに満ち溢れた他人に危害を加える人の声。トーンからして男。
「今度こそ、焼き尽くしてやる」
棚の反対側にいると思われるその男はそう告げた。
(焼き尽くす?)
焼き尽くす。
つまり、この火災はその男が起こしたということだ。そして、間違いなく幸祐たちを狙っているということ。
幸祐は無我夢中で若葉を抱えつつ棚から離れる。
男の宣言どおり炎が彼らのいた場所をピンポイントで襲った。天井近くまである陳列棚は一瞬で火達磨となる。その後、棚は高熱の炎で溶かされてバランスを崩し、豪快な音を立てて倒れる。
壁となっていた棚が倒れたことで二つの空間を隔てるものはなくなった。それに伴って幸祐と若葉、声の主である男が互いに相手の姿を見る。
「……誰だ?」
幸祐は男に尋ねる。
その男はあちらこちらに炎が上がり、煙が充満しているというのに平気だとでも言うのだろうか。その場に堂々と立っている。
「チッ、はずれか」
男は唾を吐き捨てるように舌打ちをする。彼が掛けている黒いサングラスに赤い灯火が揺れるのが反射している。
「どこへ行ったあああ!」
天井に向かって遠くまで聞こえるくらいに叫ぶ。
「あのガキ共が!」
目もくられていない幸祐はその男の様子を見ていた。
この男に助けても無駄。むしろ何をされるかわからない。
明らかな悪人面をしている男は叫び声に誰も返さないことに怒り、呆れた。そしてその悪人面は幸祐たちに向けられる。
「―――!」
幸祐の顔が青くなる。
男はまるで八つ当たりをするにはいい標的見定めたかのように、口元に不敵な笑みを浮かべる。そして手を天井に向かって上げる。
(なんだ……一体、なにをするつもりなんだ?)
高く上げられた手は開花のように広げられる。そしてその一点から明るい光が放たれる。それは橙色の混ざった光。
幸祐、若葉、男の周囲に展開されているそれと同じもの。
炎。
男は空っぽだった手に炎を灯す。
ありえない光景。
幸祐には手に直接着火したように見えた。意識が朦朧としていたのがその光景によって目は見開かれ、鮮明さを取り戻す。
「なにを……」
幸祐が尋ねる前に大きさを増した炎を灯している手を振り下ろす。
「そこの君たち、早く逃げろ!」
振り下ろされる直前にこの場から少し離れた場所から叫ぶ声が聞こえた。それは幸祐と若葉に向けられたものだろう。しかし、もう間に合わない。
お前が俺を絶望のどん底から救い上げてくれたように、俺はお前を救うためになんとしてでも守り続けてやる。
昔に誓った言葉。
それは決意した時から揺るがない。
―――今だって。