四章(10) その少年と彼女の名は―――
勝てない……。
諦めたい。
いや、そんあバカなことがあるわけが無い!
痛みに負けそうになり、そんな情けない感情が生まれる。そのようなことを思ってしまう自分が憎たらしい。
体に力が入らない。体中が痛い。
負けたくない。ルネを守りたい。なのに……。
このまま諦めてしまうような自分が許せない。
彼女の名前を叫んでも届くことは無い。
このままではルネが死ぬ。
いやだ!
そんなことさせてたまるか!
だけどそれができない!
体が言うことを聞いてくれない。
ルネが殺される。
ルネが殺されれば次は俺の番だ。
結局、俺も殺されることになる。
もう。
どうしていいかわからない。
俺は無力だ。
それは元からわかりきっていたことだ。
どうすることもできない。
ちっぽけな一人の少年。
真っ白で何も持っていないただの少年。
俺は頑張ったんじゃないか?
いいじゃないか、これが俺なんだよ。
もう、いいじゃないか、どうだって。
闇に引き釣り込まれていく。
止まらない。
このまま行けば楽になれる。
現実から目を離す。
満たされる、白とは違う黒い無に。
「彩人」
しかし、ある少年の名を呼ぶ声によって暗くなっていく世界は突然明るくなった。
そしてそこは銀色の世界に。
(なんだ?)
誰かが彩人の名前を呼んだ。彼はなぜだか懐かしさを感じる。
どこから聞こえたのかはわからない。まだ幼い、少女の声だ。
(誰だろうか?)
今、彼が見ているのはある一つの物語。
その物語にはまだ幼い、白色の少年と銀色の少女が登場する。
「るねあーじぇ……」
少年は困った表情で少女と向かい合う。
「ちがう、ちがう」
少女は少年を注意する。
もう一回言うよ、と言って年下の子に何かを教えるような口ぶりで。
「ルネ・アージェント・ネージュ」
美しい銀色の髪をした少女はそう言った。
「おれ、バカだからさ。そんなに長い名前は覚えられないよ」
少年は情け無い声を漏らす。
すると少女は少し考えて。
「じゃあ、『ルネ』。ルネって呼んで」
彼女は自分の名前をそのように呼んだ。
(これは一体……それにこの女の子は)
彩人の知っている銀色の少女よりずっと幼く見えるその女の子は、とても美しい雪のような白い肌をしている。彼の知っている人とよく似ている。
(まさか……ルネ?)
「わかったよ。じゃあルネって呼ぶことにする。それなら俺も覚えられるよ」
少年は少女に背顔を見せる。
(それにこっちの少年はまさか……)
「ルネはあなたのことを――――――」
彩人。
「――――――って呼ぶね」
少女も一緒に笑った。
(どういうことなんだ……これは……!)
彩人にはさっぱりわからない。
今見ているこの光景が一体なんなのかわからない。
白色の少年は銀色の少女のことを『ルネ』と呼んだ。
対して。
銀色の少女は白色の少年のことを『彩人』と呼んだ。
(これは……俺なのか?)
その少年はまだ幼い。おそらく小学生ぐらいだ。
(おかしい。だって俺は――――――記憶が無いんだぞ?)
八年前に白色に囲まれた病院の一室で目を覚ましたのが最も古い記憶だ。
それに彼はこの少女と似た少女に、ついこの前会ったのが初めてだったはず。
(まさかこれは……)
八年前の記憶。
違う場面へと移る。
「諦めない」
少年が言う。
諦めない。その言葉が今の彩人の胸に突き刺さる。
「でも……ルネのことは……」
少女は少年を止めようとしている。
「俺にはその力がある」
彩人には少年が今から何をしようとしているのかはわからないが、これだけはわかる。
少年は少女を守ろうとしている。
(力?)
彼は少年の台詞に似たようなことを最近聞いていた。
(そうだ……)
その言葉を彩人に教えてあげたのは――――――日曜日。彼が出会った銀色の少女。
「たぶん『今』の彩人にはわからないと思うからさ、ルネが変なこと言っているように聞こえると思うけど聞いてくれたらうれしい」
(そうか……)
「また巻き込んじゃって、ごめん。たぶんルネも次に目が覚めたら『今』のルネではなくなると思うから」
(だからあの時……)
「それと、彩人には『世界を変える力』がある」
(教えてくれたんだ)
「だから諦めちゃ駄目だよ」
(会っていたんだ。俺たちは八年前に一度。そしてあの時、俺たちは再会したんだ)
八年前の記憶喪失。
ほとんど無に等しい記憶の残滓。
そしてそれらを繋ぐもの、『結合』。
今までばらばらだったそれらが一つ一つのパズルのピースのように繋がっていくことでわずかながらの記憶を紡ぎだす。
(ルネ)
彩人は銀色の少女の名前を呼ぶ。
(俺が記憶を無くしたわけもそういうことだったってわけか……)
残滓を寄せ集めてできた記憶の『結晶』はほんのわずかなものでしかない。残りはこれで最後となる。
「だったらその力を俺は使う」
少年の意志は強い。
「この世界がルネを邪魔者なんかにするようなら、何を犠牲にしてでもおれは――――――」
白色の少年はここに告げる。
「世界を変える」
そこで場面は終わった。
(そうだ……)
なにを俺は諦めているんだ、と彩人は自分に怒鳴りつけた。
『やっと変わった? その心』
幼い一人の少年の声がはっきりと聞こえる。彩人に語りかけているようだ。
「ああ、変わった」
彩人はいつしか白一色に染まった空間にいた。そこにいるのは、彩人と一人の少年。彼らはお互いの目を見て向かい合っている。
『それは君自身がやりたいと思ったこと、だね?』
少年は彩人の心を読んでいるように話す。
「そうだ。俺はルネを守りたい」
『ならこの力、「世界を変える力」を君に託すよ』
少年は言う。
変化とは、元ある状態から別の状態へと変えること。それは、必ずしも改善を意味するのではない。変える、ということは異常化させることだ。変化の末に訪れるのは全ての崩壊だってあり得ないことではない。
『だから、この力がもたらす物は、君にとって良い物でもあり、悪い物でもある。そして全ては、君がこれをどう使うかにかかっている。かつて、おれは失敗した。世界を変えることができなかったんだ』
少年は小さな握りこぶしを彩人の前に出す。
『君もまたあの時のおれと同じような状況にいる。君の望む世界のためにこの力を託したい。だから受け取ってくれ! 君がこの世界の改変を望むなら! 誰にも予想できない、全ての法則から外れたこの『異常』を。そして自分の大切な人を守るために世界を変えろ!』
彩人は迷わない。少年の小さな握りこぶしに彼も握りこぶしを当てる。
すると、白い閃光が迸る。
それは『異常』が起こした短い奇跡に終わりを告げるものだった。
『おれがあの時できなかったことをやってくれ」
少年は笑顔で彩人を見送る。
『俺よ』