四章(2) 病室1
日付が変わった。
彩人とルネを先に帰してから六時間。その間、藍は一時も病室を離れることは無かった。
病室に置かれたデジタル時計を見て藍はそれを知る。
顔はまた病院のベッドの上に向く。そこには新代若葉が寝ている。
寝ている。安らかに。寝息を立てながら。
意識は―――ある。
意識不明の状況からは抜け出していた。それに体にあった傷なども不自然に一つ残らず消えている。
「ふざけてるわ……」
若葉の体調に対する安堵とともに、呆れた感情がこみ上げる。
ここからは数時間前の話。
藍は若葉の傍にずっとついていた。
気分は奈落の底に落ちたように沈んでいる。何も考えたく無かった。考えれば悲しみも怒りも爆発しそうだったから。
病室は静かだ。電気もついていない。彼女の気分と同じように病室も暗い。
ここを見舞いに来るのは新代荘の面々。
明日は土曜日だから学校も休みなので、このことを若葉の友達が知るのは週明けになるだろう、と藍は思った。
だから、他に見舞いは来ない。
はずだった。
ドアをノックする音が聞こえる。
「?」
藍は重く感じる頭を上げ、ドアの方を見る。
病室の外の廊下は電気がしっかりついている。だから暗い病室からドアの方を見れば磨りガラスの窓に人影が映る。
その人影を医者だろうか? と思って、どうぞ、と招き入れる。
すると、音も無く滑るようにドアは横に移動する。
「……!」
藍は絶句した。
その人影の姿があらわになる。
その人は白衣に身を包んではいない。つまり医者ではない。しかし、見舞いに来る人などいないはずだった。
そこに立っている人物はどちらにも当てはまらない。
「やあ、久しぶり」
そのすらっと背の高い男性はさわやかな声で藍に言う。容姿も声に似て全体的にさわやかさを感じさせる。
「百緑……」
百緑。それがそのさわやか男の呼び名。
藍は鋭い眼孔で百緑を睨みつける。
一方、睨みつけられた百緑は藍の態度を全く気にすることなく。
「やっと名前を呼んでくれたね。電話の時は言ってくれなかったのに」
さわやかな笑みを浮かべながら言った。
「なんでここに来たの?」
「任務だよ」
「こんな綺麗な場所はあなたの仕事じゃないわよ」
百緑は困ったように頭を掻く。
「入っておいで」
病室の外にはもう一人、彼と一緒に来た人が居た。彼はその人を病室に招き入れる。
入ってきたのは若葉と同い年ぐらいの女の子。目は眠そうに垂れているため覇気が全く感じられない。服装は温かそうに身を包み込んでいる。
こちらは藍とは初対面だった。
「その子、誰? というよりなにをしに来た?」
百緑は病室のドアを閉じその女の子を連れて藍の近くまで移動する。そして若葉の顔を見て視線を藍に向ける。
「この子は僕の助手の一人さ、そして僕がここにやってきたのは仕事」
「あなたがここで仕事? なにを言ってるの?」
藍の態度はいまだ変わらず警戒心むき出しだった。
「若葉ちゃん、だったよね?」
「ええ」
百緑が隣に立つ眠そうな女の子に目で合図を送ると、彼女は若葉のベッドの近くへ寄って行く。
それを見た藍が俊敏に動き彼女の前に立ちはだかる。若葉に近づくことを許すまいといった感じで。
「どういうつもり?」
「治すのさ。若葉ちゃんを」
「言っている意味がわからないわ」
「怪我を治す。そして意識も取り戻させる」
「そういうことを言いたいんじゃないわ! なんであんたが人を助けるような真似をするのかって聞いてるのよ!」
「落ち着け。ここは病院だ。静かにしろ」
百緑の冷静な言葉に藍は口をつむぐ。
病院は他の病室でも寝ている人が居る。彼の言っていることは正論だった。
「仕事だ」
百緑は、藍が落ち着きを取り戻したところで話を切り出す。
「それは『OASP』の命令? それともあなた個人の意思?」
「……。若葉ちゃんは改変者により被害を受けた。まあ完全に被害者の立場にいるわけだ。それならば我々の手で治療してもおかしくはないだろう?」
彼は藍の様子を窺いつつ話を続ける。
「それに、その方が助かるよね? 藍にとってもそれがいい。それでも断るなら俺たちは大人しく引き下がるが、まあ、若葉ちゃんが目を覚ますかどうかも確かじゃないけどな。それでもいいのだったら……」
「相変わらずね……八年も経ったのに少しも変わってないわ」
「褒め言葉か」
「皮肉よ」
「私はどうしたらいい?」
二人だけで勝手に無駄なことも混ぜながら話を進めているため、待ちきれなくなった女の子が話を折る。
「藍。答えろ」
「好きにして……」
藍がそう言うと、百緑が女の子に命令を飛ばす。
「フェルメール。始めろ」
藍は、フェルメールとは彼女の呼び名であろうと思った。本名ではないだろうが、とも。
フェルメールが若葉に手を翳すと、暗い部屋の中で薄い青色の光が若葉を包み込む。その光に包まれた若葉の火傷や切り傷は治っていく。
藍にはその青い光が放たれなくなった時からは若葉が静かに寝息を立てているので、もう安心だとわかった。
「藍。戻ってくる気は無いのか?」
百緑は任務をやり遂げたのかまたさわやかな笑みを浮かべる。
「私はもう、関わらないと言ったはずよ」
「もう貯蓄が尽きるんだろう? 三人もの子供の面倒をもう何年も。こっちの仕事の給料ならその子達も不自由なく暮らせると思うんだがな」
「……」
「藍。君の持っている改変者としての力はこっちの仕事でとても役に立つ……って言っても、それがわかった上でOASPを抜けたんだったな。でもその子達はもう昔みたいに子供じゃないんだから、付きっ切りで世話はもう必要――――――」
「考えとくわ。礼は言っておく。ありがとう」
藍は百緑の一方的になっていた会話を断ち切る。
百緑は藍が帰れ、と目で訴えているので即座に退場することにした。
「この後、まだ仕事を控えていてね。そっちは……ちゃんとした任務さ。もっと汚い仕事のね」
百緑はそれだけ言ってフェルメールと病室を出て行った。戦場という名の彼らの本当の仕事場へ。