三章(5) 嵐の前の静けさ
日々を経ていよいよ金曜日。
休日まで先送りになっていた『ルネ歓迎会』も間近に迫る。
昨日テレビの天気予報ははずれることなく、雪は昨日からずっと強さを弱める気配も見せずしんしんと振り続けている。
「よっしゃあ! 今日で今週の学校は終わりだー」
彩人は両手でガッツポーズしながら、ぐんと伸びをする。
一週間の最後を乗り越えれば二日間の休日がやってくることに一人歓喜に浸って浮かれていた。
「何度も言わせないでくれる? 来週はテストだって」
藍の言葉が彩人を一閃する。
ルネが彩人の元に朝食を運んできた。もうお手の物である。今日の彼女は時折笑みがこぼれており、どこかうれしげな雰囲気である。機嫌がいいようだ。
彩人はご飯と味噌汁の二つのお椀を両手にそれぞれ受け取り自分の前に置く。
「一夜にして打ち返してくれよう!」
彩人は味噌汁をすする。実は少しだけやっていたりするのだが彼は話さない。
(少しいい点をとって驚かせてやろう!)
「ま、いいけどね。困るのは全部あんただから。そうだ。なにか取り決めをしない? 例えば赤点取るたびに私の言う事に絶対服従」
藍が恐ろしいことを言うのを、彩人はそっぽを向いて知らん振りをする。
「彩人」
ルネが窓の方に目を向ける彩人を呼ぶ。
「なに? おい、まさか、ルネ……お前も俺に同じようなことを言うわけじゃあるまいな?」
慄く彩人を見てルネは小首をかしげる。
おや、違うようだな、と思った彩人も同じように小首を傾げる。
「おいしい?」
味噌汁の具材を箸でつまんで食べている彩人を見て、ルネは味の感想を訊く。
彩人は缶の序を変に思うが一応おいしいことには間違いは無いのでそのまま、おいしい、と答える。
するとルネの顔が、ぱあっと明るくなる。
「良かったわね」
「うん!」
彩人は味噌汁がどうかしたのかと二人のやり取りをわけもわからずに見る。
「それ、ルネが一人で作ったのよ」
そう言われて手元のお椀に目を落とす。
「へぇ、そうかルネが、一人で」
彼はルネが朝食をつくる手伝いをしている様子は毎朝見ていた。しかし、あくまでも手伝いであって食器を並べたり食材を洗ったりなど、ちょっとした手伝いだとばかり思っていた。
「そうよ、この子、上達早いわねー、うちの子とは比べられないわ」
藍は照れているのか赤くなった頬のルネの頭をなでる。
彼女の方はいいようになでまわされている。
「それ若葉が聞いたら泣いちゃうかもよ」
「この先、一家を担うのはこの子になるかもしれないわ。これからも教えて欲しかったら……と言ったものの、財政的余裕ができたら他の食材も買ってくるから、申し訳ないけどその時までちょっと待ってね」
彩人はこの一週間で食べたものを思い出す。
朝食―――ほっかほっかこれで冬の寒さなんてへっちゃら、白米ご飯。同じく味噌汁。
昼食―――弁当の中身はご飯、野菜、焼き魚。以上、肉なし。
夕食―――カップ麺。
「もう一週間、食事が寂しいかったな……。まあ、日曜日は鍋だったけど」
「今日でカップ麺ウィークはおしまいだから、来週はちゃんとした夕飯に戻るから安心なさい!」
(それも弁当の中身と大差ないだろうけど)
彩人は朝食を食べ終え、部屋の隅においてあった鞄を手に取って玄関へ行く。
「ほら、傘」
藍が傘を持たずに出て行こうとする彩人を呼び止める。
昨日の朝までずっとここのところ雪が止んでいたのでつい忘れていきそうになった。
ルネも急いでばたばたと玄関に駆けてきた。
彩人はなんだろうか、と彼女が来る方向を振り返る。
「あ、彩人! き、今日、帰ってきたら、で、出かけよ」
「出かける? ん、わかった」
(ルネが自分から出かけたいなどと言うとは……)
彩人は断る理由なんて無かった。
ルネはそれを聞いて、いってらっしゃい、と言って彩人が新代荘から出て行くのを見送った。
藍は二人のやり取りを眺め、我が子を見守る母のような視線を送っていた。
■□■□■
「へー、見つかったんだ。良かったね!」
彩人の斜め後ろの席に座る雨夜が安心した表情を浮かべる。
その隣の席に座る乃樹も同じ様子だった。
「もしかして、あのあと、ずっと捜してくれていたのか?」
「ちょっとだけな。まあ見つかったならそれでいいじゃんよ」
乃樹が親指を立ててぐいっと彩人の正面に腕を伸ばす。
「すまんな。なにか礼をしたほうがいいな」
「彩とん? そんなもの必要ないよ。あたしたちの仲じゃありませんか」
「ああ、本当にありがとう」
彩人は二人を見て微笑む。
「で」
「で?」
「いつ会えるのかな? ルネちゃんには」
「そうそう早く会わせてくれよ、彩人」
会える機会を逃してしまった上にその会う人が行方不明という事態を一緒に対処してくれた二人には、彩人はとても感謝していた。
二人は感謝などいいからとりあえず会わせてくれ、と言わんばかりだった。
「ああ、そうだな……」
今日はルネが出かけたいと言っていたことを思い出す。
「今日もきついかな……一目見るぐらいなら大丈夫だと思うけど」
「彩とん、今日はなにかご用事?」
「まあ、ちょっと出かける予定が――――――」
「まさか、ルネちゃんとやらと一緒なのか?! デートでもするつもりなのか?!」
乃樹が大声を出すので教室内がざわめき出す。
視線も三人の席がある教室の角へと集まる。
それに気付いた乃樹が、あはは、と笑いながらぺこぺこと頭を下げると教室は元通りになった。
「で、それで、デートなのか? ああ、もう彩人が俺と違うところに。帰ってこい彩人ぉおー」
情けない声を漏らす乃樹に対して、彩人は。
「いや、そういうんじゃねえよ。ただのお出かけ。ルネの方が出かけたいって言ったからそれで」
「それはもうデートじゃない?」
雨夜がそう言うと乃樹がもだえ苦しむ。
(そんなふうに考えていいのか? いやいや、ルネにそんな気は無いんだから)
彩人は心の奥底を引っかかれるような変な感じがしたがあまり気に留めなかった。
「だから、そういうことで今日はちょっとパス、かな? どうする一目だけでも見るか?」
「俺はそのうちでいいよ」
机の上でうつ伏せになった乃樹が手を振りながら言う。
「会いたい……、でも、一目だけ……、やっぱり、会いたい……、でもすぐ帰らなきゃいけない……」
雨夜はぶつぶつと小声で呟いていた。
「どうする?」
「が、我慢する……」
「おお、意外! すぐにでも会いたいかと思ったのに」
「そんなの当たり前だよ。でも、一目見たらこの衝動は止められない。その代わり、言った時には何倍にもこの衝動は増してるから。爆発するかも」
「やめてくれ……」
放課後を知らせるチャイムが学校の敷地内いっぱいに響き渡る。
「よっしゃー、終わったー」
「一週間、お疲れさん。」
「おつかれー」
三人は一週間の授業を終えて学校を出る。それから彼らは全員、帰宅部としての活動を遂行したのだった。
■□■□■
彩人は他の二名とは橋を渡る前で別れ、ルネが待っている新代荘へ。
「おーい、帰ったぞー」
彩人は自分の部屋に鞄を置いて制服から私服に着替えた後、ルネの部屋のドアをノックする。
すると、ドアがカチャリ、と開いてルネが出てきた。
「おかえり」
「ただいま。ところで、だ。どこへ行きたいんだ?」
「えっ?!」
彩人が訊くとルネはぽかんと口を開けてしまった。
「お、おい……決めてなかったのか?」
「あ、え、えっと、それじゃあ、前と同じとこで……」
彼女からの要望が出たところで二人は町のほうへ歩き出した。
いつものように移動手段は徒歩。
ルネは新代荘で留守番のことを。彩人は学校へ行くことができないルネのために学校のことを。それぞれ話しながら移動するので長い移動時間は暇にならない。
そのまま町に着く。
「着いたが……どうする?」
「え……」
「なにがしたい?」
「……」
ルネは黙してしまった。
全く目的も予定も決まっていなかったのだった。
(じゃあなんで出かけようと思ったんだよ……)
彩人はそこで、ふと思った。
「そういえば最近散歩してなかったなー。ああ、でも寒いから外に出ようと思わなかっただけか」
「散歩?」
「ん? ああ散歩。ただ単になーんにも考えずにふらーとすることだ。冬は寒いからな、あまり外に出たくないんだよ。早く春は来ねえかなー。春が来たらぽかぽかして暖かくて気持ちいぞ」
「ふぇー」
感心して聞くルネをよそに心の中で愚痴をこぼす。
(まったく……小遣いぐらいくれたら店に入って食い物買ったりできるんだけど……。一銭もかからない散歩するしかないか。寒いけど)
結局、町案内のような形で二人はふらつくことになった。
「って、ルネは全然寒がってないな」
彩人は出かけるのに三枚着は常だ。
ルネはというと。
「なあ、今上に何枚着てるんだ? 厚着しているようには到底見えないんだけど……」
「うーん……」
ルネは自分が着ている服を摘んで打つ側が見えるようにめくってみる。
彩人は肌色が見えたところで目線を近くの店の看板に移す。
「二枚……」
「見なきゃわからなかったのか……。ていうか二枚?! 今日何度だと思ってんだ! 1℃だぞ?! やっぱり全然着てないよな。そんなので寒くないのか?」
ルネの格好を見るだけで自分自身も寒くなりそうだった。彼女は少しも震えておらず、寒いというしぐさは全く無い。
「うん」
「すごいな。俺はめちゃくちゃ寒いぞ?」
ふーん、とルネは鼻を鳴らす。
彩人は色々な物を彼女に教えた。
そのたびに様々な反応をする。
普通だったら誰でも知っているような、常識的で、当たり前なこと。
だがルネにとってはそうではない。何もかもが目新しい、その光景が彼女の水晶玉のような目に映るのだった。
彼らは最後にこの前行った総合スーパーへと訪れる。
不思議な目をガラス越しに展示にされた商品に向けているルネ。
彩人はそれをこっそりと横目で見る。
(こういうことかな? ルネを外へ連れ出したのは正解だったってことか……)
ルネは彩人が自分を見ていることには気付いていなかった。
「結局ただふらつくだけになってるけど、来てよかったか?」
ルネの透き通った目に彩人が映る。
彼女は上目遣いに彩人の顔を見上げる形で頷いた。それから小さく笑みをこぼす。
彩人は彼女のその様子を見ると、今空を覆っていてもやもやとしている雲が晴れたかのように気分が良くなる。
「どうせ帰っても暇なんだ。もうちょっと他にもたくさん見るか」
「うん! 見たい!」
「ただし。暗くなる前には帰ろうな」
藍さんのお叱りを受けるから、と人差し指をぴんと立てて言った。
そこへ。
「また会ったな、小僧」